国語施策・日本語教育

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次第・議事要録 第1委員会

清水会長

 それでは,先ほど申し上げたように,これから協議に入りたいと思う。
 初めに,主査の先生から,各委員会とも三つずつ資料があるけれども,その3番目である寄せられた意見の概要について御説明いただき,それに基づいて試案をどのように修正したかについて御説明いただく。その後,御意見をちょうだいするという順序でまいりたいと思うので,よろしくお願いする。

井出(第1委員会)主査

 それでは,第1委員会から,試案に対して寄せられた御意見の御報告と,それに対する対応を申し上げる。
 お手元の白い「第1委員会に寄せられた意見(会議用)」というファイルを御覧くだされば分かるように,第1委員会にいただいた御意見は,全部合わせて32件ある。その中から,「意見なし」とするものを引くと26件である。その中で,はっきりとした賛成,又は反対という御意見をくださったものと,ただそれに触発されていろいろな御自分の御意見をおっしゃったもの,特に御意見のないものなどもあったが,総じて,大方の方からはこの「敬意表現」という考え方の提唱に賛成という御意見をいただいている。
 それから,個々に,試案に対して細かく建設的な御意見をいただいたものもある。それについてはお手元の審議資料1-2を御覧いただきたい。この「加筆修正版」を見ていただくと,削除が2本のライン,加筆は1本のアンダーラインになっているが,このような形で,より分かりやすい答申案にするための加筆修正をした。
 これをざっと見ていただくと,細かく訂正が入っているが,その中で一つだけ大きなところがあるので,「加筆修正版」の9ページから10ぺージにかけて御覧いただきたいと思う。内容的に変わったわけではないが,構成上変更があったものである。これは第III章の「2 敬意表現の概念」の中の「(3)敬意表現の実際」というところであるが,それの「A場面に対する配慮」というところに二つの下位項目があった。一つは「改まりの程度」,もう一つは「相手に掛ける負担に対する配慮」ということなのであるが,これは別の項目にすべきであるという御意見をいただいて,それを小委員会で検討し,第1委員会の議を経た後,このように変更になった。つまり中の二つを別々の項目立てにして,そして,Bを新たに付け加えた。したがって,従来のB,Cが,C,Dとなっている。ほかには大きな訂正はない。
 それでは,審議資料1-3を御覧いただきたいと思う。全体的な傾向として,おおむね妥当であるという評価を得たわけであるが,御指摘いただいた問題点を修正に取り入れることができなかったものについて,件数としては団体のもの,個人のもの合わせて数件にとどまるが,個々取り上げて,それに対する第1委員会としての考えをここに述べてある。
敬意表現」という言葉・概念を誕生させたことに意義があると私どもは考えている。「敬意表現」という言葉がなければ,この言葉が指し示す概念を意識化することはできなかった。敬意表現を意識化することによって,日常の言語生活において言葉を選択し,内省するよりどころとすることができると考えているわけである。この件についてもう少し詳しく申したいと思う。
 私どもが考える「敬意表現」を提言することの意味というものは,次のようなものである。「敬意表現」という言葉が生まれる以前は,この言葉が指し示す概念世界を意識化することはしたくてもできなかった。言葉がなければその概念を思い浮かべることもできないわけである。これまでは,言葉遣いについて自分自身で反省しようとするときに,多くの人がまず頭に思い浮かべたのは「敬語」であったと思う。既に存在していた「敬語」という言葉が,私たちの意識で大きな位置を占めていたのではないだろうか。そこに今度提唱する「敬意表現」という言葉が登場したわけである。そのことによって,私たちは「敬語」というものの概念世界,ある人にとってはそれは縛りでもあったかもしれないわけであるが,そこから解き放されることができることになるわけである。そして,「敬意表現」という言葉を自ら持ちながら,日々の言語生活や特定の場面での言葉遣いについて反省することができる,そのよすがを新しく作り出したということになろうかと思う。

井出(第1委員会)主査

 子供への言葉遣いの指導も含めて,個々の表現については,「敬意表現」としての善しあしというこれまでにない視点から評価することができるようになった,そこに意義があると考えることができるかと思っている。
 「敬意表現」という概念を手にできたことの意義を強調するということは,「敬意表現」を生活の中で意識化することを進めることであると考えている。これが,第1の提言の趣旨が不明確であるということに対する私どもの返答である。
 次は,敬意表現,特に敬語について具体的なものが示されていない,あるいは範囲が広過ぎるというコメントに対する返答である。本答申は,敬意表現の提唱を主眼とするもので,特に尊敬語や謙譲語を使わない「敬意表現」のあることを意識してもらうことを優先させ,そのことに目が向けられるよう,説明の中で必要な例を挙げることに力点を置いたわけである。これはIII章の「言葉遣いの中の敬意表現」の中の2の「(3)敬意表現の実際」というところで具体例を挙げてある。
 敬意表現は,相手との関係や場面によって選択されるものであるので,多様な場面においてそれぞれにふさわしい言い方をするものであり,その例を網羅的に挙げるということは本来不可能なものであると思う。
 それから,敬意表現の選択の指針については,「IV 敬意表現についての留意点」において,特に問題とされる領域に関して基本的な考え方と留意点を示してある。
 3点目の国語施策としての方針が具体的に示されていないというコメントに対する私どもの考えは以下のとおりである。IV章の8「敬意表現の習得の場」というところで,家庭・社会,マスメディア等,学校教育,日本語教育の場で敬意表現を学び,身に付けるように提唱している。これは,それぞれの場で工夫と具体的な対応をしていただくことを求めているもので,そのための基本的な態度と留意点を示してある。
 最後に,名称についてのコメントである。「敬意表現」という名称が不適当であるという指摘もあった。これは総会でも度々話題になったことであるので,皆様も御承知おきと思うが,第21期以来議論を重ねてきたものである。新しい概念に対する新しい名称として多くの候補,すなわち「配慮の表現」「尊重表現」「礼儀表現」「丁寧表現」「待遇表現」などを検討し,最終的に,よりふさわしい名称として「敬意表現」を選択したという経緯になっている。
 第1委員会としての御報告は以上である。

清水会長

 ただ今主査から御説明があったような経緯を踏まえて,答申案原案として1-1の資料がある。試案に修正を加えた部分も書き込まれているわけであるが,それではこれを事務局の方で読んでいただく。

浅松主任国語調査官

 それでは,資料1-1,第22期国語審議会答申案原案,「現代社会における敬意表現」の目次は省略して,以下,まず「はじめに」のところを読む。その後,主査の御指示により,IとIIは割愛させていただいて,IIIとIVを読ませていただく。

〔「資料1-1」朗読〕

清水会長

 主査の御説明,そして概要,パブリックコメント等を踏まえて,一応答申案原案はこのようになっている。
 何か御意見,御質問があったら,お出しいただきたいと思う。

片倉委員

 大変よくまとめていただいたようで,感心しながら,前の原案よりも更に良くなっているようで,御努力を評価させていただきたいと思うが,一番最後のところの「学校教育」でちょっと気になることがあった。「児童生徒が相手や場面にふさわしい言葉遣いとは何かを考えることなどによってなされるであろう。」というのであるが,「敬意表現」というのは大変難しいので,小さい時に,こういうときにはこういうふうな表現を使うんだよということを教え込まれて――考えなさいと言われても,私なんかでも考えて,ここはどうするんだろうなというようなことがあるので,児童・生徒の場合は,考えなさいというよりは,なるべく具体的な例を挙げて教え込むという方が――大きくなってからよりは小さい時から,こういうときにはこういうふうに言うんだというのを覚えてしまった方が――簡単だと思うのである。小さい子に考えろ考えろと言っても無理なんじゃないかなと,それがちょっと気になった。

井出(第1委員会)主査

 お答え申し上げる。
 その件についてであるが,この部分は文部省の初中局の調査官の方などとも折り合いを付けて御理解いただいた上で,このような文面になっている。ここが今までの敬語教育と敬意表現の教育の大きな違いである。今までは敬語を教えるという形であったけれども,敬意表現というのは,形ではなくて言葉を使う,専門用語を使えばパロールの問題である。だから,敬語を教える以前から,例えば小学校1年生から,太郎ちゃんと花子ちゃんがぶらんこの取りっこをしたときに,太郎ちゃんが花子ちゃんにどう言って,花子ちゃんがどう感じたか,その言葉が相手を思いやった表現かどうかをその場その場の事例で考えさせる,それが敬意表現の教育ではないかということを私どもも考えて,御理解いただいた上でこういう書き方をしたわけである。
 したがって,教科書に載っている表現集ではなくて場面とセットで考えるということであるから,それはリアルな場面において,日常使っている言葉を反省させる概念として敬意表現があるということである。どうしても教えるという概念になると,皆様,形というものが今までの習慣から思い浮かぶわけであるが,日常ふだん使っている言葉それぞれが,すごく簡単な言い方でも,一つの「ごめんね」でも気持ちがこもっていれば,敬意表現になるわけである。そういうことで新しい概念ということを御理解いただければ,ここの「考えさせる」という言葉は意味を持って,敬意表現というのは形じゃないよ,どんな言葉でも敬意表現になり得るし,どんな丁寧な言葉でも敬意表現になり得ない場合があるんだよということを教える。そういう意味で,ここを「考えさせる」と書いたわけである。

清水会長

 いかがか。

片倉委員

 よく分かるが,それでもやっぱり日本の教育には,考えなさいとか考えてみようとかというのが,これにかかわらず多過ぎるようにいつも思う。そうすると,何か心構えの教育のような感じになって,国語審議会で日本語をどう使うかということだとすれば,もちろん敬意表現というのは言葉の問題じゃなくて,心構えとか相手を思いやる気持ちとかいうのに重点が置かれているという御説明は大変よく分かるが,なおかつやはり小さい子供にそんなに言っても,「分かったけれども,じゃどう言えばいいの。」ということになるんじゃないかなというふうに私は懸念したのである。

井出(第1委員会)主査

 もう一つ付け加えさせていただくと,国語審議会であるから,国語という科目を皆さんは思い浮かべると思うが,この敬意表現という概念は,国語以外の教科でも当然扱われるべき新しい概念になっている,そんなふうに思っている。

片倉委員

 これは国語審議会の答申として出されるので,確かに敬意表現というのは国語に限らず体全体で表現するというか,そういうことはあるけれども,ここで文章化するとすれば,具体的な日本語に即してというか,これだけだったら,私が小学校の先生だったら困ってしまうなという気がしたものだから申し上げた。どうもすみません。

清水会長

 御意見もいろいろあるが,ほかの先生方,このことについていかがか。子供なりに感じるとか,そういうことだろうと思うのであるが,そういうことを身をもって感じさせる。それが「考える」という表現になっているように私は思うわけだが,よろしいか。

牛島委員

 今,学校教育の件で,いろいろ疑問が出たところであるけれども,主査がおっしゃったように,もちろん考えさせるということがとても大切ではあるが,実際に,ここに敬語も含むと書かれているように,従来の敬語も教育の中に入っているわけである。だから,いつもいつも考えさせるわけではなくて,敬語というのはこういうふうなことがあるということは今までどおり教え,学習指導要領の中にもちゃんとそういうことが書いてあるので,更に今度は敬語を含む敬意表現を指導していく。本当に相互尊重を基本とした精神を子供のころから教えるということの方に重点が置かれているので,ある意味では,教え込むとか,何かをさせるとかというような問題ではなくて,本当の意味で子供を大切にしながら自分たちで考えさせようという大変いい方向に進むんじゃないかなと私は思っている。

清水会長

 「考える」ということは大変幅が広いわけであるので,その点を御理解いただけたらと思う。
 ほかに何かあるか。

中澤委員

 初等教育を担当しているけれども,国語教育に関しては,言葉の感覚というような範囲では,一番最初の方は正しいか正しくないか,正誤,それから,場面的に合っているかどうか,適否,更に進んで,言葉自体が美しいか美しくないか,美醜,そういうような幾つかの枠付けがあろうかと思う。そういうような言語に対する感覚と同じような敬意の感覚というようなことで,徐々に醸成していくものだと私はこの文面を受け止めたので,やはり敬語はこういうものであるというような学習的なものと,もう一つは大きくそういう感覚的なものを広くとらえるというようなことで,可能ではないかなというふうに受け止めている。

清水会長

 そういうことで御了解,御理解をいただいて,ほかに何かあろうか。
 それでは,よろしければ,これは答申の原案という形にしておきたいと思う。また後ほど何かお気付きの点があったら,最後の方にでも申し出をいただければと思う。

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