国語施策・日本語教育

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次第 国語施策が持つべき根本理念等について(自由討議)(2)

古田委員

 漢字の場合と仮名遣いの場合とでは違うと思うけれども,例えば鳩ですと,「はと」と書いても「鳩」と書いても,それは同じことになると思う。しかし,仮名遣いの場合に,例えば「難しい」のときに「づ」を使うか「ず」を使うかというふうな場合,あるいはそういう書き分けの場合のことになると,いろいろ問題が出てくるのではないかと個人的には思っている。

木内委員

 問題は恐らく出てくると思う。私は専門家でないから,それを知っているわけではないが,結論としては,恐らくは小学校低学年でも教えた方がいいだろうという結論になるだろう。それはどうぞ石井さんを呼んできてお聞きになっていただきたい。

古田委員

 特に低学年の場合は,仮名で出てくるが,後で漢字を使うようになると,漢字に隠れてしまうことになって,その教育効果がどうなるのかということになる。

つじ村委員

 自由な討議でよろしいということだから申し上げるが,木内委員にちょっと伺いたいのは,御提案の文章を拝見していると,「二,「根本理念を取り上げる」とは,どのやうなことか。」として,四つ挙げていらっしゃる。そして「今にして思へば右の四つのポイントは,その全部が悉く誤りであったことが,事実を以って証明された。」というふうに書いていらっしゃるが,「事実を以って証明された。」というのは,どういう事実をもっておっしゃっているのか,ちょっと,私,分かりかねるところがある。

木内委員

 これは(1),(2),(3),(4)全く違うことが並んでいる。だから,これはそう思って読んでいただきたいが,日本語のような難しい国語を使ったら経済復興はあり得ない。だから簡単にしようと思ったけれども,簡単にしたらかえってごたごたしたような状態が続いていたにもかかわらず,かくのごとく立派に復興した。これはもう明確な事実である。その事実をお認めになるかどうかは長い議論を要すると思う。したがって,この席には不適当な演題だから,別に議論をした方がいい。使っていながら復興したのだから,それは少しは簡単になったけど,さっき言ったとおり,日本人の心持ちを変えたのは事実である。
 ところが,今となっては,元のように,もしも戦前の状態に──今論じているのは国語の表記法である──国語の表記法を戻したらどうなるか。戻そうとはだれも言ってないのだから,私も言ってないのだから,だからそんな議論は要らないことであるが,頭を鍛錬するためにそれを論じてもいい。そうしたら,今までのようなことにはならないであろう。その代わり,日本人はもっと落ち着いたいい日本人になるかもしれない。しかし,もっといいのは,新仮名を認めながら旧仮名の良さをちゃんと認めて,両方併立させるというやり方,これなら今後の日本は本当に良くなると思う。今日本に欠けているのは,精神的な自信というか,そういうものである。それはもう復活してくる。確かにそうなると思う。これは私の意見であるが,そういうことをこれから十分に,何も細かいことを言うわけではない。あっちからも,こっちからも確かめていただきたい。そういう研究をしたらいいと思う。
 (2)であるが,国語もまた,他の多くのことと同様,政府の政策と行動とによって左右することができると考えられていた。だから,国語政策というものは実行されると思ったけれども,実行の途中でごたごたして,今は国語政策は戻りつつある。それは漢字でもうはっきり分かっている。大体戦後の国語政策は漢字政策なのである。ほかのことはむしろ付け足りである。今は,明らかに戻った。つまり,政府はあれだけやったけれども実行されなかった。もともと漢字というのは,明治時代はたくさん覚えれば偉いと思っていたかもしれないけれども,たくさん覚えるのが偉いのではない。日本人が本当に使っていて知っている方がいい,知っている方がいいと思う字は3,500くらいである。それをうまく教えればもっと良くなるけれども,とにかく政府の政策でいじくることはできない。政府は旧仮名のことは余り言わなかったけれども,あのときの意図は,旧仮名はやめちゃえという意図であったのであろう。はっきり証拠を残さないように発表しているかもしれないけれども,意図は漢字をやめるつもりであったのである。
 そういうふうに考えていくと,政府の力では動かすことはできない。しかし,国民が駄目になれば,駄目な国語になる。上等な国民になれば,いい国語になる。いい国語の中に,新仮名と旧仮名とを,時に応じてうまく使い分けていくのが,いい状態だと思う。
 「(3)学校教育は,政策実現のための有力な場である。」これはちょっと文章がまずかったかもしれない。むしろ国語政策というものにおかしい点があったから学校教育は困る一方で,ろくなことができなかったと書くべきかもしれない。ここいらは詳しく論じていただきたいと思う点である。私はここの文章が悪かったら幾らでも直させていただくけれども,学校教育というのは,政府の政策,戦後の国語政策みたいなものの実践の場としては余り有力でなかったと,私は思っている。

木内委員

 (4) 学校教育においては,国語教育のための負担を軽減すれば,その分,他の教科に力を用いることができると思われていた。だから,負担軽減,負担軽減とそればかり言っていた。しかし,そうではないので,国語を早く覚えさせた方がほかのことがうまくいく。これは教育の全面的な組み替えをやればもっとうまくいくというので,これは我々の国語問題協議会としては,最も論じたいところである。今の旧仮名,新仮名の問題にしても同じである。ここでおやりになった方がいいと思うから言うのであるけれども,それには旧仮名というものはどういうものだろうというのをお書きになるのもいいし,そういう文章ができてくるのもいいし,いろいろある。
 このごろは時世の進歩が実に速くて,国語審議会が始まったころ,私が関係する前から,そもそも終戦後,あのころ支配していた言語学上の定説は,表意文字は古いので,表音文字の方が進歩しているというものであった。これは今はほとんど完全にひっくり返っているのではないか。
 ちょっと話がそこまでいくと,ずれ過ぎるかもしれないが,要するに,日本語というものはどういうものだということを考え直した上で,日本語はこういう言葉だから,日本語はこう教えるという教育方法になれば,非常によくなると思う。それは,負担を減ずればその分を他の学習に使えるという問題とは全然違う。国語を使ってみんな物を考えて勉強しているのであるから,国語の教え方がよければ,ほかのこともどんどんよくなるのだという見地で組み替えてほしい。これは改良案であって,今いかに失敗したかということの証明にはならないかもしれない。これはお望みならば,いかにまずかったかを専門家に聞けば幾らでも出てくるから,それを出して差し上げようと思う。

有光会長

 ほかに……。

木内委員

 私ばかりしゃべって恐縮であるけれども,私の提案したものを審議していただいているわけだからいいかとも思う。
 日本語のユニーク性というものは,知れば知るほど驚くべきものである。今日の日本があるのは,全く国語がこういう言葉であるからだということは,もう疑いないと思う。
 どういう点がユニークかと言うと,文法がまるで違う。ところが,今学校で教えている文法は,大体ヨーロッパ語の文法を勉強した人が日本語の文法を考えて作っている文法だから,どうもまずい。あれを習っててちっとも面白くない。知らないことを教えてくれて,ああ分かった,うれしいと思う人はいないだろう。でも,今は試験制度だから,みんな勉強して,一応覚えるけれども,日本語の文法というものは,今までやってたような文法とタイプを変えて──本当は日本語は文法を作れないほど複雑である。複雑というか自由である。だから日本語の文法で大事な点はこういう点だということで,これがいかにヨーロッパ語と違うかということをまず教えたい。
 日本語の日本語たるゆえんのものは,「てにをは」,助詞にある。助詞というのは,仮名遣い問題でも出てくる「を」「は」「へ」である。そのほかにも実にたくさんあって,私なんか到底手に負えない。それは文語の助詞と違う。助詞というのは日本語の「聖域」だという言葉を使った人があって,いい言葉だと思う。助詞は外国語の一番近いものだと,英語のpreposition,前置詞であろうが,これとも大変違う。
 日本語の活用がまた違って,後の言葉にどう連なるかによって活用する。ところが外国の言葉は大体テンスを表すために活用する。
 だから日本語はどうしてこういう構造になっているのだろうかということを考えた上の日本語論というものを頭に置いて,何もこれがこういう規則だからこう覚えるというのではなく,日本語というのはこういう不思議な実に有り難い言葉だ。日本語はそういう非常な特殊性を持っているということが,日本語のフレキシビリティーのもとである。日本語は実に自由である。自由であるからこそ,漢字という全く異質の言葉のためにできた表現方法をそのまま取り入れて仮名を発明し,それで送り仮名を付けるという大発明をしたなどということを教えたい。
 今盛んに進行しているのは,日本語の中へのヨーロッパ語の取り入れである。ヨーロッパ語が今盛んに入っている。それを国語の乱れと言って,怒っている人も多いが,私は乱れと思わない。日本語は混乱している,嫌らしいこともたくさんあるけれども,私がいつも使う例は「三条の大橋」というのだが,「三条」というのは当時の中国語である。「大橋」は日本語であるが,中国語と日本語がチャンポンに入り交じったのが日本語である。いまに英語と日本語がチャンポンに入り交じって立派にいくだろうと私は思っている。そういう言葉であるということを認識して,もっと自由濶(かつ)達に日本語を教えてほしい。そういうのが我々の考えていることなのである。そういうことから考えると,戦後こんなものをやってたら日本はうだつが上がらぬ,経済復興はできないと思って,そのイデオロギーに立ったのが,戦後の国語政策である。それがそうでないとおっしゃるなら,これは徹底的な議論をしなければならないけれども,そうなのである。
 だから,今私が申したことが分かってきて,全く認識が変わったときに,国語政策が一変しないというはずがない。だから,そこから考え直そう。どうぞそのためにそういうことを論じるのに適当なスタイルの小委員会を──全員でやっているわけにはいかないだろうから──作っていただきたい。私の提案の背後にある思想というのはそういうものである。

有光会長

 ざっくばらんにひとつ皆さんで御意見を交換していただければと思う。私もざっくばらんな気持ちで私の経験の一部をちょっと申し上げたい。
 終戦後になって急に国語問題が起こったわけでは決してない。明治の初めから,国語・国字の問題は学者その他の間で議論されてきておる歴史があって,中にはローマ字論者の運動もあるという中において,ひところ長音を表すのに棒(「ー」)を使おうじゃないかと言ったら,一体あれは文字かというような議論があった時代もある。占領される前から,日本人の立場でいろいろ議論され,ある程度の国語・国字の改良の施策が行われていたこともあったということを思い出す。
 それから,その当時の我々の考えは,国語・国字の問題を占領中に占領軍の指示によって決めるというのは,占領軍のためにもとらないところであり,これは我々国民が自ら考えて,自ら決めるのが一番適当だと,そういうことを言った時代もある。ただし,ローマ字というものは,これからだんだん世間の目に入ることも多くなることが考えられるし,また日本の文法を解読する上に非常に便利なこともある。だからローマ字を国字にするのではなくて,ローマ字教育というものにもう少し力を入れるべきだというようなことを言った時代もある。
 あるいは,これは安倍先生であったけれども,言葉というものは自然とできるものだという考えがあるが,場合によっては作ることもあるのだ,両方あるのだということを言っておられた。それも印象に残っておることである。
 それから,例えば教育勅語に全部正しい振り仮名を付けることのできる人が一体どれだけいるだろうかというようなことが問題になったぐらいに,もう仮名遣いが難しくなってきている。それを苦労して覚えさせるのは一体どういう意味があるのだろうかという意見が日本人の中からも出てくるということもあって,そこでどういう判断をしたらいいだろうかというようなことで,いろいろな学者その他の方の御意見を伺ったりしたこともあったので,必ずしも占領軍の圧力によって運ばれたものとばかりは言えないと思う。
 それからもう一つ,昭和41年からであったか,戦後の国語施策の在り方の見直しというか,それをされたわけである。そのときには,国語政策についての基本的なものの考え方を皆様頭に置かれながら,手直しの具体案が出され,その都度皆さんの方の基本的な問題についての御意見も出されていたと思う。
 だからそういうのを踏まえながら,一つ一つ問題が片付いて,終戦後決まった国語政策の手の付いていない部分を今手を付けておるわけであるから,一応これで一巡したところで,更に全部の第2回目の見直しということがあり得ても私は結構ではないかと思う。しかし,これはまたこれからの問題として,とりあえず我々としては,今までずっと見直してきた考えに立ってこの仮名遣いを見れば,こういうことが問題になるということで,この時点においての我々の意見を出すということは,そういう意味では一応意味があることではないかと思う。
 木内委員のおっしゃるような基本的な問題については,全体を通じてまた見直すことが必要ではないかという問題もあると思う。これは非常に難しい問題であって,イギリス人の皮肉屋のショーがbomb(爆弾)の最後のbを取るのには,爆弾以上の力が要ると言ったという。bombのおしまいのbは発音に関係ないから取ったらいいではないかといって,取れるものではないということを言ったというのである。なかなか文字というものは難しいものだ,仮名遣いも難しいものだと思いながら仕事に当たってきたつもりだけれども,こういう基本的な問題は皆さんでひとつざっくばらんに話していただいて,この時点においての最良の結論を出していただければと思う。

林(四)委員

 私は木内委員とは違う認識をしている。恐らく違う認識をしていらっしゃる方もそれぞれ多いと思うが,それを別におっしゃらないのは,何も自分が取り立ててそれを言い始めることはないだろうというふうにお考えになっていらっしゃるからだと思う。それを差し置いて私が,私は根本においてこう考えるということを,木内委員の向こうを張って言うのもおこがましいけれども,しかし,今日,仮名遣い委員会の答申の試案が出て,これを世に問おうとするという,大変大事な総会であるので,やはり仮名遣い委員会におった者の一人として,それを支える見解というものを申し上げておきたいと思う。
 国語審議会というのはどういうものであるべきかということで,木内委員の御発言を今日伺っていると,何か国民の家庭教師でなければならないという感じが私はする。つまり,現代仮名遣いを一つ立てる,それなら歴史的仮名遣いというものも作って,お前さんはどっちを用いるかということを問えといったような感じであるが,今まで歴史的仮名遣いとはこういう書き方であるということを一つのルール集にして書いた書き物はないように私は思う。個々の語の書き方として使われてきたけれども,「歴史的仮名遣いの書き方」といったようなもので教育を受けた覚えはないので,そういうものは恐らく今までに存在しなかったろうと思う。それを国語審議会が答申以外に参考資料としてまで作らなくてはならないとすると,国語の在り方の全教程を国語審議会が作って国民にくまなく配布しなければならないということになって,それが家庭教師をするということになると思う。しかし,国語審議会は,もし表記などが乱れているというのならば,標準というものを一つ立てて,従わないのは御随意だけれども,従っていこうとすればこういうものであるということを一つ立てれば,それが一番いいのだと思う。いろいろなものをたくさん立てて,これにも従おうと思えば従える,あれにも従える,あなたはどれを選ぶかというふうに問うのは,国語審議会のやるべきことではないと思う。国語審議会は一つの標準というものを立てて,この標準に外れる外れないは御随意だけれども,従うならばこれが良いという目安,それを立てていくのが一番いいというふうに信ずる。

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