議事要旨

国語分科会第27回議事要旨

平成17年1月7日(金)
14:00 〜 16:00
文部科学省10F1会議室

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,内田,甲斐,金武,小池,坂本,東倉,前田,松岡各委員(計9名)
(文部科学省・文化庁)久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会(第26回)議事要旨(案)
  2. 国語分科会で今後取り組むべき課題について(たたき台)
  3. 漢字出現頻度数調査に見る「名簿」の結果(抄)

〔経過概要〕

  1. 事務局から,配布資料の確認があった。
  2. 前回の議事要旨(案)について確認した。
  3. 事務局から,初めに配布資料3について,次に,配布資料2についての説明があった。
  4. 配布資料2について意見交換を行い,本日出された意見に基づいて必要な修正を加えることで同資料が了承された。修正を加えた「国語分科会で今後取り組むべき課題について(案)」については,次回の国語分科会までに,事務局から事前に各委員に送付することとされた。
  5. 次回の国語分科会は,1月24日(月)10:00から12:00まで,文部科学省ビル10階「10F1会議室」で開催されることが確認された。
  6. 意見交換における主な意見は次のとおりである。
    (○は委員,△は事務局を示す。)
今期国語分科会では,どのような国語をめぐる問題があるのかを整理してきた。その結果として,敬語を中心とした問題と漢字を中心とした問題とが柱になろうという方向となり,資料2のような柱立てでまとめてもらった。その他の問題については,「終わりに」を設けて,その中で触れておくこともできると思うが,いかがであろうか。
情報科学の中でコミュニケーションの問題を扱っていると,最近,コミュニケーション力の不足が課題であると感じられる。ネット上のコミュニケーションがどんどん入ってきて,現実社会でのコミュニケーションが希薄化している。コミュニケーション力の中でも国語力は大変重要な要素である。「聞く・話す・読む・書く」とあるが,敬語についてもコミュニケーション力の一つとして,コミュニケーションを円滑にするという視点から考えることができる。端的に言えば,もう少し「コミュニケーション」という言葉を資料2に入れられないかということである。
手書きの重要さが言われることは大切である。手書きは,視覚・触覚・運動感覚というような感覚が複合する形でかかわり,それによって脳が活性化され,脳の発達にもつながっていく。「たたき台」の6ページでは,眼球運動にばかり話が集中しているが,これでは眼球運動だけをすれば良いかのような誤解を与えてしまう。ワープロで正しい漢字を選択するには,書くことを通して身に付けた漢字に対する総合力が大切である。
7ページで「「手書きですみません」と謝る」ことが挙げられているが,現在のように情報機器が普及してみんなが情報機器を使う時代では,手書きには希少価値がある。逆に,「手書きが尊いという価値観がある」ことも考えに入れておいた方が良いだろう。
「敬意表現」という言い方について,「配慮表現」という言い方でもよいのではないかという議論をしたが,配慮という観点から,コミュニケーションにも関係付けられるのではないかと思う。
第22期答申の敬意表現というのは,コミュニケーションを円滑にするためのものという認識がある。
第22期答申を読むと,「コミュニケーション」という言葉が大変多く使われている。今回の国語分科会報告(資料2)は,このことを前提としてまとめている面があるので,「コミュニケーション」という言葉自体は余り出てこないのであるが,もう少し入れるように工夫することはできると思う。
「手書き」という言葉を用いるのはどうか。この言葉は,ワープロなどでキーを打つことに対抗して使われるようになったものではないか。学校教育においては,「書写」と言っていて,学校では鉛筆などを使って手で書くことが普通である。「手で書くこと」と「眼球運動」が結び付けられているが,それだけでなく,手で書くことで筆順や熟語の意味,文脈での使い方なども身に付けられることを加えたい。手書きが大切な文化であるということについても,現在,我々が言語生活の中でどれほど書いているかということを考えると,この辺りの書きぶりも少し変わってくるのではないか。
かつては「ワープロですみません」と言っていたものが,今は「手書きですみません」と言うように変化してきているという分科会での御意見を踏まえて,書かれたところである。この辺りの変化の背景などについても触れる必要があるか。
「手書きですみません」というのは,手書きだと走り書きなどもあり,読みにくいということもかかわるのであろう。また,逆にワープロなら良いのかという問題もあるのではないか。
学習指導要領とのかかわりを考えると,「書写」と言った方が良いのかもしれない。結婚式の受付などの記名では手で書く(筆で書く)形が残っている。書写の文化は現在も生きていると言えるのではないか。
書写の持つ意味についてもう少し記した上で,「手書きですみません」と言うような人たちに苦言を呈するような書き方でいいのではないか。
「書写」という言い方には毛筆によるというニュアンスがあるので,「手書き」と言う方が分かりやすいのではないか。手で書くということについては,前回の分科会で,ドリル学習によって手書きを繰り返すことで,視覚などのいろいろな運動が身内化され一体化され,漢字を瞬時に図形のように弁別できるようになるということをお話ししたつもりである。ドリル学習のことは書き加えてほしい。
「書写」という言葉自体は学習指導要領で使われているので,分かりにくいということはないと思う。毛筆書写だけでなく,硬筆書写もある。
ワープロが出てくる以前は,書くと言ったら,当然手で書くことであった。しかし,現在は,その状況が大きく変わってきている。仕事ではワープロやパソコンを使い,私信では手書きにするという人が多いのではないか。手で書くことが少なくなってきたという現実がある。確かに,ワープロで打っていては筆順を覚えることはできないであろう。筆順が覚えられれば,自然と漢字の「偏」や「つくり」も覚えられるようになる。手で書くことが少なくなってきているからこそ,あえて「手書き」という言葉を使わなければいけない状況なのだと思う。その辺りのことと,手書きをすると,どんなにいいことがあるかについて,少し書き加えたらどうか。
「手書き」という言い方を捨てるのは難しいだろう。また,「手書き」という言い方を使わざるを得ない背景などについても言及する必要があろう。
事務局から資料2の説明があったが,現実に起こっている変化を全体構造の中でどう位置付けるか,またどのような背景があるのかに対する問い掛けも重要だろう。大きな変化の中で,手書き,敬意表現,人名用漢字などの問題が出てきた。現状の大きな変化を見ると,その根底には「リアル」の不足があるのではないかと考えている。情報機器がもたらすのはバーチャルリアルでしかない。バーチャルリアルに接することで,逆に漢字に対しても,リアルなものであるという意識が生まれているのではないか。京極夏彦氏や平野啓一郎氏の作品がよく読まれるのは,特徴的な漢字の使われ方を通して身体性のある言葉が使われていて,そうした身体性のあるリアルな言葉が求められているということによるのであろう。
「手書きですみません」は少し前の議論であって,今では逆になって,手書きの価値が高まっている。これは「リアル」が足りなくなったため,「リアル」を求めてのことである。例えば,童門冬二氏は必ず手書きのファックスを送ってくる。そこでこちらも手書きのファックスを返信しているが,人間関係もこうした手書きでのやり取りの方がいいようである。敬意表現にしても,言語生活の中で「リアル」をもう一度取り戻すという運動であろう。寝転んだ言葉ではなく言葉を立つようにしようということだ。そういう意味から,4ページの(4)で,敬意表現の実例を示すとあるが,文の形ではまだ足りず,場面の形,つまり言葉が立っている様子で示さないといけない。形式的に敬語の正誤を言うだけの寝転んだ言葉では「リアル」に欠けるので,実例でも言葉が立っている様子を実感させることが重要である。さらに,世の中がそれを求めているということについても,我々は表明する必要があるのではないか。
資料2について,「国語に関する世論調査」の結果を引いて説明しているところが気になる。変化の大きな基調として戦後は脱「リアル」でやってきたが,今は「リアル」に戻ってきている。戦後の当用漢字表は漢字を制限するという発想で行われたが,この初期設定が間違っていたと思う。確かに,文化の大衆化につながった面はあるが,人為的に漢字を制限し,「リアル」をバーチャルリアル化してしまったと考えられる。それが様々な問題を引き起こしているのではないか。昔のテレビ放送で,読売巨人軍の川上監督が9連覇したときの様子を見たが,球場の電光掲示板では連覇の「覇」が平仮名で表示されて「連ぱ」となっていた。これではいけないと感じた。「覇」を平仮名で表記するというのは,社会が猿ぐつわをはめられているような状態で,そこから先に行けない感がある。発展が組み込まれていない社会の中では,ある種の崩壊現象が起こるのである。「リアル」は漢字と無関係ではない。脱「リアル」という方向の漢字施策のツケが,漢字が書けなくなってきた問題などで出てきたと考えられる。敬語も取決めという脱「リアル」の中だけでやってきたツケが回ってきている。だから「リアル」への回帰という変化が起きているのであろう。国語の問題は,大きな状況,どういう変化の本質が我々の前にあるのかをとらえた上で照らし出される構造にすべきだろう。
6ページのところで「手書きの再考・勧め」があるが,だれを対象にしているのか分からない。学校教育では既に行われているので,小学生から高校生を対象に言うのでは失礼であろう。更にしっかりとやれということか。小学校から高校ではやっているとなると,「手書きの再考・勧め」は大学生に言っているのか。それとも社会人に向かって手書きを勧めているのか。対象があいまいである。情報機器が普及すればするほど学校教育では手書きをしっかりやるべきだという方向で記述するのが良いと思う。
手書きの重要性が求められているのは,ワープロが一般的になってきたからである。現在,実用の世界,特に新聞記者は全部ワープロを使っていて,手書きはほとんどしていない。実用の世界では,ワープロの方が能率的であり,一般化している。また,作家が手書きで書いたものは担当者がワープロで打ち直しているが,実際はワープロ,パソコンでの入稿がどんどん進んでいる。しかし,手書きがおろそかになると,漢字が書けなくなる。このことに注意を喚起する必要はある。小学校では手書きをやっているだろうが,高校,大学と進むにつれワープロに慣れていき,漢字を忘れるようになっているというのが現状であろう。
ビジネス,つまり実用の世界では,能率化という観点から考えて手書きを勧める必要はない。学生のレポートなども読みやすいので,手書きよりもワープロの方が有り難い。作家には悪筆の方もおり,慣れた人しか読めなかったりして,ワープロの方が助かる。ただし,手書きではその書いた文字から作家の人柄が分かったり,だれの原稿か分からなくなったときでも,筆跡で判断できたりする利点もある。作家の原稿がワープロになると,使用機種や文体でだれの原稿か判断するしかなくなる。手書きの勧めは企業には無理だが,社会人を含め個人的な文章を書く場合のこととして記述すればいいと思う。
絵文字なども含めた「打ち言葉」というのも一つの世界ではないか。「書き言葉」とは違う世界になってきている。これからの変化を読むと,当面は「書き言葉」だが,将 来は「打ち言葉」として分けないといけなくなるように思う。
特に携帯電話ではそうだ。文化も違い,仲間内だけで通用する言葉を使っている。
欧米人は手紙の文章をタイプで打つが,最後の署名は自筆だったりする。それは印の代わりなのか,それとも礼儀としての作法なのか。日本の私信などでも署名だけは自筆のものを見掛ける。
ビジネス社会でも,最後の署名は自筆が多い。週刊誌の訂正記事なども,ワープロで作成した文面に責任者の自筆の署名を入れて送っている。こういうことから考えると,手書きの権威がしっかり残っているということであろう。
自筆の署名はID(identification)のようなもので,本人が書いたという証明になるものであろう。「書き言葉」と「話し言葉」の中間が「打ち言葉」ではないだろうか。インターネットを利用して海外とやり取りするときも,“Dear”や“Sincerely yours”などと書かずにファーストネームだけ書いてやり取りしたりする。また,内容にしても早く伝えたいので用件だけになっている。子供のやり取りの中身を見ても,打ち言葉が書き言葉に大きな影響を与えていることが感じられる。
敬意表現はコミュニケーションを円滑にすると言われるが,今は生身の人間のやり取りが希薄になっていて,円滑にするための相手との距離の取り方に対する敏感性が薄れてきている。そのことの表れが,30代,40代の人たちが敬語の必要性を強く感じている理由だろう。「たたき台」のまとめ方はこれでいいと思う。敬語については,対人関係そのものに根があって,言葉の問題はその一つの現れである。
同感である。最近,渋谷を歩いていて,何の配慮もなく突然方向を変える若者がいたが,進路を妨害しているのに「すみません」の一言もなかった。10年前はそんなことはなかった。自分の行動が人にどのような影響を与えているのか認識できないばかりでなく,影響を与えること自体を想像できなくなっているように感じる。マインドが敬意表現以前に抜け落ちているのではないか。
私も資料2の敬語の部分には何の問題もないと思う。ただ,メールでやり取りするときに“Dear”を落とすことを是とするか非とするかについては考える必要がある。手紙でも同様である。また,敬語については人間関係を作っていく表現であるという要素を入れる必要があると思うし,その方向で書いてほしい。
サッカー日本代表のトルシエ前監督は,選手が敬意を払ってくれるような日本語を使えなければむしろ使わない方がいいと考え,あえて日本語を覚えることはせず,きちんと通訳してもらうようにして,選手と監督の関係を構築したと聞いている。また,韓国のヒディング前監督の場合,選手同士の会話でも年長者には敬語が使われており,そういう関係がピッチにまで持ち込まれていることに気付き,チーム内での敬語使用を禁じたところ,チームプレーが格段に良くなったということも聞いた。これらの例からは,言葉が人間関係を作っていくことが理解できる。相手との口火を切るためや人間関係を作っていくための敬意表現は確かに必要であり,それができるのが成熟した人間であるというような内容を入れたいと思う。
その状況に合った表現というのが一番良い表現なのであろう。一つの文だけを取り出した場合,その文自体からは敬意は感じられないが,文脈の中に置くと,敬意を払っていることが分かるという場合もある。
新聞用語懇談会の放送用語分科会がまとめた『放送で気になる言葉−敬語編−』では,放送現場から上がってきた誤用例を取り上げて,すべて場面設定をして例を示している。場面設定をすることは,現場からの要望でもあり,必要なことである。冊子自体は○×式のマニュアルであるが,場面設定をすると実用的であり,そうしなければマニュアルとして成り立たない。
情報機器の問題もあるが,日本語による外国人とのコミュニケーションの問題もある。在日大使館員の日本語スピーチコンテストの審査員をやっており,コンテスト終了後のパーティーで大使館員と話をすることがある。流暢な日本語ではあるが,敬語まではなかなか使えないようである。私も,その人たちと話をするときは,丁寧に話をするが,敬語は使わないようにしている。こういうことが相手への配慮であり,敬意だと思っている。こうした新しい場面も出てきていることには留意したい。
「敬意表現」にまで戻って議論するとなると大変である。「敬意表現」を取りまとめた国語審議会でも,第1委員会は「敬意表現」ということでまとまっていたが,私は,場面に応じて,どのように相手を扱うかということなのだから,「待遇表現」とするのが良いのではないかと言った。しかし,「待遇表現」という言い方が,一般にはなじみがないこともあって,賛同は得られなかった。
敬語でないことが親しみを持って待遇することになるという今のような例まで取り上げるのはかなり難しいと感じ,気になるところである。望ましくない例を示すことは難しいので,望ましい例を示すことで満足すべきかとも思う。
一つには,現在出ているものよりももう少しましなマニュアル的なものを示す必要がある。内容としては,現時点では,このくらいのことは知っていてほしいというものとなろう。そして,飽くまで一つのスタンダードであって,実際の社会では根本の待遇,つまり,コミュニケーションを円滑にする在り方を身に付けていくことが必要であるということを同時に訴えていく。このように,二つのことを同時に訴える「双頭の鷲」のようなことを行わないと集約できないのではないか。
世の中は急速に変わりつつある。情報化社会と言われていたのが,高度情報化社会と言われるようになり,さらにIT社会,ユビキタス社会と言われるようになってきた。しかし,まだ本当の成熟期には達していない。そういう時代の中で,どんどん変わっているものを相手にしようとしているのである。メモにしても手書きでなく,パソコンに打ち込む世界もあるくらいである。手書きとワープロとどちらが失礼かというようなことについても,調査をすれば世代間の違いが出てくるだろう。我々は,現時点から少し先を見通して報告をまとめていくしかないであろう。
5ページで人名用漢字のことについて言及している。その中では,許容字体を人名用漢字としたことについて,「賛意を表し兼ねる」としているが,逆に,どうして今まで残してきたのかと反論されるおそれを感じる。また「より慎重な対応をすべきであったと考える」といった文言もあるが,既に終わってしまったことについてものを言うのはいかがであろうか。そのことを心配している。
今回の許容字体がどのように受け止められるかという問題がある。括弧に入れて許容字体としたところには苦心があった。つまり,異体の関係にあるのだから,片方の字体に統一したいが,そうすると実情に合わないということでの苦心である。ただし,将来的には新字体にまとめたいという意思を持っていた。今回の追加によって,二つの字体が対等に見えることは問題である。そのことを法務省に分かってもらえるようにすべきである。両方対等では困るということは言いたい。
1字種1字体の原則を事実上崩していることを新聞業界では問題としている。括弧に入れて許容字体としておくだけで現実的には何ら支障はないことである。今まで括弧に入れて示していたのに,今回括弧を取って示したことは問題として指摘しておきたい。
当用漢字表は昭和21年に出されたが,当用漢字の字体の標準を定めた当用漢字字体表が出されたのは昭和24年である。この間の昭和23年1月1日から新しい戸籍法が施行された。当用漢字表の段階では,簡略字体は131字だけで,それ以外は,例えば「しんにゅう」も「一点しんにゅう」ではなく「二点しんにゅう」の字体が採られるなど康熙字典体で示されていた。したがって,当用漢字字体表が出されるまでは当用漢字表に載っている康熙字典体を人名にも用いることになっていた。そういうわけで,それまで認めていた字体を,当用漢字字体表が出たからといって,急に認めないわけにはいかないという事情から,康熙字典体も併せて認められてきたのである。
昨年,人名用漢字が何度か追加されたが,7月には「瀧」が追加された。常用漢字の「滝」があるのに,康熙字典体の「瀧」が人名用漢字として入ったわけである。そうなると,なぜ「瀧」は括弧が付かない形で認められているのに,ほかの康熙字典体は括弧付きの許容字体であるのかという整合性の問題が出てきて,括弧を外すことになったというのが,許容字体を廃した理由である。
なお,5ページの「賛意を表し兼ねる」という表現は,9月の国語分科会での合意を踏まえてのものである。
「瀧」を入れたのは,人名用漢字部会での審議中である。そこに大きな問題がある。
国民からの非難に対処するために人名用漢字を増やしたわけで,「賛意を表し兼ねる」という表現を入れるべきかどうか,悩むところである。
要望のあった人名用漢字を増やすのはいい。しかし,1字種1字体の原則は維持すると言っていながら,1字種1字体の原則に反する例外が多い。本当に原則を守っているのかということは言ってもよいのではないか。新聞業界の中では,1字種1字体で統一してきた。今回の人名用漢字で2字体示されたものが出てきて,どちらを使うか迷うという問題が出ている。新聞業界では,人名の字体まで関係者に確認し切れないこともあり,事件に関する記事では,常用漢字は常用漢字表で示された字体を使い,表外漢字については表外漢字字体表に従うことにしている。しかし,今回の人名用漢字の中には,表外漢字字体表に入っていない漢字も含まれていて,これをどうするのかということについては,まだ結論が出ていない。
人名用漢字として取り上げられている漢字そのものにも問題がある。だれが自分の子の名に付けるのかというような非常識な字が入っている。恐らく「ことなかれ」主義で入れたのだろう。実態を調査し,把握して,提案すればよかったのではないか。五月雨式に追加しているが,調査した結果,使用頻度数が0であれば,後からでも外すことができる。こういう含みを込めて提案するのはどうか。
人名用漢字表にあるのだから,名前に使おうという本末転倒した考え方をする人も出てくるかもしれない。もう一回見直して,本当に人名に使われているものだけを入れることが必要である。その辺を書いたらどうか。
5ページで「対応をすべきであった」としているが,もう終わったことを非難しているような形は良くない。今後のことを提言できるような形にすべきではないか。
「今後,より慎重に検討し,より良いものにしていくことが望まれる」というような表現にしてはどうか。
1字種1字体の原則という割に例外が多いことを指摘し,「今後,更に考慮し,整理していく必要があろう」くらいの表現にするのが良いのではないか。
問題となっている箇所を今の御提案のような形に直すと,その後の方に「これら3者の関係を踏まえて,日本の漢字全体をどのように考えていくかという観点から,常用漢字表の在り方を検討しつつ,総合的な漢字政策の構築を目指していく必要があろう。」という文言があるので,前向きに提案するという分科会の姿勢を重ねて表明するという形になっていいのではないか。
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