2024年11月21日
文化庁参事官(生活文化創造担当)付 文化財調査官 吉野 亨
はじめに
令和6年(2024)10月18日、華道を無形文化財として登録し、保持団体として日本いけばな伝統文化協会を認定する答申が文化審議会から文部科学大臣に提出されました。
ここでは、無形文化財として登録される「華道」の概要やその歴史などについて紹介します。
1.登録無形文化財の「華道」について
登録無形文化財の「華道」は、伝統的な様式に応じて、花材とする季節の草木や花と花器を選び、花鋏等の花道具を用いて、花材の姿や形を整えるための伝統的な技法等により花器にいけることで、自然の風景や季節感等を再構成する表現行為です。草木や花そのものが持つ美しさや命の輝きを通して、いける者が思い描く自然や季節感、あるいは精神性や美意識が表現されます。
今回、「華道」が無形文化財として登録されるとともに、「華道」のわざを体得し精通した人々が構成員となっている団体「日本いけばな伝統文化協会」が、保持団体として認定されることになりました。このことで、華道の伝統的なわざを次世代へ継承するための流派横断的な取組が、新たに実施されていくことになります。
図1「初生け式」でいけばなをいける様子
図2「献花式」でいけばなをいける様子
図3 床の間でいけばなをいける様子
2.華道の歴史について
ここでは、華道の伝統的な様式や技法がどのように整えられ、今日まで継承されてきたのか、簡単に紹介します。
古来より我が国では、草木や花を「観賞する対象」として捉えてきました。例えば、『伊勢物語』等の文学作品には、手折った草木や花を瓶に挿して飾っている描写が見られます。
また、日本に仏教が伝来して以降は、草木や花を花瓶に立てて仏前を荘厳(仏像や仏堂を飾ること)する供華が寺院において行われるようになっていきました。
時代が下り室町時代以降になると、七夕法楽等の行事や公家や武家が邸宅内を飾る際に、花瓶に草木や花を立てる、いわゆる「たて花」による供華やしつらいが行われるようになりました。
図4は、14世紀中頃に制作された『慕帰絵』、その摸本の一部です。人々が歌を詠んでいる場に、掛幅とともに草木を立てた花瓶一対が飾られています。
図4 慕帰絵(摸本)
出典:国立博物館所蔵品統合検索システム
(URL: https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-6866?locale=ja)
行事や座敷を飾る際に「たて花」を飾るようになっていく中で、次第に、花材の構成や配置が工夫されるようになりました。15世紀頃の記録『山科家礼記』には、「心」「下草」と言った、花器に草木や花を立てる配置を示す言葉が見られます。この他、草木や花のいけ方等を記した『仙伝抄』には、「枝のためやう」などの言葉が見え、花材を撓めて曲げるなどの技法が行われていたことも窺えます。
永禄2年(1559)の奥書を持つ『文阿弥花伝書残巻』(図5)は、室町時代に将軍に仕えた同朋衆(将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々)の一人、文阿弥が残したとされる、床の間や書院を飾る作法をまとめた伝書の一部で、当時の草木や花のいけ方を垣間見ることができます。
図5 文阿弥花伝書残巻
出典:国立博物館所蔵品統合検索システム
(URL: https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/P2?locale=ja)
「たて花」の立て方や花材の扱い方等の技法や様式が整理されていく中で、江戸時代前期頃には「立花」と呼ばれるいけばなの様式が整えられました。
当時の立花ですが、紫雲山頂法寺の住職池坊とその門弟達が立てた立花を写生し、元禄11年(1698)に版本として出版された「立花図」(図6)から窺えます。なお、この本以前に、二代池坊専好らが立てた立花を図示した『立花図并砂物』が寛文13年(1673)に、立花の立て方をまとめた『古今立花大全』が天和3年(1683)に出版されており、当時の立花に対する関心の高まりが垣間見えます。
図6 立花図
出典:個人蔵
一方、立花が流行していた頃に、草花を自然な姿や形で花器にいける抛入花と呼ばれる方式への関心も高まっていき、商人をはじめ町人にも受け入れられていきました。貞享元年(1684)には、抛入花の解説書、『抛入花伝書』が出版され、寛延3年(1750)出版の『抛入岸之波』では、抛入花とはなにか、そのいけ方やいける時の考え方が論じられており、抛入花に対する関心も高かったことが窺えます。
明和6年(1769)出版の『瓶花群載』(図7)には、様々な人々のいけばなが紹介されており、華道流派の一つ「古流」の流祖と言われる一志軒宗普(左図)や「遠州流」の流祖とも言われる春秋軒一葉(右図)のいけばなも見えます。
抛入花への関心が高まる中、江戸時代中期以降、様々な人々によって、花材の整え方や花器への留め方等の技法が工夫されていった結果、江戸時代後期には生花と呼ばれる様式が整えられました。
図8は、文久2年(1862)の「春遊源氏廼活花」と題された錦絵で、人々がいけばなを愉しんでいる様子が描かれています。図8の手前左側に見える袴着姿の人の手元に注目すると、枝に指を当て力を込めて曲げようとしている様子が描かれています。
図8 「春遊源氏廼活花」に見えるいけばな
出典:東京都立中央図書館
(URL:https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00223742)
明治時代になると、西洋文化の影響により、生活様式そのものや価値観が変化する中で、伝統文化に対する認識が変化していきました。
そんな状況下で、華道の各流派は、流派横断的な団体の設立を図りつつ、流派同士の連携を図りながら華道に関する様々な活動を行うとともに、伝承されてきた様式等の整理や見直し等を図り、技法や様式の継承を行っていきました。加えて、その過程で盛花や花型法等の様式も次第に整えられていきました。
むすびに
華道は、各流派によって継承してきた技法や様式、そして美意識の修得と継承が図られてきました。加えて、各流派が華道の普及に関する様々な取組を続けてきたことで、私たちの生活の中に浸透し、受容され今日に至っています。
生活文化である華道ですが、令和2年(2020)に文化庁が実施した調査では、生活様式の変化等によって、華道を経験したことがある方は少なくなっている傾向にあります。華道流派や横断的な団体も、このような課題を踏まえて、華道に対して関心を持ってもらえるような取組であったり、仕掛けづくりを行っています。
今回、華道を無形文化財として登録することがきっかけの一つとなって、華道の伝統的なわざの保存と次世代への継承に関する活動が、華道界全体の取組として一層進んでいくことを期待しています。