国語施策・日本語教育

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次第 議事 八月十五日の「提案」に付随せしむべき資料(その一)

五,日本に導入された漢字について

 日本語が中国語と全く仕組みを異にする言葉であることは,前にも一言しましたが,まだ文字を持ってゐなかった日本に,中国語といふ全く性質を異にする言語の下に発達した漢字といふ特殊な文字が,高度の中国文明と共に流入して来たのであります。
 その年代は,百済の王仁といふ人が論語と千字文を献上した時(応仁天皇の御代)とされてゐますが,事実はその前から除々,に韓半島を通じて流入しつつあったものでせう。
 さて右の流入に対する日本人の最初の反応は”これを単なる発音記号として用ゐる,といふことでした。いはゆる「万葉がな」がそれでしたが,そのうちに日本人は,”音訓二様の使ひわけ”といひますか,”漢字を日本語として読む”といひますか,さふいうことを始めました。これはお隣の韓国でもすでにやってゐたことださうで,多分それを真似たのでせうが,韓国では後に李王朝になってから,訓読みを止めて音読み一本にしてしまったのに対して,日本では今日に至るまで二本立てを貫いてゐる。これが実に特殊なことであって,日本文化の大陸文化の受け入れが,この「二本立ての漢字の読み方」といふものの下で行はれたことは,十分に味はってみなければその意味はわからず,その意味がわかってみれば,そこに探って尽きざる日本文化の特異性が感得されるのです。
 右と前後して「仮名」の発明といふことがありました。始め「片仮名」,あとで「ひらがな」ですが,それらの使用と相俟って”漢字の訓読み”はいよいよ本格化したわけです。その間にどれほどの歳月を必要としたか。徳川時代にはまだ本格的な文章は漢文で書かねばならぬといふ風習であったことを思へば,”漢字を真に日本のものとして使ふ”といふことは,実は明治に入って漸く完成したものかも知れません。その間およそ千四百年,長いと言へば長いですが,甲骨文字から楷書の出現までが千七百年もかかってゐることを思へば,この種のことの発展には長年月を要するのが当然なのでありませう。
 さて話を元に戻しまして,日本といふ国では,中国語といふ全くタイプを異にする言語の下で作られた漢字という特殊なものを導入し,それを日本語として読みこなすことにしたのですから,そこにはいろいろの無理が起ったのは当然のことで,それが集中的に現はれているのが「送りがなの付け方」といふ問題でありませう。そしてそこでは,現在に至るまで,言ふに言はれない苦心苦労が続いてゐるのであります。
 しかしながら一方,日本人はその困難を何とか乗り越えて来たからこそ,外国文化を取入れながら,自己の特質を失はない,といふ世界にも珍しい文化史的特徴を持つ国家を建設し得たのであります。いま世界は東西両文化の真の融合時代を迎へやうとしてをりますが,そのなかで日本の置かれた地位は,この点からみてもまことに恵まれたるもの,と言ふべきでせう。特に最近は,科学技術の発達と共に漢字の持つ煩しさの面が減量し,その「視覚文字」としての優位性がより多く発揮されつつある等のことも,併せて考へるべきでありませう。
 従ってこれからの日本国民は,中国における漢字成立の昔に遡ってものを考へ,その特異性を認識すると共に,漢字を”そのシステムとして理解する”ことによって各自の国語能力に十分な基礎付けをすることが望ましいと考へます。

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