2021年8月3日
文化庁文化財第二課埋蔵文化財部門 斉藤慶吏
はじめに
令和3年7月27日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」がユネスコ世界文化遺産に正式登録されました。本遺跡群は、令和3年5月に通知されたイコモス勧告で、「北東アジアにおける採集・漁撈・狩猟を基盤とした定住を1万年以上にわたり継続した稀有な資産であり、類まれな精神性を含む生活の在り方と自然環境の変動に応じて変容させた集落の内容と、農耕開始以前の人類の生き方を理解する上で貴重なもの」と評価されています。
この「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産の一つ、青森県青森市に所在する特別史跡三内丸山遺跡は、我が国の縄文文化を代表する遺跡です。縄文時代の特別史跡は全国に4カ所ありますが、三内丸山遺跡で明らかとなった発掘調査成果の数々は、従来の縄文時代像を刷新する内容をもち、現在も多くの学校教科書に取り上げられています。三内丸山遺跡の発見と保存の歴史を振り返りながら、その重要性について解説したいと思います。
江戸時代から知られた遺跡
三内丸山遺跡に関する最も古い記録は江戸時代に遡ります。元和9(1623)年に編纂された『永禄日記(館野越本)』には、三内の地から大量の遺物が出土したことが記録されています。本文中には土器とともに「人形」が出土したとあり、土偶が出土した様子もうかがえます(これについては、後年追記されたものとする指摘もあります)。また、江戸時代後期に、全国をめぐり、数多くの紀行文を残した菅江真澄もこの地を訪れています。地元で名高く知られた名物の桜を一目見ようと三内に立ち寄った真澄は、古い堰が崩れたところから鎧のような焼き物が出土しているのを目にします。『栖家乃山』に収められたスケッチからは鎧ではなく、縄文時代中期に作られた縄文土器であったことがわかります。
さて、三内丸山遺跡で本格的な発掘調査が行われたのは、戦後の昭和28年のことになります。慶應義塾大学が遺跡の北部で昭和33年まで4次にわたる発掘調査を実施しました。発掘調査は、地元の医師で考古学者でもあった成田彦栄が便宜を図り、調査中には版画家の棟方志功も見学に訪れていたようです。当時の調査記録を読むと膨大な量の土器や石器、土偶の出土に喜びつつも、戸惑いを隠せなかった様子を窺うことができます。
遺跡保存をめぐって
昭和40年代以降、高度経済成長の時代を迎え、全国的に大規模な開発事業が行われるようになると、青森県内でも工業団地の造成や高速道路建設工事等が増加しました。開発事業に伴い、現状保存が困難な遺跡は、次善策として記録保存の発掘調査が実施されるようになりました。
こうした中、昭和47年に青森県では初開催となる国民体育大会の誘致が決定したことを受け、三内丸山遺跡の隣接地に体育館をはじめとする各種競技施設を兼ね備えた総合運動公園を整備することになりました。三内丸山遺跡の一部も公園の駐車場が整備されることになり、昭和51年に記録保存の発掘調査が実施されました。調査の結果、中央の道を挟んで向かい合うように配置された縄文時代中期の墓がみつかりました。当時こうした配置をもつ縄文時代の墓は全国的にも発見例が乏しく、学界でにわかに注目を集めます。
平成の大規模発掘調査
三内丸山遺跡の名が全国的に知られるようになったのは、前述の総合運動公園整備から十数年を経た平成の大規模発掘調査以後のことになります。昭和51年に完成した総合運動公園の施設老朽化対策と規模拡大のため、三内丸山遺跡が立地する台地一帯に野球場をはじめとする新たな施設整備が計画されました。工事着手前に記録保存の発掘調査を実施することになり、平成4年から開始した調査では、大量の遺物が出土しました。特に、低湿地の捨て場からは、骨や角で作られた骨角器や木製の漆器、樹皮製の編籠のほか、食料残滓である動物の骨や木の実の殻なども出土しました。また、竪穴建物や貯蔵穴の他、大量の土器片や石器、土砂が積み重ねられた盛土、延長420mにわたって延びる土坑墓(大人の墓)列と道路跡、小児用の土器棺墓(子どもの墓)等が見つかり、はじめてムラの全容が明らかになりました。
発見されたムラの諸施設の中でも、特に注目されたのが、直径1m以上のクリの木柱が据えられた6基の巨大な柱穴です。1間×2間の配置で整然と並ぶその柱穴は巨大な建造物の存在を示すもので、この遺構の発見によって、三内丸山遺跡は全国的な注目を集めました。
平成6年7月、地元紙の新聞報道をきっかけに、全国のマスコミが三内丸山遺跡の発掘調査に集まり、報道合戦の様相を呈しました。報道をみた県民が現地に押し寄せ、調査の最新情報を求めました。青森県教育委員会は、こうした県民の要望に応えるべく、見学路を設置する等の対応をおこないました。遺跡を訪れる見学者は日増しに増加し、県民からこの貴重な文化遺産を将来にわたって、保存・活用することを求める意見が寄せられるようになります。同年8月、当時の北村知事は、こうした県民の声の後押しもあり、遺跡を将来にわたって保存し、遺跡公園として整備・活用することを約束、新総合運動公園の施設整備について見直しを行うことを宣言しました。

左:野球場建設予定地の発掘調査 スタンドの一部は既に工事が進められていた。
右:大型掘立柱建物を構成する6基の柱穴 この内4基から直径約1mのクリの木柱が出土した。
史跡指定へ
遺跡の保存決定後、ムラの全体像を把握するため、記録保存の発掘調査から保存目的の発掘調査に切り替え、遺跡の内容確認を行いました。調査の結果、縄文時代前期中葉(約5,900年前)から中期末葉(約4,200年前)に至る遺構の配置が改めて確認され、当時の生活・生業・交流を示す多種多様な遺物の出土からも、その重要性が際立っていることが明らかとなりました。こうした調査成果の積み重ねが評価され、平成9年には史跡に指定されました。その後も発掘調査を継続的に行い、各種自然科学分析も並行して実施した結果、縄文人の資源利用や交流・交易の実態などが具体的に明らかとなり、縄文社会を総合的に考える上で極めて高い学術的な意味をもつ遺跡として平成12年11月には縄文時代の遺跡では全国で3例目となる特別史跡指定を受けました。
三内丸山遺跡の重要性
三内丸山遺跡の全体像が判明してきたのは、平成4年に開始した新総合運動公園建設工事に先立つ記録保存調査とこれに続く平成7年以来の保存目的調査を受けてのことです。遺跡の特徴として、当初から注目されてきたのは、ムラの「継続期間の長さ」と「規模の大きさ」、「遺構・遺物の多さ」でした。
「継続期間の長さ」については、前期中葉にムラが形成されはじめ、中期末葉に終焉を迎えるまで、約1,700年間、各時代を特徴づける暮らしの道具や竪穴建物などの施設が抜け目なく発見されており、生活の痕跡が断絶することなく継続していたことが判明しました。
「規模の大きさ」については、ムラの広がりが約42ヘクタールという広大な面積に及び、ムラの中心付近からは破格の規模の建物跡が発見されたことなどがあげられます。各時期につくられた捨て場や盛土も大量の遺物を含み、約1,000年間の廃棄によって堆積した土層の厚さが約2mに達するなど、非常に大規模です。
「遺構・遺物の多さ」については、出土品を収納した段ボール箱に換算して約4万箱に達し、その数は今日まで青森県内で発掘調査された一遺跡の出土量としては最多です。また、祭祀の道具である土偶が盛土を中心に2,000点以上出土しており、長期間継続したムラにおいて、祭祀や儀礼が活発におこなわれていた様子が窺えます。
このほか、北海道産や長野県産をはじめとする黒曜石や新潟県産のヒスイ、岩手県久慈産の琥珀等、特定の産地でしか採ることのできない石材や日本海側の地域から持ち込まれたと考えられるアスファルトがみつかっています。産地との位置関係から交流・交易の範囲についても具体的に知ることができます。
また、低湿地の捨て場から出土した食料残滓から、集落に暮らした人々が利用した食料の内容が明らかになりました。三内丸山遺跡では、クリやクルミをはじめとする木の実が多く出土しており、魚や獣の骨も大量に出土しています。土壌中から検出された花粉を分析した結果、大量のクリ花粉が検出されました。その量的な比率から、集落の周辺にクリの純林が広がっていた様子が推定されています。クリは日当たりの良い環境を好む陽樹であり、人が下草を刈るなどして成長を助けないと純林にはなりません。各種自然科学分析の結果を総合すると、縄文人は集落の周囲の林に手を加え、有用な植物が育ちやすい環境を作り出し、持続性の高い生活を営んでいたことがわかります。

左:大量に出土した土偶 これまでに2,000点以上が出土している。
右:ヒスイ製大珠 ヒスイは新潟県糸魚川で産出する石材。
現在も進む調査研究と公開活用の取組
青森県教育委員会では、現在も遺跡の全体像解明に向けた発掘調査を継続しています。令和2年度は、遺跡の北端部で平成30年度に見つかった溝状遺構の性格を解明するための調査を行いました。発掘調査成果に関する情報はインターネット上で随時公開し、積極的な情報発信を行っています。また、これまでの発掘調査で得られた成果は、展示公開に活用されているほか、特別研究推進事業として、公募研究にも広く活用されています。
遺跡の主要部分は都市公園に指定され、隣接する総合運動公園、青森県立美術館と一体的に青森県と青森県教育委員会が管理しています。遺跡区域の一部には、発掘調査成果をもとに竪穴建物や掘立柱建物の復元と遺構の露出展示を行い、縄文のたたずまいが感じられる史跡整備を理念に掲げています。修学旅行で訪れる小中学生の他、県内の観光コースに組み込む方も多く、年間約30万人が見学に訪れています。
整備された遺跡内では、ボランティアガイドが定期的に案内をしており、来訪者に対して、発見された様々な遺構や遺物に関する詳しい解説を行っています。ボランティアガイドは一般社団法人が運営母体となり、県内在住者を中心に約100名が登録しています。
このように、三内丸山遺跡の公開活用は、地域の力を結集し、遺跡の保存を求めた県民自らが遺跡の価値を伝える語り部の役割も担っています。地域に愛された遺跡が、我が国を代表する縄文遺跡となり、人類共通の普遍的な価値をもつ世界文化遺産として評価されました。新たな地域の誇りを獲得し、今後創造される未来の遺跡の姿に期待を寄せつつ、地元の取組を応援して参りたいと思います。

整備された遺跡の様子
(掲載画像:三内丸山遺跡センター提供)