国語施策・日本語教育

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次第 国語施策が持つべき根本理念等について(自由討議)(3)

林(四)委員

 それで,当用漢字の見直し以後の──今,会長が42〜43年以後から見直し期に入ったとおっしゃったが,──国語審議会の歴史を見ると,第1期が当用漢字と現代かなづかい,送り仮名の三つを出して問うた。第2期がその見直し期に入って,行き過ぎのようなところを引き戻した。引き戻しというか,揺すぶって自然な姿に戻すということを第2期がやって,今,第2期の重要なけじめのところにきた,こういうふうに会長もおっしゃったのだと思うが,そのとおりだと私も思う。
 で,国語問題の一番の根本というのは漢字だと思う。日本語という体系の中に,全然言語的には類縁性も何もない中国語のための文字が入ってきたと思うが,そこから日本語のいろんな問題が始まるわけである。これは国語史をやっていらっしゃる方の問題だけれども,その日本語と漢字がどういうふうに付き合っていくかということであっちへ揺れ,こっちへ揺れた。私の漢字の認識というのは,漢字を持っているというのは大変有り難いし,面白いもので,私も漢字仮名交じり文は大好きで,これを手放そうという気持ちは全くないが,やはり漢字が困った問題を持っていたことは事実だと思う。
 それは三つぐらいの点があると思う。一つは,無限度性ということである。大体使うのは3,000ぐらいだけれども,漢字の字数を数え出したら1万も5万もあるということになる。それで,漢字を使いたい人だけ,一部の階級だけが使っている間はそれでいいけれども,全国民が一致して漢字を日常の共通語彙(い)として使おうということになると,使うような使わないような変な字があるというのも困るので,大体みんなで使う字というのはこういうところであるという見定めをして,それにはこんな字形でそれを書くのがいいというような標準を立てるということだったと思う。それを当用漢字が少し少なく絞り過ぎて,それが制限という色彩を与えた。それがあたかも漢字を滅ぼそうとする,目指すところは漢字をなくすことだというふうに見えるようなふうになったと思う。しかし,そんなことはないと私は思うが,中にはそういうふうに思っている人も個人的にはあるかもしれない。
 しかし,戦後の国語審議会がやってきたことは決してそういうことではない。そういう方向性を示すことではないし,だれもローマ字にしろと言っているわけでもなくて,漢字を1,850字,この限度で用いようと言った。その限度が枠のように見える出し方を確かにした。それがよくないということは確かだったと思う。だから,それを目安にするとともに,95字が増えたあの常用漢字は大変いい。木内委員も言っていらっしゃるが,そのとおりだと思う。これがつまり漢字を用いる用い方についての標準だと思う。
 その標準の示し方に準じて仮名遣いの標準というものをもう一度示す。それについては,あの「現代かなづかい」が立てたものはやっぱり間違いでなかったと判断した。音と文字とが歴史的仮名遣いではずれ過ぎている。殊に字音仮名遣いというものは,この付表でも見るように,絶対に今や従えない。それに従おうとしたら,辞書が引けない。国語辞書で字音語を引くというときに,全然引けない。そういうようなことになってしまうので,やはり音と文字とは一致する方がいい。しかし,完全一致はない。そこに,あるルールがある。そのルールを示せばこうだということで,そういう示し方を今度したわけである。
 だから,実質は変えてないけれども,示し方を変えて,文字と音韻との対応はこうなっているというふうに示した。この示し方で正しく日本語とそれを書き記す仮名との対応性というものが国民に示せると思う。現行の書き方だと,今までこう書いていた歴史的仮名遣いは今後はこうなるというふうに書いてあるので,あたかも逆をたどれば歴史的仮名遣いの書き方を教えているように見える。それほどにちょっと煩雑であった。それを,そういうことでなくて,分かりやすく──先ほど御支持の発言があったが,大変分かりやすく書かれているということで,私もこれはやはり主査の御努力が実って,字と音との対応が大変分かりやすく示されていると思う。もちろん,更に分かりやすくなる道がないとは言えない。言えないかも分からないが,今のところ望むべき最高の書き方がなされていると思う。
 今の「常用漢字表」とその音訓の表,それからこの「改定現代仮名遣い(案)」,今行われている「送り仮名の付け方」,これが三つ一体になって現代語の書き方というもので世に示されていくことで,安定した日常生活へのしるべというものが整ったと私は信じている。したがって,この数期の国語審議会の歩みというのは,現実によく沿ったいい歩みをしてきたというふうに思う。今日のこの「改定現代仮名遣い(案)」は非常に大きな意味を持っていると私は信じている。

広瀬委員

 今の林委員の御意見,私全く同じである。一方,木内委員のお考えもお考えとして十分理解できるところである。今日の「改定現代仮名遣い(案)」を各地で御説明されるのは大変御苦労さまだと思うし,そこでいろんな意見が出てくることも期待する。ところで,私も今まで委員会に参加していて,異論でも意見でもないのであるが,恐らくごく普通の人が疑問に思うことが一,二あるのではないかと思う。その一つは,仮名遣い委員会でもしょっちゅう問題になった呉音の「じ」である。「地面」の「地」,「退治」「明治」の「治」,これは「ち」と読む字であるけれど,それが濁った場合に「じ」にするのはどうしてであるかという疑問を多くの人が持つのではないかと思う。これはもちろん説明はできる。連濁でもなし,二語の連合でもない。もともと「じ」という音なのだ。これは呉音であるというところまで説明すればもちろんいいが,何か分かったような分からないような感じを人は持つのではないかと思う。
 大体,漢字に漢音,呉音,さらに宋音,その他唐音など,四つも五つもあるということを普通の人は知らない。だから,どこまで説明すれば分かり,しかも理論的に正しい説明ができるのかというのが,一つの御苦心なさるところではないかと思う。
 私も実は国語審議会で勉強する以前は,「地面」の「地」が「じ」であることに大変疑問を持っていたわけである。この点は小さなと言えば小さなことであるが,一つの課題ではないかと思う。

山内委員

 余り勉強していないので,感想みたいなことになるかと思うが,せっかくの日本の文化というものに対して,私ども非常に深い気持ちを持ってはいるけれども,もう一つ考えなければいけないと思うことは,日本語というものが外国人にとって非常に分かりにくいということである。今日もバングラデッシュの人の話を聞いたが,日本人が非常によく使う「どうも」とか「なるほど」とか,「考えてみます」とか「慎重に検討します」とか,全く分からないと。「考えてみます」ということは,大部分全然考えてないときに使う言葉らしい。「慎重に考慮する」と言うときには「ノー」と同じ言葉らしい。「なるほど」と言う人の顔を見ていると,ちっともこっちの話を聞いていないような感じがする,というようなことを言われた。
 私の孫が5年ほどアメリカで生活をして,まだ小学生だけれども,これが話をするときに,必ず主語を使う。「私は」とか,「先生は」とか,「両親は」とか,主語を使って話をする。ところが,どうも私どもが家庭の中で聞いていてもそうだが,恐らく学校でもそうだろうと思うが,そういう話し方をする子供は余りいないようである。確かに日本の古典なんかを見ても,主語が何であるかということが非常に分かりにくい文章がよくある。
 そこで,これから国際化が始まってきて,日本が経済大国であることは事実であるが,先進国,あるいは発展途上国の仲間の中から,日本人というのはよく分からない,日本という国もよく分からないというようなことで,日本は文化的に孤立してしまうおそれがあるのではなかろうかという感じを実は持っている。
 もちろん日本の文化を否定して,これを消していこうなどということはちっとも考えていない。大事なものであるから,これは守っていかなければいけないわけだが,同時に,世界に対して開かれた形でいく必要があるのではなかろうか。そう考えたときに,やはり言葉というものが──もちろん勉強しようと思えば,文学にしても芸術にしても,どういう言葉を使っても結構だという建前でこの審議会が進んでいるわけだが,一般の人たちや外国人が使う言葉というものが,簡単とは申せないけれども,分かりやすい言葉の方向に行くことが,差し引きして決して日本のためにならないというふうに考える必要はないと思う。国際化というものも日本の将来にとって非常に必要なことではなかろうかという感じがするので,ちょっと感想めいたことであるが,一言申し上げた。

鈴木委員

 実は国語審議会という,この言葉だけを架空に置くと,いろいろな次元からいろいろな期待があると思う。だが,今回の委員会は15期から引き続いて一つの課題がとりあえずあって,それをまず片付けようということで今日まできているわけである。とりあえず,今期の審議会の使命はそれを片付けることであるが,片付け得たならば,国語審議会というものはどうあったらいいかということを審議することも必要かと思う。しかし,まずそれを片付けるのが第一の任務ではなかろうか。それで,審議会がどうあったらいいかということを不問に付せとは申さないが,やはり当面は,16期としては,まず課題を片付けてと思うが,いかがであろうか。

宮地委員

 国語審議会のやってきたことの大部分は表記法の問題で,表記法の問題だけでいいのかと言うと,今,国際化の問題もあったし,前にも話し言葉とか,敬語白書とか,幾つかあったので,そういう問題も今後課題になるべきことだと思う。ただ,それは今表記法の標準を示すような形では恐らく出せないだろうと思うけれども,そういう予想は別として,今まで多少取り上げられてきた表記法以外の問題も,考慮の中に入れるべきことは明らかではないか。それが一点。
 それからもう一つ。これは前期の初めにもちょっと発言させていただいたが,「改定現代仮名遣い(案)」というのは,要するに,現行の「現代かなづかい」の改定にとどまるわけである。明らかに片仮名言葉の仮名遣いも仮名遣いには違いないから,これから「改定現代仮名遣い(案)」以後の仮名遣い全般の問題を,しかるべき形で議論していただきたいと思う。
 第3には,この審議会の──先ほどルールというような御発言もあって,つまり,議事法だか何だか分からないが,そういう常識的なある種のルールがあるように思っているけれども,この会は別に多数決の表決方式ではないようであるから,それぞれの意見を述べ始めると,今日は割合ゆっくり述べさせていただいているけれども,切りがないところがある。切りがないところをどの辺で切りを付けるかというのが会長の非常な御苦労のところかと思う。こういう機会も結構であるけれども,特定の御意見について一つ一つの小委員会を作るということをやると,これはとてもできないし,切りのないことだと思う。
 今期の仕事は「改定現代仮名遣い(案)」で仮に終わるとしても,次期以後のことをまたしかるべき形で御議論いただきたい。いろいろ問題があるということだと思う。

角藤委員

 私は,義務教育段階の学校にずっと勤めている者であるが,先ほどから木内委員の御意見の中に学校教育ということが出てきている。学校教育と言えば,小学校,中学校,高等学校,大学といろいろ段階がある。私どもは小学校,中学校の義務教育段階の仕事に携わっているけれども,私ども戦後の国語政策の行き方に対しては,大体において賛成の意向でずっとやってまいった。やはり歴史的仮名遣いを教えることの苦しさ,そういったものを身をもって経験しているわけである。そして当用漢字が決められて,新仮名遣いが作られたときに,本当にみんなやれやれというふうな,助かった気持ちで仕事に取り組んだ。
 で,戦後40年たって,国語教育の面でもそういったものが大分定着した感じがあって,私の知る範囲の先生方は,現在行われている国語政策に非常に前向きの姿勢で取り組んでいる方がほとんどではないかと思う。一部には違った考えの方もいらっしゃると思うけれども大勢はそうであるということである。
 この国語審議会で打ち出されている仮名遣いの問題も,一般の社会人の生活に役立つというふうなことで,現代の口語文に適用するということでやっているわけであるから,学校教育でも義務教育段階で特にそういう一般の社会生活に適応できるような,そういう意味の指導をしていかなければいけないと思う。そういう点から,今度の案も,私としては,大変好ましい方向に進んでいるというふうに受けとめている。
 特に,現行の「現代かなづかい」は,歴史的仮名遣いとの比較において論ずるというふうな形になっているけれども,今回の案は,歴史的仮名遣いを全然知らない子供が見ても分かるような形での決まりの立て方ということで,大変いい方向に改善されてきたのではないかと思う。
 義務教育段階の教育を担当する者としては,そういった気持ちで今回の案を受けとめているということを一応表明しておきたい。

広瀬委員

 私の勉強のための雑談に近いようなものだが,よろしいか。

有光会長

 どうぞ。

広瀬委員

 歴史的仮名遣いのよさというか,それは文法的に非常に整然として,文法的に説明が十分付くということが言われている。「文藝春秋」昭和60年1月号に書かれていた尊敬する先生の文章にも,そういうことがあった。それで,新仮名遣いは文法的にめちゃくちゃになっているということが指摘されているが,例えば動詞の活用で四段活用とか,ハ行四段活用というのは,あれは学校で文法を教える場合に,どういうふうに教えていらっしゃるのか。私,現場を知らないけれども,あれはア行四段活用だというような教え方をするのか。それとも,活用ということは教えないのか。今学校の現代文の文法は,どのように教えているのかお聞きしたいと思う。

角藤委員

 中学校ではア行,ワ行にまたがる,四段ではなくて,口語の場合,五段活用として教えている。

広瀬委員

 それはア行,ワ行にまたがるという言い方で説明が付くのか。

角藤委員

 はい。一応ア行とワ行にまたがるという言い方をしたりしている。

林(大)主査

 先ほど前半の方でこの案について御説明するときに申しておけばよかったと思うことがある。それは,付表の歴史的仮名遣いというものが実は定義がはっきりしていないので,それを私ども歴史的仮名遣いと言ってしまっているが,いわゆる歴史的仮名遣いのつもりである。ところが,その歴史的仮名遣いというものがどういうものがあるか,先ほど林(四)委員がおっしゃったように,歴史的仮名遣いというのはこういうものであるということを公に定めたものは実はないのであって,我々としては,自分の習った国定教科書の仮名遣いを歴史的仮名遣いと思っているわけである。実は国定教科書の中にも変遷があって,ついこの間発見したことがある。私は「ハナ・ハト」で習ったわけであるが,一番最後に「アカイアカイ・アサヒガアカイ」という教科書になって,そこでそれまでのと違う仮名遣いで出ている語があるので,ちょっとびっくりした。
 そういうことがあるし,それからまた歴史的仮名遣いということで,終戦後にいろいろ歴史的な研究が進み,それで歴史的仮名遣いの主義から申すと,いろいろ変えなければならない点が出ている。例えば「帽子」は,我々は「ばうし」と習ったつもりでいるけれども,国語学者の研究によると,これは「ぼうし」が正しいというようなことになっているとか,それから「水族館」の「水」は我々は「すゐ」と書くつもりでいたところが,近年の「広辞苑」にしても,新しい古語辞典にしても,みんな「すい」と書いてあるというわけで,歴史的仮名遣いと一口に申すけれども,その中にいろいろある。
 そこで,付表に挙げた歴史的仮名遣いの語例は,主として終戦前の「アカイアカイ」も含めて──「アカイアカイ」で変わったというのは,「いちょう」である。我々が「いてふ」と習ったものが「いちやう」と書いてあるので,本当に愕(がく)然としたわけであるが,それはちょっと別にして,その他のところでは,一応国定教科書で採られていた仮名遣いを歴史的仮名遣いとしてこの表の中に──教科書に直接一々の語を当たってはいないけれども,その方針に従って作っているので,歴史的仮名遣いとこれは違うではないかというようなものがあるいは出てくるかもしれないけれども,一応これは終戦前の国定教科書の仮名遣いを指しているというふうに御了解いただきたいと思う。それだけちょっと付け加えさせていただきたい。
 なお,「いちょう」のような問題の語は,まだほかにもあるが,そういうことは大体においてこの表からは省き余計な論議を起こさないようにというつもりではいるが,多少「はう」「ほう」の問題が残っているところがある。一応そういうことであるので,どうか御了解いただきたい。
 それからもう一つ。木内委員が基本理念について議論をすべきであるとおっしゃっていることについては,私も非常に気になっていることであって,それについて一言申し上げる。実は国語審議会がなぜ設けられているかという問題に関連すると思うが,言語に限らないけれども,我々の社会生活の中で標準を立てるということはどういう意味を持っているのか,なぜ標準がなければならないのか,標準を立てなければならないものは何であるのかというような問題が根本にあるように思う。例えば物差しといったようなものは,標準を立てておかないことには我々の社会生活が成り立たないというようなこともある。暦もまたそのとおりであって,言語についてもそういうような標準を立てておく必要があるということを,まず第一に確認しなければならないのではあるまいか。言語については標準は立てなくていいのだ,自由主義でいいのだという意見もあるはずであるが,その点について議論をする必要があるのではないか。言語について標準があってしかるべきか,なくてしかるべきか,というような問題があろうかと思う。
 それからもう一つ。標準を立てるというときに,「正しい」という言葉がすぐに飛び出してくるけれども,正しいというのは一体どういうことか,我々の社会活動において,社会活動において,正しいとは何か,言語行動において正しいというのはどういうことであるか,ということを考えてみたいと思う。

林(大)主査

 これについてはいろいろ考えがあるはずで,神様からいただいたものだから正しいのだ,こういう考え方もあろうかと思う。それから,現在みんなが使っているのだからそれが正しいのだ,こういう考え方もあろうかと思う。その「正しい」という言葉の使い方を考えてみたいと思うわけである。そういう議論もどこかでしなければならない。これは小委員会か何かで議論することであるかどうかは分からないが,私はどこかでこういう議論をしなければならないと思うし,そして一応の─― 一応だろうと思うが,一応の合意を得ておかなければいけないかと思う。
 こう考えた上で私の考え方を述べると,私の考え方はちょっと古いので,200年か300年昔の考え方になるかと思うが,私は契約説であって,約束をしたものが正しいのだという立場をとりたいと思っている。神様からいただいたものが正しい,それを正しいものとしようではないかと約束をしたならば,正しくなるけれども,そうではなくて,神様からいただいたから正しいというような考え方を私としては採りたくない。我々自身がどのようにしたらいいか,我々の生活をどのように改善していったらいいか,そしてまた過去に背負っている文化の輝きを更に進めていくためにはどうしようかということを我々が約束をしたときに,それが正しいものだというふうに言えるのではないかというふうに考えている。
 そこで,歴史という言葉についていろいろまた考えなければならなくなろうと思う。それで先ほどの御提案のように,歴史的仮名遣いというものについての考え方ということもあるわけであるが,その歴史的仮名遣いの歴史というのは一体どういうものであるかということも,どうしても触れなければならなくなってくるだろうと私も考えている。
 「歴史的仮名遣い」という言葉が出てきたのがいつごろであるか,私もまだよく調べていないけれども,多分明治30年代の後半になって,「歴史的仮名遣い」という言葉が出てきたのではないかと思う。それ以後,「歴史的仮名遣い」という言葉が,いわゆる表音主義仮名遣いの側から出てきたのか,どこから出てきたのか分からないが使われてきた。ところが,大正の末になって,山田孝雄先生などは,歴史的仮名遣いというのはけしからぬと言って,非常に憤慨しておられる。あれは歴史のものであって古くなってしまったというような印象があるではないかという御批評のようであるけれども,一般に使っておるのは必ずしもそうでないと思う。
 ただし,歴史的仮名遣いと現代仮名遣いとを対比させてみると,あれは現代のものではない,古くなったものだというような印象が今でもあるとすると,この言葉は余り適当でないかもしれない。今回の案で「歴史的仮名遣いを尊重する」という言葉を使っている以上は,ちょっと具合が悪いのではないかというような感じはいたしている。
 歴史的仮名遣いというものがどのような内容のものであるのか,どのようにして定まってきたものであるか,一般化していたものであるかどうかというようなことは,改めて共通理解を持つ必要があるということを私は感じている。

野元委員

 今,標準とは何か,正しいとは何かということを一応議論をして決めておく必要があるだろうという林主査のお話であったけれども,果たしてそういうことができるかどうかということに私は非常に疑問を持っている。
 木内委員のお話の中にも,私の提案の背後にある思想は,というようなことがあった。これは私の持論だけれども,こういう国語問題,国字問題というものは,その人の言語観から始まって,人生観,世界観,宇宙観というものにかかわるだろうと思う。したがって,その議論をしても,決して尽きることがないものではないだろうか,というのが私の意見である。
 そのために,国語・国字問題というものは100年以上の歴史があって,しかもそれが決着をみていないということになると思う。したがって,これを取り上げるということになると,ちょっと果てしなき議論になるのではないだろうかと思う。
 結局,幾ら議論をしても,いまだかつて──とは申さないけれども,相手の意見に服して自分の意見を変えたというようなことは,非常にまれだと思う。なぜまれかというと,相手の議論に服する,負けたということは,つまり人生論であるから,自分の今までの生き方を否定するということになるわけである。だからこれは今まで議論のための議論であって,まとめるための議論になったことはないというふうに思う。議論することはもちろん結構だけれども,林主査のおっしゃったような一応の共通理解に達することはないのではないかということを申し上げる。どうも水を差すようで申し訳ないけれども,ちょっと感想を申し上げた。

有光会長

 今日は皆様からいろいろと有益な御意見を伺うことができた。この問題については,今後も引き続き総会等の機会に話し合っていただくことにいたしたいと思う。それからその折には,今日お決めいただいた仮名遣い委員会の試案に対する世間の反響も織り込んで,またいろいろお話し合いもいただけるかと思う。
 それから,次回の総会のことであるが,試案に対する各界の意見なども取りまとめた上で,一応6月ごろに開催することになろうかと思う。日取り等は決まり次第御通知いたしたいと思う。
 今日は長時間にわたり御熱心な御審議をいただいた。
 これで散会いたしたい。

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