議事要旨

国語分科会第21回議事要旨

平成16年6月1日(火)
16:00 〜 18:00
文部科学省10F4会議室

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,西原,前田,松岡各委員(計4名)
(文部科学省・文化庁)河合文化庁長官,素川文化庁次長,久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会委員名簿
  2. 文化審議会国語分科会運営規則(案)
  3. 文化審議会国語分科会の議事の公開について(案)
  4. 国語審議会報告に見る「国語をめぐる諸問題」について
  5. 文化庁の世論調査に見る「国語に関する意識」について

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,西原,前田,松岡各委員(計4名)
(文部科学省・文化庁)久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会(第20回)議事要旨(案)
  2. 文化庁の世論調査に見る「国語に関する意識」について(2)

〔参考資料〕

  1. 文化審議会関係法令
  2. 文化審議会運営規則

〔経過概要〕

  1.  事務局から,配布資料の確認があった。
  2.  前回の議事要旨(案)について確認した。
  3.  事務局から,配布資料2についての説明があった。
  4.  現在の国語をめぐる諸課題について,「言葉遣いに関すること」,「国際化・情報化への対応に関すること」,「国語の教育・研究に関すること,表記に関すること」の3点に分けて意見交換を行った。
  5.  次回の国語分科会の開催日については,各委員の日程を調整した上で,事務局から改めて連絡することとされた。
  6.  意見交換における主な意見は次のとおりである。

<配布資料2に関すること>

共通語と方言についての考え方の問いに関してであるが,この問い自体が,自分が使うことに対しての意識なのか,自分の周りの人が使うことに対しての意識なのかが明確になっていないのではないか。
今の御意見に関連して,弘前大学の佐藤和之教授が,「将来,方言をどう扱うか」をかつて調査したことがあるということを紹介しておきたい(佐藤和之著『方言主流社会―共生としての方言と標準語』1996年・おうふう)。方言については,自分自身がどのくらい方言を使っているかの調査も必要ではないかと思う。
言葉遣いの乱れの問いに関して,男性16〜19歳は,「ものの言い方が乱暴なとき」と「人を傷つける言葉を使っているとき」に言葉遣いが乱れていると感じている人が多いという結果が出ているが,これは言葉そのものの汚さを「乱れ」と考えているためではないだろうか。一般に言うところの「乱れ」とは異なるもののように感じられる。

<言葉遣いに関すること>

最近,自分自身が言葉遣いについて寛容になってきたと感じている。それでも,自分では,ストレートに言わずに何重にも緩衝装置を付けたような表現が気になっている。例えば,「〜の方(ほう)」という言い方である。先日,友人と行った小料理屋の店員が「お豆腐の方〜」という言い方をしていたので,その言い方に気付かせようと試みたがうまく伝わらなかった。初めて聞いたときには気になっても,その言葉遣いがよく使われるようになると,「近ごろはそう言うのか。」とだんだん気にならなくなってしまう。自分がそうなるのがいいのだろうかと自問することもある。おかしな言葉遣いがまかり通っていると意識しつつも,御意見番のごとく言うことまではしていない。ほうっておいても,消えるものは消えていくという思いもある。
自分も,学生のおかしな言葉遣いを聞くと面白いと感じてメモはするが,注意まではしていない。学生に対しては,自分自身がどのような言葉遣いをしているかを意識させることが第一歩であろう。そのためには,言葉の問題に関心を持ってもらう「トリビアの泉」のような仕掛けが必要である。様々な場で,「言葉はこんなに面白いんだ」ということを伝える催しやテレビ番組があると良い。NHKの「日本語であそぼ」や「大希林」,「あなたも挑戦!ことばゲーム」などはいい例だと思う。
資料2において,言葉遣いについての関心として,「敬語の使い方」よりも「日常の言葉遣いや話し方」が上位を占めていること,美しい日本語については「思いやりのある言葉」が最上位にきていること,言葉遣いの乱れとして若者が「人を傷つける言葉を使っているとき」を多く選んでいることに注目したい。
 これらを見ると,「適切な言葉遣い」という場合,その言葉遣いの中身が問題であるということになる。場面や人を変えて,それぞれで一番適切な言葉遣いを,年代別,性別,職業別に調査して,敬意という枠組みでなく,日常生活における言葉の規範意識を考えていく必要があろう。例えば,最近,「微妙」という言い方がはやっているが,これは I don't know ではなく, I'm not sure ということで,相手を傷つけないようにズバリと言うのを避ける間接的な言い方である。ここから,「相手を傷つけない」という言葉の規範意識が働いていることを明らかにできると思う。
的確に表現するということが美しくまた適切なのであろう。自分が直接的に言いたくないから,何となくごまかして言うという傾向があるが,ごまかし表現と婉曲表現とは本来違うものである。今は,その辺があいまいになっていると思う。このところ,レトリックについていろいろと考えているが,その意味するところの範囲が途方もなく広いものであることを改めて知り,こんなことは習ったこともないと感じている。比喩表現だけでなく,わざと間違えた表現を使うことや面白おかしい表現にすることも技でありレトリックである。さらに,レトリックとは,原語のギリシア語では「雄弁術」を意味するように,書いたものだけでなく,話すことまでも含まれる。レトリックというような大きなものに対する関心も一方でないと,本当の国語力は育たないように思う。
学校教育の中では,きちんとした話合いの仕方を考えることも,教えることもないのが現実である。
ディベートというものがあるが,何となく表面的な言葉の使い方を扱っているように感じている。大学など学校教育の中ではやられているのか。
今は,小学校から「話すこと」や「表現すること」の重視ということで,ディベートが取り入れられている。
中学校,高等学校と学年が上がっていくと,自分の意見を言いたがらなくなるので,それだけディベートも成り立たなくなる傾向がある。
ところで,日本の敬語というのは特殊なものと言えるのか。
人間関係の力関係に配慮して,型に当てはめられる表現ということでは,特殊なものとされる。語用論の分野では,韓国やジャワ,日本の敬語はポライトネス(politeness)の範囲外に置かれていて,人間関係の力関係を読んで使うという点で特殊であると言われている。人間関係に配慮した表現には,三つの要素がかかわっている。?力関係(年齢,社会的地位など),?距離関係(親しさの程度),?状況(相手にどれくらい負担を掛けるか)の三つの要素である。日本の敬語は,これまで,?の力関係を読んで使ってきたが,若者はむしろ?の距離関係によって使うようになっている。若者が互いに名前を呼び捨てにすることも,親しくなると「君」や「さん」が落ちるということなので,相手との距離関係が深くかかわっていると考えてよいだろう。
資料2の世論調査を見ると,若者では,男女の言葉遣いの違いが「ある方がよい」というのが少ないという結果が出ているが,フランス語では構造(文法)として男女差があり,随分日本語とは違うと思う。
世界の言語を見ると,構造(文法)としての男女差がある言語がたくさんある。日本語の場合は,終助詞などの使い方で区別されている。
敬語については,こうあるべしというような規範を作るのは難しいのではないだろうか。言葉遣いにかかわる問題は,結局,言葉に対する関心を喚起することしかできないように思う。

<国際化・情報化への対応に関すること>

外来語を安易に使っているように感じている。仲間内では確かに使った方が楽なのだろうが,もっと日本語で表現する努力が必要であると考えている。
外来語の言い換えはかなり大変である。私も参加している「外来語言い換え委員会」では,官公庁の文書や白書から外来語を拾い,年代別の理解度調査の結果に基づいて取り上げる言葉を決めている。それでも,ある学問領域や活動を行っている人々が新しい概念を広めようとしている外来語もあり,こうしたものには手を触れることができない。官公庁の文書や白書を見ると,総じて,非常に安易に使われていると感じる。それでも,官公庁の文書や白書の場合は,外来語言い換え委員会のように,外来語の使用について持っていく先がある。しかし,ファッション業界や映画の題名などでは意味不明のままであったり,原語の使い方として誤ったまま広まっている現実もあり,こちらの方が影響が大きい。こちらの場合,外来語の使用についてはどこに持っていけばよいのか悩んでしまう。
外来語の言い換え提案はどのくらい効果があるのか。新聞を見ても減っていないように感じるし,経済産業省などの白書も一向に変わっていないように思う。
言葉は,正確で,明確で,確かに伝えることが本義である。外来語についても,例えば,英語であるならば,英語としての正確な意味で使ってほしい。場に応じてきちんとした定義やイメージを持って使うことが大切なので,リーダーシップをとっている人たちの言葉に対する見識が問われているのではないか。
外来語の言い換え検討は大分進んだが,その一方で,専門用語の使用が一般化するときに,あいまいさが生じることもある。かなり前のことになるが,英語のある語が分野 によって随分と違った訳され方をしていて,分野を超えての意思疎通の難しさがあることから「言語の標準化」の研究を行っていたこともある。分野ごとに「学術用語集」は作られているが,それらを統合するようなものはないのが現状である。
先日,学際研究の会議に出た。そこで, unmarked の訳が,社会学では「無徴」,言語学では「無標」と違っているということを経験した。また,マイノリティー(minority)の側にかかわる用語は定義されているが,マジョリティー(majority)の側にかかわる用語は当然のものと考えられ,きちんと定義されていないように感じる。学際的な研究においては,このような用語の問題に直面することがある。
同様の経験がある。museum の訳語であるが,同じ museum であるのに,本によって「(アテネ国立)美術館」になっていたり,「(アテネ国立)考古学博物館」になっていたりして,戸惑ったことがある。訳語ということで言えば,「臨界」(criticality)という言葉には,限界に近づいているだけのようなイメージがあって,限界そのものの危険な状況にあることが伝わってこないという問題を感じたこともある。

<国語の教育・研究に関すること,表記に関すること>

国語大辞典を作るという話があったと思うが,今はどうなったのか。
完成するまでに200年以上かかるという話である。それでも随分とデータは集まっているのではないか。
小学館の「日本国語大辞典」が出版されたときに,いいものが出たと感じた。さらに,角川書店の「日本地名辞典」を見て,すごいものが出たと感動したが,国語大辞典となると,その何倍もの規模のものになろう。
国語辞典の在り方をどう考えるか。国語辞典と言っても,言葉の中核だけを記述するものと,言葉の周辺まで含めて記述していくものとが考えられる。私は周辺まで入れたものでないと,文化を支える辞典とはならないと思っている。
最近の学生は電子辞書を持ち歩いている。そして,電子辞書から出てくる言葉をよく分からないままに使っている傾向がある。情報化への対応ということでは,電子辞書を使いこなすことが必要であるが,それを実現するのは教育の問題である。様々な言葉を使っている文章を大量に読んでいないと,出てきた言葉を使いこなすことはできない。その意味で,読書は大切である。
小・中学生向けの文庫本でも,随分難しい言葉が使われているものがある。
京極夏彦さんの作品も随分難しい表記が使われている。読者は,この難しいものを,ぼんやりと何となく理解しているのではないだろうか。平野啓一郎さんの文章も難しいが,格好がいいと思われているようだ。
入ってくる情報と自分の頭の中にあって実際に使える知識とにズレがあり,ちぐはぐさが生じている。このちぐはぐさの最たる例が,「酒鬼薔薇聖斗」という表記であろう。
「酒鬼薔薇聖斗」は手書きだが,今はワープロですぐに様々な漢字が出てくるので,問題が一層複雑化していると言えよう。また,ワープロ辞書の問題もあろう。
国語科の教科書が薄すぎると思う。例えば,小学校1年生は字を全く習っていないという前提で作られているが,そのような子供が本当にどれだけいるのだろうか。余りにも子供たちの能力を低く見過ぎているのではないか。1年生で習う漢字が80字しかないことについては,「書く」という意味では良いだろうが,IT化で環境が変わってきているので,もっと多くの漢字を教えてもよいと思う。小学校6年間で1006字では少ない。また,現在の学校教育では,ボランティアの「読み聞かせ」などで教育内容が補われている面もある。
教科書編集の作業というのはパズルをやるようなもので,いろいろと制限がきつく,学年の進行など様々な要素が絡んでいる。
文化審議会答申「これからの時代に求められる国語力について」では,ルビを活用して交ぜ書きをやめることを提案している。国語科の教科書で習っているものの範囲内で 他教科の教科書も表記されるということがあるようだが,ルビを活用して,この辺りはもう少し柔軟であってもよいと考えている。
今御紹介いただいた答申の提案は,私にとっても歓迎すべきものである。
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