2015年4月1日
この連載では,日本各地の地域の日本語教室で日本語を学び,地域で活躍する外国人の視点から地域の魅力,日本語や日本文化の魅力,日本語の学習などについて語ってもらいます。様々な背景を持つ外国人の方々がどのような思いで日本語を学び,日本の社会で暮らしているか,是非知ってください。
<神奈川県川崎市>
特定非営利活動法人 教育活動総合サポートセンター
張民さん(中国出身)

1.川崎市に来た私
はじめまして。張民と申します。2006年,私が雲南へ旅行しているとき,中国雲南大学で日本語教師として働いていた主人(小林義典さん)と雲南省麗江で出会いました。大恋愛でした。私は新聞記者の仕事と,安定した生活を捨てて,2007年に主人と結婚して,2009年に日本に来ました。
日本に来たばかりのとき,日本語が全然分かりませんでした。私の故郷は広西省玉林市という中国の最南端の小さい町です。町には社会人のための日本語学校はなかったので,日本語を勉強することができませんでした。それに,当時は日本の情報が少なかったので,日本語や日本の文化も全然分かりませんでした。
日本に来て3か月が過ぎてからは,川崎市幸市民館の幸日本語学級とにほんごワールド),川崎市ふれあい館識字学級,鶴見国際交流の会,鶴見区日本語で楽しむ会などの日本語教室でずっと日本語を勉強しています。5年間で,私の日本語は,ゼロから幸区多文化共生推進事業実行委員会の提案書が書けるまでになりました。

にほんごワールドの様子。右から二人目が張民さん。活動を楽しんでいます。
幸区多文化共生推進事業実行委員会(略して委員会)というのは,幸市民館との協働事業で,日本人,韓国人,中国人,ボリビア人の住民などがメンバーとなり,地域で日本人と外国人が交流して,お互いの違いを認め,理解して共に暮らしていくことを目的に,幸区から予算をもらって毎月1回程度集まって活動するグループです。
例えば,多文化コンサート,多文化フェスタ,多文化トレインなどの活動をしています。このほか,幸国際子育てクラブ「トントン」のメンバーになって,幸市民館日吉分館のクッキングワールドで中国料理を紹介したりしています。こうした活動を通して,日本の文化や習慣も少しずつ分かるようになりました。最初,畳一畳分だった私の世界も少しずつ広がっています。

幸区多文化共生推進事業実行委員会で多文化マップを作りました。幸区の外国人や店やコミュニティーなどを紹介しています。
でも,このように,日本語の基礎はできるようになりましたが,深い気持ちはなかなか日本語では言えませんでした。
2.Digital Story Telling(デジタル・ストーリー・テリング:DST)との出会い
2014年,幸市民館で,初めてDSTと出会いました。DSTはアメリカで生まれ,世界に広まっている社会教育活動です。参加者が体験を語り合い,自分で書いた文章を自分の声で録音して,写真をつけて,自分自身の物語となるビデオ作品を作ります。作品を作ったら,上映会を行って市民の皆さんに見てもらいます。
私はこれまでに3回作品を作りました。1回目の作品は,日本に来てつらかったことを話しました。委員会の人との共有が目的だったので,作品の公開はしませんでした。2回目の作品は,子供の頃の話で一つ一つ面白かった出来事について,一枚一枚写真を並べて,話しました。自分の成長過程がまるで映画みたいに見えて,とても楽しかったです。ますます,DSTが好きになりました。
そして,3回目のテーマは教育です。5年間の日本語の勉強のことを書きながら,自分の変化や深い気持ちを整理することができるよう頑張りたいと思いました。私はずっと,畳一畳分の世界で,苦しんだり悩んだりしていました。つらい経験をして,心が折れていたのです。私の精神状態はまるでゴミ屋敷みたいでした。一人の力では,どうしても,その膨大なゴミを片付けられなかった,整理できなかったのです。

DSTの流れについて学んでいます。
でも,この取組を通じて関わってくれた日本人ボランティアの方々が,ゴミ屋敷の片付けを助けてくださいました。例えば,私が書いたマインドマップで,「2012年,3年ぶりに中国に帰った。2013年,中級の文法を勉強し始めた。」というところがあり,ボランティアの方に質問されました。その時は「いいえ,別に何にもないです。」と答えたのですが,2週間後,家にいるときに,ふと大親友が言っていた話を思い出しました。彼女は『今の故郷は,昔,張さんが書いた新聞記事のとおりに5,6倍に発展した。あなたは先見の明のある人ね。』と言っていました。このことを話したら,DSTの講師の先生はこんなコメントをくださいました。「張さん,命懸けでやっていたことでしょうから,きっと自分は当時のことを忘れてしまうかもしれない。でも,周りの人は覚えています。僕が学校で教師として働いた時に言ったことを,生徒は今でも座右の銘として覚えているらしい。僕は全部忘れました。でも,その時,僕も命を懸けて頑張っていました。」この言葉を聞いて,もう一度,命懸けで頑張りたいと思いました。つらいことなど嫌なものは頭から捨てて,命懸けで熱心に頑張っていた姿など素敵なことだけ自分に残すことにしました。
こうして,私の作品の最後の文章ができました。
「様々なことがあったけど,月並みな言葉だけど,前を向こうと思います。差別されるとつらいです。でも,大事なのは,人と人とを比べるのではなく,自分の過去と現在とを比べて,自分はどう成長したか?反省したか?勉強したか?これが一番大事だと思います。」3回目のDSTで,こういうふうに言いました。私のゴミ屋敷の片付けが完成したのです。

DSTの上映会。張民さんの作品が上映されています。
3.お互いを理解し,共に生きる
私が思うことは,外国人が自分や国のことを日本人に伝えるチャンスがあることが大事だということです。日本に来て2年半がたった頃,ある活動に参加したときに,日本語を聞き間違えて大騒ぎになってしまいました。「この中国人は一緒に活動ができるの?能力があるの?」と心配されてしまい,「張さんは日本に来て2年半もたっているのに,まだ日本語ができないの?日本語を真面目に勉強して!」と言われたことがありました。とても落ち込みました。
外国人は,日本語で日常会話ができるまで時間がかかるし,苦労するということを周りの人に理解してもらいにくいと思います。私は五つの日本語教室に通って,ボランティア活動にたくさん参加して,4年目にやっと日常会話ができるようになりました。でも,私の周りには,10年経ってもうまく話せない外国人も大勢います。きっと私たち外国人が日本人に伝えていかなければ,こういうことに気付いてもらえないでしょう。
2014年にDSTで3回作品を作って,1回目,2回目,3回目と文章は少しずつ上達してきました。そして新しい視点もできました。
5年半の日本での生活を振り返って今,感無量です。
私はDSTを通して,周りの日本人と深くコミュニケーションすることができました。これから日本人にもっと外国人のことを伝えたいと思います。一緒により良い社会を作っていきたいです。新しい時代,新しい考え方,新しい関係を作って,日本人と外国人がお互い協力して,共に生きていきたいです。

中国の茶道の実演中。
<特定非営利活動法人 教育活動総合サポートセンター>
○団体紹介:(幸市民館内)幸日本語学級
○URL:
幸市民館:http://www.city.kawasaki.jp/saiwai/category/96-11-1-0-0-0-0-0-0-0.html
DST研究所:http://www.learning-v.jp/dst/
○平成26年度文化庁委託「生活者としての外国人」のための日本語教育事業
「ともに学ぶ日本語学習支援事業」