国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 その他1

清水会長

 国際化をまず日本語からということで,日本語の話し言葉は大変大事なことになってまいる。
 何か御意見,また御質問があれば,どうぞ。

井出委員

 これは第3委員会に関しての質問というよりは,22期国語審議会全体で考えなくてはいけないことではないかと思って申し上げる。
 今,水谷主査の御説明に,日本語教育とか日本語像という中に国語教育という言葉が出てきた。こういうコンテクストで,日本人の言葉,外国語とか日本語という言葉が使われているときに,大変なことになるとは思うが,外来語とか字体を統一するようなことも私どもが考えなければならないなら,まず「日本語」なのか,「国語」なのか。私たちは第1委員会で言葉遣いの問題を議論しているけれども,それを「日本語」としてとらえるのか,「国語」としてとらえるのかで視野が全然違ってきてしまうわけである。その辺について,第3委員会でお話しになられたのであろうか。

水谷(第3委員会)主査

 第3委員会では,その問題を今まで取り上げていない。恐らく今後の課題として避けられない問題になってくるだろうと思う。特に「日本語」という言葉の方が問題が少ないかもしれないが,「国語」という言葉を我々がどう使うべきかということを突き付けられてくるであろう。国語審議会を日本語審議会とすべきだという意見も,きっとどこかにあるだろう。それに対して,なぜ国語審議会でなければならないかという説明ができるかどうか,あるいは捨ててもいいのかということについて,井出委員もおっしゃったけれども,総会全体の問題としてお考えいただけると有り難いと思うが,第3委員会としても,ほかのこととの関連の中で避けることはできないと覚悟はしている。

井出委員

 そう申したのは,第3委員会の議論を大変面白く拝聴したが,外来語とか,そういう用語のことを除くと,第1委員会で考えていることと非常に重複しているものがある。あえて言えば,第1委員会は日本語だけを言葉としてとらえて「言葉遣い」と言っており,そのときには外の言語のことを考えないで「国語」としてとらえていて,そして第3委員会は「日本語」としてとらえている。そうすると,言語教育をどうするか,言葉遣いの教育をどうするかといったときに,整合性の問題が出てくる。同じ審議会の中で,第1委員会と第3委員会で「国語」と「日本語」ととらえているもののずれがあるように外からは見えるんじゃないかと思って,危惧しているわけである。
 そこのところは,私ども第1委員会としても「日本語」のスタンスを入れて考えなければいけないというようなインプットをいただけると,一つのまとめができるときには,そこにギャップがなくなる。先に行っての心配を今から提示しているわけであるが,以上である。

清水会長

 今のような問題について,事務局の方ではどういうふうに考えているか。これは難しい問題だと思うが……。

鎌田国語課長

 実は決まった考え方が確立されているものではないというふうに考えるが,法令上のおおまかな考え方の整理だけで申し上げたいと思う。
 法令上,「国語」あるいは「日本語」と使っている場合があるが,「国語」というのは,日本国民に対して母語としての言語という意味で使われている場合が多い。「日本語」と使う場合には,世界の諸言語の中の一つという客観的な意味での言語ということで用いられることが多いのが実態である。

平野委員

 第3委員会の議論に参加して素人として思った印象であるが,今の問題で,「国語」という表現が使われているのは,どちらかと言えば小学校・中学校の教育に関係する場面であったのではないかと思う。
 ただ,資料3の4ぺージの一番最後の行に出ている「国語能力育成を考えたい」というところの「国語」は,ややボーダーのところにあると思うが,ここの「国語」という用法も,実はその一つ上の「国語教育がどう行われており云々(うんぬん)」ということに引きずられて出てきた「国語」という表現かと思う。国際社会の全体で,我々の言葉を考える場合には,多分,第3委員会では「日本語」という表現を使っていて,そこから国内の初等・中等教育の問題として見たときに,国語教育ということで「国語」という表現が出てくるという,そういう関連だったのではないかと私は理解しているけれども,それでよろしいか。

水谷(第3委員会)主査

 正直に申して,意図的には全然考えていない。今お話しいただいて,なるほど,そうかと理解した次第である。話の中では,今おっしゃったように,世界を前提として使っていくときは多分「日本語」という語を用いて話し合っていると思うし,国の言葉という意識と国民の言葉という意識,国語教育の言葉としての意識,そういう枠組みが今どれぐらい妥当性を持っているかというようなことを検証する必要もあろう。法的な決まりの中ではどうだということとは別に,日本人が今現実に持っている意識はどうなのか。しかも,一部の知識人たちの意識についてだけ考えるのではなくて,日本人全体の意識について考える必要があろう。さらに,同じことを日本だけでなく,例えば韓国や中国では――韓国の場合には「国語」という言葉があるから,そういう言葉をどう見ているかということまで含めて,私たちの第3委員会では情報をできるだけ多く集めて議論しなければいけないだろうとは思っているが,個人的には,今はとてもお答えが出せる状況ではない。第3委員会のどなたか,助けてくだされば有り難いと思う。

千野委員

 助けることにはならないと思うけれども,今,水谷主査がおっしゃったように,その国の言葉を「国語」という言葉で言い表しているのは,私の知る限りでは日本と韓国で,そのことをもって非常に国家意識が強いからだというふうな解釈をする方もいるけれども,必ずしもそうではないと思う。英語とかフランス語の場合は,「国語」というふうにあえて言っていないのではないかという気がする。
 日本語と韓国語の場合は,くしくもというか,あるいは植民地的な背景もあるのかもしれないけれども,「国語」というふうに言っている。そういう特色があるということで,先ほどの「日本語」なのか,「国語」なのかという提起は私もとても興味深いなと思ったけれども,私はどちらも必要な概念でないかと思っている。「日本語」でもあるし,「国語」でもあるというふうに取りあえずは思っている。

清水会長

 ほかに,何かどうぞ。

土谷委員

 真正面に国語課長が座っているので,質問したいと思うが,外国人に国語課とか国語課長というのを紹介する場合に,例えば英語ではどう言っているのか。

鎌田国語課長

 文部省・文化庁の中における課名について,英語訳をどうするかという基準を作っているが,その際には,私どもの課はジャパニーズ・ランゲージ・ディビジョンと称している。

甲斐委員

 国語研究所の今年の小さい研究テーマの一つに,「国語」と「日本語」という用語をどう考えていくかということを立てている。ただ,これは2年間ぐらいの予定でやっている。というのは,江戸時代から「国語」という言葉はあるわけで,それがどういう文脈で,どういう語と並んで使われているかということも調べていきたいという意図を持っているからである。
 今も話題に出ていたように,法令上の問題もある。それから,国語研究所とか国語課というように組織上の問題もある。それから,国民の意識の問題もある。大学などで言うと,教育学部というのは,例えば国語科とか国語教師というように,「国語」を使い続けている。それに対して文学部等は,次第に「日本語」「日本文化」「日本文学」「日本史」というような形で,「日本」が使われてきているが,いろいろな領域・分野で,まだ今のところすみ分けがあるような感じがある。
 それで,私どもは非常に切実な問題として「国語」と「日本語」を真剣に検討しているところがあるわけだが,今の第3委員会の資料の1ぺージの3のところに「国語能力」という言葉が出ている。この場合の「国語」というのは,日本人の国語能力という,先ほど平野委員が言われたけれども,ボーダーラインにあるような言い方かなというふうに私も思っている。研究所の方で今研究を進めているので,今期のうちに,いつか申し上げることができるのではないかと思っている。

清水会長

 大いに期待したいと思う。

牛島委員

 確かに,資料3で「日本人の国語能力」という書き方がされているけれども,意識としては「言語教育」の方にだんだん変わりつつあるということが世の中の流れである。今まで長い間「国語」という言葉が使われ,甲斐委員がおっしゃったように,いろいろと組織的な問題とか呼び名の問題があるので,どちらかに決めるというのは難しいと思う。新学習指導要領「国語」でも,ニュアンスとしては「言語の教育」「言語能力」ということが強調されるようになってきているという流れがあると思う。

徳川(第1委員会)主査

 日本の場合は日本語が使われている国,日本語を母語としている人が住んでいる国は日本だけであるから,「日本語」と「国語」というのは非常にうまく重なり得ると思うが,例えばドイツ語というのは,ドイツとオーストリア,あるいはスイスでも使われているわけであるから,ドイツがドイツ語を「国語」などと言うと,非常に越権になるということもあると思われる。英語なども同じように,幾つもの国で使われている言語である。
 さっき江戸時代から使われるようになったというのは,「国語」というより,むしろ漢学に対する国学というものを打ち立てていこうという思想運動であろうか。それに基づいて,国語とか,国史とか,そういう言葉が生じてきた。中国の人は,もともと自分の言語が世界の言語と思っているから,「国語」などというみみっちいことは言わないが,周辺の国は「国語」と言ってきたわけで,日本では非常に都合よく――韓国も同じであるけれども,うまく落ち着いた。しかし,よく考えてみると,中国の周辺国でもないんだから,「日本語」でもいいじゃないかという声が出てくるのは当然だと私は思っている。
 香港では,返還前はマンダリン(北京官話)のことを「国語」と言っていた。つまり,香港では広東語を使っていたわけであるが,その広東語のことは「国語」とは言わずに,北京語を学ぶときに「国語」と言っていたわけである。台湾でも実は「国語」という言い方があるが,台湾語に対して北京語が「国語」なのである。世界における「国語」の使われ方は,そんなところである。
 ただ,教科名として,歴史的にずっと長く使われてまいったので,それをどうするかというのは非常に大きい問題ではないかと思っている。私どもの子供のころは,国語教育というのは「国漢」と称していたことを皆さん覚えていらっしゃるだろうと思う。

輿水委員

 今,徳川委員がおっしゃったことの多少蛇足であるけれども,中国語のことが出たので,ちょっと御紹介すると,確かに徳川委員がおっしゃるとおり,中国では「国語」という言葉は使っていない。つまり自国の言語のことを「国語」とは言っていないのだが,しかし,これは大陸でのことであって,台湾では,今も「国語」という言葉がある。
 ただ,これは日本語とはちょっと違うニュアンスかもしれない。つまり標準語とか共通語というニュアンスが多少ある。これも徳川委員のお話の中にあったと思うが,そんな使い方で,台湾では「国語」というのを使っている。
 大陸では,「国語」というのは終始一貫使っていないが,これは恐らく少数民族がたくさんいるので,実は正式には「中国語」という言い方もできないのである。言葉の端々に「中国語」というのが出ることはある,正式な文書としては,漢民族の言葉であるから「漢語」というのが正しい。したがって,今は「漢語」というふうに言えば大陸の人の立場だし,「国語」と言えば台湾の人の立場だし,その人の背景まで分かってしまう。
 また香港や東南アジアでは,中華の「華」を取って「華語」という言い方で中国語を指している。それぞれ自分の使っている言語のことを「漢語」なり「華語」なりと言うが,台湾の場合は,スタンダードな言葉であるという意味で使っていて,日本語の「国語」とはちょっと違うような気がする。
 ちなみに,大陸でも台湾でも教科名の国語は「語文」という科目名で,やはり「国語」という名前は出てこない。
 蛇足であるが,以上である。

柏倉委員

 私が知っている限りでフランスの状況をちょっと御説明すると,フランスの場合は,憲法第2条だったと思うが,フランス共和国の言語はフランス語であるという規定がある。どうしてそんな規定が出てきたかというと,1992年に発効したマーストリヒト条約で,ヨーロッパの国家の垣根がどんどん下がっていって,いろんな人たちが住むようになっている。そういうことに対するフランス国民の間の一種の危機感というのがあった。
 そこで,国境の垣根を越えてイギリス人,ドイツ人,イタリア人がどんどん入ってくるけれども,フランスの言語は,言ってみれば「国語」はフランス語だぞという規定をわざわざ第2条に書いたわけである。
 もう一つ,実は問題があって,フランスはフランス語だけをしゃべっているわけではなくて,現に,いわゆる地方語と言われるアルザス言葉やコルシカの言葉を日常的に使っているわけである。それは方言ではなくて,言葉として違うわけであるけれども,フランス共和国の言語はフランス語だと規定したときに,そういうものをどう位置付けるかという非常に難しい問題が今出てきている。これについては,まだまだ議論が行われているということである。
 結論的に言えば,フランスでも,「国語」という言葉は使わずに「フランス語」といきなり言うわけであるけれども,一つの共同体,国が共通に使う言葉はフランス語だという規定を憲法にしているということである。
 ほかの国の例として,例えばスイスでは,スイスの国語は,ドイツ語であり,イタリア語であり,フランス語であるという規定が,これもたしか憲法にあったというふうに記憶している。

徳川(第1委員会)主査

 今の御発言とも関係があるし,輿水委員の御発言とも関係があるのだけれども,このごろは,日本の中でそういう「国語」の使い方はないと思うが,地方の小学校などに行くと,「国語を使いましょう」というような張り紙がしてあったことがある。ちょうどスタンダード・ジャパニーズというか,もう少し言えば,「学校教育で教えている日本語を」という意味だったと思う。
 それでは,ふだん使っている方言のようなものは「国語」じゃないのかということになっても,それは日本語だ,「国語」は学校教育で教える言葉だというところに逃げ込める良さがあったかと思われる。学校で教える言葉を「日本語」にしてしまうと,ふだん使っている方言のようものは日本語じゃないのかという問題になってしまう。「国語」の「標準的な日本語」という意味合いがだんだんうせてきたのかもしれない。

清水会長

 第1委員会と第3委員会は微妙な接点がたくさんあるところであり,今話されている問題も今後の課題の一つかと思う。

甲斐委員

 国語教育の世界で,学習指導要領では「国語」と言っていることに関連して,もう一言申し上げたいと思う。
 実は,学習指導要領の目標,国語科の目標というところの結びは,過去何十年というのは大げさかもしれないが,「国語を尊重する態度を養う」という言葉で結ばれている。その「国語を尊重する」というときの「国語」という言葉は,日本人を形成する,人間形成にかかわる言葉として使われているわけである。しかも,国語の学習指導要領には,どういう教材でなければならないかということで――これは人間形成にかかわるわけであるが,教材選択の観点が載っている。学校教育の「国語」という言葉を「日本語」に変えたらどうだ,「日本語教育」でどうだという発言があるわけだが,これは客観的に言って,「国語」という教科には,今述べたように日本人を作るという側面があるので,なかなかすぐには「日本語教育」に行きにくい。「日本語教育」と言うと,日本語という言語を身に付けさせるというニュアンスが強いので,ちょっとすぐには置き換えにくいという問題があるということである。

平野委員

 私は大学生の日本語能力に非常に心配を持っているが,そういう立場で主張したいことは,大学1年に入ったときに全員に日本語教育をすべきであろうということで,これはモデルがあって,アメリカの大学などではフレッシュマン・イングリッシュというのをやるわけである。ということで,大学1年生には日本語の教育が必要であろうと思っているけれども,その場合には「国語教育」を大学生にやるとは言わず,「日本語教育」と言うと思う。
 井出委員が最初に問題提起なさって,今,会長もそれを受けられたけれども,第1委員会と第3委員会の審議内容の間に相互乗り入れ性があるということは御指摘のとおりだと思う。
 その井出委員の発言を受ける形で,私がちょっと第3委員会の御議論を紹介したのが,今のディスカッションにつながったけれども,そこで私が御紹介した趣旨は,時と場合によっていろんな表現があるということだと思う。表現がいろいろあった方が面白いということなので,第1委員会と第3委員会が今後連携していくのはとてもいいことだと思うが,そのために,「日本語」と「国語」のどっちかにしなければいけないということにはならないのではないかなと思うのであるけれども,よろしいであろうか。

前田委員

 先ほどのことと関連するけれども,第3委員会で取り上げている問題の中に,「言語と文化について」というのがあった。教科として今教えられている国語というのは,やはり文化とのかかわりが非常に強いわけで,外国人が日本から旅行に来た人に物を売るための言葉として日本語を学びたいという場合に,当人にとってはそういう文化的な背景まで考える必要は全くない。それだけの日本語を教えてもらえばいいという気持ちが強いわけである。もちろん,日本人としてはそれだけで満足できるかどうかという問題はある。
 そういう点で,「日本語」という場合には客観的に見られるところがあるので,ある意味では骨組みとしての言葉というような意味合いを中心として考えられるかと思うが,「国語」という場合には,文化としての日本語,言葉だけではなくてその背景というものをやはり考えに入れざるを得ないのではないか。その辺のところが,この審議にどうかかわるかというのはこれからお考えいただくところであるけれども,個人的には,私は文化とのかかわりということを重視して考えるべきであるというふうに思っている。

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