第1回国語分科会敬語小委員会・議事録

日時:平成17年9月7日(水)

10:00~12:00

場所:文部科学省ビル10F1会議室

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,杉戸主査,蒲谷副主査,井田,大原,菊地,小池,坂本,佐藤,陣内,東倉,西原各委員(計12名)
(文部科学省・文化庁)平林国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会敬語小委員会委員名簿
  2. 文化審議会国語分科会敬語小委員会の議事の公開について(案)
  3. 国語分科会で今後取り組むべき課題について(抜粋)
  4. 敬語小委員会における論点の整理

〔参考資料〕

  1. 文化審議会国語分科会運営規則
  2. 文化審議会国語分科会の議事の公開について
  3. 平成9年1月調査

〔経過概要〕

  1. 事務局から,出席者の紹介があった。
  2. 文化審議会国語分科会運営規則に基づいて,委員の互選により,杉戸委員が敬語小委員会主査に選出された。
  3. 文化審議会国語分科会運営規則に基づいて,杉戸主査が蒲谷委員を副主査に指名し,了承された。
  4. 事務局から,配布資料の確認があった。
  5. 事務局から,資料2「文化審議会国語分科会敬語小委員会の議事の公開について(案)」の説明があり,了承された。
  6. 事務局から,配布資料3,4及び参考資料3についての説明が行われた。説明に対する質疑応答の後,配布資料4に基づいて意見交換を行った。
  7. 次回の敬語小委員会は,9月30日(金)の10:00から12:00まで開催することが確認された。会場については事務局から改めて連絡することとされた。
  8. 質疑応答及び意見交換における各委員の意見は次のとおりである。
杉戸主査
 改めて確認したいんですけれども,この小委員会のもう少し大きなスケジュールについてです。任期1年で承っていると思うんですが,中間報告としての審議経過報告のようなものを考えるのか,そして最終的な敬語に関する「具体的な指針」の答申をどういうスケジュールで出すのかというのを,これは国語分科会の時に大まかな見通しはお示しいただいているわけですが,もう一度,その中で,今日から始まる3回の小委員会の位置付けをどのように考えたらいいのかを確認したいと思うんです。

氏原主任国語調査官
 大きくは,国語分科会の総会の時に,大体2年ぐらいをめどにというのがあったと思います。ですから,敬語の「具体的な指針」に関しては,今期と来期とでまとめていくことになります。文化審議会の委員の任期は1年ですので,今から1年半ぐらいで指針をまとめるということが目標になると思います。
  任期が1年ということで,1年たったときにはその1年間でどういったことを議論したのかということを,文化審議会の総会に報告しなければいけないということがございます。そのときにこれまでですと「審議経過報告」とか,そういったものをまとめて文化審議会総会に報告していたわけです。今期については,これからスタートして1月末の文化審議会総会に報告ということになりますと,余り期間がありません。ですから,そのような冊子をまとめるというよりも,もっと簡単に9月からスタートして,現在どういうところまで進んでいるのかということを文化審議会の総会に報告するという程度になるのかなと思います。
  もちろん,こういうようなことが今決まっていて,こういう方向で進んでいますというような簡単な報告資料は必要ですけれども,1月末までに「具体的な指針のたたき台」のようなものを作り上げてしまって,それを冊子にして出さなければいけないということは,今後,議論がどんどん進んでそういうようなことができれば,もちろんそれはそれでいいわけですけれども,国語分科会の総会で事務局から2年間ぐらいでと申し上げた時には,そこまでは恐らく無理であろうと考えておりました。
  ですから,ここまではこういう議論をして,こういう方向で今進んでいますということを1月末の任期が終わるときの文化審議会総会に簡単に報告して,その後,更に期をまたいで審議を続けて,2期目の最後の時には「敬語に関する具体的な指針」というものが出来上がっている,というようなイメージを描いているわけです。
  そうなりますと答申として出すわけですので,手続上もパブリックコメントというものをしなければなりません。つまり,世の中に一度さらして,国語分科会,最終的には文化審議会の答申になるわけですが,議論の主体は国語分科会ですので,「国語分科会としてこんなようなことを考えています」ということをある段階に来ましたら世の中に広く公開しなければいけないということがございます。1年半後の2月ぐらいにそれが答申として出るということを考えますと,少なくともその半年ぐらい前にはパブリックコメントをしているということになります。ですから,今から1年後ぐらいには答申にすべき内容の指針のたたき台がまとまって,それを世の中に「こんなものはいかがでしょうか」というようなことを問う,来年の9月か10月ぐらいにはそういうものを出していくということになります。そこで,いろいろな御意見を伺って,それを修正して2月の答申に持っていくというような,大ざっぱなスケジュールですけれども,大体そんなことになるのではないかというふうに考えております。

杉戸主査
 平成18年の1月くらいに1年目の経過報告を総会に出す。それから,平成18年の9月ごろでしょうかね,今日から始めて1年後くらいに案を作ってパブリックコメントに掛ける。そして,次の19年の2月くらいに最終的な答申を目指す。その間,小委員会だけでなくて国語分科会の総会もあるわけですから,そういうところに出したり,戻ってきたことを更に検討するというような,そういうサイクルを繰り返しながら,率直な感想としては非常に短い期間に仕事を進めなければいけないということを改めて再確認して,大安吉日の今日,出発をしたいと思います。
  さて,それで,ここから先は事務局の方で作ってもらった論点を整理した特に資料4の(1),(2),(3)に基づいて進めたいと思います。この三つの項目は,相互に関係の深いことですので,行ったり来たりするとは思いますが,まずは,(1),(2),(3)の順に,それぞれ今の時点でのお考え,御意見あるいは御感想を自由に出していただいて審議を始めていきたいと思います。
  (1)の「具体的な指針」で想定する対象者,この点についていろいろな御意見をお願いします。

小池委員
 「対象者」という言葉,「対象者」をイメージすると,普通は,年代で意識するんじゃないかと思うんです。大くくりで言うと「若い人」ということになって,二つ目の○に書いてあるとおり学校教育,社内教育で利用できるということも合わせて見ると,ますます若い世代に対して,この委員会で物を言っていくということになるだろうと思うんです。
  ところが,年代に対してものを言うということでは必ずしも私はないんじゃないかと思うんですね。「対象者」じゃなくて,適切な「対象」に対して,物を言っていかなければいけないというのはそのとおりだと思いますが,それが「対象者」というふうに意識されてしまうと,今申し上げたようなターゲットの絞り方になってきます。でも,「対象者」と意識する前の「対象」という意識のところで,私はしっかり議論の行く末というのを定める必要があると思うんですね。
  それはどういうことかというと,今の日本社会におけるニーズに対して,この委員会で物を言っていくということじゃないかと思うんですよ。それは,年配の方でも,例えば,昨日まで部下だった人間が上司になってしまう,こういう時代になったわけですから,そこでどういう敬語表現を採ったらいいのか,敬意表現を使ったらいいのかということが今分かりにくくなっているんですね。つまり,人間関係の距離の取り方が一筋縄では行かなくなってきているというところに,迷いというか,何か指針のようなものが欲しい,そういう意識が生まれているんだろうと思うんですね。
  ですから,どういうニーズに対して,この委員会で指針のようなものを示せるかというふうに考えていかないと,何かいつの時代も「今どきの若い者はなっとらん」という,そういう議論に下手するとくみするような指針になっていってしまうんじゃないかなというふうに思います。飽くまでもニーズを見ていくということ,視点を定めるべきじゃないかなというふうに私としては考えています。

阿刀田委員
 二つ○があるんですが,上の方の○というのはある意味ではニーズということではないのかなと私は思うんです。つまり,(1)の一番重要なポイントはむしろ上の方の○であって,非常に敬語は多岐にわたっていて複雑な問題を一杯含んでいるので,「おれは敬語のことはちゃんとそこそこに分かっているし,おれは余りそんなことをいろいろ言われるのは不愉快である」という人にまで立ち入っていくと大変なので,「自分は日常生活の中で,敬語は必要だけれども,うまく使えないようなことを痛切に感じている。二つのオルターナティブ(alternative)の場合は,どっちを使ったらいいかということについて迷っている」というような人に対して,「こんなところが一応の指針ですよ」ということを出していこうということでしょう。「対象者」という言い方,項目の立て方はどうかということが今の御意見ですが,本当にそうかなというふうに思うんです。内容的には,先の○の方の社会的ニーズに対して,この辺に限定して考えていけばいいんではないかと思います。
  ただ,学校教育ということを考えたときに,余り子供たちが必要だと感じていないとか,困難なのかどうかということさえ感じていないとか,そのような若い世代というのもいるわけでして,そういう人たちに対してやっぱり一定の指針は出した方がよろしいんじゃないかと思っています。あるいは社内教育という点でも,ある意味では同じようなことではないかなということで,同じ○で二つあるけれども,下の方の○は補助的なことであって,基本的には上の○というのがここで言っている意味かなというふうに感じているんです。そういう意味で言えば,やっぱりこれは社会のニーズに対してこたえていこうという姿勢なのかなというふうに考えているんです。

東倉委員
 私も二つともニーズじゃないかととらえたんですね,上の方が学ぶ方のニーズで,下の方が教える方のニーズだと。そうすると,二つのニーズになるので,両方含めるか,どちらかに絞るのかというような観点があるのかなというふうに思います。社内教育なんて本当に教える方のニーズでして,私も企業に30年間いましたので,痛切にこういうニーズというのは感じる場面が多々ありました。

杉戸主査
 主査の立場を離れますが,個人としては社内教育で教えるニーズはある,必要だ,敬語を学んでほしいという,そういうニーズはあるんです。そうしたニーズと,その教える際に何か基盤になるような敬語についての指針とか,教科書の基になるような素材とか,そういうものへのニーズというのと,ニーズという言葉に二通りあると,お話を伺いながら思ったんですね。
  その場合,素材とか教材そのもののニーズに今回の具体的な指針がどうかかわるかという,それが恐らくこの下に書いてある方の論点でしょうね。社内教育で,敬語を教えなきゃいけないということはテーマとして必要だ,そういう意味のニーズは多分今も昔も変わらない,勤め先の調査などでもそんなことは見えてきています。

佐藤委員
 今の学校教育と社内教育でちょっと引っ掛かったんですけれども。私が生まれた時自宅に電話はなかったわけです。時代的に各家庭にそれぞれ電話はなかった。電話がなかったまま何となく会社に勤めて,会社の仕事をそれなりにこなしてきたつもりですけれども,最近の新入社員教育というので必ず電話の掛け方を教育するんですね。ということは,今入社してきている人たちというのは,生まれた時から自宅に電話機があった時代の人たちなのにどうして社内教育で電話の掛け方を教育しなければいけないのか。一方,生まれた時から自宅に電話機がなかった人は,一度も電話の掛け方なんていう教育は受けていないという,この矛盾をどうするんだろうか。
  自宅に電話があるということで,余りに身近なことのために電話の受け方,掛け方もできないというようなことで,わざわざ教えなければいけない時代になったのであれば,これはできるだけ分かりやすい形で教えないといけない。
  また,途中から日本に来た外国人に日本語を教えるという教育の世界があるというふうには承っております。生まれた時から日本語を使っている人間が敬語を使えないということがあります。途中から日本に来た人に教える敬語,その教え方のマニュアルというのがあるなら,物心付いたときから日本語を話す人間にもっと分かりやすく教える方法というか教育理論というか,そこが確立していないのかということがあります。それを考えると,途中から来た外国人に日本語を教えるよりも,物心付いた時から日本語を話す日本人に教える方がはるかに簡単ではないかと私は考えるんです。外国人に日本語を教えるということと,母国語を日本語とする子供たちに教えるということ,その両方のいいところを取って,具体的に分かりやすい教科書のようにするのが一番みんなにとって分かりやすいことではないかなと私は思います。
  敬語とか尊敬語,謙譲語,いろいろな言い方がありますけれども,私の概念としてはこの敬語,丁寧な言い方というのは「お互いがお互いに双方気まずくならない物の言い方」というふうに簡単に考えているんです。難しい言葉を一杯並べて,何年もかかって先に進まないよりも,もっと簡単なことを考えた方がいいと思います。

井田委員
 浸透しなくては意味のない指針だと思います。そうなりますと,柱が簡単でなければいけないと思います。ただ,簡単にはくくれないことをいかに簡潔な指針として,浸透するものにしていけばいいのかという難しさを抱えていると思うんです。学校教育,社内教育あるいは家庭内教育にしても。この間,番組で敬語のことを扱ったんですが,その時,視聴者からの電話で,「私は母親であって,既に子供じゃない。「中高生の敬語がなっていない」という話だが,その中高生を抱える母親である自分も迷う。子供に「それは違うでしょ」と言って,「じゃ正しくはどう言うの」と言われたときに出てこないことがある。そういうときに,どこか「敬語110番」じゃないけれども,電話を掛けたら教えてくれるような所はありませんか。」という問い合わせがあったんです。具体的に日常生活の中で助けを求めたいときに,パッと助けになるような,身近で分かりやすい手引みたいなものを作らないと,これだけ集まって時間を掛けるかいがないなという気がしています。
  それとは別に,もう一つ,「敬語が必要だ」と感じている,この96%の方の答えがどこまで本当に自分が使いたいと思っているかというところが疑問なんです。「敬語なんてなければどんなにいいかと思っているけれども,敬語は必要なんだ」という人の割合がどの程度なのか,それが今後どう変化していくのか。100年たってもなくならないでしょうけれども,500年たったら謙譲語も尊敬語も消え去っているかもしれません。「なければどんなにいいだろう,でも使わなきゃならないんだな」という意味の「必要だ」と思うという人の割合を知りたいんですけれども,これまで,そういう観点での調査というのはないんですね。

氏原主任国語調査官
 はい,そのような調査はありません。

佐藤委員
 この間の漢字と辞書の調査と一緒じゃないですかね。「常用漢字はきちんと頭に入れているから,辞書は要らない」という,そんなばかな答えが出てくるアンケートと似ているような気がするんです。この20ページで見た「学生や生徒が教師に敬語を使うべきだ」というのが85.6%もありながら,何でうちの子供たちは先生を呼び捨てにしているんだろうと思うと,これは現実とこのアンケートの数字は全然違うんじゃないかなとつくづく思います。
  アンケートを取られると,「先生に対する敬語は必要だ」という方に丸をするんですよ。現実では果たして先生を尊敬しているかという,そういうアンケートの取り方はできないものなんでしょうかね。建前だけで丸を付けるようなアンケートが多過ぎやしないかと感じているんです。

西原委員
 この(1)のことで今まで御議論いただいているそのちょっと前のところの「具体的な指針」という,この指針という言葉もちょっと考えてみる必要があるのではないかなと思うんです。つまり,これだけの方が2年かけて作るものというのが指針だと言われていますけれども,これは,多分「こうすべきだ」というようなことをするということの,そういう意味での,指針とは考えなくてもよろしいのではないかというふうに思うわけです。
  世の中,敬語に関するマニュアル本というのは本当にたくさんあるわけで,その上を行くものを作るということではないのではないか。むしろ,もう少しさりげなく,せっかく国立国語研究所が調査機関として後ろに付いているような形で,この指針というものができるのであれば,「これは今はこれなのです」という,それを示すということでこの分科会の責任が果たせるのではないのか,というふうにこの指針という言葉の解釈を私は今まで考えておりました。

陣内委員
 私もどちらかと言うと,「指針」として余り細かなことを並べるというのは,実際無理なんじゃないかなというふうに思います。だから,細かな具体例の上にあるような,大きなものを皆さんに分かってもらう必要があるんじゃないかなと思うんです。例えば,世代的な意識の違いで,コミュニケーションギャップがよくあるわけですよね。それは,お互いに何を考えているかということが多分,分かっていないと思うんですね。世代差は,そういう意味では大きい。世代による敬語感覚とか,敬語意識の違いが非常に大きいのじゃないかなと思っています。だから,我々の仕事としては,一つは相手が何を考えて,どういう意識でそういう表現を使うのかという見通しというか,お互いを知る一つのベース,つまり両方の世代を見渡してベースを提供する,その考え方を示すという,その辺りが(3)の関係で,難しい問題ですけれども,敬意表現との関係ということとも関係してくると思うんですね。
 具体的に言えば,一体どんなコミュニケーションギャップがあるのか,つまり,円滑なコミュニケーションが阻害されている事例というのは一体何なんだということを取り上げて,それを検討して,これはこういうふうな「からくり」なんだという何か考え方を出し,個々の事例を結局最終的に判断するのは個人個人ですから,その判断の材料を与える。そして,よく考えてもらうというふうな姿勢がこの委員会としては必要なんじゃないかと思います。

菊地委員
 今のお話は,(1)の議論をちょっと超えて指針のイメージというようなところに及んでいらっしゃるんですが,この資料4には特に指針のイメージという項目を立てての整理はないわけです。事務局としては(2),(3)がそれに当たるものとお考えなのかもしれません。もし(2),(3)にも及んでよろしいのでしたら,ここで発言させていただきたいと思うんですが,非常に大事な問題だという気がいたします。
  西原委員や陣内委員のお考えは,一つのお考えだと思いますけれども,はっきり申し上げてしまうと,私はかなり対極的な立場に立つ者です。それは,賛成か反対かということではなくて,短期間での仕事の成果を求められた場合にどちらが成功しやすいかという観点,どちらを選ぶかというストラテジーの違いということです。5年かけても10年かけてもいいのであれば,私は西原委員,陣内委員のおっしゃったことも,そうじゃないことも両方やるに越したことはないと思います。
  もう少し事務局に伺いたいところなんですけれども,私どもがしなければいけない仕事の前に22期の答申「現代社会における敬意表現」というものがある。そして,その前に21期の先生方のものがある。どういう流れでここへたどり着いているのかということをお教えいただけないでしょうか。
  今日の資料3の3ページ目に「平成10年6月に第21期国語審議会が…」というところがありまして,その3行目の後ろ辺りから読みますと,「語形面での誤りを正すだけでなく,運用面の適切性についても扱っていくことが必要と思われる」,「すなわち,現実に行われている様々な敬意表現を整理して,平明な言い方を中心に複数の選択肢を掲げ,併せて頻度の高い誤用例についてはそれが誤りとされる理由を説明しつつ,想定される場面に応じた運用の指針を掲げることになろう。」というふうになっているわけです。これはいろいろな読み方ができるとは思いますが,かなり具体的な指針をイメージしていらしたんだろうと思います。
  ところが,「現代社会における敬意表現」として出来上がったものを拝見すると,言わば「狭い意味での敬語だけじゃなくていいんですよ」「人の印象良く言葉を使いましょうね」とでもいうような,極めて抽象的なものになっているわけです。
  敬意表現を審議なさった先生方は,この21期の御方針を受けて,これを目指そうとしたけれども,途中から方針が変わられたということなのか。もっと言ってしまうと,うまく行かなかったということなのか,あるいは何かフィロソフィーが根本的に変わって,具体的な指針よりも抽象的なものを選ぼうとなさったのか。そして,その敬意表現からまたここへどういうことで流れているのか。「立派なものが出た」というふうにおっしゃいましたが,今回それで敬語の答申をすることになったのはなぜなのか。事務局として慎重な言葉遣いをさっきなさっていらっしゃいましたが,どこが足りないとお思いなのかということです。あわせて,敬意表現というものへの,それこそパブリックコメントのようなものは得ていらっしゃるのか。いろいろな人からどういうふうに評価されているのかについて,アンテナを張っていらっしゃるのかというようなことを,まず事務局にお尋ねしたいと思います。
  私自身の意見をここでちょっと申し上げてしまいますと,あの「現代社会における敬意表現」というのは非常に具体性に欠けるという点で世間の評価を余り得ていないのではないかという印象を,私が多少聞いてみたところでは個人的には受けております。確かに,趣旨は立派かもしれませんが,社会問題で言えば,「みんな仲良く平和な社会を作りましょう」ぐらいのことしか言っていないとも言えるところで,その先を,もう少しやっていったらどうかというのが西原委員や陣内委員の多分お考えだという気がいたします。
  その一方で,先ほどの21期に戻りますが,「語形面での誤りを正すだけでなく」という書き方がしてありますが,これは語形面などについても,ある程度立ち入った指針を示そうというふうには読めるわけです。その部分をやっていって―その際「簡潔さ」が大事だということは以前甲斐委員もおっしゃって,先ほどは井田委員もおっしゃったことですけれども―,だれでも使えるような,これに従えば適切な敬語かどうかということが大方判断ができるような指針を作るという方針が考えられます。両者のイメージは大分違うと思いますんですね。要するに,かなり抽象路線でやるか,具体路線でやるかということです。
  それは,5年あったら両方やった方がいいでしょうが,2年間で答えを出せというのであれば腹を決めなければいけない。足して2で割ったようなのでは進まないんじゃないかと思っております。それに関連して,敬語表現をどこまでバイブルとして付き合うのかということも出てくると思います。
  そういうことについて,事務局のお考えも伺いたいし,ほかの先生方の御意見も伺って,最終的には,主査の先生に腹を決めていただくということになるのではないかと思います。あわせて,甚だ不謹慎なことを伺いますが,仮に2年間で満足なものができなかったらどうなるのかということについても,ちょっと伺っておきたいと思います。

西原委員
 私は「指針」ということを先ほど申しました。「具体的な」ということで,私がこうあったらいいなと思っているのが,できればDVD,最低でもCD,それが付録としてテキストに付いている形で,そういう意味の「具体的な」ということを,その次に申したいと実は思っておりました。
  つまり,言葉で,理屈でこうなんですよと説明されるのではなく,見れば分かる,聞けば分かる。見てください,聞いて判断してくださいというような,そういう具体性というのは非常に分かりやすい。その中で,例えば「変数」という言葉をあえて使いますけれども,ここがちょっと違うと言葉遣いとか表現が違ってくるでしょうみたいなことも言うんじゃなくて,見てもらう,聞いてもらうというようなことが指針ということの私のイメージする理想的な意味だろうというふうに思っております。

菊地委員
 私も少し補足させていただきますと,先ほど,私が西原委員の御発言に反応したのは,「上等なマニュアルを作るのではなく…」という御発言があったからです。
  戦後これだけ時間がたちながら敬語にいろいろ問題があってマニュアル本が氾濫しているというのは,オフィシャルな指針が提供されてこなかったから,という面があるように思います。当時の国語審議会の先生方がなぜそれをなさってこなかったかということが分からないんですが,するまでもないであろうというお考えの時期があったかもしれませんし,そのうちにしにくくなったということなのかもしれませんが,とにかく今までせずに来たわけですね。これをいつまでも放置しておくのか。決して楽しい仕事ではないけれども,上級マニュアル作りを審議会なり,分科会なりとしてやらなければならないのではないか,その腹もお決めいただかなければならないかと思います。
  私はここの委員をお引き受けした時に,多分そういうことをやるのがこの分科会の仕事かなというつもりで,楽しい仕事じゃ決してありませんけれども,だれかがやらねばならないならお手伝いしようと思って来たところがあります。それを抜きにして,その先をやると,ある意味で「現代社会における敬意表現」のようなことになる。それでいいのか,やはり基礎作業からやるのか,そこが非常に重大な選択ではないかというふうに思います。

氏原主任国語調査官
 お尋ねの件は,事柄が非常に複雑で難しい問題ですけれども,まず3ページの上に菊地委員が御指摘になった21期の審議経過報告の文言が引かれているわけですね。この文言が引かれている理由ですけれども,これは前の期の国語分科会の時に,やはり21期で目指したものを,「敬語の具体的な指針」を作成する以上はある程度こういったものについてももう一度考え直して,つまりこの21期の方針というのはある部分では実現されなかったわけですね。それについては,きちっともう一度見直して検討していく必要があるんじゃないかという,そういう議論があったと思います。
  敬意表現の審議に関連して,この21期と22期で,なぜ変わったのかという問題があるわけですけれども,一つは21期の報告でこういう形で出していること自体,逆に言うと,少し踏み込み過ぎているということもあるわけですね。つまり,次の期でやるべきことまで踏み込んで書いてしまっているという意味では,勇み足のようなところが若干あったと思います。
  この点はともかく,21期と22期で大きく流れが変わった一つの理由としては,先ほど『国語審議会答申・建議集』というのを見ていただきましたが,285ページを御覧ください。ここに,第21期国語審議会の報告「新しい時代に応じた国語施策について」が出ていますが,1ページめくっていただきますと286ページに目次がありまして,二つの章立てで構成されています。一つは,「現代における敬意表現の在り方」,二つ目が「表外漢字字体表試案」ということで,この「現代における敬意表現の在り方」のところをパラパラとめくっていただきますと,一番最後のところに「付2多様な敬意表現の例」として,「様々な配慮と敬意表現の例」などが出てきます。こういう形で,こういうものを付けて世の中に出したわけです。
  そうしたところ,22期に入ってからの議論の中で,こういうものを出した結果,例えば「春らしいスカーフですね」みたいな例がちょっとどこかにあったと思いますけれども,298ページですね,「君のことはみんな褒めているよ」とか「春らしいスカーフですね」とか,こういった例が一人歩きしてしまって,何かスカーフをしていたら「秋らしいスカーフですね」と言えばいいのかみたいな,そういうふうな過剰な反応が世の中の動きとして見えたのは余りいいことではないんじゃないか,というような御意見が出されました。
  ですから,21期の報告で書かれているような形で余り具体的なところに踏み込んで書くというのは危険なのではないかという議論があって,ある面で言うと,そこは軌道修正されたわけです。余り具体的な例を書いてしまうと,それが規範として一人歩きして,何かそういうものがいいのかみたいに余りにもそういうふうに受け取られてしまうんじゃないかというような,一種の反省があって,そこのところは少し軌道修正されたわけです。
  それで,22期の形で出たわけですが,実際に答申が出てみると,確かに考え方は分かるんだけれども,自分たちが困っているのは,「じゃ具体的にはどういう言い方をすればいいのか,どういう考え方で敬語を使っていけばいいのか」ということで,やはり21期で目指していたようにもう少し具体的に教えてほしいというような意見が22期の答申が出た後,随分国語課の方にも届きました。これはさっき菊地委員がおっしゃったパブリックコメントの時点でもそういう意見はありました。それから,我々が国語問題研究協議会だとか国語施策懇談会だとかという形で一般の方や,それから学校の先生方を対象に国語施策についての説明をするわけですが,その中でも,やっぱりそういった御意見というのは結構出てくるわけですね。
  もっと言ってしまうと,学校教育で本当に困っているのは,どういうふうに敬語を考えたり,生徒に教えたりしたらいいのかが教師の方も分からないということです。それから,「これは間違いだ」というような表現が何かいろいろなところに出てくるわけですね。ところが,子供に聞かれてもそれを先生の方がなぜ間違いなのかを説明できないとか,そういうような声も具体的な声として随分挙がっていました。
  ですから,これだけ敬語が必要だという声は一方にあるんですが,考え方がかなりぐしゃぐしゃになってきている。それが今,菊地委員がおっしゃったオフィシャルな指針がないままに,何となく放置された結果,こういう状態になっているんじゃないかという,多分そこに当たるのかもしれません。そういう現実があります。一方で,考え方は立派だというのは,正にこれもまた事実としてパブリックコメントを含めて出てきました。特に敬語だけではなくて,敬語以外にも配慮を表している表現があるということは,例えば学校現場などでは非常に受け入れられます。学校の教室の場面ということを想定すると,子供たち同士が敬語を使うなんてことはあり得ない話なんですね。ところが,敬意表現という視点で見ると,例えば,鉛筆を借りるときに子供が「鉛筆貸せよ」と言って無理に取っていくのと,「悪いけど貸してくれる」と言って借りていく教室というのは,もう教室の雰囲気が全く変わってくるわけです。
  ですから,そういったところでは現場の先生たちの理解も得られるんですが,でもやはり敬語そのもののところに立ち入って,これについてはこう考えた方がいいんだという指針が必要だという声もあります。それから,これは前期の国語分科会の中でも議論として出ていましたけれども,今,敬語のマニュアルと言いますか敬語に関して書いてある本がたくさんあります。ところが,例えば,「とんでもございません」という言い方をどう考えるかということになると,書いている人によって全部違うわけですね。「もう使ってもいいんじゃないか」というようなことを書いている著者もいれば,「明らかな誤用であって,そんなことも知らないで使っていると笑われる」みたいなことまで書いてある本もある。さらに,「もともとはだめだったんだけれども,今は結構使われているから,もともとはだめだったんだということを知った上で使っていく必要がある」といったように書いてあるのもあって,これはもう千差万別なんですね。また,「申される」だとか「おられる」なんかもそうだと思います。
  ですからそういう意味で,敬語に関して,もう少し,きちんと線を引いていく必要があるんじゃないかというようなところがあるんですね。敬語のマニュアル本や解説本などはそれぞれの著者の考えによって書かれている。そういうところを,こういう考え方で整理したらどうだろうかと言えるのは,多分,国語審議会,それを引き継いだ国語分科会しかないだろうという思いが前期の分科会の中にはあったと思います。
  それから,1回目の国語分科会でお話し申し上げたと思うんですが,「これからの敬語」は昭和27年4月に出るわけですけれども,それが出てすぐの6月に次の期が始まります。その時,当時の土岐善麿会長が「敬語については,「これからの敬語」は方向を決めたので,引き続いて具体的な問題があり,そのまま話しことばの部会に続けていきたい」というように言っています。その後,何度かそういうチャンスがあるんですが,そのうちに昭和41年に諮問が出て,表記の問題に集中する。具体的に言いますと漢字の問題,これは当用漢字表,当用漢字表音訓表,当用漢字表字体表の見直し,それから仮名遣い,送り仮名の付け方,こういったものの見直しの方が更に緊急の課題だということで,表記の問題にずっと入っていっちゃうわけです。それである程度そういうものが平成3年の「外来語の表記」で一段落して,それでは,もう少し国語の問題を広く見渡そうというふうに変わったのが第19期,平成3年の9月から始まる国語審議会なんです。
  ですから,そこで新たな展開になって,やはり話し言葉の問題も大事だということでまた敬語が取り上げられるようになります。具体的には20期,21期と続いて,この22期が来るわけですが,22期と21期との間には今申し上げたような,そういうちょっとした断層があったということは事実です。
  今やろうとしていることは,ある意味で,22期であえてやらなかった部分です。そこをやる必要があるという声は結構聞こえてくるし,また,必要なんではないかということで,この課題に取り組もうというような,そういう流れが前期の国語分科会にあって,この敬語小委員会にまで至っている。大ざっぱに言うと,そういうところだと思います。
  菊地委員が最後におっしゃった2年間でいいものができなかったらどうするのかということですが,これは先生方の御判断で,この指針ではちょっと世の中に出すには忍びない,そんなことはないと思いますけれども,もしそうなってしまったら,これはもう少し検討期間を延長して半年間遅らせるというようなことは,その時の選択肢としては当然あり得る話だと思います。

陣内委員
 菊地委員のコメントですが,決してベースと具体例というのは相互排除じゃないと思うんですね。例えば,答申の前文に,敬意表現をもっとうまく分かりやすいように述べた,そういうふうなものをベースにして,具体例としては,菊地委員もよくおっしゃるように,謙譲表現が尊敬表現と混同して使われている,そういうふうなものについて具体的に立場を述べ,どう考えたらいいのかというのを示す。だから,これが正しい,間違いですよということよりも,もっと皆さんに考えてもらう材料の部分が大事なんじゃないかなというつもりでございます。

阿刀田委員
 今,たまたま例が出たので少し考えていたのですけれども,教室の中で「悪いけど貸してくれよ」と言う。これは「悪いけど」という言葉が一つ付くことによって人間関係がちゃんと円滑に行く言葉になっているわけですが,「貸してくれよ」も「悪いけど」という言葉もどちらも普通に考えたときには敬語でないと思います。だけど,「悪いけど貸してくれよ」という言い方があるシチュエーションにおいては,配慮がちゃんとあるから,これは別に敬意を表している。
  敬意表現というものの具体性というのは,逆の方からこういう例を出して,敬語を使わなくたって敬意表現というのはあり得るんだという実例をちゃんと出して,そして飽くまで私は,この敬意表現というのはこれから我々が答申するときの前文というか,一番最初に,こういう形で人間関係というのはやっていかなくてはいけないと示し,敬意表現というのは何を意図しているのか,こういうようなシチュエーションによって配慮を巡らすことで,敬意が表れる例というのはたくさんあるんだというような例も挙げながら敬意表現というのを具体的に説明していく。
  その後で,敬語というのは私は今考えてみたらシチュエーション抜きな,人間関係においてシチュエーションがないなんてことはあり得ないんだけれども,でもある意味では極力この二人の上下くらいのことだけ言っておいて,仲がいいのか悪いのかとか,そういうようなことはできるだけ排除した,ごくごくプレーンな人間関係において,これが敬意を表していることになるんですということを敬語としてとらえていかないと,余り込み入った人間関係で,こうこうであったときにはどうであるかということまで立ち入るものではないんじゃないかと思いますね。
  実際問題として,そういう何ら上下関係がない,何ら思惑がない,何ら好きだ嫌いだという感情もないような人間関係というのは,この世に存在していないわけだけれども,そういうことを全部抜きにしたら,これが一応相手に敬意を表している表現であるというようなスタンスで考えないとだめではないか。それ以外のものを敬意表現のところで具体的な例などを挙げながら,我々は敬意を表す方法はほかにも一杯持っているということを示して敬意表現という概念を明らかにしつつ,後の方は,極めて具体的な例について述べていくというような,そういう方法を最後に持っていかないとなかなかうまく行かないんじゃないかなというふうに考えました。

大原委員
 私も今「えらいことや」というふうに思っていたんですけれども,私は舞台の方をやっていますので,ある場面,ある登場人物,そこで話されていること,その言葉によってその人物が相手をどう思っているかとか,敬意を持っているのか,どういう感情を持ってしゃべっているのかを聞いている人,見ている人がそこから感じ取るわけですね。だから,今,阿刀田委員がおっしゃったような,どういうふうに言葉だけを抜き出して書いていけばいいのか,これが敬意だとかというふうに。
  今ちょっと話がズレるかもしれませんが,西鶴の「好色一代女」というお芝居の幕が開いたところなんです。これは若いお客様を呼ぼうということで,「私,考えても分からない」というふうな言葉遣いになってきているんです,方言の方もね。そうすると,敬語の使い方なんかもいわゆる西鶴の時代の人間関係だとか,そういう歴史的なものを全部抜きにして,今の若い人たちがこれを見て,あそこでこういう感情で,これは敬語なんだなとかというふうに見ているのかなと思うんですけれども,だから敬語に関する具体的な言葉を出す,それを抽出するだけの作業というのは,どういうふうにしていったらいいんだろうと,今とても皆さん方のお話を聞いていて,えらいところへ来たなというふうに思っているんです。

杉戸主査
 方言というお話がちょっと出ました。これもこの先の議論のポイントになるかどうかのポイントを出していただいたと思います。
  一つ前の阿刀田委員の御意見を伺って,今日の議論の最初のところで事務局から紹介があった「双頭の鷲」という,その時に氏原さんが使われた総論部分あるいは前文部分と本体部分という,そういう具体的な答申のイメージ,構成のイメージ,そのことに関係することかと思いました。
  それは陣内委員の繰り返しの発言の中からも,私としてはそういう構成が具体的にイメージされていくのかなと思っています。もう既に陣内委員の頭の中にはあるのかなと思って伺っていましたけれども,それはもうちょっと先の話として,しかし今日議論しているポイント,「指針」というのはどういう内容を盛り込むべきかということは,結局それをどういう姿形で外に出すかということに密接に関係するので,そういうこともイメージしながら考えていきたいと思います。
  そして,DVDとかCDという,これは非常に目の覚めるような御発言でした。これは提案にもなっているんでしょうか。

西原委員
 提案はいずれしたいと思っております。

杉戸主査
 答申がどういう形,メディアを使って出すにせよ,いずれ先ほど来,具体性をどうやって示すかで,場面とか相手の対応性とかに応じて敬語の表現の選択が変わるという,これは避けて通れない対象の姿ですから,それをどう示すか,どこまで示すかという,これは出していくもののメディア,形態,そういったものにも関係するだろうと,そんなふうに思って,第1回の出発点でそこまでの御意見が出ているということを有り難く思います。

東倉委員
 今のDVD,CDの話ですけれども,私も情報が専門なものですから,こういうお話を伺うとすぐに「e-ラーニング」的にこういうものをどう構成すればいいのかなというのが頭に浮かぶんです。インタラクティブ(interactive)に,いわゆる学びたい者,教えたい者がソフトウエアを使って,コンピューターを使ってこういう敬語の表現を資料として扱えるようなものができていくと,非常に時代にマッチするかなというふうに考えますけれども…。

阿刀田委員
 井田委員に伺ったらいいのかなと思うけれども,例えば,放送局なんかでアナウンサーならアナウンサーに指導するためにこういうような言葉遣いでやりなさいとか,それは敬意表現と絡んでいると思うんですが,それをやるときは現状にあるような,これはもう個々の例をバッと出すわけですよね。アナウンサーが直面するであろうという個々の例を,まず何項目ぐらい出てくるのか分かりませんけれども,まずそれを出して,これはこうですよ,こうですよと,どちらかと言うとシラミつぶしみたいにそういう例を出すというのが普通のやり方でしょうね。
  総論的に現状はこうである,何とかはこうであるという理屈をいろいろ述べたってなかなかそうならないでしょうから,具体的には,もう本当にバッとよくありそうなものを並べてやっていくということですか。

井田委員
 そうですね。謙譲語,尊敬語,丁寧語が何かということはみんなそれぞれ学校時代に学んできているわけです。それで就職して,なお現実には間違っている。私もここ2,3年ですけれども,新入社員の敬語教育に携わって,その時に使うテキストは日本新聞協会の放送分科会で何年か前に作った大変コンパクトな小冊子です。『放送で気になる言葉敬語編』というタイトルが付いていまして,要するに,我々も違うと思う,視聴者からも御指摘があるという間違った用例を絵入りで列挙してあります。そして何が違うか,正しい適切な言い方は何か,これは一つの例に限りませんけれども,2,3例を挙げて,その理由とかアドバイスを添えるという,その冊子を基に研修をします。
  ただ,それで2時間ぐらい研修しましても,その後,現場に入っていった新人はしょっちゅう間違えています。アナウンス部では,まず電話の受け答えを聞いていてじろっと見る。先輩がじろっと見て,じろっと見られた新人が気が付いたらいいんですけれども,気が付かない場合には,矢のように飛んでいくわけです,いろいろな罵声が。敬語教育とも思えない言葉遣いで注意が飛び交って,それが一番こたえますからね。視聴者からの御指摘の前に,身内で矢を飛ばしておいた方がいいんです。身内の矢で傷ついて,視聴者から矢が飛ばないようにしていくわけです。とにかく間違っているものは違うと言う。そして,なぜ違うのか,じゃ,正しいのは何か,自分で考えろ,あるいはこう言うのだ,そういう形のものです。

阿刀田委員
 伺いましたのは,つまり,具体的な指針というのは結局そういうことだろうということなのです。今,放送なら放送という,アナウンサーという限られたところだからおのずと用例は,どのくらいの数なのか分からないけれども,限られてくるんじゃないかと思います。それを社会全体に対してよくあるようなことというのをやっていって,それについて放送局と違ってどうであるべきだというところまでは出さなくてもいいけれども,これは少なくとも間違いであろうとか,許容できるのはこの辺りなんだろうけれども,しかし,今はこの辺りが一番普通ですというようなところをシラミつぶしにやっていくということが,結局具体的指針ということになるのかな,ということを今イメージしているんです。それはちょっと違うだろうというような御意見も出てくるのだろうなと,今ちょっと想定しながらお尋ねしたわけです。

井田委員
 『放送で気になる言葉敬語編』は全体でも50例ぐらいだと思います。ニュース番組,スポーツ番組,情報番組などなど,日常基礎というのもあるんですけれども。それで一つ「具体的な指針」の中でお尋ねしたいと思いますのは,例えば今,東京駅の新幹線のホームに行きますと,「この列車は指定券がないと御乗車できません」という表示が出てくるわけですね。これ,敬語の使い方としては間違っているわけですね。ただ,もう文化庁の調査では6割の人が正しい使い方だと答えている。
  でも,「御乗車できません」を認めてしまうと,基本が崩れるわけですよ。「お(ご)○○になる」という尊敬語の基本をせっかく身に付けたところで東京駅へ行って新幹線の乗り場に行くと「御乗車できません」,違うじゃないかと。JRがそんな違うものを頻発していていいのかと。でも,それに対して「JR違うぞ」と,あるいは小田急線なども違うんですけれども,違うぞと言って回るのも,行き過ぎのような気もするんです。間違ったものが,これだけ氾濫している状況の中で,指針を示しても,すぐ矛盾が出てくる。出てくるというか,子供たちなんかは突き当たると思うんですね。そういうのをどうしていったらいいのか,本当にどうしたものかなと思っています。

佐藤委員
 今のお話を伺って,私がさっき言ったことの舌足らずだった部分が補われて有り難いなと思ったんです。外国から来て日本語を学ぶという話をしましたけれども,公共機関で間違いの表示やアナウンスをしないというところから,つまり物心付いたころから日本語の中で育つのであれば,言葉は悪いですけれども,知らないうちに覚えさせるというやり方がいいんですね。公共機関で間違っている直すべきものはどんどん直していって,街中を歩いていると間違いはないんだというやり方,そうなると放送なんかも絶対間違ってはいけないわけですけれども…。勉強する気でなくて接するもので,知らず知らずに敬語とか敬意表現というようなものを,毎日ごく普通に暮らしている中で分かるような形を採っていく世の中というのが一番良くて,今マニュアルが間に合わなくなったからどんなやり方で教えたらいいんだろうということで皆さん悩んでいると思うんですよね。
  だから,今からでも遅くないんで,JRなども全部直したらいかがなものかなと。間違っているぞというものを直して,子供たちが普通に生活している中でそれがいつも正しい敬意表現をなされている世の中なんだというところを作っていくやり方を,具体的に数え上げていったらどうでしょうかね。他人の言葉じりをとらえるようでなんでございますが,間違っているのは,JRだろうが国鉄だろうが直していくというやり方がよろしいかと思いますが,いかがでしょうか。

杉戸主査
 今日も「とんでもございません」という例が,先ほど氏原さんから出されました。そういうものをこの先,端的に言えば間違いである,直さなきゃいけないという方向で扱うのか,あるいはもうこれだけ定着してきているんだからという方向で許容する方向で扱うのか。この点は,具体的な表現形式を扱うレベルでは,それこそ腹くくらなきゃいけない,個別の表現のリストもですけれども,基本的な方針をどう選ぶか,そういうことがこの先待っているというふうに思います。

蒲谷副主査
 敬意表現をこれから考えていくための基本的な枠組みというか,共有していくための枠組みがあるといいなというふうに思っています。これは,授業などでも説明はするんですけれども,非常に単純化した枠組みなんですが,考える枠組みが四つあります。一つ目は,いつ,どこで,だれがだれにという,これは「場面」という言葉で語られています。ただ,答申では,相手と場面と書いてあるのでちょっと規定が違うと思うんですが,大きく言えば場面です。それは,いつ,どこで,だれがだれにというような問題です。
  それから,あとの二つ目から四つ目まではそれが三位一体というふうになるんですが,一つは「気持ち」の問題です。気持ちの問題,敬意であるとか,目上の人は敬うんだとか,そういったような気持ちの問題ですね。それから,「中身」です。中身の問題があります。一体何を言えばいいのか,何を話すのか,伝える中身です。それから,最後は「形」です。形式の問題ですね。この「気持ち」と「中身」と「形」が,その「場面」においてというところで,4者が結び付くという枠組みがあるんです。
  敬意表現にはいろいろ賛否があるんですけれども,非常に評価できる部分は,ある意味,敬語の議論が従来はどうしてもやっぱり「形」に寄っていた,その議論をこの四つが結び付いているというところに戻してきたというところです。そこに,敬意表現の答申の意味があるというふうに思っているんですね。
  今日の資料3の2ページ目の中ほどに「上記答申は」というところがあるんですけれども,その中の中身の説明で2行目に「敬意表現とは」とあるんですが,「コミュニケーションにおいて,相互尊重の精神に基づき」というのは,これは「気持ち」の問題なんですね。「相手や場面に配慮して」というのは,さっき言った「場面」の問題です。「使い分けている言葉遣い」,この辺は,「形」の問題と「中身」の問題が絡むというところをすべて触れているわけです。
  それから,その下の四角の点線の中に入っている,「多様な選択肢の中から」という部分,これは「形」の問題が入っていると思うんですね。「その時々の相手や場面に合ったもの」,これが「場面」の問題です。「社会の慣習に照らして過不足なく選び取って使う」,これも「形」と,それから「中身」に関係する。次の,「特に留意すべきは過剰にならない」,これは「形」の問題だろうと思います。最後の「慇懃無礼な使い方をして結果として相手に失礼になることを避ける」というのは,これは,言わば「気持ち」と「形」とが合っていないというような問題としてとらえられるんですね。それから,この資料の3ページ目の2番の(4)のところですが,「具体的な実例を示すことを心掛け,なるべく実際の運用場面を設定して」とあります。これは「場面」の問題。「語句の形でなく」は,「形」の問題。そして,「文の形で」とあります。これは,更に言えば,文章,談話の形だろうと思いますけれども,文の形で提示するとあります。次のところがちょっと難しいんですが,「言葉を使うときの態度や所作などについても」とありまして,これは「形」の中で,言葉ではない形を選ぶということなんだろうと思うんですが,態度という中に,先ほどの御説明の中に「気持ち」の問題も入っているのかなというようなところがありました。「気持ち」と実際に「形」としての言葉以外のものが入っているのかなということでしょう。
  いずれにしても,大体議論の中で,どの辺を話しているのかといったときに,私はいつも,この人は「気持ち」の問題を話しているな,この人は「形」の問題を話しているな,この人は「場面」を非常に気にしているなというようなことを考えながら,伺っているんです。
  ここからは私の意見ですが,今回,私たちが答申をするときには「気持ち」の問題はもう敬意表現で述べられていると思うんですね。「気持ち」の問題,「相互尊重」「お互いに人格を尊重し合いましょう」ということで,そこは,もう語られていると思います。我々が目上の人を尊敬しましょうというようなことを言う必要もありませんし,それは個々人の問題ですから「気持ち」の問題については,私はもう余り触れる必要はないんだろうと思います。ただ,どうしても絡んではきます。
  今回一番大事になるのは,「場面」と「形」のつながりなんですね。従来の「形」の問題だけの議論は比較的しやすいですし,世の中に出ている敬語のマニュアルは比較的「形」重視のものが多いです。ただ,今回の答申で求められているのは「形」だけではなくて,「場面」と「形」とのつながりですね,そこがすごく求められているというふうに思います。そこの具体性が必要だということは委員の方々からも御発言がありましたけれども,そこの具体性ですね,そこの具体性をどう持たせるかということで,いろいろな御意見が既に出ていますので,方向としてはそういうことかなというふうには思います。枠組みとしてはそんなふうに私は考えています。

坂本委員
 伺っていて,つくづく大変だなと最初から思っていたんですけれども,具体的にどういうものを作っていくかというのが非常にイメージしにくいんですね。もちろん,簡単なのがいいのは分かっているんですけれども,そんなに簡単にできるんだろうかという疑問もあります。具体例を出さなければいけないというのも分かりますけれども,具体例を出したときに,先ほど,お話にありました21期から22期に行くときに,私,22期に関係していたものですから,その辺の事情を少しは分かっていると思うんですけれども,やっぱり具体例を出してしまったためにそれが一人歩きしてしまって,それはこういう場面,こういうふうに使うのかというような,それだけが取り上げられたというようなことの反省から22期はむしろ具体例を避けてきたというようなことがありまして,具体例を挙げるときの非常に怖さといいますか,特に文化審議会という形で出す,答申という形で出しますと,非常に権威を持って出てくるということに対する怖さがあります。
  そうすると,具体例を出すにしても複数出していく必要があるのではないか。それに対する説明などを述べていくと,やっぱりかなり大きなものに,量として多くなるのではないか。そうしないと分からないような気がします。具体的にDVDのようなものがあるといいとは思いますけれども,また,それが一つの具体例になってしまうと,それに対する怖さということもあります。どういう形の指針にしたらいいのかということをずっと話を伺いながら考えておりました。

杉戸主査
 引き続きしばらく一緒に悩みましょう。それが始まったということで,今日は資料4で事務局の方で整理してもらった論点をきっかけにして話を始めました。(1)の「具体的な指針」の想定する対象者ということから入ったわけですが,「指針そのものの在り方」,これは恐らくこの小委員会で結論を出さなきゃいけない成果物でありますが,それについて直接議論が始まったと思います。その中に,対象者とか,扱う範囲とか,そういったことももちろん含まれていましたが,更に指針を出す枠組みとか,具体的なメディアの形まで既に出していただけたと思います。これから先の小委員会で,こういう問題あるいは議論のポイントがあるという,その広がりが1回目として既にかなり出てきたということで,私としては非常に有り難く思います。
  また,後で事務局から確認していただきますが,2回目は同じような形でもう少しポイントを絞り込むような交通整理をしながら,ポイントを選んで進めていきたいと思います。

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