議事要旨

国語分科会第23回議事要旨

平成16年9月17日(金)
10:00 〜 12:30
三菱ビルM2会議室(B1階)

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,西原,前田,松岡各委員(計4名)
(文部科学省・文化庁)久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会(第22回)議事要旨(案)
  2. 人名用漢字と国語施策との関係について
  3. 戸籍法及び戸籍法施行規則(抄)等
  4. 表記に関する「国語施策」等について

〔経過概要〕

  1. 事務局から,配布資料の確認があった。
  2. 前回の議事要旨(案)について確認した。
  3. 事務局から,配布資料2及び配布資料3について説明し,その後,人名用漢字に関して意見交換を行った。その結果,今期末にまとめられる予定の「審議報告」の中に,本日の議論を踏まえた「人名用漢字についての国語分科会の考え方」を漢字にかかわる課題の一つとして,簡潔に書き込むこととなった。
  4. 事務局から,配布資料4を説明した。その説明を受けて,国語の表記について意見交換を行った。
  5. 次回の国語分科会は,何名かの臨時委員を加えた形で行う予定であることが確認された。また,開催の日時については,各委員の日程を調整した上で,事務局から改めて連絡することとされた。
  6. 意見交換における主な意見は次のとおりである。
    (○は委員,△は事務局を示す。)

<人名用漢字に関すること>

人名用漢字については,批判があって488字の追加に落ち着いたが,今残っている字を見ても,だれが名前に付けるのかと思うような字や,また,読めない字も入っている。これらの字は,要望を踏まえて入れたものなのか,どさっとまとめて入れてしまえということで追加されたものなのか。いずれにしろ,人名ということを本気で考えて決めたのか疑問である。
平成2年の追加までは,要望のあった字を基に検討し,人名にふさわしいものを入れるということでやってきた。今年になって追加された「曽」から「毘」の5字は裁判絡みのものであるが,親の要望によって裁判に持ち込まれたものである。
しかし,今回は選定の考え方自体が変わっている。「苺」や「桔」「蹴」など要望が多かった字もあるが,要望とは関係なく入っているものもある。それは,戸籍法で,常用平易な漢字を名に使うとだけ書かれているからである。最高裁の「曽」の判決については,常用平易でありながら,子供の名に付けられないのは一種の違法状態という認識に基づくものである。今回は実際に名に使うかどうかは別として,常用平易な漢字をすべて認めることで,一種の違法状態を解消しようという判断が大きく働いたということである。
今から人名用漢字の追加案に対して,何か言っても効き目がないということかもしれない。しかし,これまでの流れから言うと,国語審議会の方針は,一般社会で使うものとして,また,文化を支え,継承するものとして,使用する漢字を共有しておくことが望ましいというものであった。人名用漢字についても,この基本線で考えるべきであろう。漢字の使用制限を緩めるという方向があるのは確かで,少し緩めるというのは良い。しかし,極端に変わるのは問題である。
これまでの人名用漢字の追加は人々の使いたいという要望に基づくもので,人名としての伝統という考え方によってきている。今回の人名用漢字は,人名としての日本文化の考え方を崩すものであり,問題があると意見表明をした方が良い。漢字出現頻度数調査は出版物等に使われた漢字の頻度表であって,人名について考えるために調査したものではない。人名用漢字を考えるためには,そのための調査をすべきであり,常用平易で,かつ人々の要望を満たす字を選ぶべきである。さらに,字体についての問題もあり,今回の追加案は余りに拙速なものと考える。
意見表明は良いと思うが,裏付けとなるデータを付けることが必要ではないか。国民の命名に関する漢字の使用について調査し,頻度表を作り,こういう方針で名を付けているということを示すと良いのではないか。過去5年間,3,000人ぐらいの調査をしたらできるのではないかと思う。
法務省に対して「今回の追加案の方針及びやり方は良くなかった」と言っておくことは社会へのメッセージにもなるのではないか。特に,これから命名する人へのメッセージとなるだろう。
今後,国語施策として漢字の扱い全体を考えるときには,追加された人名用漢字を減らすという方向を出すことも考えられるだろう。
人名用漢字は,名前に付けたいという要望にこたえるという一定の方針があり,増やしてきた。しかし,頻度を基に考えて常用平易な漢字は入れようとなり,このような追加表が出た。これまでと発想が全く異なっているのが問題である。原点に立ち返り,国民の強い要望によって増やすという原則に基づくべきである。人名用漢字のように常用漢字表の例外として扱うものは,「人名に使う」という行動に裏打ちされたものにしないと,野放図になってしまう。今回の人名用漢字の中には,使われない漢字もかなり出てくるだろう。
これまでは命名する側からの考え方であった。しかし,今回は,命名とは無関係な「事なかれ主義」の考え方である。そして,名として疑問を感じるような命名が「人名用漢字にあるから」というだけの理由で起こり得る。被害を受けるのは子供たちである。被害を生じさせた根源が人名用漢字ということになってしまう。
人名については,あるルールが働くという前提があった。調査データによって,それが何かを示せるといい。また,名付けには文化的な背景もある。
命名のベスト10などが新聞に出るが,命名に関する調査を大々的にやってはどうだろうか。シェークスピアの作品を読んでいると,双子の命名について日本とは全く違うことが分かる。イギリスやアメリカでは双子に全く違う名前を付けるが,日本では共通性のある名前を付ける。命名には,やはり日本人のメンタリティーや文化が反映されているものと思う。
人名用漢字の意見案を見ると,人名とは何かという基本的な理念がない。親の子に対する気持ちや,伝統を受け継ぐという観点がない。機械的な判断でやっているように感じる。
人名用漢字について,これまでの方針からずれているということに対し,従来の方針に沿ったものにしてほしいと訴えることは必要であろう。分科会のテーマとして,漢字の問題が取り上げられるならば,少し長期的に考えても良いであろう。
戸籍法には「常用平易な文字を用いなければならない」と書かれているだけで,名にふさわしい漢字とはなっていない。したがって,今回の追加案について法務省は逆に原点に立ち戻ったのだと説明するだろう。また,国語審議会で直轄でやってきたのを戸籍業務との関係が深いからと法務省にゆだねたという経緯もある。
役所に対してではなく,「名はどうやって付けているか,使える字と使えない字とがありますね。」と,みんなに向かって語り掛けることで,人名用漢字表の見方やそれに対する考え方を示すのが良いのではないか。
国語分科会長として,求めに応じて,人名用漢字についてコメントするという形 もあるだろう。今後の分科会のテーマとしておきたい。
以前は,国語審議会で決めていたのを法務省にゆだねたというのが問題である。JISは経済産業省,人名は法務省,常用漢字表は文化庁とバラバラになっているのが問題である。それらを総合的に考えるのが文化審議会の役割ではないか。今後,常用漢字表を改定するときには,人名用漢字の扱いについても問題になるだろう。
人名以外の,商品名や社名についてのネーミングも変わってきているので,調査が必要であろう。商品名や社名にはローマ字や英語がかなり使われている。果たしてこのままでいいのか。表記として,いろいろな問題を含んでいると思う。

<国語の表記に関すること>

表記の問題には,常用漢字のように「どの字が使えるか」という問題と,「どのように書くか(漢字を使うか,仮名を使うかなど)」という問題がある。外来語の表記については「どのように書くか」の問題である。表記の問題については,この2種の問題が混ざっているように思う。
「常用漢字表」の見直しという問題になると大変である。「送り仮名の付け方」については問題になっていないのか。
「送り仮名の付け方」の決まりには,本則・例外・許容の三つがある。新聞社や学校では,本則と例外でやっているが,公用文では許容をかなり使っている。このように「新聞社や学校」と「公用文」とで違いがあるが,そのことが一般的に問題とされることは余りない。
「どのように書くか」というhowの問題と,「どの範囲の字で書くか」というwhatの問題は,別の問題である。今の送り仮名は「どのように書くか」の問題である。先の常用漢字表の問題は,「どの範囲の字で書くか」という問題である。
howであっても,whatであっても,国語の表記については「強制」はできないと思う。飽くまでも,原則,例外,許容でやっていくことになろう。ただし,表記の標準があいまいになっていて,原則としてどちらがいいのかという問題はある。
国語教育もそうであろうが,外国人に日本語を教える際にも,これもいい,あれもいいというのでは困る。英語のつづりについてもアメリカ式とイギリス式の違いはあるが,それほど幅があるものではない。
ある「言葉」を漢字で書くか,仮名で書くかという問題は,日本語の特性でもあろう。同じ人が書いていても同じページの中で表記が異なることがある。しかし,ある種の標準は必要であり,国語分科会はそのための委員会であろう。送り仮名については,何か世の中から要望が出ているのか。
今のところ,世の中から見直してほしいという要望は出ていない。
送り仮名についてはすぐに扱う必要はないようである。常用漢字表については,「どの字が使えるか」というwhatの問題がある。ワープロ等で,随分といろいろな漢字が使えるようになってきている。これは扱っていく必要があるだろう。現代仮名遣いについての要望というか,問題はあるのか。
大きな問題となっているようなものはない。ただ,特殊なこととしては,漫画の吹き出しにでてくる,「あ」に濁点を付けたようなものをどうするかというような問題はあろう。しかし,「現代仮名遣い」は,擬声・擬態的描写などを対象とするものではないとされている。ほかには「こんにちわ」と書くような問題もある。
最近,駅の掲示や広告で「近ずく」と書かれていたのを見たことがある。また,花屋で「全国え」と書かれていたのを見たこともある。
例えば,「大きい」を仮名書きするときに,「おおきい」とするか「おうきい」とするかは旧仮名遣いを知っていると区別が付く。そうでない人は,機械的に覚えるしかない。また,なぜ助詞に「を」「は」「へ」を使うのかという問題もあろう。
助詞の「を」を「お」と書くと,意味のまとまりがとらえられなくなると思う。若い人の中には「そういう」を「そーゆー」と平仮名書きであるにもかかわらず,長音符号を使って書く人もいる。
平仮名で長音符号を使うのは,作者の独特の表現であったのだろうと思う。平仮名の表記のスタンダードを改めて考えるところにきているのかもしれない。「ず」と「づ」などの使い分けも難しい。
先ほど国語の表記に関する説明があったが,制限する方向にというような考え方はあるのか。
方向については分科会の中で決めていただくことであるが,表記の基準の性格をどうするかという問題がある。昭和20年代は厳しい制限という方向であったが,40年代からの見直しによって緩やかな方向へと変わってきた。さらに,緩やかな性格になったのとあいまって,その中の規則も「どれでもいいですよ」というようなものになっている。しかし,先ほどの御意見にもあったようにマスコミや教育界などでは,表記の標準が強く求められている。説明の中で申し上げたのは,この辺の考え方を整理していくことも,分科会の大切な課題の一つとなるように思われるということである。
ハンカチとハンケチ,インキとインクというのは,表記の違いの問題ではなく,言葉の持つニュアンスの違いの問題であり,「コンピューター」か「コンピュータ」かという長音符号を付けるか否かという表記の問題とは区別すべきであろう。
また,平仮名の問題もあるのではないか。漢字で書けば気にならないことも平仮名で書くとなると困ったり,仮名遣いが分からないから,漢字で書くということもあるように思う。外国人の日本語教育では,スタンダードを示す必要がある。
子供たちに教えるときにもスタンダードが必要である。これもいい,あれもいいということでは教えられない。
先ほどの「おお」「おう」についての問題も,どちらで表記するかを知らないと辞書も引けないということになる。句読点の使い方については,句点は分かりやすいが,読点の付け方についての指針はあるのか。
句読点の付け方については「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)」(昭和21年,文部省国語調査室)という指針がある。外国人にこのとおりにやらせてみたことがあるが,読点がかなり多くなってしまった。
読点の付け方は書き手の肺活量によるところがある。肺活量の少ない人は読点をよく打つが,肺活量の多い人は余り読点を付けない。そう考えると,ルール化することは難しいだろうと思う。
読点を絶対に打つ,絶対に打たないという部分が2割ぐらいはある。残りの8割については,「平仮名→漢字」という並びなら打たなくてもいいが,平仮名が続く場合には打つ。構造的に同じ文でも使われている文字によって,読点を打つ・打たないは決められる。このように文章作法上は考えている。
シェイクスピアの翻訳の場合,読点を打たない方が効果的である。読点は,一般にやたらと打たない方が良く,自分自身でも「仮名→漢字」という並びでは読点を付けないようにしている。
かぎ括弧で,「はい。」のように句点を付けてから,かぎ括弧を付けるが,規則はあるのか。
学校教育では句点を付けている。これは,先ほど出ていた「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)」を指針としているためである。
文学作品では,ほとんど句点を付けていないのではないか。
現在の作家の中で,付けているのは黒井千次氏と吉本ばなな氏くらいである。
読点の打ち方にはジャンルによる違いもある。理系の論文では読点が多い。
区切り符号のうち読点については,縦書きと横書きで「、」と「,」のような違いがあるが,このことは余り世の中には知られていないように思う。
手書きの問題については,「手書きの再考・勧め」のようなものを国語分科会として出してもいいのではないか。現在,指摘されているように人々の言葉が希薄になっているのは,手書きからキーボードになったことが関連しているように思う。交通が発達したからといって歩かなくていいというわけではない。手書きは,交通機関で言えば,歩くことに当たるのではないだろうか。手書きを基にすれば,名前でも画数の多い字は選ばないと思う。手書きの問題を検討していくことから,様々な課題が解決してくるように感じる。
例えば,毛筆を使うか,鉛筆を使うかといったように,使う筆記用具によって,脳への影響に違いがあるということを本で読んだことがある。この辺りのことについても,専門の方にデータを頂けるといいのではないか。
今の学生を見ていると手書きを嫌がる。日常生活においても,携帯電話なしでは生活できない若者が多いという実態を踏まえて考えていくことが大切である。
国語分科会としては,<手で書くということは,我々の文化として絶対に捨ててはいけないものだ>という方向の宣言を,根拠を添えて出すようにしたい。
それにどうやって説得力を持たせるかが大事だ。他の分野の方で,こういうことについて専門としている方の意見も聞きたい。
最近の学生は,手紙を手書きで書く場合には,「手書きですみません」と謝る。若い人たちの中には,手書きでは申し訳ないという価値観が見られるようになってきている。
レポート用紙だと困るが,原稿用紙に書かれていれば,汚い字で書かれていても余り抵抗感はない。手で書いた字からは,その人の人間性が見えてくる。人間性が見えるという面白さは捨て難い。人間性が見えてしまうのが嫌だから,ワープロを使うのかもしれないが,個性の発揮を大事にしようとする時代であればこそ,手書きを捨ててはいけないと思う。手書きの文字は,書き手の人間性など表現するものがたくさんあり,人間が人間であることを証明するものである。また,自分の気に入った作家の文章を書き写すというのは,書き手の息遣いが分かって,文章の上達に非常に役立つものである。
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