国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 意見交換1

坂本会長

 次に,議題の2,「現代の国語をめぐる諸問題について(意見交換)」であるが, きょうは初めての会合であるし,時間も十分残っている。総会というのは,冒頭申し上げたように,そう何回もというわけにもいきかねるので,ぜひお一人お一人から御意見をいただきたいと思う。よろしく御発言をお願いしたい。

市川委員

 私も新米であり,これまでの文脈から外れたことを申し上げるかもしれないが,一言申し上げたいと思う。既に大臣のお話,あるいは長官のお話の中に出ていることであるけれども,私の認識と同じなのか,違うところがあるのか,よく分からないので,この際申し上げておきたい。
 大きくは二つあって,一つは国際化の問題,もう一つは,嫌な言葉であるが,情報化という問題である。
 先ほど日本に来られた外国人の日本語教育の問題という取り上げ方がされたけれども,私,国際化の問題はもう少し広い枠組みで考えなければならないと考えている。
 第1の問題は,日本語がいろんな意味で国際語になりつつあるという事実である。一つは,中西委員もいらっしゃるが, 日本文化に関連した学術の世界においては,少なくとも日本語が世界におけるある種の意味を持つソサエティーを形成している。それだけではなく,我が国における科学技術のレベルの上昇とともに,日本語を学び,それを通じて我が国のいろんなものを受容していこうという動きが,世界中に広がっているわけである。学術の世界だけでなしに,私にはよく分からないが,恐らく外交,政治,行政の世界,更にビジネスの世界においても同じことが起こっているのだろうと思う。
 後でお教えいただきたいと思うが,私には「日本語」と「国語」の区別がついていないので,したがって,「国語」という言葉を使わないで「日本語」と言わせていただくけれども,日本語というものが日本人だけのものではなくなってきたという事実があると思う。また「日本人」の定義も難しいのだが,仮に37万平方キロの島国の中に3代以上生きている人たちというふうにでも定義させていただくと,そういう人たちのためだけのものではないという気がする。
 立場を変えてみると,すぐ分かると思うが,私も今まで研究職にいたので,下手な英語ながら,英語を使う機会がたくさんあり,英語で論文を発表するというようなことは日常茶飯事としてやってきたわけである。このときに,私の書いた英文がイギリスにあるイングリッシュの審議会か何かで,もはやそういう単語を使ってはならぬと言われると,大変なことになる。そういう意味で,世界語になった言葉というものは,イギリスにおけるピジンイングリッシュではないが,ある種のゆれについて寛容でなければならない。あるいは寛容でないまでも,規範等を動かすときに,それが世界語であるという認識を持った上で動かす必要があるんではないかと考える。
 そういうことで,今や日本語が国際語であるという観点で物を考えるというのが第1点である。
 2番目は,同じ国際的広がりにかかわるのであるけれども, 日本語教育を,殊に外国において強力に推進する必要があるのではないかという気がする。
 先ほど申し上げた理由によって,世界中で,日本語を学ぼうという人たちの数が急速に増えてきている。それにはそれなりの日本からの支援もあるとは思うが,少なくとも私が外国において接している何人かの人が異口同音に漏らすことは,要するに,日本語の先生が足りない,日本人の方をお呼びしても,それが日本語の先生であるとは限らないということである。これは角が立つせりふになるかもしれないが,文学の先生であるとか,そういう方は大勢いらっしゃる。しかし,言語としての日本語をきちっとおやりになって教えられるような方に余りお見えいただけない。これはたまたま偶然お見えいただけないのか,我が国の日本語というものの研究,社会の育ち方がそうなっているのか,私には門外漢なのでよく分からないが,そういう事実がある。
 さらに,私は,国としての積極的な投資が,少なくとも他の国に比べて少ないのではないかという気がする。例えばドイツであると,皆さん御案内のとおり,ゲーテ・インスティチュートというものが世界各地に展開していて,ドイツ語を世界の中に広めていく努力をしている。日本はそれに見合うような資源投入というものが十分でないような気がする。したがって,国語の教育,あるいは日本語の教育に絡んで,そこの点は十分に御審議いただく必要があるんではないか。殊に日本語学と言うのか,日本語の教師の養成ということは,かなり緊急を要するものではないかという気がする。

市川委員

 3番目が情報化である。これは三次委員もいらっしゃるので,私などよりは詳しい御意見を御展開いただけると思うけれども,御存じのとおり,文章の作成だけではなしに,読み取り,あるいは理解,さらには翻訳等々,あらゆる局面で日本語の機械処理が進んでいるわけである。
 そうすると,それを支えているソフトウェア,さらにはソフトウェアが焼き付いた格好になっているハードウェアというものが,非常に膨大になってくる。
 膨大という意味は三つあって,一つは,そういうものを開発するための努力,資源投資というものが非常に大きくなっているということ,二つ目はそういうものを支えるようなソフトウェアの種類もたくさん出てくるということ,さらに三つ目にはそういうものが,市場において非常に大きな量で流通して,個々の人が使うようになっているということである。
 逆に言うと,我々が日本語をいじくると,そういう大きな部分に手を付けたことになるわけである。これはかなり大きな負荷であって,我々はそういう社会的コストを背負うわけである。言い換えると,日本語を何らかの意味でいじくるということは,我々が,従来だと,国語の辞書を少々書き換えて,鉛筆なめなめ文章を書くときにちょっと記入すればいい程度だったのが,現在ではものすごく大きな社会的コストを伴うものになるという認識が要ると思う。
 同時に,この面にも国際化の波が来ていて,例えば機械処理の上で,漢字の表記の問題,記号化,計算機の上のコード化の問題にしても,我が国と中国,台湾,さらには他の国で使う漢字のコード体系が現在ずれてきているけれども,その辺の見直しの問題が出てきている。そういうコード体系の国際的調整が進みつつあるわけだが,御存じのとおり,国際的調整と称するものは必ずある種のヘゲモニー争いが伴っているわけで,そういうところにも実は影響を持ってくるような仕事なわけである。
 そういうことで,機械処理が進み,しかも国際化しているという状況の中で,我々は日本語を考えなければならないということがあるかと思う。以上,3点申し上げた。

坂本会長

 今のお話を聞いていると,大変なことだなともう一遍思い直すわけである。
 今のお話の中でちょっと御質問申し上げたいのだが,今,日本語が――「国語」か「日本語」かの議論は別として――国際化して,従来の我々国語審議会を中心とする, この問題について一つの見識を持っていると思われる方々の理解と,国際化した日本語との間に,大げさに言えば,逆に受け取られているというような,重大なことも含まれるというふうに理解するのか。

市川委員

 今の御質問に関しては,私はマクロな立場でお答えできるような経験とか知識は持っていない。ただ,私自身,留学生をかなりの数抱えたこともあるし,外ヘ出掛けていって話をしたこともある。
 そうしたときに,これは私の怠慢を文字どおり暴露するわけだが,留学生の方々が日本へ来て,国語か日本語か,そこのところは私よく分からないが,その教育をお受けになる。それは当然のことながら,多分国語審議会がこれまでいろいろ御検討になってきたものに沿ったきちっとした教育を受けられているのだろうと思う。同時に,多分それは現在の日本の若者が受けている教育と同じなのかもしれないけれども,私みたいな人間,要するに,日本語というのは論文を書くためとか,そんなことにしか使ってない人間から見ると,かなり細かいことを気にして書かなければいけない状況に追い込まれているわけである。
 例えば,私なんかは「木」という字は下をはねたり適当にやるのだが,留学生の一人に,そこははねてはいけないのだと言われた。ああ,そういうものかと教わったりするわけであるが,そういう変動も許さないような形にするのが,先ほどの中西(進)委員のお話のように,改善の方向なのかどうかという問題であって,私のような人間からすると,はねようがはねまいが,どうでもいいじゃないかという感じがするわけである。
 そういうことで,多分国語審議会との関連で行くと,外国人の方がそのときそのときの国語審議会の考え方にぴったりした教育を受けているのだろうと思う。
 ただ,問題は,その方々がいったん日本を離れて,外国に戻って,そこでいろんな日本語を使ってくるということになると,もはや国語審議会のコントロール,国語の統制というのが昭和10年の審議事項に入っていたけれども,少なくとも日本の統制を離れた世界に行ってしまうわけである。しかし,彼らが使っているのは日本語なのだろう。どういう日本語を使って我々は話し合いをしなければならないのか,彼ら同士もまた話し合いをしなければならないのだろうか。そういうことである。お答えにならないかもしれないが。

西尾委員

 私も新参者で,どのように国語審議会が運営されていくのかよく存じ上げないのに,早速に発言させていただいて,恐縮である。
 私も日本語教育に長い間携わってきたが,ただいまもお話にあったように,現在はいろいろな外国人が,いろいろな動機といろいろな目的を持って,いろいろな地域で日本語を学習し,日本語を使う時代になっていると思う。
 先ほどおっしゃったように,もはや日本語は日本人だけのものではなくて,外国人,異民族の中で意思伝達をするときの道具としてもその役割を持ってきているというふうに私は受け止めている。その中で私どものような外国人に日本語を教育する立場の者は,日本語というものを常に一つの言語体系として,つまり,自分で使っているものに対して全く無意識に使っているということでなく,常に日本語を意識して日本語を見詰めてきたつもりである。
 そのような観点から申し上げると,今は伝達の手段として,つまり機能として,日本語があるカをつけていかなければならない時ではないかと思う。例えば,国語教育の中でもう少し日本語の働きというものを分析して学習できるように,日本の義務教育の国語教育の中で取り上げていけないものだろうかということが一つ考えられる。
 それから,ただいまもお話にあったけれども,日本語というものが今社会的にいろいろな場面で使われている姿を見ると,的確な説明,あるいは正確な伝達とはほど遠いところで,少しファッション化していたり,あるいは情緒的なところが強調されていたりして,何をだれにどう伝えるのかという,一番根本の言葉の役割というものから離れてきているように思う。したがって,このごろ例えば会社の説明書とか,機械の使い方と,マニュアルのようなものが非常に氾(はん)濫しているが,できればこのような文章が,もう少し的確な言葉の機能,役割を載せて書いていけるように,書き言葉にしても話し言葉にしても,もう少し社会的にその点を反省する時代だと思うので,国語審議会の中でどう扱っていただけるのか分からないけれども,その点を私は期待して,これからも発言させていただきたいと思っている。

坂本会長

 これも大変重要な御発言かと思うので,今後の運営の中で議論を推し進めていくということで御了解をいただきたいと思う。
 大分国際的なテーマが中心になっているようだけれども……。実は外来語の表記の審議のときに,外来語の表記に日本の仮名を使う場合,Vの表記は「バ」にするか,「ヴァ」にするか。従来は「バ」になっていたけれども,できるだけ原音に近づける表記ということから,「ヴァ」という方向も併せて認めることになったわけである。たまたま日本語の問題に非常に関心をお持ちになっている外国人の方々がそれを見ると,日本語で「バイオリン」を表記する場合に,どうして「バ」の表記と「ヴァ」の表記があるのか分からない,従来は「バ」にしていたのに,今度は「ヴァ」が出てきたのはどういうわけかと,逆に外国の方から質問を受けて,説明に窮するところがなくもなかったのだけれども,しかし,私の過去の経験から言うと,音楽に携わる方々は「バイオリン」を仮名表記するのに「バ」ではどうしても承知しない。「べートーベン」はやっぱり「ヴェン」でないと満足できないというような,そういう傾向なしとしないので,「バ」と決めても,そういう方々の場合は「ヴァ」にお書きになるということなので,そこら辺が議論としてはなかなか難しいところではないかと思う。
 多少冗談めかして申し上げて恐縮であるけれども,そんなことで日本語というのはある意味で難しいなという気がする。

俵委員

 私も今回から参加させていただくが,今お話を伺っていて感じたのは,国際化ということで外国の人が日本語を使うときの日本語というものと,日本人である私たちが使う日本語というのは,同じ土俵では語れないのではないかと感じる。
 先ほど西尾委員からお話があった,何をだれにどう伝えるのかという根本的な伝達手段,基本としての日本語ということを考えたときには,それこそ山川委員の言葉にあった美しい,正しい――正しいということがとても大切になると思う。そういう伝達手段として日本語を外国の人が勉強する場合は,「バ」と「ヴ」の使い分けは,ある意味で無駄なことと目に映るかもしれないと思う。ただ,日本人である私たちが日本語を使う場合は,「バ」と「ヴ」を使い分けるセンスというのは非常にすばらしいものだと思うし,ファッション化というのも,マイナスの意味ばかりではなくて,魅力ある日本語ということを考える上では,非常に大切なことだと思う。
 だから,日本語というものをこれから考えていくときに,日本人の文化を背負った日本人の私たちが表現手段として使う日本語というものと,もう一方で,国際化の中で外国の人が日本語を学ぶための分かりやすい正しい日本語を身につけるための視点というか,そういう二つの視点を私は分けて考えた方がいいのではないかと感じる。
 樹木に例えるならば,幹の部分はまず一番大事なので,外国の人にも日本語の幹の部分はしっかり理解してもらわなくてはいけないと思うけれども,私たち日本語を表現の手段,あるいは文学ということまで絡めて使っていこうと思う日本人としては,やはり枝葉の部分を切り捨てるのではなくて,枝葉の部分も一層豊かにしていくような視点,その二つの視点がごちゃごちゃにならないで,二つの視点で論議されていったらいいなと感じた。

石井委員

 私は居残り左平次のように,18期から居残りを命じられているわけだけれども,18期の最後の総会でも,美しく正しい日本語ということについてこれからの審議会は検討しなければいけないのではないかというようなお話が出た。しかし,正しく美しいというのは何を基準にするか,人によって,何が正しくて何が美しいかというのは,非常にゆれている。
 例えば,「金魚にえさを上げる」という表現は,私は不快なんだけれども,既に委員の先生の中にはもう許容していいのではないかという御意見の方もいらっしゃって,何が美しいか,何が正しいかというのは非常に難しくなってきた。それだけに議論の面白さがこれから生まれるのではないかと私は期待している。
 雑談風に言わせていただくと,おととし,私,中国の東北部,旧満州であるが,ある取材に参った。中国とソ連と北朝鮮の国境にある鴨緑江際に延吉という町があるのだけれども,その町で全く偶然に残留日本人女性にお会いした。終戦のときにだんなさんがシベリアに連れていかれて,きれいな人だったので,現地で見込まれて,現地の人と結婚したという方であった。延吉という町には日本人は全然いないのだが,その町で全く偶然にお会いした七十を超えた宮部さんというその女性,お顔もきれいだったが,そのしゃべる日本語の美しさに私はうっとりしてしまった。
 戦前の由緒正しい,折り目のきちっとした日本語に私は驚いて,「宮部さん,なぜそんなにきれいな日本語をしゃべれるのですか。」と伺うと,宮部さんは,終戦直後にある日本人の方から手紙をもらって,その手紙を繰り返し繰り返し読み,繰り返し繰り返し写して,日本語を忘れないように務めてきたと言われた。そしてもうぼろぼろの手紙を見せてくれたのだけれども,私はそこで私にとっての美しい,本来の由緒正しい日本語を見せられてびっくりしたのである。
 我々はなぜこのような美しい言葉を今失ってしまったんだろうかと考えると,例えば近代詩,新しい詩歌に愛唱性がなくなってしまったとか,学校で朗読とか朗誦とかいうことがなくなってしまったからではないかという気がしてならない。
 そういう意味では,今期の国語審議会に,幸田弘子委員のように舞台で一筋に朗誦なさってきた方,新しい私たちの調べを生みつつある俵さんのような方,きっちりした日本語をしゃべってくださる山川さんのような方を委員にした名人事に私は敬服しているわけだが,これから新しく美しい日本語は何かということを活発に論議していただきたいということをお願いする次第である。 

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