国語施策・日本語教育

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次第 協議

有光会長

 これから協議に移って,ただいまの御報告に対する御質問なり御意見なり,御自由に御発言をお願いしたい。

渡辺(実)委員

 意見が少々あるが,それを申し上げる前に質問させていただく。
 四つ仮名の方の(1),「二語の連合」の次に「同音の連呼」があるが,同音の連呼は現行の仮名遣いを踏襲するという線をお出しになった点と,それからオ列長音の(3)「とお」「こおり」「おおい」「とおい」などの書き方も,同じく現行のままとするという線をお出しなった点について,現行の習慣を守るのであるという理由以外に何か理由がおありだったらば教えていただきたい。

林主査

 現行に従う以外の理由というのは,あるのかないのかちょっと分からない。例えば同音の連呼というところでは,現在は一般に踊り字は使わない習慣になっている。しかし,踊り字を使ったとすると,「ただしい」と言うときは「たゞ」,「さざれ石」と言うときは「さゞ」と書くことになる。すると,「ちぢむ」と言うときも,「ち」の次に「ぢ」がきて,「ちゞ」と同じ字の繰り返しとなるというふうに考えておいてもよくはないかという考え方はある。そういう議論もしたけれども,それだからという理由を立てたわけではない。
 それからオ列の長音の問題については,理由としては,全く従来の習慣に従うということであって,これはオ列の長音であるかないかというような議論をすると,ちょっと大変なことになるわけであって,そういう理屈を立てるよりも,これだけの限られた範囲のものは恐らく限定列挙ができると思うので,これは従来のままにしておいてはどうかということである。ただ,これについては,むしろ小学校や中学校の生徒ならばできるけれども,年をとられた方々の中には,「おおきい」というのは「おうきい」と何十年来書いているのだと言われる方もあるそうであって,なかなか問題だとは思うが,これは限られたものとしてそういうふうに決めておけばいいのではないか,現在の正書法的に決められている仮名遣いを強いて変えるには及ばないだろうというふうに考えている。

渡辺(実)委員

 意見めいたことを申し上げてしまうことになるが,よろしいか……。
 一応私は表音主義の方を支持したいと思っているけれども,現在の標準的な発音が安定しているものと,発音が揺れていて決まらないものとがある。決まらないものというのは,この資料の項目でいうと,例えば項目7,8など,「てきかく」か「てっかく」か,それから「ほお」か「ほほ」かというような,現在の標準的な発音がそもそも二つに揺れていて決められない。だからどちらでもよろしい。そういうのをまず外へ出して,標準的な発音に疑問のないものに関しては,書き表し方を表音主義の原則で決める。そしてできるだけ例外を減らし,例外は特別のものだけに限るのがよろしいだろうと思う。それは表語効果の高いものに大部分はなるだろうと思う。例えば「は」「へ」「を」などは,標準的な発音ははっきりしているし,それを表音的に書き表そうとすれば,「わ」「え」「お」と書くべきところだけれども,助詞としての表語効果が高いから,現在の「は」「へ」「を」の習慣を守っていくことにする,そういう構えでいった方がいいと思う。そのような構えで臨むと,どうも同音の連呼の例外扱いはやめた方がよい。これを例外扱いする理由は非常に薄弱で,いまおっしゃったのも,例えば踊り字で書く場合があるということも一つの根拠になるとしても,それは一つの特殊な表記の仕方なので,発音の問題でもなければ表語性の問題でもない。表記の仕方として,一方にこんな表記の仕方があるから,もう一つの表記の仕方を,その表記の仕方に合わせようというのは,表記の特殊で表記の原則を崩すことになると思うので納得しにくい。
 それからオ列長音の問題であるが,なるほどこれがオ列の長音なのかどうかということを議論していると,大問題かもしれないけれども,例えば東海道線に乗って,大津,京都,大阪,神戸と通ると,それぞれオ列長音らしいものがあるわけである。私の耳には全部同じ発音に聞こえるし,私の口は同じ発音をしているつもりである。それをあるものは「おお」と書き,あるものは「おう」と書くという,その書き分けの根拠は,歴史的仮名遣いへさかのぼるということ以外の理由はない。これは非常に不合理な例外事項だと思う。こういうのは「おお」と書くという原則にするか,「おう」と書くという原則にするかは,どちらでも結構だけれども,同じくオ列の長音であって,同じように書くことにしたい。歴史的仮名遣いが背後に控えていて現代語音の表記の原則を崩す,ということにはならない方が望ましいと思う。

有光会長

 いろいろこの席で伺う御意見は,今後の仮名遣い委員会における御審議の際の有力な資料になるわけであるが,何かこの際,林主査の方から御発言があるか。

林主査

 これは全体的な雰囲気と言うか,傾向と言うか。そういうものから考えて,現在の「現代かなづかい」は一応定着しているものと考えて,それを強いて改めて,教育上その他で混乱させる必要はないのではないかという考えがあるように受け取っている。それで,ここで新しい仮名遣いへ変更していくのだ,改革をしていくのだという考え方よりも,書き方というものを安定させていくという方向が現在としては必要なのではないかというような考え方の方に,我々は傾いたということになるのではないかと思う。おかしいが,私自身はもう少し改良的な人間であったつもりであるけれども,しかし,いろいろな御議論をしていただいている間には,大体そういう安定を求める方向へ,年をとり過ぎたと言われるかもしれないが,そういったところへ来ているというわけである。

村松委員

 渡辺委員からの御指摘と言うか,御質問の内容に関連するが,資料の2枚目8の「ほお」と「ほほ」である。これは,両様の言い方のある語について両様の書き表し方があってよい。これは「ほほえむ」というときは,「ホオエム」と言う人もいるけど,「ホホエム」と,2番目の「ほ」をはっきりと表している場合が多いと思うので,そういう書き表し方があってよい,これは納得できるが,「しわす」と「しはす」を,師が走るからということで,「はす」から「しはす」と書くということに傾く方がいらっしゃるとは思うけれども,絶対に「シハス」とは発音しない。「シワス」だと思う。だから,こっちの「しわす」を「しはす」と書くことについてもあってもよいと言うのならば「いなずま」を「妻」という字を書くから「つ」でいいのではないかとか,「ぬかずく」は額を下へ押しつけるのだから,「づ」でいいのではないかという議論になってくるので,ここの二つの例を並べたところにちょっとこだわりを,私は前から感じているのである。その辺は,また説明の際に少し補って考えていただければと思う。

林主査

 ただいまの8の「ほほ」か「ほお」か,「しわす」か「しはす」かという問題については,両様の言い方があるというふうに,私どもは一応考えているけれども,例えばNHKの用語委員会というような方面では,一通り標準語を立てておられるのではないかと思う。私,NHKの用語集でどういうふうになっていたか,ちょっと今確実に思い出すわけにいかないけれども,そこでもある程度の許容的なものを認められているところもあるし,なかなか難しい問題があると思う。私は,NHKその他でお決めになっているように,どちらかに発音を決める必要があるかもしれない,一通りは決めておく必要があるかもしれないと思うけれども,今日のところはそちらへ急ぐわけにはいかない。我々の仕事としてはそこへ行けないというところがあるということが一つある。
 それから「しわす」と「しはす」は,発音上違うわけである。ただし,「ぢ」「づ」の方については,発音上の問題は我々としてはほとんど考えられないというものであって,ちょっと性質が違う。ただ,そのときに,我々としては漢字を思い出すことがあって,「いなずま」は「妻」という字を書くではないかとか,「ときわず」は「津」という字を書くではないかといったような考え方が出てくる。それは今としては十分考慮すべき価値はあると,私自身は思っているけれども,しかし,それにはよらずにもう少し語全体の在り方を考えてみると,強いてこれは「ぢ」「づ」に残しておく必要はないのではないかという考え方だったというふうに,私は理解している。
 「いえずと」なんかの例であるけれども,これも「つと」ではないか。「つと」だから「づ」に決まっているではないかと言う人と,「いえずと」って何だろうと言うような人も随分いるわけで,これは現代の言葉の中でしきりに用いられるような言葉ではないだろうと思うので,納豆の「つと」と「いえずと」とを関係づけて考え得るかどうか,という面もあるので,現在としては全体を一語と考えて「ず」でよくはないか,こういう考えだろうと思う。

林(四)委員

 渡辺委員の御発言が非常に気にかかるのである。渡辺委員のおっしゃった二点,同音の連呼と,オの長音の中で一般的に「う」にしているのに,どうして「おおきい」「とおる」「こおる」というようなのをここで残すのかという,その二点。私は,仮名遣い委員会に属しているし,小委員会の委員も仰せつかっているので,案としてはもちろん林主査の御報告にすべて賛成している。このとおりの案で出したいという気持ちでいるが,二点のうちのあとの一点の方は,やっぱり気にかかることには間違いない。
 先の一点,同音の連呼という方は,「同音の連呼」という言い方も,何か変な言い方ではあるけれども,つまり,「チジ」「ツズ」という発音をする場合は,初めに「ち」を書くのだし,初めに「つ」を書くのだから,第二音目もそのまま同じ字に点々を打つのだという方が覚えやすいと思う。それで心理的な抵抗がないということで「ちぢ」「つづ」というのをわざわざ,「ジ」という音だから原則で「じ」というふうに,そこで字を取り替えなくてはいけないのだというふうに考えるよりも,そのまま同じ字を使って点を打つという方が覚えやすいという意味で「ちぢ」「つづ」はそのまま「ぢ」「づ」の方が,教えやすくもあるし,覚えやすくもあると思うので,この原案を大いに支持したいと思う。一方,「おおきい」「とおる」「こおる」というようなのは昔「ほ」と書いていたために「現代かなづかい」のときにそれが「う」でなく「お」として残された。これは主査が先ほど「現代かなづかい」でそうしたから,それを今更直さないという以外にはどうも理由はほとんどないとおっしゃった。それは全くそのとおりと,私も思う。だから,その点は,もしこの審議会の総会の皆様方が,腑(ふ)に落ちないままで,ただ現在までそうしているからその習慣を尊重するというふうなのはやめろ,より徹底した一つの考え方で通っているものの方がいいのだから,わずか幾つかの言葉の書き方をちょっと変えるということだけですっきりするのならば,それは今後そうしたらいいのではないかということを強く皆様がおっしゃるなら,私は,勇気をもってそのようにした方がいいと思う。教育の方で「王様」は「おう」と書くけれども,「大きい」や「通る」は「お」と書くのだというふうに教えてきている。昔「ほ」と書いたからなどとはもちろん言わないけれども,これらの言葉は「お」と書くのだということは,小中学の教育現場でずっと教えてきた。それをある日から,これもやっぱり「う」にするのだというふうにするには忍びない,またそこで混乱を起こすということだけだと思う。それは一回やってしまえばいいのだから,そんなこと言わないでみんな「お」にしろという御意見,これはなおよく考えるべきことだと思う。なおよく考えるべきだと言うのは,大いに耳を傾けなくてはいけない,この原案に必ずしも固執してはいけないかもしれないということである。

木内委員

 どうも私が発言しないと,また3時10分ごろで散会になりそうであるから,ちょっと申し上げる。私はこの研究に大いに敬意を表したい。おかげで随分はっきりしたし,いいと思う。私も仮名遣い委員会は,最近2回ほど出なかったけれども,大体出ている。立派に,よく綿密にお考えになってきたし,かなりはっきりしてきたと思う。しかし,考えないことにしている分野もある。したがって,仮名遣いの問題は全面的にここに提案されていない。だから,余り議論も出てこないのだと思う。
 もう一つある。この資料の文章が「踏襲する」とかいうふうに決めているのもあるけれども,「検討を行った」とあって,結論が出ていないから,ここではまだ議論してはいけないかなと,こう思うから黙っているわけである。
 例えば,「地面」の「地」は「ぢ」としない。「地震」もしないのか。これはとんでもないことで,大いに反対しなくてはならないと思うけれども,この場は反対論を言っていい場であるかどうかが分からぬから,黙っているのだと思う。私はほかのことを言おうと思っていたのであるが,ついでに気がついたから申し上げる。
 もう一つ申し上げるが,これは仮名遣いの全面的な範囲をカバーしていない。四つ仮名とか,何列の長音だとかいうものがあるけれども,例えば「おとこ」「おんな」というときの「お」は,「を」を書くのが本当だそうであるが,これがない。こういうのは字音仮名遣いとも違う。字音仮名遣いをここで論じないのはまだいいけれども,和語の仮名遣い,「おとこ」「おんな」というのは「を」を書かなければ全くおかしいらしい。
 今度,吾妻徳穂さんという人が踊りの会か何かをお作りになったが,そのときの「踊り」は「をどり」である。「おどり」と書かれたら,吾妻徳穂さんはとても承知しないであろう。
 そういう問題がある。それは一体どうするのか。そういうのが仮名遣いの問題の中の実に大きな問題であるのに,それはここでは扱ってない。
 まだほかにもあるが,私が一番大きいと思うのは,ハ行の活用語尾である。「思う」とか,「言う」とかいうときに,「ふ」を書くか,「う」を書くか。これは日本語として非常に大事な問題であるが,今はそれが「う」になってしまっている。これはこのままでいいのかということを論じていただきたい。
 本日の報告は大体現行を是認して,その中で悪いところだけをピックアップして議論したという議論の仕方をしている。現行がおかしいのではないかという根本に立ち返って議論をなさらないから,したがって問題がない。だから過去の総会もそうであったけれども,非常に早い時間で解散することになる。
 これは今日ちょうど思い付いたものだから申し上げるが,私が今日申し上げようと思ったことは,別なことである。ちょっとメモを書いてきたが,最初に,仮名遣いのこの研究には敬意を表するということが書いてある。
 2番目に書いてあるのは,しかし全然手をつけられない面がある。それは国語政策が持つべき根本理念は何かという問題である。
 今,「当用漢字音訓表」「送り仮名の付け方」「常用漢字表」と一つずつ問題を片付けてきて,4番目の大問題である仮名遣いの問題に取り組んでいるわけであるが,恐らくこれが最後の大問題であると思う。だからこの仮名遣いの審議を終るときをもって戦後の国語政策の検討が終わるというわけであるから,今最後のステージに来たときに,戦後の国語政策を支配してきた根本理念は何であったのか,それはよかったのかどうかということを論じないという法はないと私は思う。だから私は,是非とも国語政策が持つべき根本理念について十分な論議を行わなければならないと思う。
 そこで,理念を検討するとはどのようなことか。順序として,終戦直後から採用された国語政策の理念は何であったのか,それを見ておきたいと思う。
 それには大きなポイントが四つあると思う。第一は,日本語のような複雑で難しい国語,それは主として表記の場で問題にされてるのであるが,しかし理念としては,日本語のような複雑で難しい国語,殊にその表記を使っていたのでは,日本の経済復興はあり得ないと考えた。これが根本理念である。それが基調であって,そこからすべてを簡単化しようという政策が生まれた。この基調以外に大きな──英語で言うとConsiderationであるが,政策はどうあったらいいかということが,ほとんど考えられてない。
 もう一つ,日本語は長い間政府の統制下にあった。戦後の国語政策が始まる前は,ずっと長い間統制経済であったし,いろんなものが統制下にあったので,その名残であろうと思うが,国語もまた政府の政策によって改造できるという面があった。政府の政策によって国語は動かし得ると信じて疑わなかったのが当時の政府であったと思う。これは私はおかしいと思う。これは疑ってみるべき根本のポイントだと思う。国語というものは政府の力によって変えることはできない。あるものを壊すことはせいぜいできるけれども,いいものを作るということはできない。
 それに加えてもう一つ,国語もまた学校教育によって左右できる──これは今申したことの延長若しくは補完理念と言うべきものであるが,政府の政策で動かせる,学校教育で国語というのは作っていける,こう思っていた。
 さらにもう一つあるのだが,学校教育の場においては,一方において学童の負担になるものを減少すれば,その分他の分野の負担を増すことができると考えた。私はそれもおかしいと思う。

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