国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 第2委員会における論議の概要について2

水谷(第2委員会)主査

 一般社会における文字使用の広がりの中で,正字・略字の間の「渡り」の意識が表外字にも及ぶようになり,現在の問題が出てきたというように考えられる。個々の漢字については,使用習慣があるか,頻度,目慣れ,過去に使われたかどうかなどの問題があり,細かい検討までしないと結論が出せない状況にある。毛筆の時代においては正字・略字間の「渡り」は日常的に行われていたが,現代は活字の時代なので略字体に目慣れがなく,今のような議論になっているのではないか。一つのコードポイントに複数のフォントがあってもいいが,どれを代表字体にするのかということが焦点ではないかと考えている。
 敬語に関することと漢字に関することでは次元が違う。文字が世の中で使用されれば崩し字・俗字が出るので,一般の漢字使用について方針を決めねばならなくなる。現在,それが表外字に及んでいるのだが,どういう方針を立てるかが問題だ。
 決め方として,「現在ある字体は仕方がないから許容する」というのでは見識がない。当用漢字以来の流れとして,JISの略字体は当然であると認めた上で,「よいものはよいとして不都合なものは変えてもらう」という方法もある。そういう考え方に立てば,JIS漢字のうちで康熙字典体と違うものを拾い出して検討するという方法もあると思う。
 字体の違いがOCRの読み取りに及ぼす問題については――これは前回のところにあったわけだが,読み取りの問題でも,機械が読み取りやすいように簡単な字体の方がいいのではないかという意見がちょっと前に出ていて,それについての追加というか,それを更に深めた意見である―― 一般的に言うのは難しいが,現在,機械の 急速な進歩によってOCRの文字認識率は向上しつつある。そういう機械の状況も把握しておく必要があるだろう。

 今,この時点で,現在の機械の能力の状態だけに乗っかって決めてしまうことは危険だという発言である。
 「現在,新聞社では云々」の後は,新聞社の方からの御意見が中心であり,新聞社にかかわるものである。

 現在,新聞社では,校閲作業もすべて機械化するというような技術革新の真っただ中にある。その進行によって,審議会の決定に対応しやすくなるのか,あるいはその逆なのかについてはよく分からない。基本的には代表字体を決めることに異議はなく,いろいろなメディアにとって有り難いとも言えるが,無理に決めることもないと思う。
 多数の新聞社に記事を配信する通信社としては,国語審議会が字体を決めてくれる方がよい。教科書と新聞で字体が違っていたり,新聞各社で字体が混乱したりしていると,読者の家庭で疑問が生じるし,問題になることもある。
 個々の新聞社と,全国に配信する通信社との間の,用字の整合の問題もあるだろう。
 新聞にはこれまで用いてきた字体があるので,全体を改めるのには,よほど強い理由が必要である。協力体制がとれるとは請け合えないが,全く協力できないことはないと思う。
 我が社の現場の立場から言うと,字体を変えること自体には何の問題もない。「」か「鴎」かについても,国語審議会がこちらだと決めてくれればどちらにでも対応できる。

 例えば,新聞社関係の対応についてこの委員がこうおっしゃってくださっても,本当に会社としてそのようにしてくださるかどうか。事柄はそう簡単ではないだろうと思う。お気持ちは非常にはっきりしていて明快であるけれども,新聞社関係ではそんなようなことである。
 それから, (2)の「統一基準の具体的な内容にかかわること」の中には,割に具体的なことがあるので,あと10行ばかり読ませていただく。

 代表字体を示す,という方向については合意が得られたようなので,ーこれも実は前回お出ししてあったのだが,その方向に動いてきているー今後,どういう範囲で,どういう根拠で示すのかということについて議論したい。

 次の○も前回あったことで,一字種一つという形でできたらということである。

 代表字体を定めるに当たって,様々な字体を分類整理する基準を立てる必要がある。
 基本的に,@表外字を略字化することがいいか,A略字化がいいとなれば例外をどうするか,B略字化しないとなれば例外はない,ということだと考えている。

水谷(第2委員会)主査

 この辺りが非常にはっきりした問題の区分けになるかと思う。

 字体の基準を考える場合,字体の議論をどのレベルでやるのかが大きい問題である。字体の違いをどのレベルで考えるのか。例えば「ネ←→示」と「鴎←→」の違いではレペルが異なるわけである。前者は議論しやすいが後者は一字一字違うので難しいと思う。後者に関して言えば,「鴎」はともかく「寿」はどうかとか, 個別の議論が必要になると思う。前者は統一して考えられるのではないか。
 「頚(頸)」のように,部分字形を表内字の形に合わせると,全体の形として違和感が生じるものがある。このような類のものについても,考え方のルールが必要だと思う。

 この辺りは,具体的な文字の例について,原則をどのようにして立てていくかということにつながる議論である。このことは,実際にある程度まとまった材料について,文字の例について議論をする必要があろうということで,資料のおしまいの方に付いているが,それについて議論した経過などを小林副主査の方から後ほど御説明をお願いしようと思っている。
 以下,3ぺージの一番下の方のところは前回にも出ていたことであるが,4ぺージの三つ目の○から3の直前の○の部分のところまでは,最近出てきたものである。この中に,「くさかんむり」や「しめすへん」はどう扱うか,「食へん」はどうなるか,「へん」 としてでなくて漢字一字として独立して使うものはどうなのか,すべての表外字に略化を及ぼすべきだと考えているという方もいるわけだが,及ぼす範囲については別に検討すべきであろうというような意見も出ている。これらは略化を進めることについての積極的な意見だが,終わりから二つ目のところにあるように,表外字に略化を及ぼして新たな異体字を作り出すことは前期の方向と矛盾するし,混乱を助長することになるのではないかという意見もある。この辺りは,更にきちっとした結果についての予測も立てて,国民のニーズは何なのか,日本の文字使用の問題は何なのかということをはっきり踏まえた上で,結論,方針作りを考えていかなければならないと思っている。
 4ぺージの下の方,3の「JIS漢字について」は,ヒアリングをした上でいろいろ話し合った結果が載っている。
 4の「康熙字典の位置付けについて」も,テーマを決めて,康熙字典や,康熙字典体と言われている字体について,議論した時に出てきたものである。
 5の「固有名詞の扱いについて」は,今のJISなどで問題になっていることの多くは固有名詞の問題にかかわるので,固有名詞の問題を我々はどう考えるべきかということをテーマにして行った議論の結果である。
 6の「国際社会への対応について」は,ユニコード,UCSの問題などについてヒアリングをして,議論した結果である。
 7は,「学校教育との関係について」ということで話し合ったところで出てきた意見を列挙してある。
 以上,大変急いで,飛ばしたところもあるが,私からの報告を終わる。
 次に,具体的な例について,第2委員会の中で話し合った経過について,小林副主査に説明をお願いする。

小林(第2委員会)副主査

 資料の中の「表外漢字の字体について(「桑山弥三郎『書体デザイン』グラフィック社,1971年」から抜粋)」という資料を御覧いただきたい。第2委員会の2月24日,第5回の委員会で,表外漢字の字体を検討する入りロとして,仮にこういうものを見ておこうということで,この資料が国語課の方から出された。そして氏原調査官の方から若干の説明を受けたものである。それについて私から何かコメントせよということである。
 表紙を1枚めくっていただくと,右上に数字が19から22まで打ってある。19,20,21,22の順で見てまいりたいと思う。
 これは1971年(昭和46年)の資料であるから,歴史的に見ていくと,戦後の国語施策を昭和41年に見直すということになって, このころ国語審議会は当用漢字音訓表の改定作業をやっていた時代である。音訓表が出来上がって告示訓令になるのが昭和48年であるので,その後で,字体の問題が取り上げられていくことになる。つまり50年代に新漢字表試案から常用漢字表という流れになっていくわけなので,桑山さんが出された46年は,審議会自体は当用漢字表外の字体についてはまだ検討していなかった時代である。そういうころに,個人としての著書の中で,こういうものが取り上げられて出されていたという一つの状況をお話し申し上げておく。
 19ぺージの左上のところで,「1.全体・部分を簡略するもの」というタイトルが付いていて,左から「部分」,「当用漢字」,「外字漢字」というふうに並べてある。そういう形で,「当用漢字」のところで,正字から略字と言われているものを失印で示して,一番上の「萬→万」で見ていくと,当用漢字は略字で採用していることが分かる。その下側の激励の「励」の字も,やはり部分字体というか,構成要素としての「萬→万」の部分を当用漢字では略体で採用しているということを見ていただける。これを桑山さんが,もし当用漢字外の漢字に及ぼすなら,こんな字が,要するに,ドミノ現象で使われるのではないかと考えた実例を挙げているというふうに読んでいけばよろしいかなと思う。

小林(第2委員会)副主査

 少し付け加えると,これは当用漢字の時代のもので,その後,常用漢字表で95字増えているので,「外字漢字」の中には常用漢字表が略体で採用しているものもある。
 「蠣」というのは,牡蠣(かき)という語に使われる字であるけれども,このほかに,略体でということで頭の中に出てくるものを思い浮かべてみると,富山県の砺(と)波郡の「砺」という字がある。これは実際の地名としては,「富山県西(と)波郡」とか「東波郡」というときには正体で書いてあるけれども,地図を見ていたら,石川県との境目にある「砺波山」は略体で載っていた。私がある地図を見たときに, 地図の上では両方出ていた。それから, 栃木県の「栃」は「木へん」にこの形を添えるわけであるが, 「栃木県」の場合には上側の横一が片仮名の「ノ」の形で書いているようである。略体にはそういうものも思い浮かべることができる。
 そのほか,辞書を見ると,いろんな「へん」が付いたもので「」を使っている漢字がたくさん出てくるが,余り目慣れていないものが多い。
 もう一つ,表外字でよく使われるのは勇往邁(まい)進の「邁」。これは正体で表外字で通常使われることを思い浮かべることができるが,これは略体化できるかどうか。余計なことを申し上げると,中国の簡体字の場合には,この部分は全部略体化したものを使っているようである。
 次に,「壽→寿」という字であるが,もう一つ,その下側に並べた「鋳」というのは,常用漢字は当用漢字そのままを受けているので,当用漢字も常用漢字も略体で使っているが,右側の「濤」は表外字である。もう一つ思い浮かべられるものとして「」がある。これもよく例として,祈の「祈」は「ネ」の「しめすへん」で,「」の方は「示」の「しめすへん」だというので,おかしいじゃないかという議論をなさる方もいる。その下の躊躇(ちゅうちょ)の「躊」,先ほどのプリントにもあった模範の「疇」もよく使う。そういうものがドミノで略体化できるかどうか。辞書を引けば,正体の「壽」という字を使った漢字はたくさんあって,ロへん,りっしんべん,幅へん,言べん,手へん,土へん,山へん,いろいろある。ただ,日常生活にはほとんど出てこない字だということもある。
 「萬→万」と「壽→寿」を比較すると,「萬」というのはもともとは象形の「さそり」という字で,略体の「万」は象形で「浮草」と辞書には書いてある。したがって,この「万」は別字を採って,画数の少ないものを使っている。別字を使っている字だということである。類例として,当用漢字・常用漢字の中では,欠席の「欠」は「あくび」の形の「欠」を使う。あれも正字の方は「あくび」とは関係ない字である。そういう別字を略字として使っているというものも幾つかあるわけである。
 それに対して「壽・寿」の場合には,いわゆる行書,草書の形から楷書化したという略字の作り方で,これが略字の作り方のほとんどである。省略したり続けて書いたりしながら簡略化する。それを今度は楷書化して,活字を鋳造して使っているということになるかと思う。
 表外漢字でも,そういう目慣れがあるものについて,よく使われるものについては略体化が可能かもしれないが,余り使われないものについてはやはり正体のままということになるのであろうか。
 そういうことを考えると,隣の真ん中の列の上から2段目の「假・仮」という字は,「にんべん」に反という字で,行・草書化の楷書化ということで略字を作っているわけであるが,これと並べて,実は当用漢字時代から常用漢字に引き継いで「暇」 という字があるが,これは略体にしないで当用漢字,常用漢字の中に入っている。したがって,「つくり」の部分が同じ構成要素を持っているものでも,略体化しているものと略体化していないものとがあるという例になるかと思う。
 なお,千代田区霞が関の「霞」という字も,人名漢字に入っているものであるが,略体にしないで使う。
 こういう例は実はほかにもあって,例えば,皆さん方のお手元にある「漢字字体資料集(諸案集成2・研究資料)」と書いてあるものの98ぺージを御覧いただきたいと思う。これからこういう資料を使って勉強していくことになる。98ぺージの最後の行に,ーこれは山田忠雄さんの『当用漢字の新字体』という著作を収録した部分だがー今の「暇」と「仮」のことについて, 摘要のところにコメントを書いていらっしゃる。同音符の「暇」をさておきたるのは不統一というような言い方をしていらっしゃる。
 これと同じようなものとして,102ぺージの,一番上側に付いている179番を見ていただくと,「独」「触」「濁」について,やはり略体化の採り方について,下側にそのようなことが書いてある。
 同じように,104ぺージの上側のおしまいの方であるが,282番の「仏」「払」「沸」についても,「仏」「払」は当用漢字で略体を採ったが,「沸」は正体のままである。
 そういうふうに,略体の採り方というのは,当用漢字でも全部がドミノ現象を起こしているわけではないのはどういうことかというと,当時いろいろ言われていることなど,作られた時の問題もあろうけれども,日常における使用頻度が高いものと低いものという問題,つまり親近度があるかないか,もう少し言ってしまえば,略体での見慣れ,読み慣れ,使い慣れがあるものは採用したが,使用頻度が低くて身近でないものはそのままであった。つまり歴史的にどう使われてきたか,現在どう使っているかということが背景にあったのかなということかと思う。みんなが分かる場合には,略体がそのまま使われるというふうになっていくのかなと。
 時間がないので,まだいろいろ申し述べたいこともあるが,取りあえずということで,以上にとどめておく。

清水会長

 ありがとうございました。

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