国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 第1委員会における論議の概要について2

前田(耕)委員

 私,前々回の総会でもちょっと申し上げたけれども,総会で一番引っ掛かるのは「緩やかなよりどころ」をどういうふうに判断するかという点だと思う。第1委員会の議論でそういうことを柱に取り上げたのは,今お聞きすると,やっぱりそうかという感じが私はした。
 敬語というのは私たちにとって日本文化の非常に重要な要素であるし,日本文化を守るのであれば,国語審議会としては,あるいは文部省としては,守ろうと守るまいと,こういうものが敬語であるんだということをきちんとしておく必要があるんじゃないか。何もなくて,何が敬語なのかさっぱり分からない,あるいはいつの間にか消えていってしまうというのでは,私自身は日本文化をこれから守っていく必要があると思っているのだけれども,そういう立場からすると,敬語をあいまいなものとして扱うのは非常に問題があるのではないかという気がする。
 もう一つ,これは敬語の範囲ということで感じていることなのだけれども,確か一,ニ年前に,在日外国人の若い人たちが,日本人について,あるいは日本語についてどういうことを感じているかを話し合うという番組をNHKのテレビで見たことがある。その時に,もちろん敬語の問題は難しいからなかなか出ないけれども,非常に印象深かったのは,例えば日本人は,「すみません」とか,あるいは「おかげさまで」とかいうような,感謝や平和の気持ちを表す言葉を非常に大事にしているということであった。これは敬語という範囲になるのかどうか分からないけれども,そういうものも含めて,日本人がもっと大事にする言葉があるんじゃないかという率直な感じがした。
 委員会に属していないので,これまでの審議でどういうことが話されたのか,よく分からないけれども,今日突然出てきていろいろお話を聞いて,そんな印象を持っているところである。

山川委員

 NHKで最初にアナウンサーを養成するときに,東京の言葉を標準語,標準語というふうに言って,標準語でずっとやってきたけれども,戦後,標準語というのはけしからん,何で東京語が標準語なんだということで,共通語というふうに言い換えるようになったわけで,今は共通語ということになっている。標準語か,共通語か,どっちがいいのかちょっと分からないが審議会は,大方の委員はこういうふうに考えているということを「標準」という言葉を使わないで何か示せないか。つまり,それがよりどころなんで,なるほど,国語審議会ではこういうことを大方の先生方がおっしゃっているんだ,それじゃこれにしておきましょう,これがいいんだなということが大事じゃないかと私は思う。我々の責任は重大なのだけれども,それが今みんなが一番求めていることではないかと思う。この言葉は正しいとか,この言葉は間違っているなどと個々に言っていくような,個々の敬語については,総会には出てこないので,そういう話になっていかないのであるが,それは小委員会で恐らくやってくださると思う。
 それから,この審議会は心の審議会ではないという意見もあったようであるが,私は,これはちょっといただけない。今までの日本の国語教育は心という問題を忘れて,形,形,文法,文法というふうに押し付けてきたので,国語への興味を失わせてしまったということであるから,もう少し心を大切にする。もっとうまく言えればいいのだが,先生方がそういう教育をなさったら,小さい子供たちが国語にもっと興味を持つようになるんじゃないかというふうに思う。

江藤副会長

 先ほどの前田委員の御意見とも重なるけれども,確か私は「緩やかなよりどころ」という言い方に,前にもちょっと文句を付けたことがあった。緩やかなと言うと何となく安心するところがあって,また,これは山川委員の御意見とは反対の意見かもしれないけれども,標準と言うと角が立つから,共通と言っても,私はどうも余り問題を解決しないのではないかと思う。
 今日の午前中,ちょっと別のところで会議があって,資料をもらったのだけれども,前にも申したが,フランスのアカデミー・フランセーズというところの使命として掲げられているのは,フランス語の保存と醇(じゅん)化ということで,フランス語を非常に大事にしている。さっき縦社会,横社会というお話があったけれども,アカデミー・フランセーズが設けられたのは王政時代で,縦も縦,絶対王政の時代であるが,フランス革命があり,帝政があり,ナポレオン三世の帝政復古もあり,そして第三共和国になり,今日に至る。今日のフランスの社会はどうなっているかと言えば,我々の社会よりも,もっともっと混乱していると言ってもいいのである。失業率が全就業年齢を通じて21.9%,25歳以下の失業率が25%を超えているというような社会大変動のさなかにある国であるけれども,だからといって,このアカデミー・フランセーズがフランス語の保存と醇化という目的を取り下げたことはない。
 このことは,取りも直さず,フランス語の文化というものは,ある意味で超歴史的でなければならないということではないか。つまり何か変わるから,変わっていくのは当たり前だとフランス人は考えないことにしているということの表れだと思う。
 それに比べると,先ほど第1委員会の主査にお示しいただいた3ぺージ目の下の方の(1)「敬語の標準を示すのは困難」,「「これからの敬語」を建議したころと今とでは時代が違う。現在のようなカジュアルな時代には,敬語の標準を出すのは難しい。」, 「国語審議会が今後話し言葉についての基準を打ち出しても,一般の人が守ってくれるかどうか。5年10年たつと古いと言われることになるだろう。」というのは,随分自信のない話であって,我々はこんなに自信がないのだろうか,フランス人はどうしてそんなに自信があるんだろうか。
 しかし,周りを見渡すと,我々の社会の失業率はまだ3.1%で,不景気とか何とか言っているけれども,どうしてこう自信がないのか。フランスというのは,第2次大戦で勝ったことになっているけれども,実際は戦争には負け続けている国なのだが,あらゆる変動にかかわらず,フランス語の保存と醇化ということは一生懸命やっている。我々も,やはり少しはこれを見習うべきではなかろうかと思う。

小池委員

 今,江藤委員からフランスの例が出たが,一つの例ということだろうと思う。例えば,イギリスにおいては,英語の統一というのはほとんど考えられない。階級によって,ピジン,コックニー,上流階級,ミドルクラスというのは全く違う言葉をしゃべっている。我々は,例えばロンドンのコックニーというのは非常に理解しにくい。アメリカの場合で言えば,英語を国語とするかどうかということが問題になっているような国で,言葉とアイデンティティーの問題というのは各国各様である。一つのモデルとしては,江藤委員がおっしゃったフランスというのは典型的な例で,参考にすべき例だと思うが,国情によっていろんな例があるということも頭に置いた方がいいんじゃないかと思う。

津野委員

 私は法制局に身を置いているので,一般的なお話とちょっとずれるが,法律の話は置いておいて,そもそも敬語の調査をどうすべきか,そのやり方は,委員会の方ではどういうふうにされているのか。先ほど勉強されているということをお伺いしたけれども,敬語が現在の社会においてどのように使われているかという実態を踏まえていただきたい。そのためには,現在のいろんな場面で使われている敬語について,どのような場面においてどういう言葉が敬語として使われているかというような実態を一回調査していただいた上で,何らかの結論を出していただくことが必要ではないか。
 それはどうしてかというと,法律を作る場合もそうなのだけれども,世の中に受け入れられないような基準を作ってもらっても,およそナンセンスな話である。法律でさえそうであるから,そもそもこういった基準みたいな話であるならば,実態を相当踏まえて考えていただかないと,これは非常に難しいんじゃないかという気がする。
 もう一点は,先ほどフランスの話が出たけれども,現在,フランスはEUという新しいヨーロッパの国際社会を作るという過程にあるわけであるが,外来語については非常に困っている。正に英語が中心になっていきつつあるということで,非常に困っているという状況にある。それと同時に,その問題は非常に排他的な,排外主義の問題に結び付いている面があって,外国人の帰化とか,現在いろいろ問題になっているけれども,そういう問題もあるということも一つは視野に入れておかなければいけないと思う。
 もう一点は,国語の敬語の範疇(はんちゅう)についてであるが,いろんな言葉があるので,これは難しいだろうと思う。端的に私が感じたことは,例えば非常に平凡な「僕」とか「私」とかいう言葉も,敬語というか,丁寧語という範疇に入ってくるんじゃないかと思うし,あるいは自分の親のことを「父」と言うか「お父さん」と言うかという問題もあるだろう。現在,テレビとか,いろんなものを見ていると,「父」と言うよりも「お父さん」と言ったりする人が多いけれども,そういったいろんな範疇,広がりというのは,敬語の問題としても無視できないような感じがする。その辺のところは,どう言ったらいいのか,私はよく分からないけれども,視野を相当広げないと,この問題は難しい問題になるんじゃないかというのが私の考えである。

緑川委員

 言葉の問題というのは,特に敬語などは,そもそも親と子の関係でもって家庭で教育すべきものではないか。そして,御近所付き合いから社会的なものというふうにいろいろ発展していくものだろう。この中にも,「敬語は中学校の教科書では2,3ぺージ程度載せているだけ」と書いてあるけれども,それは当たり前で.学校教育というか,そういう年齢に来てから,こういうものだということを言っても無理ではないかと思う。学校教育でやるのは,こういう敬語はこういうふうにして使うとか,丁寧語はこうだとかいう分類だと思う。
 しかし,こういう世の中で,いろんな言葉遣いが入り乱れているということなので,世の中の人が守るか守らないかは別として,国語審議会というものがあるのだから,確固たるものを出して,それに近づくような話し方,使い方をしてもらうという形に私たちはしていくべきではないかと思う。

神谷委員

 最初におわびをしなければいけない。私は第1委員会のメンバーでありながら,メンバーになる前にそのことを大変恐れていたのであるけれども,なかなか都合が付かなくて,健康を害していたというせいもあって,実は今までずっと欠席を続けている。そういう私がこの席で発言をするのはいささか問題かとも思うけれども,お許しいただきたい。
 さっき江藤委員がおっしゃったことは誠に同感で,私の記憶に間違いがなければ,フランスが一番最近改正した憲法は,我が共和国はフランス語をもって国語とするという条項を1条入れたものである。フランスが,フランス語が国語だということをどうして言わなければいけないのか。一つには,先ほど御指摘があった,外からいろんな言葉を持った人が入ってくるということもあろうが,また,一言で言えば,アメリカナイゼーションというか,そういうことでもってどんどんフランス語が使われなくなる。これではいけないという危機感が憲法改正を決意させたということのようであって,私の経験でも,テニスをやっていて「ジュース」と言ったら,「ジュース」と言わないで「エガリテ」と言えということを言われた。それぐらい気にすることは気にしているようである。

神谷委員

 そこで,日本語というものを愛する,大事にするという観点から,国語審議会の役割はもっと大きくてもいいんじゃないかと私は思っているけれども,残念なことには,国語審議会の手を経ないで,何かよく分からないうちに随分奇妙な日本語が横行するというケースもあるようである。
 これも私の誤解でなければいいのであるが,それほど遠い昔ではなく,比較的最近ではないかと思うけれども,アンダースタンドとか理解するという「わかる」という漢字を,理解の「解」でもなければ判断の「判」でもなくて,分母の「分」と書くわけである。そして「かる」と送り仮名を送って,私どもの原稿ではそう書かなくても,編集者がそういうふうに「分」という漢字に書き直してくるということさえ珍しくなくなっている。私,これはどう考えても「分」という漢字を理解するという言葉に当てるのはおかしいと思うのであるけれども,そこら辺りは国語審議会なんかは全くバイパスしてしまって,そういう現象ができてしまっているのではないだろうか。
 それに類することは,ほかにもちょいちょい気が付いていて,長くなるから一々言及しないけれども,私ども国語審議会は,国語の分野に関して今までよりもより積極的に発言するという気持ちを持ってもよろしいのではないだろうか。そのように思っている。

浮川委員

 私はコンピュータで日本語を扱うということを仕事として一生懸命やってきた一人であるけれども,言葉ということを考えれば,各委員の先生方がおっしゃったように,やはり言葉は文化であるという思いが本当に強くなる。そうであるからこそ,言葉を審議していくことは,文化とか社会性につながらざるを得ないと思う。そういう考え方をずっと広げていくと,ここで敬語というものをどう議論しようかということは,結局は日本の社会性そのものとかかわらざるを得ないというふうに言わざるを得ないと思っている。
 そして,話は少し飛ぶけれども,では,その中で国語審議会が敬語についてどのような意見を出すべきかということになると,世の中にこのような敬語がこのようにある,このように分類されるというものを単に出す,現在はこうであるということをもう一度調査をしたとしても,調査結果だけでは国語審議会の役目は果たしていないように思う。つまり,ある指針がやはり必要ではないだろうか。それは何年までという長い時間が掛かるかもしれないし,また,そこまで指針としてまとめられるだけの委員の賛同が得られるか,それは分からないけれども,方向とすれば,私は国語審議会というのはそういう指針を出すべき場ではなかろうかと強く思っている。
 もう一点は,先ほど申し上げたように,言葉は文化である,あるいは社会性が強いものである。先ほどフランスの話も出されたが,日本の文化を守るということが常に付きまとったときに,ややもすると,昔からあるものをそのまま引き継ぐことが文化を守ることだと考えがちだが,そうなり過ぎてはいけないと私は強く思う。昔からあるものがすべていいとはあえて言わない。時代が進むにつれて,人間の生活における,社会における差別というようなものについてはなくそうというのが,社会あるいは人類の進むべき道だ,進化する方向であるとすると,敬語というものは非常に難しい面が同時に発生していると思う。
 「目上の人」と言ったときに,そこに当然のこととして存在するのは上と下という関係である。年齢であれ,社会の職業的なものであれ,そういう意識があると同時に,そこに発生するのは上下,あるいは厳しい言い方かもしれないけれども,一種の差別という感がどこかに発生せざるを得ない。そのようなときに,敬語というものと社会性というものとが,日本というよりは,人間が生活している社会がどのような方向を持つべきかということが非常に強く関係してくる。それらの議論を常に踏まえながら,しかしながら,非常に難しいけれども,指針を出していく会議になればというふうに思っている。

清水会長

 どうもありがとうございました。
 いろいろ御意見をいただいた。この辺りで,主査からちょっと御発言いただきたい。

北原(第1委員会)主査

 感謝の言葉を申し上げたかっただけであるが,今日も第2委員会の検討事項に関することが中心になるのではないかと思っていたら,随分いい御意見をいろいろいただいた。
 ただ,お聞きしていて,ほとんどの論点が私どもの議論の中にも出てきている。それはまとめ方が下手だというだけの面があるが,さっき浮川委員がおっしゃった,調査だけでは駄目で見識を持って指針を示すべきだという御意見と,津野委員のおっしゃった実態を把握しなければいけないという御意見は,その両方を大事にしていかなければいけないと私どもも思っていて,世論調査がまとまるし,施策懇談会なんかもそういうことを目的にやっているが,私どもも勉強しながら,どこが問題か,皆さんがどう考えているか,指針を出す前にその辺を慎重に国民にお聞きしながら,是非賛成を得られるような標準ができればというふうに考えている。
 それから,「標準」という言葉は20期の経過報告の中に使われている言葉であるが,「標準」を考えて,それをどういう形で出すか。それから,片倉委員が最初に言われた「緩やかなよりどころ」というところであるが,これは標準を作って,それをどういう性格で我々が示すか。そのときに緩やかなよりどころというものとして出す。それと,標準をしっかり決める,あるいは決めないというのとは,ちょっと違うことだというふうに考えている。
 いろいろ申し上げたいこともあるが,承った御意見を,また委員会に持ち帰ってゆっくり検討させていただきたいと思う。

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