2019年11月11日
当コーナーでは,暮らしの文化に係る様々な人々に登場いただき,暮らしの文化が持つ魅力を伝えていただきます。
※暮らしの文化とは,文化芸術基本法第12条に記載されている,茶道・華道・書道・食文化などの「生活文化」と,囲碁・将棋などの「国民娯楽」を始め,私たちの暮らしと係りを持っている様々な文化を指します。
茶道裏千家十六代家元 千宗室

茶道裏千家十六代家元 千宗室
昭和31年,京都府生まれ。臨済宗大徳寺管長・僧堂師家 中村祖順老師のもとで参禅得度,斎号『坐忘斎』を受く。祖順老師没後,妙心寺盛永宗興老師のもとで参禅。平成14年12月鵬雲斎家元の跡を継ぎ,裏千家家元となり今日庵庵主として宗室を襲名。現在,一般財団法人今日庵理事長,一般社団法人茶道裏千家淡交会会長。
裏千家
茶道流派の一つ。千利休を祖とし,二代少庵を経て,三代千宗旦の四男仙叟宗室から始まる,三千家の一つである。
京都市上京区・小川通に面する裏千家今日庵の兜門をくぐり,霰こぼしの石畳に導かれるようにして敷地を奥の方へと進む。足元の苔はたっぷりと水気を含んで瑞々しく,そっと触れてみたくなる。いつからそこにあるのだろう,と考えてしまうくらい大きな沓脱石。木々に宿る鳥たちの鳴き声が障子の向こうから聞こえてくる。

京都市上京区・小川通に面する裏千家今日庵の兜門
●家元を継ぎ,永年にわたって国内外の多くの人々に茶道を伝えていく中でどのような御苦労がありましたか?
家元を継承して間もない頃,茶の湯を経験していただくためには,その一回の場であれもこれも知っていただこうと一所懸命でした。ただ,それを繰り返していくうちに,「この方法で茶道の心が伝わっているのかな」と疑問を抱きました。特に,外国からお越しになる方々は,茶室に射してくる外光の変化を楽しみながら一服のお茶を頂かれる経験はそうそうないでしょう。そんな方々に茶道の心を少しでも感じていただくためには,どうしたらいいのだろうかと考えました。そのときに思い起こしたのは,自分自身が他国に招かれたときに現地の文化をご披露いただいたり,体験させていただいたりした際の経験でした。数ある行程の中で一度にたくさんの経験をすると,帰り道に一つずつ忘れていくのですね。
ですから,初めて「茶の湯」を経験される方には,「この一つに限って思い出をもって帰っていただこう」と決めてもてなすようにしています。例えば,初めてお茶を経験される方の中にパティシエの方がいらっしゃれば,茶の湯のお菓子について主菓子と干菓子などに絞ってお話しします。そうすれば,その方は繊細な和菓子の味わいと「茶の湯」を合わせて記憶してくださるはずだからです。
ゲストと茶の湯に何か共通点がないか事前に探ることを今も続けています。それが茶の湯を理解していただくことに直接つながるわけではないのですが,茶の湯に対して一つの思い出をもって帰っていただくことによって,それが後々他の日本文化の経験と重なり合うことで,日本の輪郭やイメージができていくのではないかと考えています。

奥へと続く霰こぼしの石畳
●生活や価値観の変化が著しい現代において,永年に亘り受け継がれてきた精神性や点前などをどのように大事にされ,また人々に伝えていらっしゃいますか?
落葉高木樹を想い浮かべてください。しっかり根を張り太い幹が天に向かって伸びる。「茶の湯」という大樹。それは利休様が種を蒔かれてからしっかり育ってきました。その「幹」は揺らぐことはありません。私の役割はこの「幹」の部分を守っていくことです。この落葉高木樹における枝葉は,その時代その時代において必要とされるものが伸びていくわけです。例えば,テーブルを用いてお茶を点てる立礼(りゅうれい),学校で茶の湯を経験していただく学校茶道がそれに当たります。ただ,伸びていった枝葉は永遠ではありません。それを必要とする時代が過ぎ去ってしまえば,その葉は自然と落ちるか,新しく伸びてくる枝で隠されるでしょう。私が自分の判断だけで枝打ちをしていいというわけではありません。何が必要で何が不必要かは,各時代における茶の湯を学ぶ方々が決めることです。
伸びた枝は絶対に伸ばさなければならない,というものではないですね。茶の湯の精神は,やはり「削ぎ落とす」ことにあります。利休様がおっしゃった「和敬清寂」という精神はいろいろな受け取り方ができます。近頃は「断捨離」という言葉が流行っています。いらない家具や衣類を捨てることばかりが取り上げられています。茶の湯,特に侘び茶では「捨てるモノを選びなさい」ということではなく,「必要なモノを選びなさい」という考え方が大切です。(対談の茶室を眺めながら)ここには何もないでしょう。利休様が実践された侘び茶は,自分の茶の湯に必要なものを問い直すことから始められました。その結果,点前座には釜ひとつあればいい,と。床の間には軸と花。利休様は不要なものを捨てた,というよりは必要なものを残されたのでしょう。

床には「平生心是道」の軸,竹花入には白の木槿
●世の中がデジタル化,グローバル化していくなかで,文化の魅力を伝えていく難しさがありますよね。
人と人は互いに顔を見合わせて言葉を交わし,相手の気配に注意を払いながら少しずつ距離を縮めていく。それが本来で,「そうあるべきだ」と強く思っていました。ただ,それは古い枝葉に自分がこだわりすぎているのかもしれません。いま子供たちはそういった環境では育っていない。その親たちも既に個人主義社会の中で個室を与えられて育った世代ですから,茶の湯をはじめとする一つの場を共有して同じように呼吸しながら,少しずつ先生と生徒が信頼関係を増していくような場づくりはますます難しくなります。
だからこそ私たちは今,学校茶道に力を入れているのです。学校茶道は子供たちが日本文化を総合的に学ぶとともに,隣にいる仲間と良い意味で競い合えるような環境があります。自分が点てたお茶,人が点ててくれたお茶,共に「いただきます」と言い合う,そんな当たり前の挨拶の存在を知ることになる。
そして,その次の枝が伸びてくるとするのならば,仕事で定年を迎えた人たちに向けた気楽な稽古場を作っていくことです。負担のないような形で稽古を行える場所を増やしていきたいし,そういった場で教えたいというボランティアの気持ちをもった先生も増えてきました。
●お家元はまさに茶の道において研鑽を重ねてこられました。指導者として,人が何かに打ち込むためには,どういった姿勢が重要であるとお考えですか?
“これをしたらこうなれる”というような打算的な心を捨てることですね。ものごとに取り組むとき,一度結果が出ると次はあそこまでいけるはずだと考えるものです。そう思ってしまうと,目標に到達できなかった時点でそれを始めたときのピュアな部分が薄れてしまう。かと言って闇雲に目の前のことに取り組むのは辛い。私は一般のお弟子さん方の稽古を見る際は,「稽古は裏切らないよ」と伝えます。稽古したら稽古した分だけ,必ずどこかで役に立つ。いま私が注意したことが30分後に身についている場合もあるし,3か月経っても身についていない場合もある。しかしここで稽古したことはあなたを支えてくれるはずだと。
桜を眺めるときに,その花だけを愛でるのは悲しいものです。花が散ったあとも,青葉をのせた枝ぶりを眺める時間の方が長いのだから。なんとか桜の花をまとって生涯を終えたいという気持ちになる人は多いと思いますが,桜は春の限られた季節にだけ花を咲かせる。そういう哀れさが歓びの根本になっているのだと気づくことで,人生は豊かなものになるはずです。