議事要旨

国語分科会第20回議事要旨

平成16年4月27日(火)
14:00 〜 16:00
東京會舘「オリオンルーム」

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,西原,前田,松岡各委員(計4名)
(文部科学省・文化庁)河合文化庁長官,素川文化庁次長,久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会委員名簿
  2. 文化審議会国語分科会運営規則(案)
  3. 文化審議会国語分科会の議事の公開について(案)
  4. 国語審議会報告に見る「国語をめぐる諸問題」について
  5. 文化庁の世論調査に見る「国語に関する意識」について

〔参考資料〕

  1. 文化審議会関係法令
  2. 文化審議会運営規則

〔経過概要〕

  1. 事務局から,出席者(委員及び文化庁関係者)の紹介があった。
  2. 文化審議会令に基づき,委員の互選によって,阿刀田委員(文化審議会副会長)が国語分科会長に選出された。
  3. 事務局から,配布資料の確認があった。
  4. 事務局から,資料2「文化審議会国語分科会運営規則(案)」及び資料3「文化審議会国語分科会の議事の公開について(案)」の説明があり,了承された。
  5. 第3期国語分科会の発足に当たり,河合文化庁長官から,あいさつが行われた。
  6. 事務局から,配布資料4,5についての説明が行われた。説明に対する質疑応答の後,配布資料を参考として意見交換を行った。
  7. 次回の国語分科会は,各委員の日程を調整した上で,事務局から改めて連絡することとされた。
  8. 意見交換における各委員の意見の要旨は次のとおりである。
    (○は委員,△は事務局を示す。)
資料5は大変興味深いデータであるが,世代間で大きな違いがあるのではないか。
おっしゃるとおりである。問いによっては世代間で相当な違いが出ている。世代差について詳しいデータが必要であれば,いつでも提供できる。
この世論調査の規模はどの程度のものか。また,調査対象の抽出方法と調査方法についても教えてほしい。
専門の調査会社に依頼し,層化2段無作為抽出法によって,日本人全体の縮図となるように全国で3,000人を抽出している。調査方法は,調査員の訪問による面接聴取法である。また,有効回収率が70%以上になるように調査をお願いしている。
我々の任期は1年間であるが,この1年というのは,いろいろな問題の中から国語分科会として問題提起する事柄や,今後,分科会で考えていくべきテーマを探っていき,可能であれば,部分的な答えを示すということで考えればよいのか。
そのとおりである。「この問題に重点を置いて進めていくべきである」ということを示していただければ有り難い。
私は言語学を専攻しているので,「言葉は変わるものである」という認識を持っており,「昔はこうだったから,こうあるべきだ」とは言えないと思っている。報告又は答申を出すにしても,その方向としては,人口構成など来るべき時代を予測して,これからの日本語がどう動いていくかという将来を見通したものでなければいけないと考えている。
具体的に気になっていることが三つある。一つ目は,これまで話し方がずっと問題にされてきて,敬語については,第22期国語審議会で答申がまとめられたが,最近の学生などを見ていると,みんなに分かるような話し方ができていないということである。どのようにすれば分かりやすく話せるのかということについては何も示されていない。これをその検討方法も含めて,何とかしたいと考えている。
二つ目は,第22期国語審議会でかかわった表外漢字字体の問題と関係があるが,表内,つまり常用漢字表の改定が必要なのではないかということである。常用漢字表ができるまでは諮問から10年以上かかっている。既に新聞界では一部の表外漢字を常用漢字並みに使っているなど,各方面で常用漢字表の改定につながるような動きも出てきている。常用漢字表と実際の漢字使用の実態とで,ズレが生じていることもあろう。前提として,漢字使用の実態調査が不可欠であるが,そろそろ議論を始めておく必要があるのではないだろうか。
三つ目は,近年,左横書きの文章が増えているが,どうすれば読みやすい横書き文章になるかを考える必要があるということである。かつて国立国語研究所で縦に伸ばしたり,横に伸ばしたり,字の形を変えて,どれが読みやすいかを研究した例もある。また,ワープロや携帯電話の普及に伴って,符号を多用するようになってきている。若者が自分たちの間で使うのだから構わないという意見もあろうが,どこまでそれらの符号を許容するのかということも検討すべき問題の一つであろう。
2年間かけて,「これからの時代に求められる国語力について」の答申を出したので,その趣旨の普及,実現に向けた手掛かりを考えたい。「自ら本に手を伸ばす子供」を一人でも多く生み出すための方法を具体的に検討することも必要であろうと考えている。今,配布資料で世論調査の結果を見せてもらい,「言葉の乱れの意識」と「美しい日本語の意識」との表裏一体性,敬語が必要だという意見の多さ,男性と女性とで言葉遣いの違いがある方が良いという意見が増えたといった背後には,人間関係をうまく持って行きたいという意識があるのではないだろうか。また,過度に間接的な表現(「〜の方」「〜とか」など)を多く使う問題も根底では,このような意識とつながっているのではないか。国語の問題は人間としての生き方にかかわることなので,この点を踏まえて検討しないと根本的な解決はできないだろうと考えている。
2年間にわたり,国語は人格形成にかかわる面が大きいという観点から国語分科会で国語力について審議してきて,極論すれば,国語力の問題は「読書」で6〜7割は解決するだろうと言ってきた。我々は言葉を通してものを考えるわけだから,豊かな言葉,平明な言葉が求められる。これから,この分科会で表記などの細かい問題を扱う場合でも,国語力をいかに豊かにするかということを念頭に置いて進めていく必要があると思う。
単に言葉だけではなく,言葉を発する際のその人の行動・所作にまで議論を及ぼす必要があろう。例えば,「おはようございます」というあいさつ一つにしても,深々と頭を下げながら言うときと,なおざりな態度で言うときでは,同じ言葉であってもその持つ意味はおのずと異なってくるはずである(事務局による意見の紹介)。
日本語教育という立場から考えると,今後,国際共通語としての日本語が,人口動態などの面から重要になってくるのではないか。国際語としての日本語という意味では,「平明」「的確」「美しさ」という要素のうち,「平明」「的確」という要素と,「美しさ」という要素との間には矛盾が生じるのではないだろうか。つまり,情報が正しく伝わるという「平明」「的確」と,人への思いやりや含蓄などに見られる「美しさ」との間での矛盾である。国際社会において,日本人は何を言っているのか分からないとよく言われるが,これは英語を使って話しているのに日本語の発想で相手への配慮の表現を加えるためであろう。地域による差,男女による差や日本語の発想からくる相手に配慮した表現等によって,日本語を使う外国人にとっても,日本語は何を言っているのかが分からない言語であるという印象を持たれるおそれがあると思う。
外国人のための日本語教育」は,国策とも言えるほど重要な問題であるが,この分科会で直接扱う問題であるのかどうかについては疑問を感じる。
外国人が大勢日本に入ってきて使用する日本語の問題であって,それが別物であるとは言えないのではないか。外国人がプロフェッショナルの分野だけでなく,むしろ3Kと言われる分野に労働力として入ってくる社会になると,その規模にもよるが,日本語自体が変化してくるということも考えられる。今までの日本社会では,言わないで伝わるのが良いコミュニケーションであって,「察し」を土台とし,むしろ言葉の多いことを戒めてきた。しかし,今は表現された言葉によってしか人間関係を成立させることのできない人が多くなっているのではないか。外国人の問題も,世代間の問題も,こうした今までの日本人同士の日本語でのコミュニケーションとはタイプの違う人々が増えてきていることによる問題であろう。
コミュニケーションにおいて問題が生じるといっても,日本語を母語として日本語で思考する若者の場合と,自分の母語で思考して日本語を使う外国人の場合とでは,質的な違いがあると思う。
もちろん質の違いはあると思うが,外国人の場合も若者の場合もコミュニケーションのタイプが違ってきているという点では同じであると考えられる。例えば,説明する文化を持つドイツ人が遅刻した理由を説明しようとすると,日本人には言い訳しているというようにマイナス的に受け取られてしまい,言いたいことが言えないで悩んでいるという新聞の投書を読んだことがある。このように,コミュニケーションのタイプが違うことから誤解が生じることもある。
母語としている言語による価値観の差だけでなく,同じ言語を母語としていても,世代の違いによって価値観の差というものがあるということではないか。日本人についても,ある世代からは価値観が変わってきているということを感じている。以前,ニューヨークに行った時,京都に住んでいた外国人が,「つまらないものですが…」と言い添えて,お土産を差し出すという日本的な場面に出くわして,大変驚いたことがある。字面どおりに解釈する人が多く出てくるようになると,こうしたあいさつも通じなくなってしまうだろう。
この問題は,文化自体の在り方を考えないと解決できないものだと思う。前期の分科会からのイメージがまだないので,どう考えていったらよいか難しく感じている。
日本では,あいさつが大切とされていて,あいさつできる人が良い人とされている。しかし,中国人は親しくなると,互いにあいさつをしなくなる。日本語がよくできるようになっても,あいさつについて,中国人の考え方のままだと,日本では無礼な者と見なされてしまうことがある。こうした日本人と異なる考え方の人が増えてきたときに,違和感を感じることになる。若者と接するときにも,同様の違和感を感じて,ムッとすることがある。
外国人に関して,文化の衝突の問題となると非常に難しい。通じ合えないのは仕方がない面もあるが,日本にいる以上,「郷に入っては郷に従え」ということで,ある程度は歩み寄ってもらうしかないと思う。若者に関しては確かに異質であると感じる面もある。だからこそ,祖先はこんな文化を持ってきた,伝統的にこういう考え方をして,固有の文化を育ててきたということを読書を通じて知ってもらいたい。また,日本語の美しさということになると,外国人には難しくなろうが,若者にはきちんと知ってほしい。俳句の中の言葉などでも,どうしても他の言葉では置き換えられないものがある。これは,究極の美しさであり,こうしたものを若者には読んで,深めていってもらいたい。これとは別に,日本人は,外国人に比べて,外国人がどのような考え方をするのかということを気にする傾向が強いように感じている。
言語と文化とは不可分である。究極の美しさといった場合,誤解のないそれ以外にはあり得ないという美しさと,含蓄のあることによる美しさとがあり,難しい問題である。一方,時代とともに言葉が変わっていくことはとどめることができないという面がある。例えば,教師に対する学生の言葉遣いが変わってきていて,ムッとすることがある。それでも,友人に対する言葉遣いと教師に対する言葉遣いは変えていて,学生なりに気は遣っているようである。若者がこれまでの世代とは異質な考え方で,コミュニケーションをとるという意味で,外国人の場合と通じると考えている。
社会人同士であれば,年齢の上下はあっても基本的には対等な関係なので,敬意が表れていなくてもそれほど違和感はないが,先生と学生であれば,「教える−教わる」という関係にあるので,敬意が表されて当然であると思う。若い社会人と学生では,言葉遣いを考える基盤が異なると思う。2月に文化審議会答申を出したから,それで終わりということにはしないで,これからの審議においても,この答申の趣旨を生かす配慮をしていくのは当然であろうと考えている。それにしても,国語の問題を扱うと,あらゆることが入ってくるものであると感じている。
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