2015年5月12日
江戸時代と能 -観世元章の謡本-
国立能楽堂企画制作課 大貫誠之
茶道や華道などと並び,室町時代に大きな発展を遂げ確立した文化の代表的な存在,能・狂言。長い歴史を経つつ,私たちが今日鑑賞する多様な作品も,往時の姿さながらに伝わっているもの,として捉えられることが多いようです。中でも江戸時代,能は幕府や大名家の公式な儀式に演じられる音楽・芸能として格式が整えられ,その形態がいっそう固定化していったとも考えられています。しかし,実際はどうだったのでしょうか。

錦絵「室町御所御能興行之図」芳宗画 国立能楽堂所蔵
江戸時代中期に活躍した能役者に観世元章という人物がいます。観阿弥や世阿弥の流れを汲む流儀,観世流の15世大夫(家元)で,9代家重,10代家治といった歴代将軍の能指南役をも勤めました。元章が家治に対してあまりに厳しく能の稽古をしたために,家治が立腹したというような逸話が『徳川実紀』にも見え,どうやら一途な気性の持ち主だったようです。江戸城を初めとする各所での演能や,流儀を統率する立場として流勢の拡大に努めた元章ですが,その個性が余すところなく発揮されたのが『明和改正謡本』です。その内容を紐解きながら,江戸時代の能楽史のひとコマを覗いてみることにしましょう。
この『明和改正謡本』は明和2年(1765)に刊行されました。今からちょうど250年前のことです。謡本は能の詞章(言葉)や節(旋律)が書かれた台本ですが,この新しい謡本で元章は,210曲に及ぶ公式な上演演目を大胆に入れ替えて制定したのです。その際加えられた演目に「梅」という作品があります。『万葉集』にある大伴家持の「桜花いま盛りなり難波の海おし照る宮に聞こし召すなへ」という歌を縁に,難波津に咲く梅の花の精が現れて故事を語り,華やかな舞とともに天下の泰平を寿ぐ。一見,古典的な構成を有しているようにもみえますが,丁寧に鑑賞しますと,節の扱いや独特な言い回しなど,他の作品とは大きく異なる作風で一曲が貫かれていることに気が付きます。実は,「梅」は当の元章自身の手によるものなのです。

『明和改正謡本』 国立能楽堂所蔵
「梅」では,和歌の解釈や言葉の用い方などに,『万葉集』や『古事記』の考証を進める,当時興隆した国学の影響が強く見て取ることができます。元章は自家に受け継がれてきた世阿弥の自筆本や伝書などを調べ上げるなど古事に精通していたとされ,この作品は作者の能への飽くなき興味と,学問の趨勢とがあいまって完成に至ったものと言うことができるでしょう。『明和改正謡本』には,他にも「水無月祓」という作品のように,直近の上演がないにもかかわらず,祖先である世阿弥の伝書にその名前が残るということを契機に採用されたような曲も散見されます。作品の取捨のみならず,演出の技法や舞台で扱う道具など,能の世界を隅々まで見渡して改定を施した観世元章でしたが,謡本の発刊から9年後の安永3年(1774)に53歳で亡くなります。観世流の「中興の祖」とも称される元章の手による改定は,没後,旧に復された部分もありましたが,後世に強い影響を与え,今日の舞台でも様々にそのなごりを認めることができます。
元章のような役者自身による工夫だけでなく,将軍家の意向によるものなど,江戸時代260年の間に折々時代の風を受けながら,能はその姿を変えてきました。国立能楽堂の7月公演〈江戸時代と能〉はそのような江戸時代と関わりのある特徴的な作品を特集上演し,能が培ってきた歴史の一面に触れるまたとない機会です。多くの皆様方にお楽しみいただけますよう,御来場を心よりお待ちしております。
国立能楽堂 7月公演〈月間特集・江戸時代と能〉
〒151-0051東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1
- 問合せ
- 《国立劇場チケットセンター》(午前10時~午後6時)
0570-07-9900,03-3230-3000[PHS・IP電話] - 交通
- JR(総武線)千駄ヶ谷駅下車・徒歩5分
都営地下鉄(大江戸線)国立競技場駅下車A4出口・徒歩5分
東京メトロ(副都心線)北参道駅下車出口1または2・徒歩7分 - 公演日時
・7月定例公演 平成27年7月3日(金)午後6時30分開演
狂言「月見座頭」/能「古本による 水無月祓」・7月企画公演 平成27年7月23日(木)午後6時開演
◎明和改正本発刊250年 狂言「鬼ケ宿」/能「梅 彩色之伝」他- 御観劇料
・定例公演 一般 正面4900円/脇正面3200円/中正面2700円
学生 脇正面2200円/中正面1900円・企画公演 一般 正面6300円/脇正面4800円/中正面3200円
学生 脇正面3400円/中正面2200円- ホームページ
- http://www.ntj.jac.go.jp/nou.html