国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 第3委員会における審議状況

清水会長

 それでは,第3委員会の水谷主査からひとつお話を伺わせていただきたいと思う。よろしくお願いする。

水谷(第3委員会)主査

 それでは,第3委員会の御報告を申し上げる。
 時間があと18分ほどしかないようであるから,用意していた御報告の仕方と変えて,効率的な行き方で,お話し申し上げようと思う。「第3委員会における論議の概要ー6」の資料を御覧いただきたい。
 1枚目の,審議経過の概略を述べた紙の次に,「はじめに」以下の目次が挙がっている。この目次の中の「I 国際社会における日本語」,「II 日本語の国際化を進めるための方針」のところまで,それそれ1,2,3,あるいは(1)(2)(3)以下,20本ばかりの柱がそこに挙がっているけれども,この部分の内容については3月の総会の時におおよその御報告をした。それを文章化した形で今回は用意している。したがって,どういう意図でまとめたかということは省略させていただいて,今日たくさんお知恵を拝借したい部分,6月の時には審議経過について御報告したけれども,まとめとしては今回初めて出てきている「III 国際化に伴うその他の日本語の問題」の部分,1の「外来語・外国語増加の問題」と2の「姓名のローマ字表記の問題」の部分に集中して,少しだけ御説明申し上げたいと思う。
 12ぺージになるが,「III 国際化に伴うその他の日本語の問題」の冒頭のところ,「近年,社会的に問題となっている,外来語・外国語(いわゆる片仮名言葉など)の増加の問題,及び,姓名のローマ字表記の問題について,以下に見解を述べる」ということから始まっている部分である。この下の方,11,12行目の辺り「1 外来語・外国語増加の問題」のところ以下,中で述べていることの概要は,近年の国際化の進展等に伴って,外来語・外国語の急速な増加,一般の社会生活における過度の使用といったものが,社会的なコミュニケーションを阻害している。さらには,それだけではなくて,例えば,意味のあいまいな外来語などの多用によって,伝統的な日本語の良さ自体をも見失う危険性にもつながるものである。
 外来語・外国語の使用というのは,一概に否定すべきものではない。確かに必要性があって使われている面は認識すべきであるけれども,今申し上げたような,特に年齢差の中でのギャップがコミュニケーションを阻害するということなどをはじめとして問題を引き起こしているので,結論からいくと,官公庁や報道機関などにおいては,その立場から言って,発信する情報が非常に広範な範囲に伝達される必要があるわけだし,人々の言語生活に与える影響が非常に大きいということを考えると,官公庁や報道機関等では,例えば一般に定着していない外来語・外国語を安易に用いることなく,一つ一つの言葉――と申すのは,全体として外来語がいいか悪いかということではない,ある部分は必要なことがある,ある部分は使用しない方がいいことがあるという認識に立った上で,一つ一つの言葉について使用の是非について慎重に判断して,その上で必要に応じて注釈を付けるといった配慮を行う必要がある。
 そのときには,一つ一つの言葉の周知度,あるいは難度といったものを何らかの形で分類をして,14ぺージに挙げてあるが,3分類した下に,「ローマ字の頭文字を使った略語」というごく簡単な表になっている。各都道府県などでも,こういった努力は結構していて,詳細な表を作っている県もあるし,全くやっていないところもあるけれども,それを一つの目安として,こういった形で一つ一つの言葉の位置付けをして,そのまま使ってもいい言葉,あるいは言い換える努力をする可能性のある言葉,必要に応じて注釈を付けて使う言葉といったような分け方を意識しながら,特に官公庁,あるいは報道関係機関などでは扱っていただきたいということが述べてある。
 もう一つの項目である15ぺージの「姓名のローマ字表記の問題」についてであるが,日本人の姓名をローマ字で表記するときに,欧米の人の名前の形式に合わせて,名前を先に,姓を後にという習慣が明治以来ずっと続いてきていて,現在でもこれが多く使われている。ところが,最近,もともとの日本人の「姓一名」の形で表記すべきだとする意見が多く出てきている。国語審議会としては,多言語,多文化と申すか,一つ一つの文化的な背景を持つ世界の人々,その名前の固有の形式が生きる形で表記されることが望ましいのではないかと考える立場から,日本人の姓名のローマ字表記については,「名一姓」ではなくて「姓一名」の順とすることが望ましいと考える。これも,これから,官公庁や報道機関等における表記や学校教育における英語等の指導においても,この趣旨が「生かされることを希望する」という形で提案している。
 実際に調べたところ,既に姓を大文字で書いて,あとカンマを付けて小文字で名前を付けるというような使われ方も,学会関係を中心にして多く表れてきている。同じ英字紙でも,韓国や中国の人名の場合には「姓ー名」の順番で出ている。資料を集めていて一番印象に残ったのは,ワシントンポストの記者が「なぜ日本人のローマ字書きの名前が「名ー姓」であるか,私はそうではないと思うけれども。」というような意見を述べていたことであった。ただし,それを決定するのは日本人自身である,日本人自身が決めてくれなければ,私はそれは使えないという記事であった。
 ちょっと長引いたが,今,御説明した部分に集中させて御意見が賜れればと思う。

清水会長

 姓名のローマ字表記は,「以上の趣旨が生かされるよう希望する」という形で審議会として出す以上,それなりの社会的な影響がこれから出てくるというふうに当然考えられるわけであるので,この辺について特に御意見をということで主査の方からお話があった。
 どうぞ御自由な御質問,御発言をお願いする。

松岡委員

 前回の総会で,やはりこのことが話題になって,それ以後,実は私自身の自分の名前の使い方をこの観点から観察していた。そうすると,書き言葉に関してははっきり「姓ー名」なのであるけれども,話しているときは,自分を紹介するときに「My name is Matsuoka Kazuko.」とは絶対に言わない。やはり「Kazuko」を先に言う。それはどうしてかと考えると,多分,私の付き合うのは英語圏の人だけだから,ほかの言語の方たちはどうか分からないけれども,家とかファミリーネームで付き合う関係ではなくて,いきなり個人に行くから,ファーストネームなんじゃないか。
 私は,たった2か月だけの観察だから,これが絶対的な結論とは思わないけれども,自分自身がそういう使い方をしているということに気が付いたので――ここも表記というふうにはっきり書いていらっしゃる。ということは,話し言葉ではなくて書き言葉なんだということが暗黙のうちに出るけれども,その辺のところをちょっと一言お書きになっておいた方がというか,話し言葉と書き言葉というのはやはり大分違うんだということで,その国の言葉を話すということは,ある程度郷に入っては郷に従えというふうに,英語の習慣あるいはフランス語の習慣,韓国語の習慣,中国語の習慣,その中に表れているその言葉を話す人たちのメンタリティーに私たちが合わせていかなければならない。
 逆に言えば,外国の人たちが日本に来て自己紹介をするときには,「姓ー名」で言うことによって私たちの言語圏とかメンタリティーに一歩近づく。その一つの証明というか,あいさつになるのではないか,そういうようなことをちょっと考えた。

水谷(第3委員会)主査

 確かに「表記」という言葉だけでは不親切だと思う。もう少し言葉を加えて,例えば,「英語文脈が非常に強く影響を与えるであろう話し言葉の場合などではなくて」とか,何かそういうのを付けておくといいかもしれない。
 多分,この問題は今これで決定的にこうすべきだというふうにいくのではなくて,こういった事実があるということを日本人全体で自覚してもらって,次のステップヘ向けてどう考えるかということを世論の中に形成していくということだろうと思うので,そのガイドラインはできるだけ親切にしておく方がいいと思う。いい御意見,ありがとうございました。

清水会長

 言葉遣いの方とも絡む問題であるし,どうぞ。

鳥飼委員

 今の水谷主査のお答えで確認させていただきたいのであるが,要するに,書く場合,あるいは話し言葉の場合で,ガイドラインを分けずにおくということでよろしいのか。

水谷(第3委員会)主査

 いえ,分けて……。

鳥飼委員

 私は,先ほどの松岡委員の御意見はよく分かるけれども,かなり意識して自己主張しようと思うので,書くときには姓の方を大文字にして書いている。しかし,確かに自己紹介を英語でしようとすると,「名一姓」の順で,ふと出てきてしまう。だから,話し言葉では英語式の言い方で出るということはよく分かるのであるけれども,それはある意味で慣れというものもあるかもしれないし,相手の人が英語圏の人だからこういう言い方,あるいは東欧圏だから日本式にやるというようなことではなく,先ほどの敬意表現とはちょっと違って,自分の名前というのは自分のものだから,相手によって言い方を変える必要はない,日本人の名前の順でいいのではないか。
 なぜそういうことを申すかと言うと,これまでなかったのであるが,3年前ぐらいに私は初めて英語の時間に学生から抗議を受けた。英語の時間というのは,大体英語を学ぶものだから,必然的に名前をひっくり返して出席を取る。ネイティブの先生なんかの場合には,「あなたはトムよ」「あなたはジェーンよ」みたいな英語のあだ名を付けて授業をする先生もいたりして,それが当たり前のように英語の教室の中では行われていたのであるが,ある時,私はあだ名までは付けないけれども,ある意味で当然のようにひっくり返して出席を取っていたら,ある学生が手を挙げて「僕は,名前は山田太郎です。夕ロウ・ヤマダは僕の名前ではありません。自分の名前で呼んでください。」と発言した。それで非常に衝撃を受けて,確かにそう言えばそうだということで,その日の授業をやめて,日本人の名前は自己紹介のときにどういうふうにするべきか,あるいは呼ぶべきかというディスカッションをしたのであるが,その時はクラスは真っ二つに分かれた。
 ただ,真っ二つに分かれたのであるが,英語表記の順序でいいという人の意見は理由が二つあって,英語の時間なんだからアメリカ人になり切ろうよみたいな,それが一つ。もう一つは,今おっしゃたように,自分の名前が先に来る方が個人としてのアイデンティティーが出てくるような感じがするという意見だったのであるが,それでは中国あるいは韓国,ハンガリーの人たちは日本人と同じ「姓一名」の順番だから,アイデンティティーがないのか。それはおかしいだろうということで,私が見ている限り学生の意識もだんだん変わって,日本人の自分の名前というものはどこへ行っても自分なんだというふうになってきている。
 もちろん今は過渡期であるけれども,私は,表記の場合にはこうしよう,でも話し言葉の場合には,アメリカ人あるいはイギリス人,英語圏に合わせようというのは,ちょっと承服しかねるところがある。一本筋を通した方がよろしいのではないかというふうに思う。

水谷(第3委員会)主査

 もしかすると先ほどの松岡委員の御発言は,日本人自身がその問題について考えるときに,書くときには頭の中がこう動くけれども,話すときにはこういう現象にぶつかるよというような助言的なものと考えるなら,そこまでは問題ないわけである。今のアイデンティティーの問題を前面に押し出すとすれば,理想としてはそちらへ向かうべきだというようなことになるかもしれないが,最終的には,第3委員会でしっかり議論して決めることにしたい。
 僕自身は,考えてみたら,自分が英語で話をするときには「My name is」と言った後に「Mizutani」だけで終わるときがあるなと。あれは何なのか。こんな時間がない忙しいときに余分なことを言い出して申し訳ないが……。

牛島委員

 前回の総会の時に,私,官公庁や報道機関等々,行政機関に対する横文字の規制はどのようなものか,規制すべきじゃないだろうというようなことをちょっと申し上げて,そこのところは大分考えていただいているように感じた。
 そのことについて13ぺージの下の方にいろいろ書いてあるが,最後のところ,私,ちょっと気になるのは,「後の表に示すような取扱いの区分を設けることが考えられよう」。だれが考えて,だれが示すのかなというのが少し気になるのと,I,II,IIIという表を出していらっしゃって,「一般的に使われ,国民の間に定着しているとみなせる語」「定着が十分でなく,日本語に言い換えた方が分かりやすくなる語」「定着が十分ではないが,適当な言い換え語がない語」と区別をするのは,一体だれがどう区別するんだろうというのが気になった。これは地方行政に任せて,こういう表を出しなさいとか,こういうふうに使った方がいいというようなことをお示しになるのか,あるいは地方等々にお任せになって,できるだけこういうふうにした方がいいぐらいにとどめられるのか,その辺のところをちょっとお聞かせいただきたいと思う。

水谷(第3委員会)主査

 前の方の「考えられよう」という言い方は,改めて考えることにしたい。
 今の表の方であるが,この示し方についても話し合う。実はこういった表を自治体ごとに作らせると,自治体によって差が生まれてくる。現実にあるものでも,大きな都会の場合と田舎の場合とはかなりの差かある。都会の場合は外来語化が進んでいるかというと,必ずしもそうではない。行政当局が選ぶときに,随分先取りしたところもあるので,その辺で,どれがいい水準であるかを打ち出すのはむしろ危険であって,それぞれが努力するためのやり方を提示することがいいんじゃないかなと思うのであるが,この表を見せられただけだと,今,牛島委員がお感じになったことは,いろんな危険性を持っているだろう。だから,それを防御するために,これをどう見るか,どう扱うかということについての指示をここに加えておけという御助言だと受け取ったのだが……。

牛島委員

 もっと語例として挙げるべきものがたくさんあると思う。だから,そのたくさんのものを出すのか。例えば世代差とか年齢差によって,定着が十分であるか,十分でないかというのは変わってくるわけである。一応世論調査とか,いろいろあると思うけれども。だから,たくさん出してある程度方向を示すのか,あるいはお任せをするのかというところがちょっと気になったものであるから。もし御提示いただけるなら,できるだけ詳しい方がいいのかなというのも,地方行政でばらばらにならない方がいいと思ったからであるから。一応審議会としてはこの程度のことは書いてくださいというような形をお示しいただいた方がいいかなとも思った次第である。

水谷(第3委員会)主査

 前回の資料では,これよりもはるかに多くの語例を出していた。もっと増やそうかという意見もあったが,逆に,たくさん出して固定させてしまうと,それをそのまま受け止める可能性があるだろう。それから,説明が徹底しない。それこそ住民の意識の大きな差があるとすると,共通性の高い部分で,こういう背景の言葉,そのまま使っていいような言葉のグループがあるよね,説明がないと困るのがあるよねという,その分け方の基準自体が明確に入る方がいいだろうということで,スリム化した形になってきているが,これはもう一度議論してみる。

牛島委員

 余りスリムになり過ぎて,分かりにくくなっている。

水谷(第3委員会)主査

 これは防衛的な発想が大分働いていて,やっつけられないためにはこの方がいいけれども,使う人の立場を考えると,ちょっと不親切だなと私個人的には思っている。また相談して決めたい。

牛島委員

 よろしくどうぞ。

前田委員

 今の外来語の例を挙げることであるけれども,これを今年の12月に出した段階で,一応こういう形で認められるとする。それが後に残っていくことになるわけだが,年月がたつと,この中でも判断に合わないものが出てくる。そういったことについて手当てを考えておくのか。この審議会も今の形ではなくなるわけだが,こういったことについて何年か置きに例を考えたりするようなことがあればいいけれども,このままの形でずっと残って,何となく不自然だというふうな具合になってもちょっと困るような感じがするので,その点についてはどういうふうなものであろうか。

水谷(第3委員会)主査

 今のは,表の見方ということの注書きの中か,文章の中ではっきりと示しておくべきだと思っている。多分,話し合っている中では,それは予想しながら,上から6行目のところに,「個々の語の一般社会への定着度は年々変化するため,この表に掲げた語例も各欄に固定して考えられるべきでなく」と書いてあるけれども,これを通過して読み飛ばしてしまうこともあり得るわけだから,より親切に,表のところにもう一言加えておいてもいいかもしれない。大事なことだと思う。
 事実,今,実は既にここに掲げている表でも,語例を減らしていく過程で,理解度には個人差がある,年齢差があるという議論もあったので,今の御意見を生かさせていただく。

清水会長

 よろしいか。ほかに何か。

山口委員

 最後に,国際化を離れてもよろしいか。
 さっき敬語の問題で,勝ち負けなどという粗雑な言葉を使ってしまって,そのおわびとして一言申し添えておきたいと思う。
 日本語の敬語の難しいのはどこかと言ったら,相対敬語だからである。つまり相手とか場面によって変えなくてはいけない。そこが習得するときに非常にネックになっている。韓国語なんかは絶対敬語であるから,使い方が非常にパターン化していて簡単なわけである。だから,私などが日本語の敬語を簡素化するという場合の意味というのは,余り相手とか場面によって変えなくても済む方向を目指すという意味なので,敬語をなくすということではない。この点は,強調しておきたい。以上,敬語を簡素化するということは具体的にどういうことなのかということを申し上げて,粗雑な言葉を使ったおわびとしたいと思う。

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