2017年1月19日
「遡」や「遜」が点二つの「しんにゅう」で
追加された理由
―「常用漢字表」シリーズ③―
文化部国語課
平成28年2月29日に文化審議会国語分科会から「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」が発表されました。「言葉のQ&A」は,この指針の内容を含め,「常用漢字表」をテーマに連載しています。平成22年の常用漢字表には,点二つの「しんにゅう」(辶)の漢字が追加されました。御存じでしたか。
- 問1
- 「しんにゅう」の漢字に,点一つのものと,二つのものがあるのはどうしてですか。
- 答
- 戦前の印刷文字では,点二つの「しんにゅう」が一般的でした。(ただし,手で書くときには,現在と同じように,点一つで次の画をゆするように書く習慣がありました。)戦後,昭和21年に「当用漢字表」が内閣告示として実施され,一般社会で用いる漢字の範囲として1850字が定められます。さらに,昭和24年に「当用漢字字体表」が定められ,当用漢字表の1850字の字体が決定されました。その際,「しんにゅう」の漢字は,点一つに統一されたのです。一方,当用漢字表に入っていない漢字の印刷文字は,原則として点二つのまま用いられてきました。
お手元のパソコンやスマホ,携帯電話などの情報機器で,「まいしん」という言葉を入力し,漢字に変換してみてください。「まい」も「しん」も「しんにゅう」の字ですが,「邁」は常用漢字表に入ってない字(表外漢字),「進」は常用漢字です。
邁 進
このとおり,「まい」は点二つのしんにゅう,「しん」は点一つのしんにゅうで表示されています。ふだんはなかなか気が付かないのですが,印刷された「しんにゅう」の漢字には,点一つのものと二つのものが混在しています。もちろん,こうなっているのには,理由があります。
古い印刷文字はどうだったのでしょうか。日本における戦前の活字は,おおむね「康熙字典」(18世紀の始めに清の康熙帝の勅命によって編まれた漢字字典)が示す漢字の形に合わせて造られていました。戦前の明朝体活字の形を調べた「明朝体活字字形一覧 ―1820年~1946年―」(平成11年 文化庁)という資料で,「邁」と「進」の形を見てみましょう。この資料は,活字を製作していた各会社の見本帳にあった文字を比較できるよう並べたものです。昭和21年(1946年)までに造られた活字を見てみると,「邁」だけでなく「進」も,全て点二つの「しんにゅう」であったことが分かります。なお,1番左にあるのが「康熙字典」に示された字で,これも点二つです。

戦後,昭和21年に,国語審議会は「漢字の整理が現下の急務である」として,1850字からなる「当用漢字表」を発表します。これは,「国民生活の上で,漢字の制限があまり無理がなく行われることを目安として選んだもの」でした。このとき,「進」は1850字の一つとして表に採用されますが,「邁」は選ばれませんでした。そして,そのことが現在の印刷文字における「しんにゅう」の点の数に影響しています。
昭和24年,政府は「当用漢字字体表」を発表します。これは,当用漢字表として使われ始めていた漢字の字体を新たに定めたものです。戦前,漢字には画数の多い難しいものが少なくなく,また,同じ漢字でありながら,幾つもの字体がある(「島」「嶋」「嶌」など。)字もありました。そこで,国語審議会は,主に手書きするときに用いられていた簡単な字体を採用し,当用漢字の範囲については,それを印刷文字としても使うようにしたのです。このとき,下に示すとおり「進」は点一つの形に整理されました。そのほか,当用漢字表の中にある「道」「遠」「辺」などの「しんにゅう」の印刷文字は,全て「進」と同様に点一つに統一されたのです。

一方,当用漢字表に採用されなかった「邁」をはじめとする「しんにゅう」の漢字の印刷文字については,人名用漢字になった「遼」などの例外を除いて,その後も戦前と同じ点二つの形で用いられていきました。これは,昭和56年に当用漢字表に代わって,一般の社会生活における漢字使用の目安として定められた「常用漢字表」以降においても同様だったのです。国語審議会は,「常用漢字表に掲げていない漢字の字体に対して,新たに,表内の漢字の字体に準じた整理を及ぼすかどうかの問題については,当面,特定の方向を示さず,各分野における慎重な検討にまつ」(国語審議会答申「常用漢字表」)としました。したがって,表外漢字については,戦前と変わらず,康熙字典に基づく字体が用いられていたのです。
- 問2
- 平成22年(2010年)の改定で常用漢字表に追加された「遡」や「遜」が,点二つの「しんにゅう」の字体で採用されたのはどうしてですか。
- 答
- 平成12年(2000年)に国語審議会が示した「表外漢字字体表」が点二つの字体を採用していたからです。表外漢字字体表は,当時,常用漢字表に入っていない漢字(表外漢字)と人名用漢字に入っていない漢字1022字の「印刷標準字体」を示しました。その際,当時の書籍などを広く調査した結果,「しんにゅう」については点二つの形を採用しています。平成22年(2010年)の常用漢字表改定においては,国語施策の一貫性を大切にするという観点から,原則として,表外漢字字体表が示す印刷標準字体を,そのまま採用したのです。
昭和56年(1981年),常用漢字表が「漢字使用の目安」として定められました。常用漢字表は,字種,音訓,字体をまとめて示した表です。字体は便宜的に明朝体の一種を用いて示され,当用漢字表と同様に表外の漢字についての考え方は示しませんでした。
常用漢字表が制限的な性格ではなく目安とされたことで,常用漢字と一緒に表外漢字が使われることが多くなっていきました。ちょうど同じ頃,日本語のワードプロセッサー(ワープロ)が開発され普及しはじめます。ワープロなどの情報機器にはJISコードの漢字が搭載されました。
JIS漢字は,昭和53年(1978年)に最初の規格が定められました。当初,JISでは,当用漢字表に掲げられた範囲については当用漢字字体表の字体を採用し,それ以外の漢字は,「康熙字典」に基づいた古くからの印刷文字の字体を用いていました。しかし,そのJIS漢字は,昭和58年(1983年)に変更されます。このときに,昭和53年の規格では点二つの「遡」「遜」であったものが,点一つの「しんにゅう」に変わるなど,表外字のうち約250の漢字の字体が変更されました。
このJISの変更が及ぼした影響の例を,森鷗外の「鷗」という字を取り上げて見てみましょう。「鷗」は常用漢字表に入っていない表外漢字ですが,中学校・高等学校の国語で「最後の一句」や「舞姫」など,森鷗外の作品がよく取り上げられることもあって,なじみのある漢字の一つです。JIS漢字が昭和58年に改定された際,「鷗」は「鴎」という字体に変更されました。そのため1980年代の後半から2000年代にかけて,学校の先生が,ワープロを使って手作りの教材を準備しようとすると,「鷗」という字体ではなく「鴎」だけしか使えませんでした。教科書や書籍では以前のとおり森「鷗」外が使われているのに,ワープロや情報機器で印刷した文書や教材では森「鴎」外と表示されるという状況が続いたのです。その結果,不統一を解決してほしいという声が,関係機関に寄せられるようになりました。
そこで,表外漢字については「当面,特定の方向を示さず,各分野における慎重な検討にまつ」としていた国語審議会が,印刷文字の標準とすべき字体の検討を始めました。この審議のために,文化庁では,書籍や新聞などに用いられている印刷文字の字体を広く調査し,特に書籍など一般の印刷物には,戦前から用いられていた字体の方(「遡」「遜」「鷗」など)が圧倒的に多く使われていることが明らかになります。国語審議会は慎重な議論の末に,「表外漢字字体表」を取りまとめ,昭和58年のJISの字体ではなく,主に書籍等で広く使われている字体,すなわち「康熙字典」に基づいた古くからの印刷文字の字体を「印刷標準字体」として定めました。
その結果,平成16年(2004年)にはJISも表外漢字字体表に合わせるように改定され,表外漢字字体表の印刷標準字体が情報機器でも使えるようになりました。平成22年の常用漢字表の改定では,これらの国語施策の流れを後戻りさせることがないように,追加する字種を表外漢字字体表の印刷標準字体のまま採用したのです。
「遡」や「遜」が,点二つの「しんにゅう」の字体で採用されたのは,以上のような事情によります。そのほか,部首が昭和56年からの常用漢字と異なるものとしては「しょくへん」の字(「餌」「餅」)があります。また,「箸」「葛」「僅」「剝」「喩」「捗」などが,昭和56年からの常用漢字と同じ構成要素を持ちながら,異なる形で追加されています。
「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」を御存じですか。 |
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平成28年2月29日に,文化審議会国語分科会は「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」を取りまとめました。この指針は,一般の社会生活における漢字使用の目安である「常用漢字表」の「(付)字体についての解説」の内容を,詳しく説明するものです。その趣旨は,大きくまとめると次の2点です。 ○手書き文字と印刷文字の形には表し方の習慣に違いがあり,どちらか一方だけが正しいというわけではない。 ○手書き文字の形は多様であり,その文字としての骨組みが認められるのであれば,細部の違いによって誤りと判断すべきではない。 指針では,いろいろな書き方がある漢字を構成要素別に整理した上で,問題になりやすい点をQ&A方式で分かりやすく解説しています。さらに,常用漢字表が掲げる2,136字全てについて,印刷文字のバリエーションや手書きされた字形を例示しています。 漢字の文化に親しむ機会として,また,字体・字形に関する具体的な問題に直面した際に役立つ実用的な指針として,是非,活用してください。指針は,下記リンクから御覧いただけます。 |
URL https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/hokoku/joyokanjihyo_shosekikanko.html |