議事要旨

国語分科会第28回議事要旨

平成17年1月24日(月)
10:00 〜 12:00
文部科学省10F1会議室

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,市川,内田,甲斐,金武,小池,東倉,西原,前田各委員(計9名)
(文部科学省・文化庁)加茂川文化庁次長,寺脇文化部長,久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会(第27回)議事要旨(案)
  2. 国語分科会で今後取り組むべき課題について(案)

〔参考資料〕

朝日新聞夕刊連載記事「漢字圏[1]〜[8]」(平成17年1月4日〜8日,11日〜13日)

〔経過概要〕

  1. 事務局から,配布資料の確認があった。
  2. 前回の議事要旨(案)について確認した。
  3. 事務局から,配布資料2についての説明があった。
  4. 配布資料2について意見交換を行い,本日出された意見に基づいて必要な修正を加えることで同資料が了承された。また,「具体的な修正に関しては,分科会長に一任すること」,「修正を加えた最終版については出来上がり次第,事務局から各委員に送付すること」が併せて了承された。
  5. 「国語分科会で今後取り組むべき課題について」の公表については,分科会長から2月2日の「文化審議会総会」に報告した上で行われることが確認された。
    なお,今期の国語分科会は本日が最終となることから,資料2が了承された後,次期の国語分科会に向けて自由な意見交換を行った。
  6. 閉会に当たり,文化部長から,分科会の各委員に対して謝辞が述べられた。
  7. 意見交換における主な意見は次のとおりである。
    (○は委員,△は事務局を示す。)

<配布資料2に関すること>

細かいことであるが,例えば,6ページの(2)の中で「身に付けさせる」「結び付くものである」と表記されているが,私には「付」という漢字が気になる。職場でも,これらの語の表記は「つ」と仮名書きするように注意している。ワープロの普及とともに「付く」という漢字表記が無原則に広がっているように感じている。効率主義の流れの中で漢字政策が進められてきて,これを元に戻すというのは難しいと思うが,新しい時代における漢字使用の在り方を模索すべきではないか。具体的には,「漢字に振り仮名を添えてもっと漢字を使用すること」と「わざわざ漢字で書く必要のないものは仮名で書くこと」との仕分けをして,それを社会的に共有したいと思っている。和語は仮名で書くというのも一つの考え方であろう。ほかにも「言葉遣い」の表記も「遣」は漢字でなく,仮名でよいのではないか。
漢字で書くか,仮名で書くかも含めて,公用文の表記については,「文部省用字用語例」「文部省公用文送り仮名用例集」というものが定められていて,資料2の表記も,これらにのっとっている。今後,この分科会で,公用文表記の在り方について検討していくことも考えられるが,現時点では,これらの基準に従っていくしかないと思う。
「文部省用字用語例」のような公用文表記の基準にのっとっているのであれば,取りあえずその基準に合わせた表記でいくしかないと思う。「文部省用字用語例」そのものの在り方がこのままでよいのかという問題は,やはり別の問題であろう。
6ページに「運動感覚が身体化され,…」とあるが,一般の人には,「運動」を取って「感覚が身体化され」とする方が分かりやすいのではないか。
心理学の立場で言うと,「運動」という言葉は落としたくない。「身体化され」についても,できれば「身体化・身内化され」としてほしいところである。「身体化」だけだと,表面的なものに限定されるイメージが伴うので,心理学用語として,よく使われている「身内化」も加えたいと思う。しかし,「身内化」という用語が分かりにくいのであれば,原文どおり「身体化」だけでも構わない。資料2の,この部分は非常にうまくまとめてあると感じている。
用語ということでは,「敬語」というのも気になる。一般の人にとっては「敬語」と言えば,広い意味でとらえていると思うが,言語学においては,もっと狭い意味で使われる用語であり,括弧を付けて表記しておきたいと感じるくらいである。しかし今回の報告は,一般の人にどのように理解されるかというところで,用語を考えていけばよいのであろうから,このままで構わないと思っている。ただし,新たな答申を出すときには用語の厳密な定義が必要になってこよう。
初出のときに注記を行うというやり方もあるのではないか。
第22期国語審議会答申を踏まえての用語の使用となるので,同答申について,もう一度復習する必要があるが,現時点では,原文のままで全く問題ないと思う。
敬語の一つのスタンダードとして「マニュアルのようなもの」が求められていることと,「敬意表現」の概念の普及ということの二つを共に踏まえていかないといけない。それだけに,敬語のマニュアル的なものと,それを使用する上での意識の在り方という二つのことを同時に言わなくてはいけない。前回も言ったように,その意味で,双頭の鷲的なものにせざるを得ないという辺りが,この分科会における総意だったかと思う。
4ページの2(2)で「敬語は日本の大切な文化の一つ…」とあり,全くそのとおりだと思うが,この報告案全体の記述ぶりが現代のことだけにスポットを当てているように感じられる。現在,我々が使用している敬語には,その背景として先人の知恵が積み重なっているということについても書き込んだらどうか。また,漢字についても現代の状況だけでなく,歴史的な経緯を書いたらどうかと感じる。
今の御意見は,3ページの(2)の中に盛り込めるのではないか。「先人の知恵が蓄積された文化」というような表現にして,歴史的なことにも触れたいところである。
国語審議会において敬語を扱ったものとしては,「これからの敬語」(昭和27年4月建議)や「新しい時代に応じた国語施策について」(平成7年11月・第20期国語審議会審議経過報告)などがある。「新しい時代に応じた国語施策について」には「敬語は上代以来連綿と続いてきた日本語の大きな要素である。今日の敬語は,おおむね19世紀の江戸で行われたものが基礎になっており,また,敬語使用に関する意識上の大きな変革が生じたのは第二次世界大戦後であると言われている。」と書かれているので,既に先人からの蓄積ということは指摘されている。このことを報告案に入れるかどうかについては事務局にお任せしたい。個人的には入れなくてもよいと考える。
私は,やはり,3ページの(2)辺りに少し加えてもらう方が良いと思う。
歴史的な経緯にも触れたいという御意見は,私もそのとおりだと思う。全体を通して盛り込むのは難しいと思うが,3ページか4ページの辺りで,歴史的なことを加味した手直しは可能だと思う。例えば,3ページであれば,「敬語が日本の大切な文化の一つとして受け継がれてきたものであり…」というような言い方でもよいのではないか。
4ページの書きぶりについてであるが,4ページの上の方では,第21期国語審議会の審議経過報告を引いていて,その中で「誤用例」という言葉が使われている。しかし,下の方の2の(3)では「正しい言い方・誤った言い方というような示し方をせずに」となっていて,4ページ内で矛盾が生じているように読める。これを解消するために,「正しい言い方・誤った言い方というような示し方をせずに」といった言い方でなく,全体を「正しい言い方・誤った言い方というような示し方をするよりも,既に慣用と認められる言い方とか,適当と認められる言い方とか,というような示し方に重点を置く」などといった言い方に変えたらどうか。
明らかに誤用のものは,やはり誤用と言わざるを得ないので,今のような言い方にしたいと思う。
「正しい言い方・誤った言い方というような示し方をせずに」というような断定的な言い方にはしないということで理解してよいのか。
矛盾がなくなる方向で修正していきたい。今の御意見を踏まえて,分科会長と御相談して修正していきたい。
修正するよりも,4ページの2(3)をそっくり削ってしまってはどうか。敬語の正誤に関することは,上の(2)で触れられているし,慣用に関することは下の(4)に加えることができる。
4ページの2(3)に書かれていることは,この分科会の議論の中でも何度も話題になっていたところである。それだけに,たとえ内容が重複したとしても残しておきたいところである。
この分科会の議論は分かるが,一般の人が求めているのは「正しいか・正しくないか」と「なぜ正しくないかの説明」である。4ページの2(3)を今のまま残しては,次期の国語分科会に枠をはめることになるのではないかと心配している。それだけに緩やかな言い方にした方が良いと思う。
この報告は,一般の人に見てもらうことに眼目があるので,「適切・不適切」というとらえ方の方が望ましい。「正しい言い方・誤っている言い方」とすると,一般の人はその方向に走りがちで,極端な場合には言葉狩りにもなり兼ねないという危惧がある。その意味で,4ページの上にある「誤用例」という言葉も「不適切な例」としたい。
4ページの上にある「誤用例」という言い方は,第21期国語審議会の審議経過報告の中で使われているもので,引用である関係上,変えることは難しいと考える。
敬語が文化の一つであることに関して,「先人の知恵の蓄積」という言葉を入れたいという先ほどの御意見は実に魅力的で,捨て難いので,「先人の知恵が蓄積され,受け継がれてきたものである」というような形にしてはどうか。
それでは,これまでの御意見を踏まえ,事務局と相談して最終版を作成したい。修正については,私に御一任いただきたいと思うが,いかがか。(国語分科会了承。)

<今後の国語分科会に向けて>

次期国語分科会というのは,いつごろから始まるのか。
今後の予定として,文化審議会の総会を2月2日に行い,そこまでが現委員の任期となる。その後,文化審議会委員の改選,新委員による総会があり,それから国語分科会となるので,次期の国語分科会のスタートは実質的には3月か4月になるであろう。
国語分科会は任期が1年間で,その1年で審議にけりを付けるとすれば,5月スタートでは厳しい。早い方が良い。
おっしゃるとおりである。今期の国語分科会は,資料の準備なども必要でスタートが遅めであったが,次期国語分科会は,文化審議会総会で報告されたものを踏まえて議論していただくことになる。したがって,今期国語分科会のスタートより早く,できれば3月の初めにもスタートできるように努力したい。
国語分科会報告は,文化審議会総会に報告された上で公表され,次期に引き継がれるという理解でよいのか。また,メンバーは変わるのか。
手続としては,国語審議会の時代より煩瑣になった感があるが,そのとおりである。メンバーについては,多少の入れ替わりはあるかもしれない。
審議会は飽くまで大臣の諮問に答えるという形でしか議論できないのか。委員の提案に基づいて議論するということは可能であるのか。
審議会の議論には,大きく二通りの形がある。大臣の諮問に答える答申という形と,もう一つ,諮問はなくとも審議会で大切な問題であると考え,大臣に対して建議するという形である。委員の方から御提案があれば,分科会で議論することはできる。
今回の報告は文化審議会の答申となるのか,それとも建議となるのか。
今期は諮問があったわけではないので,答申ではなく建議である。分科会でおまとめになったものを「報告」とするか,「建議」とするかは,事柄にもよるので,こちらで検討させていただくことになる。
今期の議論については国語問題についてどうなっているのかという漠然とした諮問をいただいたと理解して進めてきた。まず5人の委員で何が問題かを考え,だんだん敬語と漢字に焦点化されてきて,このような形になってきた。ということで,最初から二つの課題に決まっていたわけではない。その後,更に検討を深めるために臨時委員の方々に加わっていただいた次第である。
漠然としたものから二つのテーマに絞られていく過程で,現在のことばかりでなく,歴史的な経緯も踏まえて,これまでの言語生活の中から,これらの二つのテーマが選ばれてきたと考えてよいのか。
その辺は余り意識して議論してきたとは思えないが,二つのテーマは比較的早い段階から話題となっていたものである。
次期の国語分科会の検討について希望を申し上げる。敬語については,独立行政法人国立国語研究所が報告書や小冊子などを何回も出しているので,それらを参考にしてもらいたい。そして実態調査を行っていただきたい。「○○すると思う」という意識調査ではなく,「○○している」という実態調査が是非必要である。
もう一つ,「一般」ということについては,どこまでがその対象となるのか,見極めの難しさがある。今回は若い世代に対するマニュアル作りになると思うが,その対象を一般社会人とするか,20代の社会人とするか,学校教育用とするかで,指針の書き方が変わってくる。「一般」という形で対象を広げるのではなく,ターゲットを絞った方が良いし,効果を生むのではないか。
文化庁が発行していた時代から,「「ことば」シリーズ」では敬語が何回も取り上げられている。この分科会でも,同シリーズの「問答編」,できれば『言葉に関する問答集総集編』を配布してもらえると有り難い。国語研究所としては,分科会の検討にできるだけ協力したいと考えているし,実態調査についても持ち帰って検討したい。もちろん漢字についても可能な限り協力したいと思っている。
この前,国語研究所が国語力の調査をするという記事が新聞に大きく出ていたので,期待したいと思う。
私も世代を絞って考えた方がいいのではないかと思った。私自身,教育のこととして考えてきたところがある。教育のことを考えると,それが社会に反映し,その在り方を規定することになるという面がある。そういう意味で,教育というところに絞った方が良いと思うし,その方が普遍性が出るのではないか。
平成16年2月に文化審議会答申「これからの時代に求められる国語力について」が出たが,そのために2年間にわたって検討してきた。その時に思ったのは,世の中全体を対象にするといっても考えられず,結局は,学校教育を中心に考えていくしかないということである。この辺は非常に難しいと思う。
先に御指摘のあった実態調査は,国民全体についての実態調査だと受け止めている。学校教育については既に「学校の敬語」という実態調査があり,かなりの資料を分科会に提供できると考えている。最後には,学校教育に行き着くかもしれないが,入り口は広くしておきたいと思う。
私としては,しゃべり方(はっきりしないしゃべり方,省エネのしゃべり方など)と国語の関係をどう考えていくのかについて取り上げてもらえると有り難い。言葉というのはしゃべり方によって身体に影響を与えるが,逆の関係もあると思う。しゃべり方と国語について,頭や体にどういう影響があるのか,課題となるようであれば取り上げていただきたいと考えている。例えば,通常なら鼻濁音となる「が」が鼻濁音にならなくなっていることは,身体にどのような影響があるのか気になるところである。
私も全く同感である。一言で言うと,戦後の教育は身体性から離れ,効率性を求めてきた。方向性は一つだけで,身体性をいかに抜いていくかということであった。それが現在の子供たちの様子に凝縮されている。すべて効率優先で,身体性やリアルが失われている。そのために言葉の立体性が失われ,平板になっている。若い人の言葉はふわふわしていると言われるが,身体性,リアル,アナログ的なもの,立体性などが失われているということではないか。効率性が大切だということは理解している。しかし,一見非効率的に見えるものが,実は効率的であるということもある。
書かれただけの,寝ている,フリーズしている言葉を解凍して起き上がらせることが必要だったのに,それを教育してこなかった。今『声に出して読みたい日本語』などが話題になっているが,本来,教育の世界で考えられなければならなかったことである。言葉の身体性や立体化,リアルなどを着眼点として,それらを身に付けるための方法論を教育の中で作り上げていくことが必要である。そのことが,もう一方の効率性につながるものである。話し言葉に立脚したときの効率性は,書き言葉でいう効率性とは全く異なるものである。ここでは,話し言葉に立脚して議論すべきであろう。
確かに,そのような身体性への認識は,教育において不足していたと感じる。
私も,身体性が失われているという指摘は重要だと思う。身体性の喪失は情報化社会の影響も大きい。情報機器の設計やインターフェイスを考える中で,身体性を取り戻すことが求められてきている。最近は,言葉を出せなくなった人が増えている。例えば,電車を降りる際も,ちょっと声を掛ければいいのに,何も言わず体で押しのけるように降りていく人が多い。言葉と身体性との問題は声を出すことも含めて,広く扱うことが大切であり,考えていくべき課題である。
この報告で,コミュニケーションのことや,人間関係のことを盛り込んだのはとても良いことである。日本人のコミュニケーション力がかなり問題になってきていて,そのプレゼンテーション力についても,大学生レベルにおいては海外の学生より能力が劣ると指摘されている。コミュニケーション力の中で,特に重要な国語力がどのくらいかかわっているのかを考える必要がある。コミュニケーション力は人類の知恵のたまものである。今は多様性を持ってきた面もあるかもしれないが,日常生活でうまく機能していない面もある。その辺りをうまく絡めて答申していければいいと考えている。
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