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次第 議事 八月十五日の「提案」に付随せしむべき資料(その一)

二,漢字はどのやうに変化したか

 漢字の数は,数へやうによっては五万にもその上にもなるばかりか,現在もまだ,中華民国においても中華人民共和国においても,新しい字が作られてゐる。日本では新字を作るといふことはあまりやりませんが,例へば「峠」といふ字は日本で出来た字です。中華民国では最近,「石扁に工といふ字」といふ字を作り,それでコンクリートを表はすことにしたさうです。
 新しい字を作るといふこととは別に,字の形それ自体が,時代と共に大きく変ったわけです。このことをひと通り知ってゐないと,上記の「象形」から「形声」に至る”文字の作り方”についても,説明がうまく徹底せず,十分な理解は得られない,といふことになります。
 中国で文字が作られたそもそもの始めは,紀元前一五〇〇年頃(殷の時代)といはれ,亀の甲羅や牛馬の骨などに刻みを付けて何等かの形を表はした,即ち「亀甲獣骨文」,略して「甲骨文」から始まったのですが(「契文」と呼ばれた。少し後代の鼎や鐘に鋳込まれた文字を「金文」といふ。),紀元前四〇〇年頃から始まった戦国時代になると,「篆書」といはれるスタイルになり,それが前漢の時代には「隷書」に変る。前期した「象形」以下の文字の作り方は,この篆書や隷書で見て始めてよくわかるのです。
 それがさらに進んで後漢の時代(紀元二五年から二二〇年)に入って「楷書」といふ形が現はれた。それを筆写の便宜のためにやや崩したものが「行書」ですが,もっと崩したものが「草書」と考へられ,それを総称して「書体」と読んでゐますが,実際には隷書から草書が出来,それとは別に楷書が生まれたものださうです。
 さてこの「楷書」による漢字といふものが,実は一種独特の意味を持ってゐることは注目に値するところです。
 と申しますのは,殷の時代に甲骨文が始まってから後漢の世に楷書が現はれるまで,長いやうでも一千七百年ほどしか経過してゐない。その間に漢字の形は篆書,隷書,楷書と実に大きく変化した。ところが楷書が出来てから今日まで,これがまた丁度一千七百年ほどですが,その間に楷書の形は殆んど全く変ってゐない。これは一体どうしたわけでせうか。その解釈如何に拘らず,これは大いに注目すべきところであって,つまり漢字といふものは,楷書の出現によってその「完成期」に到達した,と見るべきものでありませう。のみならず,その後の時日の経過に伴って,すでに楷書で書かれた書物が沢山に出来てしまった以上,それを勝手に変へては過去とのコミュニケーションが出来なくなりますから,これは変へてはならないものとなり,またそれを変へないためには”権威ある辞書”を作る必要がある,といふことになって,遂には康熙字典のやうなものも出来る,といふことになったのでせう。なぜ楷書を漢字の完成品とみるかについては,なほいろいろの見地からいろいろの事が言はれるべきでありませうが,庶民の常識としても,右の事実に注目する,といふことがなければならないと思はれます。

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