国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 意見交換1

坂本会長

 今,御説明等があった中間報告については,私の見聞の範囲でも,そう手厳しい反対意見というようなものはなかったんではなかろうか。国語の現状,現代の社会において国語をめぐって生じている問題点について,かなり的を射たというか,そういう指摘あるいは問題提起があったものとして世間では受け止めているのではないだろうか,そうも考えられるわけである。総理府の世論調査の結果もかなり参考になるものだと思われる。これは今の報告を伺った上での私見である。
 したがって,今後どのように審議を進めていくかという点については,来年の我々の任期終了までに最終的な報告をまとめなくてはならないので,やはり問題点整理委員会の委員のお手を煩わすことになって,報告案を起草していただくことになると思う。
 前回の総会でもいろいろ御注文が出されたように,総会全体として共通理解を深めていくというような形で,最終的な報告にふさわしい文章にまとめ上げることが必要だと思われるので,本日も,この報告の内容についてお気付きの点などがあれば十分に伺わせていただきたい。こういうことで, どうぞ積極的に御発言をお願いしたい。
 ともかく国語問題は,良いにつけ,悪いにつけ,マスコミでもかなり取り上げてくださっているようだし,今のデータでも,国語についての関心を高めなければいけないという姿勢が,前回に増して高いパーセンテージになっているという状況でもあるので,この際,是非ひとつ御発言をいただけたらと思う。

山川委員

 音声言語の教育に関する指導資料について感じたことだが,読み書き中心だった国語教育が聞く話すということにかなり力を入れるようになったということは,大変喜ばしいことだと思い,大歓迎する。
 私ども40年ぐらい前にアナウンサーになった時に,研修所に入ると,先輩のアナウンサーが「おまえは早口だから,もっとゆっくりしゃべれ。」と言う。ゆっくりしゃべるやつがいると,「おまえ,ぐずぐずしているな,早くしゃべれ。」という教育をされて,早い人は遅くなり,遅い人は早くなるという非常に画一的な教育の結果,NHK調と世間で言われる調子が出来上がって,NHKのアナウンサーはみんな同じじゃないかと言われるようになったわけだが,昨今は個性を大変重視して,早い人はもっと早くしゃべって,すばらしいスポーツアナウンサーになれとか,ゆっくりした人はもっとゆっくりしゃべって,お彼岸の中継でもやれとか,個性を尊重する教育をされるようになった。
 今度発足する一つの諮問機関みたいなものが,話し言葉について余り画一的な教育をするようになると,これは非常に危険だと思う。私ども人様が書いた文章を読んだときの印象と,その方に直接お目にかかってお話を伺ったときの印象というのは随分違って,文章を読んで随分堅い人だなと思っておった人が,実際にお会いしてみると,非常に柔らかな人だったりする。そういう印象の違いを私どもインタビューの中でよく経験するのであるが,実際に,話し言葉とかしゃべり方とかいうのは非常に個性があって,その個性が良し悪(あ)しというもの,あるいは楽しさ,つまならなさを左右するということである。そのことにかなり注意を払わないと,画一的な話す,聞くということでは,危ないと思う。
 これは私どもの体験を通して痛切に感じるので,一言申し添えさせていただいた。

坂本会長

 「音声言語の教育に関する指導資料の作成について」を見ると,委員の中にはNHKのアナウンサーの方も,幸田委員のような方もおいでになるので,そういう点はひとつ心配りしていただけるのではないだろうかとは思う。
 先日,「ら抜き」の言葉遣いについて朝日新聞で取り上げられて,本日は御欠席だが,俵委員が最後に一言見解をお述べになっているのを読んだら,文章で書くときのことを考えたら,とても「食べれる」とか,「着れる」とか,「ら抜き」では書く気にならないけれども,実際に「ら抜き」で言っている方の言葉を音声で聞いた場合には,文章と比較するほど耳障りではなくて,言い方が難しいんだけれども,けしからんということでもなさそうに受け取れるようなコメントが付いていたが,私なんかは,私見を述べて恐縮だけれども,「ら抜き」は聞いていて閉口する。だから,そういう年代的な差があって,書く場合と言う場合との判断はそう一概に言えないのかなというように,多少弱気になっているところである。

中西(進)委員

 中間報告ではなくて,もう一つの総理府の調査の方についてでよろしいか。
 この世論調査をどういうふうに受け取るかということが一つ問題ではないか。例えば,現代の言葉は乱れていると思うというのが圧倒的に多かったわけだが,しかし,それも内訳を見てみると,割合高年齢層に「乱れている」というのが多くて,若年層には,例えば「ら抜き言葉」などはそれほどでもないといったような実態がある。このことは,ある程度の言語習慣を持った人たちにとっては,従来の感触から言って乱れていると思われるけれども,新しくそういう言葉の渦の中に入ってきた人たちは,それを決して乱れているとは思わないということでもある。
 だから,年齢別にしたときに,乱れていると思わないというのが若年層に多いということは,乱れていないということにもなるわけだから,乱れているから何とかしようというふうな平たい感触でとらえることについては,どうだろうかという気がする。
 とかく,こういう文化に対する発言というのは,困るとか乱れているとか言った方が格好いいということが一般的にあると思う。そういう国を憂うる精神というのは大変いいんだけれども,素直にこれを認めて,その流れの中で何がいいのかということを受け取るということは,私はもっと大事じゃないかという気がするので,この世論調査をどういうふうに受け取るかという受け取り方がちょっと気になった。そういうことであるから,それを私なりに正しく受け取りたいなということを申し上げたいと思うわけである。

坂本会長

 今の中西委員の御発言に対する御意見でも結構だし,また別の御発言でも結構である。確かにこの世論調査の結果の受け止め方は大事なことかと思うので,結論としては,我々は見識を問われるということにもなるかと思うが,いかがなものか。
 この世論調査の中で,「ら抜き」のことだけではなしに,敬語の問題も,日本語の場合は非常に難しいなと私自身も常々思っているが,敬語は必要だという人が圧倒的に多いという実態から考えて,これはやはり無視できないんじゃないだろうかというふうにも思う。

中西(進)委員

 その点も,私,基本的には賛成である。つまり,敬語は美しい日本の言語習慣だと思う。日曜日の夜8時のテレビで言うと,「美しき流れ,変えません。」みたいなところで,それは必要だと思うのだけれども,それでは,その敬語が昔どおりの言い方の中にしかないのか。敬語というのは,尊敬の気持ち,親愛の気持ちだから,むしろ身体に属する言語ですらあるわけだ。そういうものが乱れているとか,必要であるとかいうことをどういうふうに理解していくか,そこが私は一番気になるところで,昔のままを踏襲しようということではないんじゃないかということなのである。もちろん会長もお分かりのとおりだと思うけれども,そういうふうに多少感じるということを付け加えたい。

江藤委員

 二つのことを申し上げたいと思う。
 一つは,私は文芸家協会から出ている委員で,文芸家協会は昨日理事会を行った。昨日は別に何も言わなかったが,中間報告については,協会理事である村松委員からも協会の事務局に既にこの文書が渡っているようである。そこで,本日はまだ何も申し上げないが,次回の総会までに,文芸家協会は,恐らく協会としての今次審議会に対する見解――これは統一された見解になるかどうかは分からないが,今後,協会内部の各種委員会の審議等を経て,多分各論併記という形で提出させていただくことになろうかと思う。
 次回の総会までには文書の形で日本文芸家協会の諸見解が披瀝(れき)されるであろうとういことを,まず協会推薦の委員として忘れないうちに申し上げておく。
 もう一つは,今,中西委員がおっしゃったことと関係のあることだが,私は中西委員とちょっと考え方が違うのである。具体的な言語現象が,年代によって,若い人には乱れていないことになるというふうにもちろん読めるけれども,これを全体として見ると,現在の書き言葉,話し言葉共通して,日本語はかくあるべきであるという何らかの規範性を求めたいという気持ちが出ているんではなかろうか。それでは,規範性というものはどこで与えるのかと言えば,具体的には,ここにあるように一つは学校教育であるし,更に特定して言えば初等中等教育,それから家庭である。そのよりどころが欲しいということである。
 そして,私がある種の感銘を受けたのは,実は敬語の使い方が乱れている,敬語が必要であるという非常に強い敬語に対する支持があるということである。支持があるということは,実は日本人が自分の国語に対する洞察力を持っている。日本語という言葉は,敬語さえあれば人称代名詞は要らないようなところから発達してきた言葉であるから,日本語における敬語というものは非常に重要な意味合いを持っていると,私は感じている。
 そして,有為転変,世の中の激変,ワープロの普及等々にもかかわらず,これだけ多くの人が敬語は大事であると考えているということは,一種の国語に対する直感的な洞察力が,図らずもここに披瀝されたということになる。「ら抜き」については,耳に快い人も快くない人もいるわけであるが,私は快くない方で,会長と同じである。
 それから,敬語ということになると,私の前に出てくると,ちゃんと敬語を使ってきちんと話すことができる女子学生が,お互い同士,喫茶室でしゃべっているのを聞いていると,「……じゃねえかよ」という調子で,男だか女だか分からないのをやっている。教師が柱の陰にいるのも知らないでやっていて,後でどんなに猫をかぶっても,こっちは正体が分かったぞと思っているわけであるけれども,お互い同士が「……ねえかよ」と言っているのが,「先生,何とかでございます」と言ってくるのは,敬語を尊敬し,国語を尊重しているんだと思うのだけれども,その使い分けができるようにしてやるということが非常に大事なことで,ここに学校教育,社会教育,家庭教育を通貫する一つのよりどころが欲しい。
 そして,年長者がとかく批判的なことを言いたがるのは当たり前であって,年少者もいずれは年長者になって,同じく批判的なことを言いたがるようになるという繰り返しで,我々も学生時代には相当勝手な学生言葉を使っていたわけで,それだけ国語を汚したかもしれないけれども,文化の伝承ということを考えれば,年長者が先に立ってある程度の規範を示す。望ましいのはこうであって, こういうのはお互い同士ならいざしらず,NHKの放送に出てきて,早くしゃべっても,遅くしゃべってもいいけれども,女の子が「……じゃねえかよ」とどなるのは余り感心したものじゃない。こういうことをやってごらんになったらいかがなものかと思うけれども,恐らく反発があるんじゃないか。そういうようなことを考えた。

吉村委員

 世論調査の結果を見ても,言葉が,時代あるいは世代とともに変わっていくということは真理なんだろうと思うが,今江藤委員が言われたように,ボトムラインと言うか,ある防衛線は引かなければいけないんではないかという気がする。それは学校教育とか家庭での教育とか,ここにもいろいろ出ているが,具体的な方策はともかくとして,これ以上乱れては日本語が成り立たないという線は当然あるわけだから,そういう防衛線を引くということに意味があるんではないかと思う。
 「ら抜き言葉」のことがここに出ているが,私は,自分のところの新聞を含めて,最近よく見掛けてちょっと気になるのは,「べき」という言葉で終わってしまう文章である。書いている若い記者は,それは何ら間違いではないと思っている。年長者の我々が当然指導すべきところではあるが,同じようなことがいろいろあるだろうと思う。どこまで強制できるか,その辺のところは問題だろうと思うけれども,こういうガイドラインというか,ボトムラインとういものが大事なのではないかと思う。

尾上委員

 この統計をぱっと見せられて,何かまとまったものを分析的に言うためには,統計のやり方をもうちょっと工夫した方がいいんじゃないか。というのは,20代と書いてあるけれども,例えば10年前の20代,20年前の20代と,時代とともにどちらの方向に行っているのかという分析が,これではちょっと分からない。つまり,乱れる方向ヘ向かっている時代と,そうでない逆の時代,そういう分析がこれでは分からないということが一つ。
 もう一つは,これはもっと難しいのだけれども,統計数理研究所の意識調査なんかで,例えば英語とかフランス語とかで敬語を使った方がいいと思うかというふうな統計が昔あったような気がするが,そういう国別のクロスセクションとか,あるいは日本なら日本においての時系列,歴史的にどう変わっているかということで,現代の特徴が分かるわけである。そうでなければ,今江藤委員がおっしゃったような分析,我々も若い時に随分変な言葉を使っていたということしか言えない。それがひどくなっているのか,ましになっているのかというのが欲しいところである。これは難しい問題であるけれども,今後の要望として,申しておく。
 例えば,私は経済だけれども,会社の業績とか国のファンダメンタルズとかいうのは,昔と比べて,あるいはよその国と比べて,これではいかんなとか,こうしなくてはいけないという分析はすぐ出せるわけである。ところが,今回の調査結果をちょっと見てどう思うかと言われたら,答えにまごつくようなところがある。

坂本会長

 今の尾上委員の御指摘について,事務局の方で何かあるか。

安永主任調査官

 お答えということでもないが,実は昭和52年にも総理府で調査をしていて,それと比較し得るものはこの中にも比較してあるということである。
 昭和52年のときには,「当用漢字表」の改定を審議会でやっていただいていて,加える候補の漢字83字,削る候補の漢字33字,それらの1字1字について,これは妥当かどうかという非常に細かいことも世論調査で尋ねたということで,今回の調査とは性格,内容が少々違うので,十分な比較ができないところがある。
 一方,NHKや国立国語研究所で,例えば「ら抜き言葉」についての過去の調査データもある。国立国語研究所の昭和49年ごろの調査と比較すると,20年前の10代の人は7割近くが「見れる」という「ら抜き言葉」を使っているというデータがあって,その人々が今や30代になっているわけであるから,世の中の推移という点から言えば,今回,誠に自然な結果が出ているなというふうに私どもは思った次第である。そういうふうな比較は,これからおいおいいろんな先生方に分析していただけるかと思っている。

坂本会長

 なかなか正確にはお答えできないのだけれども,そういうことで,今のところは尾上委員もひとつ御理解をいただくということでよろしいか……。
 ほかにどうぞ。

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