第2回 国語分科会敬語小委員会・議事録

平成17年 9月 30日(金)

10:00~12:00

三菱ビル 地下1階 M1会議室

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,杉戸主査,井田,大原,菊地,坂本,佐藤,西原,山内各委員(計9名)
(文部科学省・文化庁)平林国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 第1回国語分科会敬語小委員会・議事録(案)
  2. 敬語小委員会における論点の整理-2
  3. 『放送で気になる言葉 敬語編』(日本新聞協会・平成16年4月)
 ○ 小池委員提出の意見文書

〔経過概要〕

  1. 事務局から,配布資料の確認があった。
  2. 前回の議事録(案)を確認した。
  3. 事務局から,配布資料2,3についての説明があり,配布資料3については井田委員から補足説明が行われた。説明に対する質疑応答の後,小池委員提出の文書が事務局によって朗読された。その後,配布資料2に基づいて意見交換を行った。
  4. 主査から,敬語小委員会内にワーキンググループを作り,問題点の整理等を行うことにしたいという提案があり,了承された。あわせて,メンバーは主査に一任すること,またメンバーに入りたいという希望があれば1週間以内に主査又は事務局まで連絡することについても了承された。
  5. 次回の敬語小委員会は,10月21日(金)の10:00から12:00まで開催することが確認された。会場については事務局から改めて連絡することとされた。
  6. 質疑応答及び意見交換における各委員の意見は次のとおりである。
井田委員
 配布資料3は,前回の委員会で阿刀田委員からお尋ねのあったものでございます。
  日本新聞協会というのは,新聞・通信・放送各社で構成している自主組織でして,その中の放送分科会というところで,主に東京と大阪の放送各局のアナウンサーや,言葉のチェックをする担当の人間が月に1回ほど集まって,1年間で作ったものです。放送界の新人教育のための基礎編で,例題も少なく,放送局特有の場面が中心になっていますので,一般向けの完成度は持っていないということもありまして,書店には並べられておりません。
  ただ,アナウンサーのみならず,番組制作,そして,一般的な人事・総務・経理等に配属される人間も含めて,放送関係,例えば,日本テレビの新人研修では,この冊子ができた後は,これを使っております。放送各局にも配られていますので,折に触れて,参考にしてもらっているという冊子でございます。

阿刀田分科会長
 これで,どのくらいカバーできるのかという言い方は,きちっとした質問ではないのですが,ここに実例が30ですか,30というのは,考えようによっては非常に少ないとも言えるのですが,この少ない例で,何とかこれをきちっとマスターすると,現場で何とかやれる度合いというのはどんな感じですか。

井田委員
 私の感じでは,この30の例が押さえられている,理解できている人間は応用が利くと思います。しかし,この30ですら,もうテレビを御覧になればお分かりのように,間違った例がしばしば出てきますので,これが分かればと言いますか,これが素直にすんなりと実践できれば,そんなに大きな間違いのない「放送人」になるのではないかなと私は思います。

阿刀田分科会長
 先走るのですけれども,これからイメージを作っていくとき,具体例が30で済むのだったら,我々は50くらい作れば何とか行くのではないかという,そういうビジョンが立てやすくなると思います。けれども,この分科会に参加したときには,こういうものを作るには,1,000くらいいろいろなものを挙げないとだめなのではないかなという感じを漠然と抱いていました。しかし,1,000も作ってしまったら,今度はマニュアルとしてほとんど世の中に通用するものになっていかないだろうと思いますので,30で何とか放送の世界がカバーできるとなると,非常に心強いような気がいたします。
  今,小池委員から提出された意見文書に,アステリスク(*)が付いたものが三つあります。小池委員は3番目の立場でというのですが,アンケート調査なんかで,皆さんが求めているものというのは,ある意味では非常に具体的な,日々使っていくもので,配布資料2の「具体的な指針」の「想定する対象者」にある「敬語が必要と感じているけれども,現実の運用に際して困難を感じている人たち」ということに限定して,我々が答えを出すとなると,やはり具体的なものが非常に必要であると思います。
  余り「この時代の中で敬語がどうあるべきか」というようなこと,これは前提としては,前文としては,必要なことであると思うし,敬語は,語だけの問題,話し言葉だけの問題ではないのだということは,今回,いずれにせよ強く主張していかねばならないことではありますが,アステリスクの3番目だけに余り傾くと,なかなか実際に具体的な指針を求めている方に対して,こたえられないものになってしまうのではないかなという気がいたします。
  それから,アステリスクの1番目と2番目とは,これは私は言語の専門家ではないのでよく分からないのですが,やはり歴史の中で階級社会というのがだんだん崩れてきているとか,省エネというのでしょうか,能率的に物事を運んでいかなければだめだという時代の中で,敬語というものがだんだんと簡略化されているとかという大きな流れは必然的にあるだろうし,そういう時代認識というのは絶対に必要だろうと思います。
  その中にあって,現在ではどこまでが許容範囲であるか,あるいはそこまで行ってはだめだという,1番目と2番目のアステリスクのアウフヘーベン(Aufheben)した辺りに,やはり我々がこたえていくべきところがあるのではないかなというふうに感じています。よく整理された小池委員の意見文書を見て感じたことはそのくらいです。たたき台としてちょっと申し上げた次第です。

井田委員
 配布資料2の一番初めに書いてある,「敬語が必要だと感じているけれども,現実の運用に際しては困難を感じている」,これは食生活に当てはめると分かりやすいのかなと感じたのです。
  つまり,伝統的な日本型の,バランスが取れて食物繊維もたくさんあってという食事が必要だと感じているけれども,現実はインスタントなもので済ませている人たちが,「これではいけない,ちゃんとした食生活をしたいな,その方が健康にもいいし…」というように,言葉遣いも,「今はこうしているけれども,こうではなくて,ちゃんとしたものを身に付けたら,もっと健康的な社会生活というか,人と人との関係がより良いものになっていくのに…」と感じながら,できないでいるということですね。
  それに対して,余り高まいな理念と,複雑レシピで,「こういうふうに日本の伝統食は来たのだから,こういう考え方で,まず山にしゅんのものを採りに行って…」なんていうことになると,だれも付いていかないと思うんです。
  時間のない中で,こうすれば食物繊維はたくさん取れますよとか,日本の伝統食が味わえますよということを示していかないと,テレビの場合は視聴者は付いてきません。
 ですから,そういう形で,「簡単レシピ」というと余りに手軽に過ぎるかもしれませんが,「必要なんだけれども,ついつい略しているのよね。」という人も料理を作る気になるような「敬語の指針」,言葉遣いの面での,そういうものを示していければいいのではないかと考えています。

大原委員
 そうすると,今,人が住んでいる社会の背景についても,併せて考えていかないとできないのかなということをちょっと考えていたのですけれども。
  例えば,カップラーメンだとか,そういうインスタントなもので済ます生活になっているのも,ちゃんとしたものを手作りで食べたいのだけれども,時間と経済が許さないというようなところで,そういう生活に追い込まれているという状況が一方にあるわけですよね。そういう状況と合わせて,言葉遣いも形成されていくのかなというふうに,今,自分の中で考えていたのですけれども。

菊地委員
 ちょっと大本のところで,幾つかの整理をしておく必要があるのではないかと思って伺っていました。   一つは,「よりどころ」,この言い方にも語弊があるかもしれませんが,よりどころ的なものを示すのが私たちの仕事なのか,それとも,大げさに言えば,日本語使用者全体の敬語の運用力の向上を目指すことが私たちの仕事なのか。実は,これはかなり違う仕事だろうと思っております。
  もちろん,よりどころを示せば,結果として,長期的に運用力の向上にはつながっていくでしょうけれども,私は,前者と後者はかなり違う仕事で,私たちの仕事は,まず前者なのではないかと思っています。
  例えば,国語審議会は表記について長いこと仕事をしてこられて蓄積があるわけですけれども,あれは日本語使用者全体の漢字力を向上させようと思ってなさったのでは,多分ない。言葉の使い方に鋭敏な人たちが,どういう漢字は使ってもいいのか,使ってはいけないのかということに迷ったときによりどころを示す,あるいは,小学校・中学校・高校の先生方が,指導に当たって迷われたときのよりどころを示すものであったと考えています。もちろん,そこから,じわりじわりと,長期的には日本語使用者全体の「国語力」に及んでいくのかもしれませんけれども。
  実は,敬語については,「常用漢字表」とか,「現代仮名遣い」とかに当たるものを作らずにきた。そのうちに,敬語の実態が変わってきてしまった。それで,ただでさえ運用の難しい敬語の運用が,一段と怪しくなってきたというのが現状だろうと思うんですね。
  そうだとすると,ちょっと遠回りのようであっても,よりどころを示すのが一義的な仕事ではないかと私は思います。けれども,今日の議論を伺っていると,どうも全体の運用力の向上ということが主眼になっているかのような印象も受けましたので,そこの確認がまず必要ではないか,それが第1点です。
  それから,もう一つ,2点目は,「具体的に」というのは大変結構なことだと思いますし,前回のこの委員会で私も,敬意表現の最終的なまとまりは,結果として抽象的なものにとどまったのではないか,もう少し具体性が必要なのではないかということを申しました。その具体性の出し方,ここがある意味ですべてであろうと思います。
  実は,「具体的に」ということと,「具体例を集積する」ということは,これは違うことだろうと思っております。提示の仕方としては,一つの在り方として,ある程度体系的に整備した形で,幾つかの具体例にも触れながら,体系をそれなりに示そうということを前面に出した形での提示があります。また,ただの具体例の集積という形があります。このどちらかということをまず選ぶ必要があるだろうと思うのです。
  後者の具体例の集積というのは,簡単なようで実はなかなか難しい点があるだろうと思っております。それは,具体例を幾ら集積しても,体系的な理解というのは基本的に得にくく,限界があるのではないかと思うからです。
  最初に申しました「よりどころを示すか,運用力の向上か」ということについて言えば,「よりどころ」を求めている人はかなり多いと思うんですね。特に中学・高校の先生方とか,言葉に鋭敏な人たちです。そのような方々は,幾ら具体例を集積しても満足しないのではないかという気がしています。また,具体例の集積路線で行く場合には,その選定がかなり難しい。30であれ,50であれ,1,000であれ,それを通して体系が浮かび上がってくるような形で項目選定をするというのは,実務作業としてはかなり難しくて,体系的な提示ができるだけの能力を持った上で,次の仕事として,やらなければいけないことのはずなんですね。それで,ある意味では幾ら1,000集めても切りがない。それこそ,上級マニュアルどころか,ただのマニュアルになってしまうおそれが あるように私は思っております。
  今日お配りいただいた『放送で気になる言葉 敬語編』というのは,拝見して,よくお作りになったと思われる反面,やはりちょっとどうかなと思う点もないわけではありません。この種の仕事の難しさを,私はこれを拝見して感じたところがあります。
  それから,三つ目ということになりますが,具体例を挙げていくという場合に,特にそうですが,際どいものに触れるのかどうかという腹を決めなければならないだろうと思います。
  それで,前回話題になりました「御乗車できません」というのは,非常に意識の高い方にとっては気になるものの一つであろうと思いますけれども,これが○か×かと言われると,非常に難しいところがあります。規範的にはもちろん×ですけれども,いつまでも×だと言い張っていても,それは100年後にも通る×ではないだろうと思うんですね。○×の中には,今は×だけれども,10年たったら引っ繰り返るかもしれないという性質のものと,300年後は分かりませんが,50年後や100年後まではこの○×を保っていてほしいという部分とがあるわけです。
  その,中長期的な日本語を見据えたところでの,これは悪く言うと,一種無難なところでのということにもなるのですが,そこにとどめざるを得ないのではないか。要するに,意見が分かれそうな危ないところで比較的細かいところには触れない方がいいのではないかなと私は思っていますが,それは,決して逃げ腰ということではなくて,どこに触れ,どこは避けるというのは,一種,見識が要求されることなんですね。
  そういうふうに,ちょっと繰り返しますが,よりどころを示すのか,運用力の向上を前面に目指すのか。それから,具体的な提示の仕方というものの在り方について,具体例の集積で行くのか,体系性を目指すのか,それとも両方やるのか。さらに,際どいものにどのぐらい踏み込むのかという辺りで,この小委員会としての意思決定というか,腹を決めるということが必要なのではないかなと思って伺っておりました。
  一つ付け加えますが,小池委員の御関心は,大変まじめな御関心だと思いますし,大事だと思いますけれども,ここから出発していって,短期実務的な仕事がまとまるのかというところはちょっとあるかなと思います。文書の三つのアステリスクのどのお立場を採られる方にも相応に満足していただけるものということでやっていかざるを得ないのではないかと思っております。

杉戸主査
 さて,指針のイメージということでありますが,「よりどころを示す」という表現が繰り返されてきています。そのときに,一方で,敬語運用力を向上してほしい,それを実現するためのものだという,そういう考え方があるというのは,一つの考え方として今日,菊地委員から出していただけて,そういう効果も持ち得ることが一つの選択肢としてあるということですね。それを選ぶかどうか,そこを腹をくくらなくてはいけないということなのですが,その「よりどころを示す」という方で考えて,私は,その具体性ということとも関係するのですが,よりどころの具体性と言ったときに,二つあるというふうにも考えるわけです。
  これは菊地委員の発言に,私がちょっとコメントして感想を述べるという,そういうことになりますが,非常に直接的な活用ができる手引ですね。ちょうど今日の配布資料3のような,そういう形の手引そのものを「具体的なよりどころ」として示す,そういう方向を目指すやり方が一つある。
  それから,もう一つは,ちょっと抽象的になりましょうか,例えば,『放送で気になる言葉 敬語編』というマニュアルを,いろいろな方面や分野で作ろうとされる動き,需要があるわけですから,それを作ろうとなさるときに,よりどころにしていただけるような,より基本的なよりどころというものを目指すという,そういう選択もあるだろうと思います。
  後者の方は,マニュアル作りだけではなくて,学校の教育ですとか,あるいは教科書を作るとき,あるいは家庭や社会教育の中で敬語を扱うとき,そういったときに,直接そこでそのまま配るものはその当事者が作るものとして,それを作るときのよりどころに利用されるものですね。
  そういう2種類の具体的なよりどころというものをイメージしました。そのどれを選ぶのかということを選ばなければいけない。これは,ここから先の議論の避けられないポイントかなと思っています。

坂本委員
 本当に難しいとしかこれまで私は言っていないような気がするのですけれども,今日配布されたこの冊子は非常に分かりやすくて,絵が付いているというのが,やはり場面をよく表しているという意味で分かりやすいということのほかに,どういう場面で使われているのかということが非常によく見える。そういう点で,やはりこういうふうに表していかないと,多分,言葉だけでは難しいのだろうなと感じました。それがDVDの作成などにもつながると思うのですけれども,では,こういうものを作っていくのかどうかということですよね。
  これを具体的に現場で作るということにしても,ではその上級マニュアルというか,その指針になるものといっても,やはり扱うものはどうしても具体的な場面になるのではないか。ということになると,その違いがどうなっていくのか。この冊子はやはり,「適切な表現」という形で挙げられていることから見ても,これが,「正しい」のではなくて「適切だ」と言っているところと,それから,全部ではないですけれども,複数の適切な表現が挙がっているところが,とてもいいと思うのです。けれども,こういう形で我々が出すと,やはりそれが,ここの審議会で出す「正しい」ものという形になってしまう。そうすると,正しいものを示していくという形がいいのかどうか…。でも,この形しかないのか。今,菊地委員がおっしゃった具体的なものと,具体例との違いということですね,そういうことも,本当に,具体的に表すというのはどういうことだろうか。それから,それを正しいというふうに示すのか。
  よりどころと運用力と,それだけではないような気がするのですけれども,ほかに何があるのかというのは,ちょっと私も今パッと思い付かないのです。けれども,何か,よりどころというのは,結局,正しいものを提示するということになるわけですよね。それ以外の道というか,私自身も混乱してうまく言えないのですけれども,具体的なものにしていくときのイメージ,そのときの立場というか,方針というか,やはり具体的なもので,もうちょっと考えていきたいというような気がしています。

杉戸主査
 今のお話を伺いながらですが,例えば具体的に扱うためには,場面ということを説明の枠組みの中に入れなければいけないという,そういう考え方はあると思うんですね。
  その場面を扱うときに,どういう示し方をするか。絵で示すか,何で示すかという,そういうレベルの具体性の議論も必要だと思うんですね。
  具体的な指針を具体的なものとして実現するためには,場面という事柄を説明の中に持ち込まなければいけないという,そういう具体性に関する議論と,それを扱っていくときに,絵で示すか,あるいは例えば,上下とか,親疎とかというそういうようなもので示すのか,その表現の仕方の具体性と,二つとも克服しないといけない課題だということを思いました。

佐藤委員
 先ほどのお料理の例え話が非常に分かりやすかったのですが,配布資料3の冊子では30項目,絵で説明されていますけれども,これは,上の方の文章というか,言葉遣いは間違っているということですよね。下の方が正しい適切な表現であるというふうに,非常に見やすくなっておりますけれども,これは新聞協会がお作りになって,放送局は何て間違いが多いんだというところから始まった本なんですか。

井田委員
 違います。日本新聞協会は,新聞各社と放送各局が参加しています。放送も加わっています。その中で,特に言葉のことを扱う,新聞用語懇談会というのがあり,これは,新聞では主に表記ですけれども,この懇談会の中に放送分科会という,キー,準キーの各局が中心になっている集まりがあります。この冊子は,そこで作りました。新聞の人は,この分科会にはほとんど入っていません。

佐藤委員
 そうですか。では,ちょっと誤解があったのですけれども,新聞関係の方が放送を聞いていて,何てアナウンサーは間違いが多いんだというような立場で,もし書いたとすれば,とても30項目では済まないぐらい間違いが多いですから,何かちょっと違うなと思ったわけです。

井田委員
 むしろ,放送各局のベテランが,何て我々は間違いが多いのだと思って,自ら作ったものです。

佐藤委員
 なるほど,それは理解しました。
  ちょっと気になることは,先ほどの,よりどころにするのか,運用力にするのかというのがありますけれども,私の場合は,今のところよりどころをずっと具体的にして,長い目で運用力を持つというように,そういう考え方の方がいいのではないかなと思うのです。それは,「老後の問題について活発な御意見を…」というのがよくなされるのですが,老後についていろいろ考える前に,今現在の老人をどうするのかということを割と考えていない。老後を一生懸命に語ることが立派なことであって,今現在の老人のことを考えていない。それが,今の言葉にも当てはまるような気がするんですね。
  だから,未来の日本語のことを考えるのか,では,今の日本語はどうでもいいのか,今の子供たちに教える「よりどころの教科書」みたいなものを作ると,今の子供が大人になったときは日本語は美しくなるかもしれませんけれども,今現在大人で,だれからも教育を受けない立場でいる人たちが一杯いるんです。
  失礼な電話が随分来ます。「温泉を買わないか」とか,「マンションを買わないか」とかという非常に失礼な電話が多い。今現在,言葉を使っている人たちに教える方法というのは,よりどころが,この会で一つのものに決まりますと,「決まりましたよ」と新聞に1ページ出るだけで,次の日から出なくなるんですが,これが毎日出て運用力,今現在言葉を使う大人の人に,即戦力として,運用力になるような指針を作るかどうかでしょう。そういうこともすごく気になります。
  ですから,両方併せて,これからの子供たちのためと,今現在言葉を使っている大人たちのためにどういう教え方をする方法があるのだろうかというのも,皆さんの御意見を聞きたいなと思います。

杉戸主査
 一つの論点を追加して出していただきました。
  今現在なのか,あるいは将来なのかというのは,先ほど菊地委員が,三つ目でしょうか,補足的におっしゃった,中長期的な見通しを踏まえてという,そのことと関係するところですね。

西原委員
 この文化審議会が,今の段階で今期に出すものという限定で考えていくというのが,この今の私たちの課題だと思うのです。その対象者ということが,この間も少し話題になりましたけれども,放送とか,そういうジャンルがはっきりしている対象者の場合には,むしろ考えやすいというか,「ここが問題なので,こうしましょう。」と申合せが作りやすいと思うのですけれども,この審議会が対象とするのは,国民という,1億 2,000万人の話になってしまうわけですよね。
  そして,その国民というものを対象に,「人間関係でより良い表現を」というスローガンの下に何かをしようとすること自体が,不可能に近いというか,そういうことをもう負わされてしまっているような気がするんですね。それを何とか忌避しようということで,「対象者は」という議論が生まれてくるのではないかと思うので,その「対象者は」というところで,「この期なので」という踏切方をするというのが一つ,提案できることかなと思うのです。
  その上で,さっき菊地委員がおっしゃったよりどころというふうに言う場合に,中学生について今考えるとすれば,中学生の生活,考えられる生活の中でよりどころというのは規範だと思うのですけれども,何が規範というふうになっていくのかという,その規範が想定されないと,それから先の,何をしましょうとか,何を具体にしましょうということはできないのではないのかなと思うのです。
  と同時に,ではそれをどうやって考えていくのか。具体性を持った規範をどうやって考えていくのかというと,前に,蒲谷委員がおっしゃったことでもあるけれども,前期の報告書の中に,場面の問題とか人間関係の問題とか,それから事柄の軽重ですか,そういうようなことがあって,そういうようなことで規範が今どうなっているのかというふうに考えていくと,具体例に行き当たることになっていくのかなと思うのです。
  先ほど阿刀田委員が1,000とおっしゃったのを,何で1,000なのかなと思って考えたのですけれども,場面が10,人間関係が10,事柄の軽重が10で,これでもう1,000です。それぞれの次元で言えば,場面を10個取りましたというのは,そんなに多いことではないですよね。それから,人間関係を10個取りましたというのも全然多いことではない。そして事柄の軽重って,言い出しにくいこと,またはややこしいことから,すらっと行くようなことというので10個並べてみると,これも,かなり大ざっぱに切らないと10にはならない。それで既に1,000例できてしまうということですよね。
  そうすると,私たちの一番最初の決断は,先ほどに戻りますが,何を切って,つまりどこにフォーカスしたら,私たちが思うようなことが書けるのか,または,できるのかということをかなり思い切ることだと思います。そうしないと,そもそも作りたいようなものができることにはならないのではないのかなということです。
  それから,それがもしできないというか,そういうことをしないで,国民全体に対して,ほんわかと規範を示して,それで,それが望むらくは敬語の使い方に資するであろうみたいなところで行くのであれば,冊子はできない。冊子にはできない。理論上もできないわけです。だから,データベースを作るしかないと思うんですね。何かその条件を,「アンド・オア」で三つ条件を出していくと何か出てくるみたいな,そういう検索ができるようなものを作るしかないのではないのかなと考えてしまうんです。そういうものをデータベースというふうに考えるとすれば,具体的なものというのは,DVDのようなものにしかならない。私の提案ですけれども,絞り込みませんか。

井田委員
 今のお話を伺って,思いましたのは,データベースということは,つまり横町の御隠居,困ったときに駆け込んで,「これこれこういう状況なんですけど,こういうときにはどう言えばいいですか」と聞いたときに答えてくれるという,そういったことになるのでしょうか。

西原委員
 それがまた,思い切りの一つだと思うんですね。つまり,指針を出すということを教えてくれるというふうに考えるのか,それとも,今はこうですというか,今のみんなの規範意識はこんなところにあるんですという,小池委員のおっしゃる時代感覚みたいなところにとどめておくのかも,一つの選択の余地かなと思うんですけれども。

井田委員
 ただ,恐らく,敬語で困っているという人が求めているのは,聞いたら教えてくれるものだと思います。一つの具体例を出したら,「そういうときにはこうしてみたら」とか,「こう考えてみたら」と言ってくれるような。
  ですから,国立国語研究所の所長が指針になればいいんですよね。困ったときにはもうみんな,国民1億2,000万人が杉戸所長のところに聞く。聞くと,杉戸所長が,時代認識も含めて,「これはこうです。」と答えてくださって,揺るがない。「こういう方がいらっしゃいますよ。」と示せるようなことになれば一番いいのですが…。国立国語研究所の所長さんが大変なことになるのですけれども。

杉戸主査
 混ぜっ返すことはしないのですが,その所長が絶えず机上に置ける「よりどころ」,それが我々の課題ではないでしょうか。

佐藤委員
 分からないことがある,難しいからというので,杉戸所長のところに電話をする人は立派な方で,社会生活の中で,本当に敬語を必要とするような立場にある人は,聞きもしないで,そのまま,間違ったまま使っているのが現状ですよね。
  だから,「あそこに電話をすると分かるんだ」というふうに思う人は,ごく一部ではないのですかね。そういう人たちだけを対象にするのか,日ごろ口のきき方がぞんざいで困ったものだなという人にも,何か「こうした方がいいよ」という教え方をする指針を作るのか。対象者ですけれども,意識のある人を対象にするのか,そういう,言葉に対する意識がない人にも,「少しは敬語みたいなことを覚えろよ」というのを教えるような形にするのかということがあると思います。だから,電話で聞いてくる方はまだ救いようがあるのではないか。電話もしてこない人をどうするかということも考えておいた方が,日本はいい言葉遣いになると思うんです。

阿刀田分科会長
 井田委員のさっきおっしゃったことは,いきなり杉戸所長に聞けということではなくて,この委員会がそういうような,「人間ではない国立国語研究所の所長」というようなものを,ここが作るようなものであってほしいという意味ですよね。

井田委員
そうです,はい。それはもちろん。

杉戸主査
 西原委員からは「絞り込み」ということが改めて提起されました。このことは,今日の発言の中では,菊地委員の「体系性」ということと,私の頭の中では,つながりました。その体系性というのを,何の体系性を持たせるかということで,これもいろいろな物事について体系性を示さないと,敬語というのは使えないと思います。
  場面の体系性,人間関係の種類を整理した体系性,あるいは,表現される事柄についての体系性。それが,10×10×10という,そういう枠組みになってくるわけですね。そういう意味で,体系性という菊地委員の発言と,絞り込みということとが関係するだろうと,そんなふうに伺っていました。

山内委員
 前回欠席いたしましたので,ちょっと重複するかも分からないのですけれども,そもそもこの委員会ができたということは,単純に考えると,日本人がもっと美しい日本語を話すようになってほしいとか,そのときに正しい敬語を使えるような人を増やしたいというような単純な発想から出たのかなという気がするんですね。
  これまでも,そういう,敬語に関する国としてのいろいろな施策があったり,いろいろな提案も出されたり,考え方をまとめている文献もたくさんあり,資料の中にもいろいろありましたので,そこを見てみますと,言っていることはすごく正しい,ほとんど正しいと思いますし,それを基本にもっともっと普及させるということが,元々この委員会の位置付けなのかなという理解でよろしいんですよね。正しい敬語は何ぞやとか,そういう理屈を論理的にもう1回掘り起こすというよりは,もっと国民に広げていくというか。しかも,そこには,正しい敬語を使う,その国民性みたいなものを上げていくというような趣旨があるのかなと,私は自分では解釈していたんですね。
  それで,私なんかは,実際に仕事柄,接客用語を使う,もしくは教えていかなければいけない立場の中で,一番困っているのが,例えば,敬語にも謙譲語があって,丁寧語があって,そして尊敬語があってということで,教えるのですけれども,何が正しいのかとか,その三つをどうしても混乱してしまうというか,間違った言い方をしているというような指摘を受けたりとか,そういうことがあるので,何が正しいのかというのがまず分からなかったりする。
  今日,配布資料3の冊子を見せていただいて,私もこれ,うちバージョンに作り変えたいなと思ったぐらいなんです。現場でこういう,本当に実際に使って,困って,教育する立場だと,やはりこういうものが欲しいなというのは私自身も思いますし,うちの会社の場合でも,実際にお客様とお話をするときの具体例というのを,こんなに立派ではないのですが,使って,実際に訓練の中でも活用しています。
  そういう中で,基本的に,一般的に正しい敬語はこうだというのが一つあって,あとは,それをきっかけにして,それぞれの業界が,業界に合うものを作成する,もしくはその参考にできるものというものがあればいいなというふうに思います。
  業界別に作るのはもうこの委員会ではとても大変なので,作るときの参考になるものがあったらいいなというのと,あと,謙譲語は別としても,丁寧語と尊敬語というのは本当に使い分けないといけないものなのかというのは,私たち教える立場としても,どうやって区別して教えてあげていいのかが本当に分からなくなるときがあって,いろいろな文献で調べたりもするのですけれども,何が正しいのかなと悩むことがあります。
  卑近な例で,「とんでもございません」というのは,私どもお客様の前でしょっちゅう使うんですね。でも,ある時期から,これは正しくないということを言われて,客室乗務員も,これは使わないようにしているのですけれども,「とんでもないことでございますって言うんですよね。」とお互いに言い合いながらも,ついつい使ってしまう。
  でも,本当にこれはいけないのだろうかと。自然に入ってきてしまうものはそれでいいのではないかというふうに思ったりもするので,その辺り,少し整理してもらうと,実際に接客語を使ってお仕事をしている人たちには結構いい参考になるのではないかなというふうには思います。

杉戸主査
 一つの具体性の例を示していただいたと思います。
  一つ,お話の中にありました,正しさとか,あるいは逆の間違いという,そのことをこの指針の一番の論点と言いましょうか,議論するフィールドとして選ぶということが発言の中にありました。
  その点については,この小委員会を超えて,国語分科会全体とか,あるいは文化審議会という,そういうところの話題であるだろうと思うのです。敬語についての正しさ,あるいは間違いだけを扱うことは,今期の具体的な指針についてはそういう議論ではなかっただろうと思います。
  つまり,敬語というものが日本の言語社会,あるいは日本の言語文化の中でどういう意義を持っているか,人間関係を言葉の上でうまく調整していく積極的な働きを敬語というものは持っているのだということです。もうちょっと別の表現を使うと,敬語の効能ですとか,効果,機能,そういったことを改めて見直すというか,認め直すという,そういう姿勢を少なくとも基盤に置いて,その上で将来,あるいは今現在の敬語についての指針を示す,何かそういう構造を持っている,そういうように審議会の議論が進んできているだろうと,そんなふうにとらえています。
  それを受けて指針を作るということですので,これも具体的なものになってしまえばどうかということと関係しますが,単に,正しい,誤りというものを例としてずらっと並べればいいという,そういうものではないだろうと,これは個人の意見としてはそんなふうに思っています。何か,敬語の持つ積極性,それを抽象的にでなく,具体的に示せるような,そういうものであるべきではないかと,そんなふうに思います。

阿刀田分科会長
 菊地委員が指摘された2番目の,体系的なものを踏まえた上での具体性ということ,これは非常に重要なポイントかなと思います。私は具体例をずっと挙げるようなこと,例えば,この配布資料3はもう本当に具体例を挙げているわけで,序論が少しありますが,体系が見えてくる冊子ではないと思うんですね。でも,我々は具体的なものをどんどん挙げるとしても,やはり後ろに体系の骨組みというか,バックボーンみたいなものがあるに越したことはないなと思っています。
  ただ,敬語というのは本当に,そういう体系,ある程度の体系はあるにせよ,示すことができるものなのか。例えば「とんでもない」と「とんでもございません」は,これは文法的に違っている。「とんでも」というのは,あったりなかったりするものではなくて,「とんでもない」というのが一つのもう言葉なのだということだろうと思うんですね,非常に簡単に言えば。だから,「とんでも」があったりなかったりするような,「ございません」という言葉は付かない。これは,文法的に違うものはいけませんよという,ある種の体系的な理屈でカバーできる問題だと思うのです。
  ところが,冊子の25ページに,「この問題を取材している記者にお越しいただいています」というのを,「この問題を取材している○○記者です」という言い方にするのは,これは便宜的にはこのとおりで非常にいいのだけれども,元の文章をどうこうしたものではないと思うんですね。これは,別な言い方をして,本来どうしていいか分からないから,こういうところは「お越しいただいた」にするとか,「来ていただいています」がいいかどうかという問題はどうもややこしいから,そこは避けて,「取材している○○記者です」という言い方に変えているわけで,こういうことまで体系化しろと言われたら,「別な言い方をすればいいんです」というような,もうほとんど体系を拒否していることになると思うんですね。
  そういうところまでありそうなので,本当に私たちは,これをずっと見ていて,私は何となく大体正解に近いことをしゃべっているなという気はするのだけれども,それは自分の中で体系を持っているから,そういうことが言えるのではなくて―今の「とんでもない」みたいな例は理屈で言えましたけれども―,今までの,割と敬語を使えるような環境で育ってきたということによって,そんなに間違いのない敬語をしゃべっているだけの話で,確固たる体系を自分が持っているとはとても思えないんですね。
  でも,何か体系のようなものが示せるのであれば,背後に体系があって,実際に発表するときには演繹的方法と帰納的方法があると思うのですけれども,先に,できたら体系を発表しておいて,それゆえにこういうことなのだという具体例を出すような例と,具体例を全部出しておいて,帰納的に,この背後にはこういう体系があるのだという,発表の方法としてはどっちだって,そこで考えればいいのだけれども,もっと前の段階でそういう,演繹的にせよ,帰納的にせよ,背後の体系というのは,本当に語れるほど確たるものがあるのかどうかなというところについて非常に不安を覚えているのです。菊地委員には,そのことを,今回の話の非常に重要なポイントを指摘していただいているのですけれども,その辺りについて,どのように探っていったらいいかなということを今一生懸命に考えております。
  それから,もう一つ,この冊子を見ていて感じたことは,みんな敬語を結構話したいと思っているんですよね,敬語を話したいと思っている人が一杯いるがゆえに間違って使っているというようなケースが非常に多いんだなということです。そのことを実感していますので,我々はやはり何か指針は示さねばならないのだろうなというふうに考えたりしています。

西原委員
 たまたまその25ページのことで,どうしてこうなってしまっているのかなと考えるのですけれども,これは女性アナウンサーだという前提の下なんですけれども,難しい言い方をちょっとだけすれば,相対敬語の中に絶対敬語的な感覚が入ってきてしまっているので,こうなってしまうというふうに言えるのではないかなと思ったのです。
  つまり,女性アナウンサーなので,来てもらっている男性記者に対して,この人間関係が,恐らく男性記者というのはこの女性にとって敬うべき立場だということで,社内では,この女性は,この男性に尊敬語を使う立場にいるということがあるのではないかなと思ったんですね。それが,「お越しいただく」になってしまった。それから,この女性は,女性アナウンサーであるがゆえに,恐らく,美しい言葉をしゃべらねばならぬというような使命を負っているために,今度は相対敬語の話になりますけれども,例えば,内と外ということでちゃんとするのであれば,「来てもらっております」というふうにすることになるかと思うのですけれども,そういうふうにしてしまうには,自分の品格が許さないというか,何かそんなこともあってこうなってしまったのではないか。
  だから,今,阿刀田委員がおっしゃったように,本当に善意で,いろいろな配慮をしつつこういう結果になっているので,これを「間違いです」と切って捨てると,この女性アナウンサーにかわいそうかなと思うほどです。でも,聴取者,来訪者から見ると,そういうものは自分の中での配慮であって,これは公共の放送として外に向けて発せられるべき表現ではないという判断で,これが悪例になっているのだろうなというふうに考えておりました。

坂本委員
 この25ページの例に関してなんですが,今,西原委員がちょっとおっしゃったように,「お越しいただいています」というのは,やはり,だれに配慮するかというところの判断を誤っているわけですよね。これが二人で話している場合には構わないわけですけれども,聞いている人を意識すると,間違っているという判断になると思うのです。その場合に,つまり「お越しいただいている」という言葉を,敬語を使わない形,尊敬語を使わない形にすればいいのかというと,そうではない。別の言い方をするということよりも,どこに配慮してどういうところを上げるかというような判断を考えると,一つ一つの言葉を敬語形にするかしないかということでは済まないわけですから,別の言い方をしたというか,それは,この状況をどう表現したかということになると思うのです。ちょっとうまく言えないのですけれども,敬語の問題を考えるにしても,敬語の形をどうするかということだけを考えていたのでは,もう全然解決にならないというふうにいつも思っているんですね。
  やはり,その裏に体系というのは,阿刀田委員もそれはお持ちだと思うのです。それはかなりはっきりしていると思うんですね。ですから,それに抵触すると気になる。それは拾い上げることはできると思いますけれども,それが個々の敬語をどう使うかということよりも,その世界をどう切り取って,どう判断して,こういう表現をしたというところに出るのであって,それは敬語一つをどう使うかではなくて,どう判断したかというところ,そこから考えなくてはいけないのではないかというふうに思っています。

大原委員
 私の仕事は,ある場面に登場する人物が話す言葉によって,その人間関係を浮き立てていくわけですね。その場合に,こういう指針があれば,とても私としては助かるわけです。ただ,こういうものを作るときに,その場面と,それからさっきおっしゃいました三つのこと,それを,どういうふうな,人間関係や事柄として設定していくのかなというふうに思います。
  ドラマの場合は,いろいろな階層の人が出てきますよね。だけれども,指針をというか,よりどころとするならば,どういうところにライトを当てるのか。例えば,記録映画の場合だったら,記録映画作家が焦点を置いて,これを観客に見せたいというふうに思う作業をするわけですけれども,それを私たちはどういうレベルと言っていいのか,どこへライトを当てていったらいいのかというところへ今来ているのではないかと思うのですけれども,それはどういうふうに考えたらいいのでしょう。
  例えば,今,女性だからとかいろいろ出てきましたけれども,そういうふうにしていくと,それこそとても大変になっていくと思うんですよね。

杉戸主査
 そこで絞り込みというところが,やはり必要になってくるわけですね。

大原委員
 はい,そうです。

杉戸主査
 話し手の性別,男か女かは2で済むわけですが…。

大原委員
 それは,今たまたま出たことですけれども,そういう場面と,それから,人間関係,事柄というのをどういうところに設定していくのかという問題があります。

杉戸主査
 そうですね,具体性を持たせるということと今の御指摘とは本当に抜き差しならない関係でつながっていることですから,これは,菊地委員が繰り返し使われる言葉で言えば,腹をくくらなければいけないところが出てくる。そのくくり方がいろいろあるだろうと思うんですね。

井田委員
 この25ページのことで言いますと,女性・男性というよりは,今はもう放送局は,女性記者も多いですし,やはりキャリアの差ですね,先輩か後輩かということの方が問題になります。
  お話にありましたように,この冊子を基に研修をするときには,どこまで身内としてとらえるのか,ゲストは,視聴者から見れば,テレビに出ている人間ということだからテレビ側である。しかし,ゲストは同僚の記者ではない。ということで,放送局内の人間とゲストに対する言葉遣いの区別が問題になります。しかし,ゲストに対しても「お越しいただいて」のようなことを連発していると,同じ出ている人間に対して言葉が丁寧過ぎるという視聴者からの指摘もあるわけで,どこまでを身内としてとらえるのかという考え方は,常に具体例を説明しながら話すことになります。
  それが,絶対敬語,相対敬語という体系にもつながっていくのかなと思うのですが,先ほど菊地委員が,具体例を集積するだけでは体系にならないとおっしゃったのですが,具体例の集積でぼんやりと見えてくるのが体系で,現実にはそうやって身に付けていくしかない。この冊子で言いますと,最初の方に本当に簡単に基本が書いてあります。これが言わば体系で,その後,具体例に入っていくのですが,順番でどうしてもここから話すのですけれども,体系のときは大体,新人社員は退屈そうですね。具体例に入ってから途端に,「そうかそうか,そうだそうだ」という感じになってくるわけです。
  ということは,少なくとも具体例が示されなければ,体系とかよりどころ,基本的なものがどんなに立派に示されても,恐らく余り関心を持たれないで終わってしまうと思います。だから,よりどころも,菊地委員がおっしゃったように,迷ったときのよりどころということになると,結局具体的で,敬語の能力が,そのときに一つ聞いたら一つ上がるみたいなものになっていくのではないか。そうならざるを得ないのではないかなと思っています。

西原委員
 どこをねらうかということと関係してくるのかなと思うんですけれども,多分,学習のことを何かちょっと,私は教育の場にいるものですから考えるときに,場面を積み重ねていくことによって,今おっしゃったように,「ああ,そうなんだ,ここのところに規範があるんだ,これはこういうふうになるんだ」とやっていく学習もあるし,覚えていくやり方もあるし,ある一定のところで,ちょっと理屈を言ってもらうと,その学習がより進むというか,何かそういうこともあるわけですよね。ですから,そこは,井田委員がおっしゃったように切っても切り離せないことなのだと思います。   ただ,私たちの委員会でねらうのが,どっちにフォーカスを当てたものなのかということかなと思うのです。

菊地委員
 初めに私,三つというふうに申しましたのですが,実は,先ほどは申しませんでしたが,1番目の「よりどころか運用力の向上か」ということと,体系性か具体例の集積かということは,かなり実は連動しているのだろうと思うんですね。
  ですから,最初の点について腹を決めるということが一番大事なのではないかと思うのです。運用力の向上というのを目指すのであれば,当然,これは具体例の集積が必要なのだろうと思います。それは,今,井田委員の言われたとおりなんですね。
  議論が25ページに集中していますが,これは「同僚の記者に対してこういうことを言ってはいけない」という教育は,アナウンス部における現場教育としては多分必要な具体例だろうと思います。
  しかし,ここから,習う人が何を習うか。例えば,同僚の記者ではなくて,編成部長だったら,やはりこう言わなければいけないのかもしれないと思う人もいるかもしれないわけですね。そうではないのだ,それは同僚の記者だろうが,社長だろうが,これはだめなんだということを次には教えなければならない。
  それで,結局それは,身内というものの範囲はどこまでなのか,ということになるわけですが,ただ,身内というものの範囲がどこまでなのかということは,一般的な規範としては書けないだろうと思うんですね。書けることは,「身内にこういうことをしてはいけませんよ」,ここまでは一般的な規範として書いてもいいだろうと思います。その辺りを見極めていく必要がある。私がよりどころと言ったのは,「身内に敬語を使ってはいけませんよ」という,あるいは体系というか,そういう一般的な知識,そういうことがちゃんと分かれば,応用が利いていくだろう。「同僚の記者に対してこういうことを言ってはだめなのよ」とだけ言っても,その応用が,利く人と利かない人がいるのではないか,そういうことも申し上げたかったわけです。
  あるいは,山内委員のことに関係して申しますならば,結局我々は何を目指すのかということになりましょう。アナウンサー用のマニュアルを作ることは我々の仕事ではなくて,客室乗務員用のマニュアルを作ることも仕事ではない。ただ,いろいろなマニュアルを作ろうとする人のよりどころが,余りにもなさ過ぎた。それを作るのが仕事なのではないかなと,私は個人的には思っているわけです。実は,アナウンサー,客室乗務員だけではなくて,小・中・高校の先生方が敬語を教えるときに,子供たちが間違って使った場合,「これは間違いだよ」と教えたいのだけれども,そのよりどころがない。それが表記や何かだと,あるわけです。
  表記とか常用漢字についても,国語審議会のした仕事としては,言わば最小限のよりどころを昭和56年に示した。そこから先は,国語審議会の仕事ではなかったわけですよね。後は,個々の出版社が用字用語辞典を作り,小学校の教科書や参考書を作る人がそれを基に作った。敬語については,それがない。その意味で,よりどころが必要なのではないか。そこから始めて,一体どこまで欲張るのか,そこはちょっと分からないのですが,余りにも内輪にとどめ過ぎて,「役に立たん」と言われてもつまらない。
  ですから,その体系性の中に,具体例を散りばめながら,個々の現場,つまり教育現場,客室乗務員の現場,あるいはアナウンス室,一般企業等で,それぞれよりどころを作っていただく,その基を作るということでやらざるを得ないのではないかなと思っております。それに必要な程度の具体例は必要だろうけれども,広くやり過ぎると,これは1,000集めても,ある意味で足りないと西原委員もおっしゃった。それで,その体系性を,前面にか背後にか,演繹的か帰納的かはともかくとして,示すことはとにかく必要だろうということを感じております。普及は,もしかしたら,その先の仕事でもいいような気がしております。

杉戸主査
 この25ページの例を基にして,いろいろな具体性がここの中に含まれているけれども,そこからどのレベルを抽出するか,我々の目指す指針というものがどういうレベルの具体性を選ぶかということの議論として,私は伺いました。
  その一つのレベルの選択として,「身内」という説明の言葉を,これは必須であるという,そういう御意見で,その身内ということの具体例として,ここで言う25ページのこの絵のような具体的な関係が一つある。あるいは,客室乗務員が関係される場面もある,学校の先生が関係する場面もあるというふうな,そういう具体性は一杯広げ得るわけだけれども,それを抽象化した,これまた一つの具体性だと思うのですけれども,身内か,身内でないかという,そういうとらえ方のレベルもある。
  そういったそのレベルをこの先,模索していく仕事が待っているということを,今日改めて議論できたと思います。その中での絞り込みということですね。

阿刀田委員
 実際にそういう作業をここでやるのかどうかはともかくとして,私たちの頭の中で,もうこういう本とか何とかはよくあるのですが,敬語の間違っているような例を,また1,000にこだわるわけではないですが,500でもいいのですけれども,バラバラっと持ってきて,その中に,これのポイントは何かというと,身内に敬語を使ってはいけないということがここから抽出できる,ここからは,文法的に間違っているということが抽出できるとかいうことをバーッと,たくさんの,何かトラブルを起こしているような例を最初に挙げる。もしやるとしたら,具体的な作業としては,本当にそういうものを1,000くらいバーッと並べてみて,そして,そこから,何が原因でこれが間違っているかということを抽出して,そういう抽出の中から,具体例に沿った一つの体系的なものができてくるのではあるまいか。
  あるいは,そういうような作業は適当ではないだろうという考え方に立ち,敬語の偉い,敬語学概論か何かの一番権威のある方の本を開いてみて,敬語とはこのようなものであって,こういうふうになるのが正しい敬語であるということを最初に持ってきて,これから考えると,こういうのはよくない,こういうのもよくないというような形で,指針を作っていくか。
  私は,後者の方が割と演繹的な方法であって,前者の方は帰納的な方法だと思いますけれども,そんなやり方を,実際にここでその作業をやるかどうかということは別に,私たちの頭の中に,そういうどっちのイメージを持ってこれからやっていくかということは,今の話合いの中から一つ出てきた方向性の考え方のポイントかなと思います。

西原委員
 質問なのですが,その作業はだれがするのですか。敬語小委員会の委員ですか,それともタスクフォース(task force)は外にあり得るのですか。

杉戸主査
 いろいろな考え方があると思うんですね。そして,実現の可能性は選ばなければいけないというか,制約はあると思います。
  これは,今日もうちょっと時間がたったら,今日のまとめの前に私からお諮りしたいと思っていたのですが,今,阿刀田委員のおっしゃったような具体的なたくさんの用例からという,そういう帰納的な方法につながる作業をするかしないか,そういうことが多分含まれるだろうと思うのですが,それも含めて,たたき台作りのワーキンググループと言いましょうか,作業チームを,この小委員会の中で,人数を限って作っていただけないものかということを実は考えているのです。
  そのワーキンググループが,今,西原委員のお尋ねのようなことで,どういう仕事をするのか。これは,1年半で答申にこぎ着けなければいけないという日程的なこともあり,そしてデータをどれくらい踏まえた仕事にするのかということもあり,作業の内容は変わりますけれども,そういうことになりますね。
  ぼつぼつまとめに入っていきたいと思います。
  今日は,幾つかのと言いましょうか,私のメモでは七つとか八つくらいの今後の議論のためのポイントが示されましたと思います。そして,それぞれについて,それぞれの委員のお考え,御意見も添えて示していただけたと思います。
  十分に扱えなかった観点として,佐藤委員のおっしゃった,私の言葉で言うと「啓発性」ですね。敬語についてよく知らない人に教えるというような姿勢,間違いをそこは間違っているよと教えるような姿勢,その内容をどう持たせるのかということ,これは十分に今日は議論できなかったと思います。それから,今現在の問題をどう扱うかということと,近いものであれ,長いものであれ,将来に向けての問題をどう扱うか。その二つの側面をどう考えるのか。この点も論点としては出されましたけれども,まだ時間を使うことができなかったというふうに思っています。
  ただ,逆に,よりどころを示すということに関して,いろいろな考え方が,具体的なイメージとしていろいろ出されまして,その中から少し進むべき道が絞り込まれてきたかなと,そんなふうに感じています。つまり,具体的な,非常に即戦力のある,場面にすぐ生かせるような手引とか,マニュアルそのものをいろいろ作るというのではなく,いろいろな分野でそれらを作ろうとする人たちのよりどころになるような,そういうものがイメージされる。その辺りで,何か一つの方向が今日ははっきりしてきたと,そんなふうに受け止めます。
  それで,まとめの前に先ほどちょっと予告したことになりますが,ワーキンググループというものを,前回と今日の議論を伺うと,やはり出していただいたいろいろな意見なり,イメージなりを整理して,最初は,きっと複数のものであると思うのですけれども,いろいろな考え方を基にして幾つかの具体的な指針というもののたたき台を作る,そういう作業をするグループをお願いしたいと,そんなふうに私としては思うのです。
  これはずっと続けてその活動をしてもらって,最終的には「答申のたたき台」もということになりますが,当面は,例えば,今日七つか八つの論点が戦わされましたけれども,それらを整理する。そして,次回のこの小委員会,あるいはその次の小委員会に,論点の整理をした,議論のためのたたき台を作ってもらう。そんなことをお願いしたいと思うのですが,いかがでしょうか。やはり,今,資料作りは,氏原主任国語調査官を中心とした事務局が行っています。もちろん,その事務局にも入っていただいて作業をしなければいけませんが,そういうことでよろしいでしょうか。

阿刀田分科会長
 よろしいと思います。そうしないと,こういうオープンな形の会議だけでは,なかなか具体的なものができてこないので,そこを担当される方は本当に大変ですけれども,やはり何人かのワーキンググループを作って,そこからある程度のものを出して,それがここに反映されて,それによってまた次が進んでいくという形で行かないと,具体性のあることはできないと思いますので,ワーキンググループは大賛成です。

菊地委員
 作業の方向性とか方針とか,ここでもう少し確認しないと,ワーキンググループの作業がしにくかったり,ワーキンググループから上がってきたものが,ここで,こんなはずではなかったというようなことになるといけないのではないかと思うんですが。

杉戸主査
 今日,こういうことを言い出しましたが,例えば次回,第3回の小委員会が予定されていますが,そこまでには,まだワーキンググループは活動できないと思うんですね。
  今日,ワーキンググループを作るということに合意いただいたとして,そのワーキンググループをどなたにお願いするか,今は白紙状態なんです。何の下準備もない段階ですので,ここから準備する。第3回までにワーキンググループが構成できて,御報告できる。その後,作業が始まるということですので,3回目の議論は,ワーキンググループからのたたき台というものがない段階だと思います。
  しかし,それくらいにはワーキンググループを発足させないと,実質,あと1年しか活動の期間が取れませんので,今日のタイミングで,まずはワーキンググループを作るということに関して御了解いただきたいということを考えたわけです。

菊地委員
 手順の問題と言えば手順の問題でしょうけれども,たびたび申し上げて恐縮ですが,腹を決めるというか,ここの小委員会全体として,こういう方針で行こうという輪郭がもう少し見えないと…。私には,まだちょっと見えていないんですね。
  こういう輪郭でワーキンググループを作ろうということで,それこそ帰納か演繹か,そういうことまでワーキンググループへ任せるのか。具体例の集積から入るのかどうかということまで,ワーキンググループへ任せるのか。皆さん,その辺のイメージが大分まだ違うのではないかという気がします。

杉戸主査
 ワーキンググループの最初の課題は,腹をくくるポイントを整理すること。いろいろなポイントで腹をくくらないと,この小委員会の議論が進まないと思います。この段階からワーキンググループで論点を整理するという,そういう仕事から出発すべきかと,そういう意味のワーキンググループなんです。
  その先に小委員会での議論があり,そして,その方向が固まって,更にワーキンググループの作業内容が変わっていく。菊地委員のおっしゃるのは,その後半の仕事をするワーキンググループだと思うんですね。

菊地委員
 ええ。方向性が出たところで,その仕事をするのにふさわしいワーキンググループというような考え方はあるかなと思ったわけです。

杉戸主査
 そうですね。その段階で,また,ワーキンググループを増やすということも考えられます。まず,お願いしたいのは論点を整理するということですね。つまり,腹をくくるべきポイントはどこなのかということを,小委員会のメンバーの中の何人かで整理したいということであります。

坂本委員
 先ほども配布資料3の冊子の25ページの例で大分議論があったように,やはり具体的なものをどう扱うかというところから論点が見えてくると思うんですね。
  ですから,やはり私は早く具体的な話をしたい。そのためには,ワーキンググループがこういう問題があるということを具体的に出してきたところで,それをたたき台にして話がしたいというような気がしますので,早くワーキンググループを作っていただくという案に私は賛成します。

阿刀田分科会長
 皆さんのお話を伺うと,ここでワーキンググループを作ることを承認しまして,そのワーキンググループにゆだねるには,この小委員会としてどこまで絞り込んでいくかということを,次回に話し合う。そのことを前提に,次回,ワーキンググループをだれにやっていただくかを決定するという手順で,ほぼよろしいのではないでしょうか。

杉戸主査
 では,ほかに御異論がなければ,ワーキンググループなるものを作らせていただくということで,その人選と言いましょうか,メンバーについては,せん越ながら私に御一任いただけるでしょうか(委員会了承)。
  それで,当面は,5,6名という,そういう人数でまずは考えたいと思います。もちろん,ここにおいでの,今日,御欠席の委員も含めた範囲でお願いしていくわけですので,お一人お一人お声を掛けてお願いする,そういうことを早速始めたいと思います。積極的にお受けいただければと思います。
  そして,もう一つは,私がお願いする以外に,是非そのワーキンググループに加わりたい,加わってやってやろうという方も,事務局か私まで,1週間以内にお申し出いただければと思います(委員会了承)。

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