国語施策・日本語教育

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次第 協議(3)

林(四)委員

 ちょっと,ただいまの趨(すう)勢で,我々が根本議論をしないで,ここに無理な限定された課題の中にだけ跼蹐(きょくせき)して座っているというような印象になっているけれども,そう思われると,大変困るので,私は根本議論をしながらここに座っているつもりであるから,腹ふくるるようなことはちっともない。恐らくは大方の皆さんがそうだろうというふうに思うので,会長から御提案のあったように会をお開きになるならば,やはり総会ではなく,お言葉にもあったように,全員協議会とか,そういう形で是非していただきたい。
 ついでに申し上げるが,根本的に考えているつもりだと言うのは,つまり,漢字表の場合と仮名遣いの場合とでは受け取っている姿勢というものは,我々違うと思う。漢字表の場合には,当用漢字によってある種の漢字に枠組みができて,国民が一般に使う字の範囲を無制限にしないということ,これはよかったと大いに評価されるけれども,そこが制限ということで,これ以外使ってはならないというふうに印象づけられた。これはいけない,これは誤りだということを反省して,制限ではない,目安だと,飽くまでも使う権利はだれにもあるのだということを保証したわけである。
 それから,「目安」にしても,1850字ではちょっと少な過ぎるのではないか,目安としてももう少し増やした方がいいということで1945字になったということで,その方向を修正したわけである。これは明らかに,根本方向はいいけれども,はっきりまずい点があったから,それを修正したということだと思う。
 仮名遣いの場合には,そういう根本のまずい方向というものを,大方としては発見していないと思う。つまり,文字と発音とがずれてきて,耳ではこう聞こえるのに,字を書くときには何か違う書き方をしなくてはならないということで,歴史的仮名遣い,特にそれが字音仮名遣いという面では,字引一つ引くにも大変な苦労をしないと字音は引けなかった。これではたまらないので,耳に聞こえるとおりに字は使っていくという原則に立とう,現代語音に基づいて書くのだという方向で「現代かなづかい」が決められた。
 この根本方向は非常に正しいと思う。これで国民が日常の言語生活が非常に助かった。一々何か表記辞典と首っ引きしなければ書けないということではなくて,大体聞こえるとおりに書けばいいのだからということで,国民が非常に助かった。その助かった方向というものを修正してはならないというのが,今の国語だと思う。
 もし,そのことが非常に間違った方向だとしたら,しょっぱなから皆さんからどんどん意見も出ていたはずだと思う。それでアンケートもなさったし,そういうことは確認されていると思う。基本的に音と文字とが一致するのが,国民の日常生活としては良いという価値観である。これは大きく是認されているというふうに私は思って,根本問題を論じながらここまで来たというふうに思っている。

有光会長

 ほかに皆さん,何か御意見は……。

秋山委員

 つまらないことで伺うけれども,この資料の2枚目の法則及び運用上の問題の(3)と(4)に関してどういうことになるのかと思って──実は国語生活にこれは決定的な役割を果たすと思われる検定教科書であるが,それもこれに入るのか。この「法令,公用文書,新聞,雑誌,放送など,一般の社会生活」に。これは除外されるのか。

林主査

 入るものと私は理解する。と言うのは,教科書については,教科書検定基準があって,教科書検定基準にそれが載るだろうと思う。しかし,教科書検定基準に載るから我々は責任がないというようなわけではなくて,やはり我々はそこに載せられることを期待していると言っていいかと思う。

秋山委員

 載せられると言うのは……。

林主査

 これが適用されることを。

秋山委員

 そうすると,先ほど(4)の「科学,技術」うんぬん,これが救いであるという御意見があったけれども,個性的な表現──さっき木内委員がおっしゃったような「をどり」とか「をんな」とか,そういうものが書かれていたとしても,検定教科書で国語教育を受けた若い世代は,全くそういうものに対しては,味わう能力がないと言うか,味わうことができないのではないか。だから,(4)の項目が残ったとしても,何にもならないのではないかと思う。教科書の方で統制してしまったら。

林主査

 教科書で統制すると言っても,今,私検定教科書と言って一括したが,国語の教科書はちょっと性質が違う。検定教科書と言っても,社会科もあれば理科もある。そういうものは一般の現代文のものとしてこれは適用されてしかるべきだ。国語については,またそれの配慮が必要になるかもしれないと思う。例えばここは原文の仮名遣いによる必要があるものと考えたときには,それが必要になってくるだろうし……。

秋山委員

 そうすると,「科学,技術,芸術その他」とあるが,現代の作家で歴史的仮名遣いを使っている人はかなりいると思うが……。

林主査

 それを束縛するつもりはないということをここに挙げようとしているわけである。
 ちょっと読み方を御説明すると,「個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」ということは,今の作家の方々が個人的にどのようなものをお使いになろうと,これを我々が束縛しよう──我々ではない,政府か何か知らないけど,この仮名遣いが束縛しようとするものではない,こう言っておこうというわけである。これは常用漢字のときと全く同じである。

秋山委員

 今,例えば多くの出版社で100冊本くらいの現代文学全集などを出している。それはみんな……。

林主査

 それは我々の知ったことではない,と言うとおかしいけれども。

秋山委員

 当用漢字に改めてある。そうでないと読めなくなってしまっているわけである。

林主査

 万葉集が仮名書きで書かれないと読めないと同様にである。

秋山委員

 結局,こういう(4)のような配慮をすると言っても,これは何にもならないのではないかという気がする。従来もそういうことだったのか。

林主査

 しかし今のところ──私はちょっと別の考えを持っているけれども──古典はやっぱり古典仮名遣いで書かれている。

秋山委員

 そうなのではあるけれども,私は100冊ぐらいの現代文学全集を子供に買わせたわけである。そうしたら,みんな明治のころのものも「現代かなづかい」,現代表記に改められている。そうでないと読めないのである。今の高校生でも,大学生でも読めないのではないか。

林主査

 それで読めるようになってる。

秋山委員

 だから,「科学,技術,芸術その他……個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。」というのは,全くこれは無効になってしまうのではないか。

林主査

 いや,無効ではなくて,それは出版の方の考え方ではないか。是非これは元のままの形で,例えば「近代文学館」とか,ああいうような複製と同様に,どうしても読ませなければならないというふうなときには,そのままの形で出版されるのが当然なのではないか。それは決して我々が束縛しようとしているものではない。

秋山委員

 当然なのではあろうけれども,それが当然ではないと思うのである。現在の出版物を見ると。新潮文庫なんかでも,後ろの方に,こういう原則によってこう改めたとか何とか,箇条書きがあるけれども,ああいう断り書きをして読めるような形に直しているわけである。そうでないと味わえないわけである。

林主査

 それはそうだと思う。

秋山委員

 だから,またそういうことに……。

林主査

 それはここの除外例として,どういうふうに適用していくかということは,それぞれの問題だと思う。
 それから,我々がこう決めることがそれに影響することはないものと,まあ一応私などは考えているわけであるが,積極的に明治文学の復刻は原文の仮名遣いによらなければならないものとするという条項をここに入れるかどうかということになると思う。古典の復刻は古典仮名遣いによるべきものである。定家仮名遣いで書かれたものは定家仮名遣いで読むべきものであると我々は考えるという条項をここに入れるという必要はないと我々は考える……。

秋山委員

 それは(2)に「主として現代文のうち口語体のもの」とあるから,よろしいと思うけれども,口語体に書かれている現代の作家のものでも,歴史的仮名遣いでお書きになる方が随分いらっしゃるわけである。それを教科書に例えば採用するような場合には,全部これは改めなくてはならない。

林主査

 改めなければならないと,そう考えるところが実は問題だと思う。文部省の教科書検定課の方がおられたらちょっと答えていただきたいと思う。

太平教科調査官

 教科書に関しては,先ほど林委員が言われたように,検定基準実施細則に従って教科書が作られている。それに基づいて教科書の方は,近代口語の文章は現代表記に基づいた表記に改めて教科書に載せることになる。例えば漱石,おう外の文章でも,口語体の文章は現代表記に改められることになるわけである。
 それから文語体の作品は,そのまま表記は旧仮名遣いで出てくるわけで,現在でも小学校の5年生から文語文が少し載るようになっているが,その場合は表記はそのまま旧仮名遣いで出てくる。その代わり,ルビの箇所に現代表記が括弧付きで出て,子供が読みいいような形になっている。というわけで,近代以降の口語体の文章は原則として現代表記の基準にのっとって教材化されるということになる。

寺島委員

 私の意見では,もう少し現代語の音韻に近くできないのかと思う。さっき村松委員もおっしゃった「しわす」の問題とか,(3)の「ものかは」みたいなものとか,もう少しぎりぎり現代語音に近くできないのかと思う。オ列長音についても言いたいのであるけれども,やっぱり私なども旧仮名遣いの知識も残っているから,個人的には必ずしも「う」というように全部割り切れないけれども,それはそうなってもいいのではないかと理屈としては思ったり,もう少しそうならないかと思ったりしている。
 それから,新旧の対照表,規則の立て方のところであるけれども,それはもう要らないのではないかと思う。固執しないけれども,例えばオ列長音の「お」の形が残るとしても,歴史的仮名遣いとの関係での説明はもう要らないのではないかと思う。
 何となく全体の雰囲気に逆行しているような感じがしないでもないけれど,私の意見である。

村松委員

 先ほど教科書のことで秋山委員がおっしゃったことで,私も前から気になってることがあるのは,例えば三島由紀夫なら三島由紀夫のものを高等学校の教科書に使うというときに,御遺族なんかが絶対に昔の仮名遣いでなければ載せないでくれと主張した場合には,やはり教科書会社はそれをそのまま載せるのかどうか。現代の口語体であるから直すのか。それは教科書会社の方針としてそうする場合が多いと思うが,検定がそれでは通らないのかどうかという問題があると思う。
 ただ,ここでの文言では,芸術の分野では,「個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」と言っているから,国語審議会がそういう圧力をかけてはいない,ということではないかと思う。だからこの問題は,芸術に関する限りは,口語体のものというこの概念は当てはまらないのだと考えてよろしいのではないかと思うが,いかがか。教科書はこうすべきだということまでは国語審議会は討議する必要はないと思う。

林主査

 そのとおりだと思っているけれども,教科書に現代文,現代作家の文章を載せるということの意味である。これは実は非常に根本的な問題で,国語審議会の問題ではなくて,教育課程審議会か,そっちの方の問題ではないかとは思うけれども,作品を載せるということがどういう意味を持つか,文芸としてそれを扱うのか。文芸として扱うときに,文芸は仮名遣い表記を含めて文芸であると考えるかどうかということにも一つの論点があると思うけれども,それはさて置いて,文芸として扱うかどうか。今までの教科書はそこのところが非常にあいまいであったが,扱う側は非常に文芸的にこれを扱うようになってきていると私は思う。

林主査

 それで私自身としては,文芸として扱うよりも,言語として扱ってほしい,現代の口語文の模範としての文芸作品というようなことを考えてほしいと,実は主張したいわけである。そのときにはやはり現代文としての,口語文としての優れた文章であるならば,それを勉強させたい,それについては,現代の口語文としての一般のしきたりに従った法則から外れない形で一応教えておいてもらった方がいい。原文は,原作者はあるいは違う仮名遣いを使っていることがあるということを教えても構わないけれども,そこでは一般の口語文としての形をしっかり教えてもらうということが必要ではないだろうか。
 そういうふうに考えるので,今の教科書では先ほど調査官が言われたように,現代の口語文に関しては「現代かなづかい」によっているという,そういう方向が出てきているというふうに考えていいかと思う。
 けれども,今後国語教育というものをどういうふうに考えるかということで,その問題はまた論議されなくてはならないかと思うけれども,ここはその場ではないように私は感じており,我々の責任ではないように感じている。

鈴木委員

 ちょっと御熱心な御討議のそれと少し観点は違うけれども,今日の空気では,何となく表音的原則をもう少し徹底すべきではなかろうかという御意見が強く出たと思うけれども,委員会の方の御姿勢は,そういう観点についても考慮はしながらも,表意性ということについてもう少し意味を考えようではないかというお考えが強くあったのではないかと思う。
 今日この御報告の中で──今日は御報告であるから,仮名遣い委員会で検討を行った内容は分かるが,昭和31年に国語審議会の報告として出された「正書法について」,実はかなりこのときには,ここに挙げてある例以外にももっといろんな例を挙げてあって,一つちょっと目覚ましいことを言ってるのは,「語意識の認識」ということを言っていたわけである。
 そういう問題について,今度の我々の国語審議会がどう継承するのか,それともそれをもう少し崩して,表音の方向に近づけるのか,これが結局基本姿勢としては大きな問題になるのではないかと思うが,そういう意味において,もう少し皆さんの率直な御意見が伺いたいような気がする。

林主査

 私,さっき御説明が足りなかったと思うが,表音主義に徹底するというのが今日強くて,仮名遣い委員会では表意主義が強かったのではないかというお話があったけれども,そういうことではなくて,私の理解するところでは,慣習重視主義が強かった,表意主義ではない──ないと言っては語弊があるけれども,そういうことだったと思う。それについていろいろ御意見を伺わせていただきたい。
 それで31年の「正書法について」には,そこに出ている全体の語について,仮名遣い委員会としては,委員会の内部でアンケートを行って,一々の語についての御意見を伺った。その中で,なかなか一致しないで,非常に明確に──まあ,これは多数決をしようと思ったわけではないけれども,15人の方々の中で10人以上一致した,これは「ぢ」だと,こう一致したというのはそれほど多くはない。これは「ず」だといって一致したのもそうはなくて,中間が大分ある。しかし,明らかに一方に傾いたものもないわけではないから,それはそれで決められるかと思う。
 それは何で決められるかと言うと,その方々御自身の一般的な気持ちとして答えていただいたわけだけれども,これを二語と見るか,二語と見ないでいいかと言っても,我々は大体知っているので,大体二語であることは明瞭(りょう)なのである。しかし,一般的に世間において二語と言っていいだろうか──例えばさっき「いえづと」を申したけれども,これは「いえ」というのは分かるけれども,「つと」というのは何だか分からないと言う人が多くはなかろうか。そういうようなことから,あいまいなものは「ず」にしておいた方がいいのではないかというような考え方の方がまあ多いのではないか。
 しかし,そこも投票によると,なかなかはっきりしていない。中間の言葉はあちらこちらへ揺れているので,これは最終的な決定をするのにはまだちょっと議論をしなければならないかと思っている。
 今日それについて,なおいろいろ御注文をいただければ,誠に幸いだと思っているわけである。

鈴木委員

 少しこの雰囲気とは食い違うような,逆の方向のようなことを申し上げることになるかと思うけれども,文字というものは,結局,言葉の表記である。それで,音声の表記が言葉の表記にそのままなり得るものでは必ずしもないと思う。
 例えば一番表記の問題について表音式に徹底して進み出したのは,朝鮮半島のハングルである。16世紀から偉大なる文字ということでやっているが,それでは,ハングルはもう音声に常に密着するのか。そんなことはない。そこに歯止めがあるわけだが,その歯止めをするのは,やはり言葉意識だと思う。もちろん,言葉というものは意味を持った音声の連結だという言語学の定義,それに異論を唱えるつもりはないけれども,やはり習慣的に一つ一つの意味概念を伴った,その上に立った音声だということである。
 したがって,これからの日本語表記は,単に流行する音声に密着する表記にすればいいのだという単純なことではいかないと思う。そういう単純なことでやると,日本語はどんどん時代とともに,流行とともに変わってしまうと思う。なるべく我々──私個人としては,断絶させずに,連続した形において,もちろんそれは発展も考えなければならない。先ほど能率化ということもあったが,それももちろん考えなければならない。そういう方向で審議会もあったらどうか,あってほしいように私は思う。

有光会長

 多くの御意見を御発表いただき,今後の審議に非常にプラスになったと思う。また,本日の審議を受けて,これからも仮名遣い委員会で御検討を深めていただくことになるかと思う。どうぞよろしくお願いいたしたい。
 それから,前回の総会でも御質問のあったこれからのスケジュールのことであるが,本年度内に,来年3月までに方向なり試案なりがまとまれば,従来の例に倣って,これを世間に公表いたすための予算的な準備は,事務局の方でもできておるとのことである。
 どうか引き続き仮名遣い委員会において精力的な御審議をいただき,年度内に試案が得られるよう,各委員の格段の御協力をお願いする次第である。そのための今後の日取りについては,先ほどお話の出た全員協議会のことも含めて,改めて事務局から文書で御通知申し上げることにいたしたい。
 これで本日は閉会にいたしたい。

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