2021年8月23日
文化庁文化財第二課史跡部門 浅野啓介 藤井祐介
令和3年8月23日、東京都港区にある高輪築堤跡を史跡に指定すべきとの答申が文化審議会から文部科学大臣に提出されました。
1.高輪築堤跡とは
明治5年(1872)9月12日、日本初の鉄道が新橋・横浜間に開業しました(この日は新暦10月14日であり、「鉄道の日」になっています)。東アジア初の鉄道の総延長は約29kmあり、そのうち約2.7kmは、海上に堤を築いてレールを敷き、その上を蒸気機関車が走りました。この海上鉄道敷の遺構が「高輪築堤跡」です。
なぜ海の上にレールを敷いたのでしょうか。それは、鉄道用地の取得が困難な地域を避けて鉄道を通すためです。政府が明治2年(1869)に鉄道建設を決定した後も莫大な建設予算の前に反対する人々が多く、加えて、平坦地の少ない東海道沿いには旧薩摩藩邸や兵部省の軍用地があったのです(図1)。
図1 明治11年の古地図。現在の線路はすべて海だった。
“鉄道の父”と称される井上勝(初代鉄道頭、後の鉄道庁長官)は、鉄道建設に積極的だった大隈重信の英断により海の上を線路が通ったと回顧しています。
高輪築堤の工事は、イギリス人のエドモンド・モレルの指導のもと、明治政府の民部省鉄道掛(後に工部省鉄道寮)が担当しました。石垣には、嘉永6年(1853)のペリー来航を機に東京湾に造られた品川台場(大砲を備えた海防施設であり、現在の東京のお台場は、その第三台場)の石などが再利用されました。また、城の石垣を築く伝統的な技術が活かされています。日本の職人が築いた堤の上に、イギリスから輸入したレールが敷かれて蒸気機関車が走る、まさに日本の伝統技術と西洋の近代技術が融合して築き上げられた文明開化の象徴です(写真1)。
写真1 高輪築堤跡。手前が海側であり、石垣の下に見えるのは波除け杭。
なかでも第7橋梁(新橋から数えて7番目の橋)は、当時の錦絵に描かれた鉄道開業時の姿を彷彿とさせるものであり、高輪築堤跡を代表するものと言えます(写真2、図2)。
写真2 第7橋梁
図2 歌川広重(三代)「東京品川海辺蒸気車鉄道之真景」(明治5~6年)
蒸気機関車が海上の築堤を走っている。手前に人、人力車、馬車が見えるのが東海道。築堤の橋の下を船が通っている。向こうの海に台場が見える。
築堤に橋を設けて船が通れるようにしたのは、地元住民の要望によるものでした。船が通れないと、築堤が漁師の出漁を妨げてしまうからです。鉄道開業と住民の生業を両立させた橋梁のもつ機能が垣間見えるのも、この高輪築堤跡の価値と言えます。
なお、当時、走っていた機関車「一号機関車」(重要文化財)は、今でも埼玉県の鉄道博物館で見ることができます。
2.発見から保存に至る経緯
高輪築堤跡が見つかったのは、JR東日本の田町駅と品川駅の間で、京浜東北線が走っていた場所でした。JR東日本は、平成21年(2009)から、両駅の間にある品川車両基地を縮小し、山手線や京浜東北線の線路を東に移動することで確保される土地を開発する事前工事を行っていました。平成31年(2019)4月、品川駅周辺の工事で石垣が見つかりました。令和元年(2019)11月に京浜東北線の線路が移動され、令和2年(2020)、開発予定地の全面的な発掘調査が港区教育委員会により行われ、南北に長い高輪築堤跡が確認されたのです。
築堤の規模は、明治5年(1872)に鉄道が単線で開業した時は幅約17.5m、明治32年(1899)に3線に拡幅した後は幅21m強、高さは3.8mでした。そうした築堤が当時の様子を残したまま発見されたのです。
この重要な遺構の発見に伴い、JR東日本は、考古学・鉄道史等の有識者や地元自治体等による「高輪築堤調査・保存等検討委員会」を設置しました。委員会で保存と開発の両立が大きな課題となったところ、令和3年(2021)2月、萩生田文部科学大臣が現地を視察し、JR東日本や港区等の関係者に対し、保存と開発の両立に向けた検討をお願いしました。同年3月には、文化審議会文化財分科会が文化庁長官に対し、高輪築堤跡の史跡指定に向けた取組を求める建議を行いました。「明治150年」関連施策アドバイザーなどからも保存を求める意見書が提出されました。そうした中で「高輪築堤調査・保存等検討委員会」は、保存の範囲と方法の可能性に関し、様々な案を議論しました。そして、同年4月、第7橋梁を含む築堤(長さ80m)と、北側の公園に隣接する築堤(長さ40m)を現地保存し、加えて、信号機跡を含む築堤(長さ30m)を近隣に移築することになりました。JR東日本は、第7橋梁を現地保存するため、建設予定の建物の位置を変更することを決め、そのための設計や手続の見直しなど関係機関との調整に尽力しました。
その後、関係者による調整を経て、現地保存される部分を史跡に指定する手続きが進みました。その間、同年5月、菅内閣総理大臣と萩生田文部科学大臣が現地を視察し、菅内閣総理大臣は「こうしたものはしっかり次の世代にも引き継いでいくことが大事」と発言しました(写真3)。
写真3 高輪築堤跡を視察する菅総理大臣と萩生田大臣。
同年7月、文部科学大臣から文化審議会に対し、既に史跡指定されている「旧新橋停車場跡」に高輪築堤跡を追加指定するように諮問がなされ、今回の文化審議会からの答申に至りました。
現在、高輪築堤跡はJR東日本による開発工事のため見ることができませんが、今回指定が決まった築堤跡が、近い将来、街づくりと両立しながら整備され、明治の鉄道を思い起こす場として、多くの人に見てもらえることを期待しています(図3)。
図3 高輪築堤跡の整備イメージ
JR東日本作成(今後の検討によって変更となる場合があります。)
3.高輪築堤跡と文部科学省
最後に、高輪築堤跡と文部科学省の関係に触れます。鉄道整備を指導したエドモンド・モレルは、明治政府に対し、技術に関する行政機関と技術養成機関の必要性を提言しています。これを受けて明治3年(1870)に工部省が設置され、その養成機関として工学寮が設けられました。この工学寮は、後の工部大学校であり、現在の東京大学工学部の前身です。したがって、鉄道の導入が、近代の技術者養成の端緒となったと言うこともできるのです。ところで、文部科学省の住所は、東京都千代田区霞ヶ関3-2-2ですが、実は、この場所に工部大学校がありました。今でもその記念碑が残っています(写真4)。科学技術に関わる文部科学省とモレルとの歴史的な繋がりを感じます。
写真4 工部大学校阯碑
また、文部科学省がある敷地は、江戸時代には、江戸城の外堀 に面していました。平成20年(2008)に文部科学省の庁舎を建て替えた際に、当時の石垣が出土しました。そこで文部科学省は、建設計画を見直して、この遺構を保存することを決め、現在、史跡「江戸城外堀跡」として誰でも見ることができます(写真5)。街づくりと文化財保護の両立は難しい課題なのですが、様々な工夫をこらしていく必要があり、その一例として紹介します。
写真5 江戸城外堀跡の石垣