国語施策・日本語教育

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次第 自由討議(1)

坂本会長

 次は,議事の2であるが,自由討議ということで,いろいろ御発言願いたい。総会の御発言が,我々としては非常に重要なことであるので,自由討議という形で,できるだけ活発に御意見の交換がいただけるとありがたい。
 特に,外来語の表記については,いろいろと御議論がおありになるようにも伺っているので,ひとつ御自由に御活発に御発言をいただきたいと思う。

宮地委員

 一つは意見のようなもの,一つは質問であるが,「外来語」という用語についてである。これは慣用久しくて,現に,この審議会も「外来語の表記」ということで諮問という形になっているから,今更名前のことをとやかく言うことはないようなものであるけれども,現在の状況を考えると,いわゆる片仮名言葉で,日本で作ったものがたくさんあるわけで,日本製の外来語というのは変な話であるから,いわゆる語種の問題で,和語・漢語というような名前に合わせれば,「外来語」という用語は,当然「洋語」というのがふさわしいかと思う。
 そのほかにも,もちろん梵(ぼん)語とか朝鮮語,韓国語とかあるし,混種語というものもあるが,「外来語」というのは,理屈の方からいうと少しおかしい用語で,この点は公に久しく使われているから,ここで改めるべきだという意見は言わないが,例えば今回の結論に至る段階,あるいは最後の試案のどこかの部分には,「この用語は余り適当ではないかもしれないが,慣用久しくやむを得ないところである。」ぐらいのことは欲しいような気がするので,それを一つ意見として申し上げたい。
 もう一つの質問は,これは御専門の方々がいらっしゃって,私などは疎い方であるが,先般いただいた資料集の2冊,それに引用されているものなどの他に,NHKの研究所などで,昭和36〜37年ころに,かなり詳しい報告書をお出しになったことがある。既にその担当の方はお引きになっているようであるが,その後の研究とか,実験とか,調査とかいうものが,あるいはあるかもしれない。それで,きょう見えているNHKの尾西委員,それから御専門の茨城大学の石綿委員のお二方に,その辺の情報をいただいて,私もできれば少し勉強したい。ただ,余り細かいことはとてもやりきれないかもしれないので,重要な文献を教えていただきたい。

坂本会長

 第1の「外来語」の問題については,御指摘いただいて,確かに「外来語」という言い方に多少の不自然な感じを抱かないでもないが,今まで一応それで慣用していることなので,それを改める,改めないは別として,そういう意見を付せということにつきましては,検討させていただくことになると思うが,よろしいか。それでは,御質問の件については,尾西委員よろしくどうぞ。

尾西委員

 今,先生が言われたのは,昭和36〜37年の資料以後,どういう新しい資料があるかという御質問だと思うが,私も,その36〜37年の資料以後,新しく改訂されたという話は聞いていないので,あれが今でも基になっていると思っている。

石綿委員

 研究文献としては,NHKが非常に大々的になさった研究のほか,私が今思い出すのは,国立国語研究所で,雑誌90種等の調査の結果について更に分析を加えたものがあり,これは論文になっている。なさったのは,あそこの書き言葉の研究室である。その後,言語体系研究部の宮島さんがその整理をされたように思う。

坂本会長

 よろしいか。ほかに御発言をどうぞ。

村松(定)委員

 きょうは,外来語の表記委員会が発足されることを承り,ちょっとお願いがある。
 私は,この前,仮名遣いの委員をさせられたが,そのときの体験に基づくと,かなりハードな委員会だったようである。そのときの主査の林大先生が,非常に寛容な御性格なので,かなり煮詰まっているものを,総会で意見が出るたびにまた改めて議論し直すという形をとっていかれたわけである。仮名遣いと外来語の場合は大分性格が違うと思うが,できれば,今度は委員会の方から青写真というか,項目が幾つかに分かれると思うが,ここまで来た,これでどうかと総会に対して積極的にお聞きになるような形をとっていただきたいということが一つである。
 それから,これは素人の言うこととして,お聞き流しいただきたいのだが,仮名遣いの場合は,定家仮名遣いとか,歴史的仮名遣いとかを経て,戦後発音どおりに近い仮名遣いになって,でも,歴史的仮名遣いから来たこういう書き方は残そうと,そういうところに焦点を絞られたと思うが,外来語の場合は,江戸時代にもかなり外来語は入っているが,ほとんどは明治以後である。そうすると,新聞とか,当時の出版物,そういうものの実態がどうしても問題になる。
 それから,戦後,仮名遣いの方は,発音どおりということは,同じ日本語だから,そういうふうにして構わなかったという意見があると思うが,例えば「バイオリン」というのは,スペルからいっても,「ヴァ」になるはずで,「ヴァ」行は「バ」行と区別できないから「バ」にしたというのが,何か原語の発音──英語をちゃんと中学から教えるのだから,はっきり子供たちにも「バ」と「ヴァ」の違いがわかるようなことをやってみた上で決めたことなのかどうか。ちょっとそのころの国語審議会の方針がわからないわけで,その辺のところはなるべく原音に近いものを尊重してほしい。
 これは私の個人の感想であるが,素人がそういうことを考えているということも御記憶くださって,よろしくお願いしたいと思う。

坂本会長

 今の御発言に対して御意見や御質問等があるか。事務局の方で何かないか。多少意見の分かれるところかとは思うが,今日のところは,御発言を記録にとどめて,今後の検討の材料にさせていただくということでよろしいか。

鈴木委員

 私も,基本的にはやはり原語に即した方がいいという考え方に賛成であるが,「ヴァイオリン」のように,語頭に来る場合はまだ割合に識別できると思うが,「サーヴィス」とか,「シヴィリアン・コントロール」とか,途中に来ると,やっぱりつづりを知らないとできないわけである。それから「ベニヤ板」なんかはどうするか。それはハ行の「ベ」で定着しているし,いろいろとやはり問題があると思う。
 だから,この問題も,語頭へ来る場合は一応賛成したいけれども,そのほかの場合については非常に難しい問題が出てくるのではないかという気がする。

坂本会長

 先般,NHKの教育テレビで,外来語の表記の問題を放送していたが,「ギリシャ」というのが,我々は「ギリシャ」というふうにのみ思っていたら,今の社会科の教科書では,「ギリシア」となっているということで,自分の不勉強をそこで思い知らされるような気がしたわけであるが,そこでも出演者の先生が,教科書の中で「ギリシア」というふうに記されているということは,別の問題があるのではないかという意見を述べておられたので,これはえらいことになったなと,正直言って,ちょっとたじろいでいる始末である。今の御発言も,今後の問題としては大変重要な問題だというふうに認識して,きょうのところはとどめさせていただくということでよろしいか。

村松(剛)委員

 先ほど宮地委員から二つの御質問があったが,第一の方が,私,ちょっとよくのみ込めなかった部分があるので,念を押させていただきたい。「外来語」といっても,外国語を日本風に使ってしまっている言葉についても,ある程度の審議はするという意味に解してよろしいか。

宮地委員

 私が申したのは,用語の概念の問題で,「外来語」というのは,外から来て日本化した言葉という意味。そうすると,漢語も本来は外来語のはずだが,これは非常に歴史が長いし,外来語という意識が一般にはないので漢語と言っている。だから,今や,いわゆる「洋語」が日本にかなり定着してきている。そういう意味では「洋語」だろうと思う。
 しかし,「外来語」という言葉を使うとすれば,これはやはり外から来て日本化しているというか,国語の一部に入ってきていると考えるものだろうと思う。外国語とは必ずしも言い切れないけれども,しかし日本の語彙(い)体系の中へ入ってきている。ただ言葉としては,「外来語」というのはいかがか。よくいう「ガソリンスタンド」というのは,日本製なのではないか。

村松(剛)委員

 日本製だと思う。

宮地委員

 そういうような言葉がたくさんある。そういうものを外来語の中に入れるのは変だろうと。つまり日本でつくった「外来語」というのは変な言葉ではないか。だから,実際上,片仮名の西洋言葉のことをいっているように思うから,そういう意味で,「外来語」という言葉はなるべくこれから専門的な方々は使わない方がいいんじゃないかと。こういう政策的な分野では,慣用の久しいものに従わざるを得ないのが現実だろうと思うから,そういう意味で,外来語表記に関してのこの会議で余りとやかく言うことはないと思うが,そういう言葉の概念の問題があるということである。

村松(剛)委員

 つまり「ガソリンスタンド」を「ガスステーション」と言えというふうなことまでは言うなという意味か。

宮地委員

 そのとおりである。

村松(剛)委員

 そうすると,「ガソリンスタンド」は日本人がつくったのであるが,それでは「クレヨン」はどうするか。もともとは「鉛筆」の意味なのだが,日本では違った意味になってしまっている。これも外来語である。だから「クレヨン」は「クレパス」と言え,「鉛筆」は「クレヨン」なんだというと,トンボ鉛筆なんかは困るだろうと思う。外来語の範囲をどの辺で切ったらよいのか。

宮地委員

 余りこの辺で行ったり来たりするのはどうかと思うが,要するに,「外来語」という用語は,伝統はあるけれども,もはや西洋語という意味で「洋語」という言葉にした方がぴったり来ると,そういうことだけを申し上げているわけである。

尾西委員

 事務局に対して質問したい。私は外来語表記委員会の委員に指名されたが,「表記委員会」とあるから,これは表記の仕方についての委員会ということだと思う。私どもは放送の分野で,「外来語」が氾(はん)濫してくるのを何とかして防ぎたいと常々思っている。現在でも,FMの番組表などをみると,全部片仮名になっている。中には意味不明の番組などもあって,若いディレクターやプロデューサーはそれが新しいイメージだと思っている。それは,新しいイメージで売らない限り,番組として売れないということもあって,ほうっておくと,全く片仮名ばかりで意味不明ということも多くなってくる。
 我々としては,なるべく日本語にしてほしいという歯止めを部内的にはかなりかけて,番組を作っているわけだが,この外来語の氾濫というか,外来語をどこまで認めるのかというようなことに対して,この国語審議会は意見を述べるということはないのか。

坂本委員

 今の尾西委員の御発言についていかがか。あるいは,事務局の方からはいかがか。

前畑文化部長

 前回,大臣のごあいさつでも申し上げたところであるが,国語に関する諸問題についても,大所高所から種々御教示を賜りたいということでお願いしている。
 特に,今御指摘のあった「外来語」というか,宮地先生が御指摘になった「洋語」というか,そういうものの氾濫の問題は,かねてからやはり一つの大きな問題として取り上げられ,認識されているので,この委員会で,そういう点についても御意見を承ることは,私どもとしては大変ありがたいことだと思っている。また,もちろん,ちょうだいした御意見の扱い方についても,併せて御指導を賜りたいと思う次第である。

鈴木委員

 日本が近代化のためにヨーロッパの諸科学を受け入れ,東アジア圏では急速に近代化を進めたわけだが,実は江戸中期ごろから,全部それを漢語で翻訳した。そして,それが今では漢字文化圏の共通用語になっている。ただし,その中で「論理学」と「倫理学」だけは,中国では「ルンリーシュエ」(lunlixue)と「ルンリーシュエ」(lunlixue)との違いだけだから,「論理学」を使わなくなって,このごろは「ロジック」の「ロジ」をとって「ルオチー」(邏輯)などとやっているが,そのほかは大体日本人が工夫した翻訳語によって漢字文化圏共通の学問名称ができているわけである。「心理」にしてもそうだし,「哲学」にしてもそうだし,四つの現代化の中で,科学技術の現代化というが,「科学」という用語もそうである。したがって,これは率直に申すと,戦後の当用漢字によって制限をしたために,翻訳をすることをもう忘れてしまったのではなかろうかと思う。それで,今現在,中国の人たちは非常に困っている。かつては日本のそういう近代漢語によって,我々も急速に近代化ができたんだけれども,今はその共通の言葉がないと言っている。日中の学者たちが集まって,もう少し共通の訳語を工夫できないだろうかと,中国へ行くたびにそういう話を聞く。そういう観点も,やはりこの審議会では必要なのではなかろうかという気がする。

広瀬委員

 問題が二つ出されていると思う。一つは,「外来語」というものの定義がはっきりしないが,要するに,片仮名語が氾濫していることの問題,これを規制すべきか,すべきではないかということも含めて,「外来語」の存在そのものの問題が出されていると思う。もう一つは,その表記の仕方だと思う。
 私の個人的な意見は,外来語の存在そのものについては,この審議会では意見を申し上げることはもちろん大いにあっていいと思うが,答えを出して,答申なり報告なりにまとめるということは,私はテーマ外だと思う。私も外来語の氾濫は大変嫌いであって,なるべく日本語,しかも和語にしたいが,しかしこれだけ西洋から文物が入ってきていると,どうしても日本の言葉では表現できない言葉がたくさんあって,いやでも応でも使わざるを得ない。いつかもあるところでお話ししたが,例えば,テレビの「チャンネル」というのは,「チャンネル」という以外に言いようがないので,あれをどういうふうに日本語にすればいいのか。不可能なことである。それと,私は片仮名語が多いことは嫌いだし,反感を持つし,新聞の読者にもそういう人が多いが,しかし片仮名語で表現することが好きな人もいるし,好きな世代もある。片仮名で言わなければ感じが出ないという場合も確かにあると思う。そういう好き嫌い,趣味嗜(し)好に関係するようなことを,公式な権威ある機関が規制しようとしてはいけないと思う。嫌煙権の問題ではないが,好き嫌いの問題を権利義務化してはいけないというふうに思う。それが第一の問題への私の個人的な意見である。
 もう一つ,表記については,表記を審議するのが今度の国語審議会だと思うが,今までの漢字,仮名遣い,それぞれについて大きな戦後の流れというか,うねりのようなものがあって,戦争直後,占領中に非常に強制的に,簡明化,統一化という大きな力が働いて,国語が戦後急変したわけである。しかし漢字についても,仮名についても,それに対する反省というか,悪い言葉で言えば反動,いい言葉で言えば本来の日本語を大事にしようということだと思うが,それが,例えば古典とか,歴史的な使い方とか,文字なり表現なりのよって来るゆえんを心に抱いて,それで表現するとか,方向だけからいえば再びいささか逆の方向へ動いてきて,あるところで定まったのが,先年の「常用漢字」と,この間の「仮名遣い」だと思う。
 それで,片仮名語の表記についても,私は同じような感じを持っている。統一,簡明という大きな努力が行われた結果,「ヴァ」は「バ」と書くとか,「フォ」は「ホ」と書くとか,語源,元の言葉からかなりかけ離れた感じの表記にしてしまって──その方が簡単なので,殊に新聞はそれを好むわけで,それによって統一が行われてきている。しかし,しばしば聞くのは,例えば「ヴァイオリン」である。「ヴ」の復活への魅力は大変あると思う。そういう意味では,元の言葉へ戻ろうという世間の嗜好もあるのではないかと思う。
 私も個人的にはそれに賛成だが,ただ,それをどこまで,どの言葉についてやるべきか。全部やるのか。つまり「V」の発音のものはみんな「ヴ」で書くののか。もっと言うなら,「ヴァ」「ヴィ」「ヴ」「ヴェ」「ヴォ」よりもワ行の「ワ゛」「ヰ゛」「ヱ゛」「ヲ゛」を使いたいという人もいるかもしれないし,つまり,V列がみんな「ヴ」の一つだけというのは不便ではないかという意見があるかもしれない。それから非常に日本語化したV音の言葉,例えば「ビタミン」を「ヴァイタミン」と言わなきゃならんのか,その辺も一つの原則を立てるのは大変難しいのではないかと思う。委員会の先生方,大変御苦労だと思うが,そういう意見を一つ一つ検討していくのも大変だし,一体どういうふうにするのか,私は半ば楽しみにもしている。(笑声)
 もう一つ,これも個人的な意見であるが,国語審議会の結論は,あくまでも「よりどころ」であって,「ねばならぬ」ということであってはいけないと思う。個人の好みがあるし,出版社なり何なりの方針もあるし,専門用語の表現もあるし,何々してはいけないというものにはしたくないと思う。どちらかと聞かれるなら,こちらの方が正しいと国語審議会では結論を出したという程度のところでいいと思う。つまり,国語審議会はある規範を立てるだけであって,強制したり,統制したり,規制したりということは,基本的に避けたいと思う。

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