国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 意見交換2

坂本会長

 今せっかく御指名があったので,幸田委員,いかがか。語り部として,日本語について何か御発言はないか。

幸田委員

 全く新参者で何も分からないで出てまいったので,御指名いただいて大変上がっている。
 昨日も私『源氏物語』の原文の朗読をカセットに入れるために遅くまで仕事をして帰ってきたのだが,日本語を声を出して読むのが当然だったころの日本語の美しさを,私は読めば読むほど体で感じている。私は中学校へよく参るけれども,小学生も私の朗読を聞いてくださる。中学1年生,小学6年生ぐらいの方が,今では古典となってしまったような近代文学などを,日本語は何と美しいのだろうと聞いてくださる。そういうことを先生たちが逆にもっと認識してくださっていいんじゃないか。
 難しいから小さい人には読めないのだということではなくて,美しい,私たちに残された大変な財産,古典を,声を出して読む喜び,そういうものを小さいときから知る,短い文章でも結構だから,楽しんでみんなで味わう,体で文章を読む,体で日本語の美しさを感じるということは,大変に意味のあることではないかと,私は小さい方たちにも朗読を聞いていただき,その反応を確かめて,感じるわけである。
 だから,学校教育の中で先生たちが,長い時間でなくとも,そういう言葉の美しさ,リズム,響きなんかを古典から体で学ぶ時間をもっと持つようにしていただきたいなと思っている。これは私の長い間の夢である。

野元委員

 先ほど市川委員から,日本語はきちっと国語審議会で決まっていて,それに基づいて云々というお話があったけれども,本当のことを言えば,そんなにきっちりしたものは国語審議会は作っていないだろうと思う。ただ,作ろうとしたことは事実であって, この資料5の「答申・建議集」を見ると,目次のところで申すと,8の「国語問題要領」とか,13の「これからの敬語」,18の「標準語のために」,20の「話しことばの改善について」,25の「語形の「ゆれ」について」,26の「国語の改善について」,27の「発音の「ゆれ」について」,この辺のことがもう少し審議され,決定されたならば,きちっとしたものができたのではないかと思う。
 ところが,こういうものがあるということを忘れていて,前期の最後のころ,私は国語審議会は表記法審議会だったという批判をしたけれども,こういうものがあったので,その批評は撤回するとしても,昭和41年からは確かに表記法審議会であったということが言えるわけである。
 だから,この新しい国語審議会になったならば,昭和41年より前にこういうものがあるので,この上に立って審議していただきたいと思う。ただ,その前は,恐らくいろいろなことを制限的とか強制的とか,そういう精神があったんじゃないかと思うが,昭和41年以後は,先ほど紹介があったように,「目安」とか「よりどころ」ということがこの審議会の主な精神になっているので,内容は41年より前,精神は41年以後ということで,今後の審議をしていただいたらいいんじゃないだろうかと思う。
 「えさを上げる」というのは,容認派というのは私のことであって,私は常に新しい傾向を認めてしまうという考え方に立っている。今後もそういうことになるかと思う。
 それから,国際化ということに関して申すと,御存じかどうか,私は簡約日本語というものを提唱していて,これが新聞に出た途端に賛否の嵐を巻き起こして,それで賛否相半ばしたと言えば格好はよろしいわけであるが,実のところは,反対論の方が多いということであったが,それにめげず,日本語の国際化ということを視野に置きながら,この簡約日本語を作るということを今もやっている。
 こういう立場から今期も務めさせていただきたいと思っているので,どうぞよろしくお願い申し上げる。

中西(朗)委員

 非常に現場的な発想になって申し訳ないけれども,私は現在中学校の校長をやっているので,そういうことからこの問題について考えさせていただきたいと思っている。
 現在,中学生同士が話している言葉を聞いていると,全然理解できない場面が非常に多くある。一体何を言っているんだろうか,本当にこの子供たちは日本人なんだろうかというようなことを時々感ずるぐらいに,そういう乱れというのが大きくなってきているわけである。
 その辺もいろんな条件があるかと思うが,一つは言語環境の乱れというものが非常に大きくあるのではないかという感じがする。教師自体の言葉の乱れが非常に多い面があるかもしれない。また,子供たちの表現力が最近低下してきているなという感じも強くしてならない。これをどうやって高めていくのかということも大きな課題だろうと思っている。
 現在の教科書等を見ても,私自身,楽しいというか,魅力ある国語の教科書という感じがしないのである。非常に分析的で,記憶的なものが中心になってきてしまって,幸田委員がおっしゃったような日本語としてのすばらしい言葉を子供たちが実際に学んでいるのかどうかということを,つくづく感じるわけである。その辺の教育の改善の質,方向というものがあるのではないか,そういう感じを現在持っているところである。

斎賀委員

 私の感想を申す前に,先ほど市川委員がお引きになった例でちょっと誤解がおありなのではないかと思うのだが,皆さんのお手元にある資料4の「国語関係訓令・告示集」の24ぺージをお開きいただくと,その真ん中辺に「木」という字が出ている。左側は明朝体の活字で,線の右側に筆写文字としての形があって,国語審議会はこれを許容しているわけである。これには「明朝体活字と筆写の楷(かい)書との関係について」というタイトルがついているが,要するに,活字のデザインと筆写のデザインとは違いがあって当然である,そういう考え方を56年の「常用漢字表」を出すときに参考として示したわけである。
 ただし,20年代から30年代にかけて,全国の小中学校の現場の先生方の誤解があって,この「木」に限らないが,ほかにもそういう例がたくさんある。一番下の「女」の二画目の頭が横線から出ているか出ていないかなどというのもあるが,はねてはいけないとか,そういうのを非常に厳しく現場で指導し過ぎたことが,戦後子供が漢字嫌いになる原因の一つになったのではないかと,私どもはそう評価している。これがもし縦棒のはねが右の方を向いていれば間違いといってもいいかもしれないが,手で書くときに,2画目から3画目に移るときには,自然の勢いとしてはねが出るのは当然だ,そういうことを国語審議会としては考えていたわけである。
 それから,私は話し言葉には全く自信がないので,書き言葉の問題について一つ取り上げてみたいと思うが,先ほど長官から御紹介があった25年の「国語問題要領」,これは当時「国語白書」と言われたものである。実は私ゆうべ書棚をひっかき回してようやく見つけて,もうぼろぼろで,すぐにも破れそうなものなのだが,これを読み直して感じたことは,先ほど市川委員のおっしゃった日本語の国際化に関する問題,あるいは言語情報処理に関する問題,こういうものに一切触れていない,40年という歳月を非常に強く感じたわけである。
 先ほどお示しになったような問題点については,今後の審議会で十分議論をして,何らかの見通しをつけなくてはいけない大事なことだと思う。
 ただ,それと同時に振り返ってみることも必要なのではないか。例えば昭和21年の「当用漢字表」「現代かなづかい」に始まって,戦後の国語施策がいろいろとられてきたわけであるが,この四十数年の間に政府のとった国語施策というものが,国民の言語生活の中においてどれだけの功を上げたか,罪があったか,この点をはっきり評価したものを,もし「国語白書」のようなものを作るとすれば,そこに盛り込むことは欠かしてはならないと私は考えている。

斎賀委員

 功の面はたくさんあるが,これは今回省略して,罪で最近,私個人的に気になっているのは,例の証券の問題で,きょうの新聞を見ても,どの新聞も一面に大きく「補てん」と書いてある。あれが私は非常に気になる。新聞が「常用漢字表」を守ろうとすると,ああいうことになるが,私としては「補てん」と漢字で書いて,振り仮名を付けておいた方がまだしもいいのではないかと思うのだが,現在の新聞の印刷条件を変えないと,新聞は振り仮名が使えないわけである。
 ちょっと余談になるかもしれないが,ここ30年間,小学校の国語教科書は交ぜ書きのオンパレードだった。具体的に例を挙げると,「ゆ快」「む中」,それが私長年気になっていたのだが,ようやく小学校教育の方では,平成元年3月の指導要領の改正で,学年別漢字配当表とか振り仮名の厳しい制限を撤廃して,もっと弾力的にやるべきだという方針を打ち出した。したがって,来年の4月から使われる新しい国語教料書では,今の「む中」「ゆ快」にしても,漢字で書いて振り仮名を付ける教科書が多くなってくるだろうと期待しているわけである。
 このままでいくと,新聞の交ぜ書きだけがずっと残っていくわけだが,こういう漢語の交ぜ書きは,私の知るところでは,戦前はなかったと断言していいんじゃないか。これは「当用漢字表」「常用漢字表」の漢字整理というものが生んだ戦後の落とし子だと私は思う。
 こういう交ぜ書きに対して,審議会は一体どういうふうに考えるかということも,一つ注意しておかなくてはいけない問題ではないかと私考えている。
 もう一つ,先ほど山川委員のお話で,審議会の委員が地方ヘ出掛けていって地方の人たちと話し合うべきだということだが,この趣旨には賛成であるが,なかなか難しいことだと思う。実は,国語問題要領の73ぺージに,昭和23年に行った「日本人の読み書き能力」という調査のことが引用されている。それ以後,我々現代人の読み書き能力,あるいは国語に対する意識についての全国民的な各年齢層にわたる意識,能力の実態は全く分からない。こういう調査ができない。プライバシーという観念が普及したから,今後やろうとしてもできないかもしれない。
 しかし,大事なことは,現代の日本人が各年代ごとにどういう意識,どういう能力を持っているかということの実態調査というか,国勢調査的に5年置きとか10年置きにやれれば一番望ましいのだろうが,それは無理だとしても,何らかの形で国民の国語や文字に対する意識,能力の実情を探る努力は,国語審議会として考えてもいいんじゃないかと思う。実際の調査そのものは審議会ではできないから,総理府の世論調査にお願いするとか,そういう方法は後で考えればいいと思うけれども,私たちが現在の問題について考えるときの客観的な資料として,そういう実情のデータを何らかの形で集めたいと私は思っている。
  最近,あることが契機になって新聞社とか放送局の方がよく私のところに来られて,そういう方は,現代人は文字能力,言語能力が落ちているという私の答えを引き出そうとなさるのだけれども,私は,それはできない,比べるデータがないじゃないかということをしょっちゅう申し上げている。
 昭和23年当時の日本人の読み書き,これは戦後の一種の混乱期の調査であるから,今やれば,また違った結果が出るのではないかと思うけれども,そういうことも考えて,国民の国語力等の実態調査,実情調査というものを考えていけばいいのではないかということを今感想として持っている。

加藤委員

 極めて簡単に3点だけ,将来の議題になり得るかどうか分からないが,意見を申し上げる。
 いずれもかなりラジカルなことなので,お許しいただきたいと思うが,私,野元所長,水谷所長と二代にわたって国立国語研究所の評議員を命ぜられて,大変出席が悪くて申し訳なかったが,そこでは「国立国語研究所」という名称がふさわしいか否か,これは「日本語研究所」にすべきであるという御発言がしばしばあった。その都度いろいろな理由があって,そのままになっているが,これも「国語審議会」でよろしいのかということが1点である。
 大変根本的なことなので,川村長官以下,また後でしかられるかと思うけれども,市川委員の最初の御発言があったので,国語研究所の例にひそんで, ちょっとそれを思い出した。
 2番目は,今いただいた「国語審議会答申・建議集」というのを拝見して,なかなか立派なことが今まで行われているわけだが,その答申,建議の文字の書き方に全く一貫性がないということに愕(がく)然とした。
 例えば80ページをお開きいただくと,昭和26年10月3日付けで「公用文作成の要領」とあって,「もくじ」と平仮名で書いてある。「まえがき」と書いてあって,右には「橋梁(りょう)」と言わず「橋」と言おう,「堅持する」でなく「かたく守る」と,なかなかいいことを言っていらっしゃるので,私は好きなのだけれども,ところが,90ぺージ,翌27年の4月14日に出された「これからの敬語」を見ると,「目次」と漢字になっている。
 他の省庁の文書であるならば結構かと思うけれども,継続性のある一つの審議会が,ある表記を,時には「小さい」というのが平仮名になり,時には漢字になるというのは,一体いかがなことであろうか。少なくともこれは将来外に出るだけではなくて,重要な記録となるわけであるから,今後のこうした答申・建議集の表記は,もちろん時代とともに変わるだろうけれども,わずか6か月後に目次が平仮名になったり,漢字になったりというようなことは,少なくとも余り望ましくないことだというのが第2点である。
 第3点は,今原稿を書いて,ある新聞に出しているので,ここで申し上げると多少著作権に触れるのであるが,報道機関の方々が非常にたくさんいらっしゃるので申し上げるが,言葉の遠慮現象というのに少し注目する必要があるのではないかということである。例えば,いわゆる差別用語というものを私はあえてここで問題にしようとは思わない。しかし,数年前のことであるけれども,ある雑誌の対談で「浮浪者」という言葉を使ったところ,早速抗議があった。それでは「浮浪者」は何と表現したらいいのかと言ったら,「余儀なく路上生活を強いられている人」と書けと。そうすると,「余儀なく路上生活を強いられている人」というのを1枚の原稿の中に3回ぐらい書くことになり,なかなか読みづらくなる。
 最近の例で申すと,これは差別用語でも何でもないのだが,「ノンバンク」というのがやたらに出てくる。「ノンバンク」というのはどういうものか,私は疎くてよく知らなかったのだが,聞いてみると,年間29%ぐらいの利息を取ってお金を貸す人たちのことであるらしい。昔はこういう人を「高利貸し」と言った。「高利貸し」と言ってはいけないというのは一体どういうわけなのか。
 それから,やたらに科学技術用語に乗る人がいて,「雲仙普賢岳の崩落の危険が予想される。」というのも,普通は「崩れ落ちる」と言うのだが,「崩落」という言葉を火山学者が使うと,みんな「崩落」「崩落」になる。大変言論不自由な世の中になってきた。
 これは我々一文筆業者ががたがた言っても弱いことなのだが,新聞並びに放送の遠慮――これは日本だけではないので,社会学的には極めて興味深いことである。先々週のタイムによると,アメリカでは,「不法入国者(イリーガル・エイリアン)」という言葉が多分いけないということになって,何と言うのかというと,「書類不備の労慟者(アンドキュメンテッド・ワーカー)」だということである。
 だから,これは世界的現象として面白いと思うのだが,面白がっているだけでは困るので,そうした言葉の遠慮問題の限度について,とりわけ報道機関の方々がたくさんいらっしゃるから,勉強させていただきたいと思う。

坂本会長

 これはなかなか頭の痛い,重要な御発言だと思う。

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