国語施策・日本語教育

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次第 自由討議(2)

坂本会長

 確かに我々の世界でも,「ラジオ」というのは,私どもがNHKに入ったころは「ラヂオ」と書いたが,今は全部「ラジオ」である。先輩の中には「ヂ」に戻すべきだというような激しいことを言う方もいる。そういう意味では,一つ一つ,どこまでどういうことになるのか,いささか気が遠くなるような話かと思うが,しかし避けて通れない問題かと思うので,御協力いただきたいと思う。ほかに何か。どうぞ。

江藤委員

 広瀬委員の御意見を承っていて,私も国語審議会が規制的な枠を設けることには賛成ではないのだが,ただ,こういう事実があることは認めておかなければいけないのではないかと思う。それは,新聞協会──あるいは雑誌協会はそこまでやっているかどうか知らないが,あるいは民放連,日本放送協会等々で,ある原則を業界内で立てて,その原則に従った表記なりが行われているということがある。これはつまり官の規制ではないけれども,それぞれの業界の自主規制という形での基準,準則があると思う。もう一つは,これは官の方だが,義務教育は明らかに自由というよりは,むしろ規制的にある表記が行われて,それが生徒に教えられているという二つの事実があると思う。
 したがって,国語審議会がいかに個人の自由という原則をうたっても,この点については,いわば両方が聖域であって,不可侵なのか,それとも国語審議会がある良識ある見解を打ち出した場合には,それをおくみ取りいただいて,新聞協会なり,民放連なり,NHKなり,あるいは文部省側では初中局なりで,そういうことをお生かしになるのかどうなのか。それがなければ,審議会をこうやって忙しい中みんなでやっている意味も余りないように思う。その辺について,あるいは事務局から存念をお聞かせいただければと思う。

森国語課長

 ただいまの江藤先生の御発言に関してであるが,従来から「常用漢字表」とか「現代仮名遣い」などの御答申をいただいて,内閣告示で実施に移す際に,国語審議会のお考えを体して,どの内閣告示の場合も,適用分野を示す1項目を掲げて,法令・公用文書・新聞・雑誌・放送など,一般公共的な社会生活に適用するものであるということを明記し,その上に更に重ねて,科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではないということをも明記するというのが,昭和40年代以降の,いわば見直し後の国語施策の基本理念,基本姿勢になっている。
 こうした内閣告示の趣旨を受けて,政府,行政部内については,更に内閣訓令を発して,内閣告示と同内容でいくようにということを訓令しているが,そうではない一般の国民の皆さんの各分野に関しては,例えば今お話のあった日本新聞協会などで,更に検討されて,それぞれの特殊事情等を踏まえた上で,自主的にお決めになるという方法をとっている。恐らく,余り先のことを言うのはいかがかと思うが,仮りに今後,この外来語の表記についても,同じような方針でいくとすれば,それぞれ同様の形になるのではないかと思う。
 2点目の学校教育の問題であるが,これについては,従来から,昭和29年の国語審議会の部会報告を基本とはしているが,文部省の学習指導要領等において,小・中学校の児童・生徒への教育的配慮という独自の見地から,部会報告では許容のような扱いで若干幅を設けるなどしているところを,学校教育段階ではより統一的にするといった配慮をしている。
 そこで,それでは,外来語の表記について,今の段階でどのようなことが考えられるかといえば,あるいは御存じの先生方もおられるかと思うが,先年来,国会において,時折,この外来語の表記の合理化について御質問があり,それに対して,当時の海部文部大臣とか,高石初中局長が答弁に立って,国語審議会の方で,いずれこの外来語の表記の問題をお取り上げいただき,慎重に審議の上,御答申をいただいて,それが何らかの形で実施に移されたときには,初中教育においてもそれを十分検討して,適切に対応していくことになるのではないかというような趣旨のことを述べている。

仲佐委員

 私は民間放送連盟に属している者であるが,今,お話が出た件については,それぞれの媒体団体も言葉の問題は慎重に扱うということになっていて,きょう新聞協会の山田専務はいらっしゃらないが,御存じのように,新聞協会でも,理事会とか,編集委員会で機関決定する問題ではなくて,新聞用語懇談会という場を設けて,そこで新聞社の中の専門家がお集まりになって出す一つの目安を,編集委員会が了承するという形をとっているというふうに聞いており,民間放送連盟では言葉の問題は決めないことにしている。それは,新聞協会の中に有力な放送会社も入っているし,そこの放送用語懇談会に委員も出ているので,そこでの大方のコンセンサスを得られたものを,各局がそれぞれ社の方針で尊重している。また,いわゆる使ってよくない言葉というものが,昨今いろいろ問題になるが,これを民放連としては,議論の結果,決めるべきではないということになっているということもある。
 したがって,時々の議論の中で,片仮名言葉の氾濫とか,そういうものを議論して,お互いにその議論の結果を各社が参考にするということはあっても,規制的に決めることはしないという感じである。

関口委員

 私は時事通信の者だが,新聞協会の用語の懇談会の委員になっているので,今の江藤先生の問題に関連して発言させていただく。
 国語審議会で,過去,いろんな答申が出ているが,新聞協会の方でも,ほとんどこちらの答申と同じようなものを一つの基準として持っている。多少の例外とか,そういうものはあるが,ほとんど答申と同じように,それに沿って作っており,各社ともそれを一応守っている。
 ただいま新聞協会の用語懇談会で問題になっているのは,外来語ではなく,外国の地名の表記である。したがって,現在,国語審議会でこれからスタートしようとする外来語の表記について,細かい点を一体どういうふうに表記するのだろうかということなど,私どもとしては非常に注目している。恐らく国語審議会で結論が出るならば,やはりこれを尊重していくことになるんじゃないかと思う。

柳下委員

 江藤先生の先ほどのお話に関連して,義務教育,あるいは学校教育の場合に,柔軟といっても,余り柔軟に過ぎると,やはり問題が残る。少なくとも教科書における表記は統一しないと,教科書が別だと表記も変わっていたというのでは,柔軟のように見えて,大変迷惑するのは子供なのであるから,このあたりは柔軟に対応しながらも,教科書の表記の問題は,教科書検定の問題にも絡むが,やはり標準的なものを示し,それにすべての教科書がのっとるということは必要だろうと思う。
 それから,国語化した発音というものがある。例えば,「フイルム」か「フィルム」かという問題もあるが,国語化した発音というものも,かなり時代によって変わってきているのではないか。従来,国語化した発音だと思われていたものが,外国語の学習が進んできて,あるいは日常いろいろな外国語を耳にしていると,いわゆる国語化した発音というものも順次変化してくる。したがって,単純に国語化した発音というふうに考えないで,もっと現代的な,今の時代に即応した発音というものも十分考えに入れながら,表記なども考えていく必要があるのではないか。
 もう一つの問題は,外来語も,小学校程度で出てくるもの,あるいは中学生程度,高校生程度,これはかなり「ゆれ」があって,必ずしもこれは小学生というふうに画然とは区別できないが,いわゆる外国語,外来語は,小学校でも高学年,あるいは中学校のあたりからいろいろ出てくる。そうした場合には,外国語をかなり習得しているので,そういう点で原語に近いような形の表記をどんどん採用していっても,混乱はないのではないか。そのあたりは,子供の発達段階,それからどういう語彙が多く使われるか,教科書等に出てくるかというような分析とも絡んで,表記の問題を考えていただいたらいいのではないかと思う。

坂本会長

 ほかに御意見はないか。今たまたまお話に出た表記のことだが,ついせんだって,例えば「フアン」か「ファン」かというときに,「ファン」と書いて「fan」と読ませようとするから,「フアン」になってしまうんで,「フアン」と書けば,「fan」と読むんじゃないかというようにおっしゃる方がいて,私は思ってもみなかったことなんで,びっくりしたのだが,そういういろんな工夫があるいはあるのかなと思わないでもない。ほかに,御意見はないか。

永田委員

 意見というより,質問だが,ワープロの問題がある。私自身使っているわけだが,これはローマ字入力,仮名文字入力と両方あって,例えば先ほどの「ギリシャ」の例だが,ローマ字入力では「sha」とやれば「シャ」が出る。ところが「ギリシア」と入れようとすると,もう一字余分に打たなければならない。それから,「va」と打つと「ヴァイオリン」の「ヴァ」が出るというのは,既にそういうワープロがある。それが「ba」でしか打てないものもある。こういうワープロの辞書の問題があると思う。ワープロは今後ますます広がっていくと想定されるが,そうすると,その辺の辞書部門の作成に携わっているメーカーや専門家は一体どういう考え方を持っているのか,その辺のことを,どういうふうにこの審議会は取り扱われるのか,それをちょっとお聞きしたいと思う。

井上(和)委員

 私も余り製作過程に通じているわけではないが,全く言葉の専門家でない方が,一般に使われている頻度などを考えて,それぞれ巧みにつくられたという感じのようである。漢字への変換についても,言語学とか国語学の先生方に必ずしも相談していない。だから,そういう観点を入れていかないといけないということは確かにあると思う。
 ついでに一つ言わせていただきたいことは,「以前,この審議会の方と学術用語の関係の委員の方との合同作業をなさったことがある。」ということを,こちらの資料の中で読ませていただいたが,もう一つの問題は学術用語とこちらで制定するものとの関係ということかと思う。そんなことも新しい観点に入れていただけたら大変ありがたい。

石綿委員

 先ほど広瀬委員,柳下委員から,人による意見の違いとか,年齢による意見の違いとか,そういうもので表記の対応の仕方が違うだろうということを言われたように思うが,そういう点で考えてみると,外来語の表記というのは,今までの「常用漢字」とか,「現代仮名遣い」とか,そういうものに比べて非常にデリケートな部分が多い。デリケートな部分が多いから,この前の昭和29年のときに,多分それが建議にまで至らなかったのではないかと思うが,そういうデリケートな部分が多い上に,先ほども御発言があったように,非常に動いているものでもあるのではないかと思う。つまり,人によって違うし,年齢によっても違うし,分野によっても違うというようなことがあるのではないかと思うが,そうであるとすれば,この委員会で何らかの結論を出す場合,そういう動きというか,世の中の実態というか,そういうものをよく調べるということが,一つの重要な問題点ではないか。
 先ほど宮地委員から,どういう研究資料があるかということを言われたのも,多分そういうことを御明察の上でのお尋ねかと思うが,ここでは,いたずらに結論を急ぐのではなくて,まず実際にどうなっているのか,どういう点がどういう問題を起こしてきているのかということをゆっくりつかむことが必要ではないかと思う。

坂本会長

 今の御指摘のような点については,文化庁の方でも御努力いただいて,資料などの提出も用意していただけたらというふうに思うが,事務局の方としてはいかがか。

森国語課長

 実は私どもの方としても,この4月から,本日,発足をお決めになった外来語表記委員会にいよいよ活動をお始めいただくので,その御審議の際になるべく役立てていただくように,準備を進めているところである。

坂本会長

 ほかに,御発言はないか。

鈴木委員

 一口に「外来語」と言うと,これは際限なく広がってしまうおそれがある。ファイルの中の「外来語の表記の問題について」という説明資料の最後部に,外国の地名・人名の書き方については,昭和29年の段階では,「別に考慮することにした。」として触れていないということが書いてある。
 そこで,むしろとりあえずは地名・人名を中心にして,標準的な考え方を討論してみたらどうかと思う。そうすれば,おのずから関連して,一般の問題の方にも影響が出てくると思う。

坂本会長

 一番難しい問題の一つのようであるが,今の御提言は,きょうここで「そういたしましょう。」というふうに申し上げていいのかどうか,私としても,ちょっと判断に苦しむところであるので,更に検討させていただくということでよろしいか。
 ほかに御意見はないか。

林(大)委員

 私は表記委員会に所属することになったので,今日は表記委員会に御所属にならない方の御意見をよく伺うことがいいんじゃないかと思っていたが,今日皆さん方の御意見を伺っていて,私の考えていることをちょっと簡単に述べさせていただきたいと思う。
 私,三つのことがあるように考えていて,一つは,先ほど江藤委員のおっしゃったことに関連するが,私どもがここでやろうとすることは,やはり一種の標準化の仕事をするのだろうと考えているわけである。外来語というものは,全く自由にほうっておけばいいんだという考え方もあろうかと思うが,それならば国語審議会は必要がないので,そうではなく,何か標準的なことを考えてみよう。で,それはどういう規制力を持つか,持たないか,あるいはどういう方面にその規制力を及ぼすものと考えるか,そういうことが我々のここでの議論になるのではないかというふうに考えている。従来,常用漢字表などは「目安」という言葉で,どの方面に使う,使わないということを書いているわけであるが,そういうことをここでも外来語について考えるのであろうと私は考えている。
 もう一つは,最初の宮地さん御質問の「外来語」という用語であるが,名を正すということが必要だということもあろうかと思うが,一応その「外来語」という用語を使わせてもらうことにしておいて,私は「外国語」というものと「外来語」というものとの間が,はっきり区別できるとは思わないが,考え方としては,きっと考慮する必要があるのではないかというふうに思う。
 我々の日常の言葉の中には,外来語を使ったり,臨時的に外国語を使ったりすることがある。きのう読んでいた本の中に,「『メニュー』のことはドイツでは『カルテ』という。ドイツでは『メニュー』といえば『定食』のことである。」というようなことが書いてあった。
 最初の「メニュー」というのは,これは日本語だろうと思う。「献立書き」とか「お品書き」なんというのとは違って,「メニュー」という言葉は一般化していると思うが,後の「ドイツでは『カルテ』という」というところとか,「ドイツでは『メニュー』といえば」というのは,ドイツ語を臨時に借りてきて使っているものだと思う。そういう種類の言葉遣いが我々の生活の中に随分あるように思う。その上でもう一つの問題は,言葉と表記との間の関係のことだと思う。言葉の上では外来語であろうと,外国語であろうと,我々の日常生活の中に入ってきて,しゃべっていると,外国語のつもりで言ったものも,片仮名で書かれるだろうと思う。その外国語と既に外来語と考えていいようなものとの仮名書きの問題,それらを区別ができるか,できないか,その辺を考えてみる必要があるんじゃないかと思う。外国語として言うと,これは全く外国の原音に近い方がよさそうに思われる。今は片仮名で外国語を覚えるという外国語学習は全くなくなっていると思うが,外国語を片仮名でどういうふうに書くかという問題を我々の任務の中でどう考えたらよいか。
 この場合,もう日本語になっているじゃないかというもの,例えば「テレビ」だとか「ビデオ」というものの「ビ」というのをどうするかという問題ではなくて,一体どれが日本語の中に入った外来語と認められるものであるのか,つまり,逆に言えば,これは外国語であって臨時に外国語として使ったんだということを区別できるのかどうか,そういうところの問題もあるのではないかと思う。
 そして,もう一つは,これは表記の問題ではないかもしれないが,せんだって人の話を伺うと,近頃は「マナー,マナー」というが,あれは英語なら「マナーズ」といわなければいけないんだと。それでは我々は行儀作法のことを,これから「マナーズ」といわなければいけないのかとなると,我々としてはもう日本語の中に「マナー」として取り入れているので,いくら「ズ」をつけなければいけないといわれても,これは困るんじゃないか。そういう外国語主義を,どこまで外来語の中へ持ち込めるか,持ち込むのかという問題があるように思っている。

林(大)委員

 また,外国語と外来語との間に,地名・人名の問題があって,地名・人名は,全く外国語だと思う。全くと申したが,外国語ではあるが,それについては,従来の長い習慣があって,外国語でない日本流の読み方もある。例えば「ペキン」であるとか,「セイロン」だとかいったように,現在ではそう使われていないのを日本では使っている。それをどう書くかという問題が出てくる。だから,地名・人名が,ちょうど私が申した外国語と外来語との中間に属する非常に難しい問題かと思っているが,そういうふうにして,何か私どもの仕事の目標を分けて考える必要がありはしないか。それを分けることは非常に難しいと思うが,それらについて考えておかないと,いつも混乱が起こるのではないか。
 そこで,「原音主義」という言葉が出てくる。私も,先ほど柳下委員がおっしゃったように,外国語学習が随分進んでいる段階においては,原音主義というのは非常に意味があると思っているが,その原音主義をどの程度まで考えるかという問題もあるように思う。

江藤委員

 今の御発言に関連して質問がある。これは事務局に伺う方がいいだろうと思うが,今,林大先生が何らかの標準化を求めるのがこの審議会の任務であろうとおっしゃったが,そうなのか。つまり,初めから標準化を求めるというゴールを決めてしまうというのは,私はちょっと自己目的的で,言語のこと,国語のことを論ずるには適当ではないんじゃないか。それは標準化が結果として出来することはあり得るかと思うが,標準化できないという結論が出る選択肢も残しておいていただかないと,議論が自由にならないんじゃないかという感じがするが,事務局はどういうふうにお考えになっているのか。

前畑文化部長

 前回の総会の折に,私どもの方から資料を説明させていただき,議事要録にもとどめてあるが,外来語の表記の問題について御検討いただくに当たっては,国語政策上の取り扱い方,すなわち,適用分野の問題,あるいは規範性の問題についても御留意をいただきたいというふうにお願いいたしている。これから御審議をいただいた結果,果たして何らかの標準的なものがまとまるのか,あるいはまとまらないのかということを,現段階において私どもとしては予断をもって臨んでいるわけではない。
 「現代仮名遣い」の場合も同様であったが,御答申をいただくときに,その中で,その取扱い方についても併せてお示しいただくことを私どもとしてはお願いいたしたい,このように考えている。

林(大)委員

 もし標準化する必要がないという結論が多く出てくるようであれば,それも一つの結論だと実は思っている。しかし,私自身は,標準化が必要であるということを考えている。また,従来,国語審議会がしてきた仕事は,内閣告示・内閣訓令という形で公にされているが,その訓令というのは,私の理解するところでは,政府部内に対する訓令であって,国民を直接縛ることにはなっていない。「常用漢字」のときも「仮名遣い」のときも,私自身はそう思っていたが,今度の場合もこれは政府部内を縛るものであって,直接に国民ないし教育を縛るものではないと思っている。けれども,法律の世界や公用文の世界をこれが縛るとすれば,それが模範になって,そこへ向かって,一般社会,報道,マスコミの世界もそれに応じてくださるだろう。そしてそれに従って教育もその標準をまず立てることになるだろうというふうに考えている。これは私の意見である。
 そこで,教育の方では,さっき柳下先生が言われたように,教科書の面ではある一つの統一が必要なのではないか。ただし,それは,どうしてもこれでなければ大学へ入れませんよということではないことにしなければならないだろう,というふうに感じている。

村松(剛)委員

 今まで実際に国語審議会がやってきたことに私どもは大きに縛られている。早い話が,幾何学の図形で「梯(てい)形」の「梯」の字がなくなって,これはいつの間にか「台形」になった。数学のファンクション,昔は「函(かん)数」という字であったが,今は「関数」になっている。「探偵(てい)小説」は「探偵」がなくなったので,「推理小説」になっている。これで縛られないなんていうのはとんでもない話で,大きに縛られている。
 そういうことは我々やりたくないということなんであって,実際に内閣告示が出れば,教育の場合も変わるし,学界にも影響が出てくる。外来語に関しても,先ほど地名は外国語である,だから地名については外国語,現地読み──私もそれがいいと思うが,ただ,非常に大きな問題が出てくる。
 例えば,ポルトガルの首都は何と読むのか。英語読みで今までの「リスボン」で通すのか,それとも現地読みの「リスボーア」にするのか。ベルギーの町の名前は全部二通りの読み方がある。それは一体どっちに統一するのか。統一なんかできっこないのであって,スイスに至っては,三つか四つずつ町の名前がある。これを統一するというのは,やはり外国語についても不可能である。相当程度余裕のあるものにしなければならないだろう。そういう意味での選択肢を残しておいた方がいいということで,この前提については,私は江藤委員の御意見に賛成である。

林(大)委員

 さっき私は自分の意見を申し述べたが,私も委員会全体をどっちへ持っていくというようなつもりは決してないので,委員会での御意見がどういうふうになっていくのか,非常に楽しみにしている。それから,標準ということを申したが,それは必ずしも一つの形ということではなかろうと私も思っている。幅のあるものになるかもしれないし,あるものは一つに決められるかもしれないし,あるものはそうはいかないかもしれない。それをどのようにするかということが,今後,委員会で御相談いただくことであると私は理解している。私は急進的に一つにすることを主張しているかのごとく受け取られるように,先ほど申したかもしれないので,ちょっと弁解をさせていただく。

坂本会長

 ほかに御意見はないか……。今日は大変貴重な御意見を承って,感謝している。4月から動き出す外来語表記委員会の今後の御審議の中で,今日の御意見などを基に議論を更に重ねていただきたいと思う。
 では,次回の総会は,先ほどの日程にあるように,7月中に開催を予定することとし,日時・場所などは改めて御連絡申し上げる。
 本日は,これをもって閉会とする。

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