議事録

第16回国語分科会日本語教育小委員会・議事録

平成20年1月8日(木)
14:00〜16:05
旧文部省庁舎第1会議室

〔出席者〕

(委員)
西原主査,杉戸副主査,井上,岩見,尾﨑,加藤,佐藤,中神,中野,西澤,山田各委員(計11名)
(文部科学省・文化庁)
匂坂国語課長,西村日本語教育専門官,中野日本語教育専門職ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 第15回国語分科会日本語教育小委員会・議事録(案)
  2. 国語分科会日本語教育小委員会における審議について(案)
    〔日本語教育の充実に向けた体制の整備と「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について〕

〔参考資料〕

  1. 今後の検討スケジュール
  2. 国語分科会日本語教育小委員会における審議について
      −今後検討すべき日本語教育の課題−

〔経過概要〕

  1. 事務局から配布資料の確認があった。
  2. 前回の議事録(案)が確認された。
  3. 事務局から配布資料2「「生活者としての外国人」に対する日本語教育の目的・目標と内容(案)」と配布資料3「日本語教育小委員会における審議について(案)」についての説明があり,その後,資料の内容に関し,質疑応答と意見交換を行った。
  4. 次回の日本語教育小委員会は,1月19日(月)の10:00から12:00まで旧文部省庁舎2階第1会議室で開催することが確認された。
  5. 質疑応答及び意見交換における各委員の意見は次のとおりである。
○西原主査
通算第16回の文化審議会日本語教育小委員会を始めたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
配布資料2でございますけれども,今期日本語教育小委員会における審議についての,これが経過報告の案ということになります。配布資料2に「はじめに」,そして「?」、「?」とローマ数字が三つ並んでおりますが「はじめに」は先期の審議で既に報告されている事柄をまとめたものでございます。それから「?地域における日本語教育の体制整備について」につきましては7月31日に開催された国語分科会総会で報告されている内容です。この文言で良いかという検討は必要ですが,今回の報告として重要なのは「?生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」と「?今後の課題」でございますので,そちらの方の検討を先にさせていただいて,後ほど「はじめに」及び「?地域における日本語教育の体制整備について」の御意見を伺いたいと思います。
それでは配布資料2の5ページの下から始まる「? 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について,まずこの「?「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」の部分について加筆修正,何でも結構ですけれども,御意見が伺えたらと思います。前回の小委員会後にも御意見を下さった委員がいらっしゃいまして,その内容,御意見につきましては既に反映されていることと思います。参考資料1でスケジュールが示されますが今月末に行われる国語分科会の総会,および文化審議会の総会においてこれが報告されるということになりますので,御意見を頂けたらと思います。
○岩見委員
6ページに2か所,ちょっと細かいところですが,3番目のパラグラフ「生活者としての外国人」の定義の文言なのですが,3行目,「日本人であるか外国人であるかのいかんにかかわらず」というのがありますね。そしてその下の2行目に「「生活者としての外国人」とは,そういった側面を有する外国人を指す。」とあります。日本人であるか外国人であるかにかかわらずそういった側面を持つ外国人を指すという,その「外国人」というとらえ方が何かこの文の中で分かりにくい気がするのです。
○西原主査
 
文が長すぎるのでございましょうか。
○岩見委員
そういう意味ではなくて,外国人であるか日本人であるかにかかわらず外国人を指すという言い方ですね。だから「外国人を指す」という最後のところを「外国出身の人々」であるとか別に「外国にルーツを持つ人」とかいう言葉にすると解決できるのかなと思います。ちょっと細かいところですけれども,気になります。  それから,次のパラグラフの3行目の「なお,「方法」については」ですが,「? 地域における日本語教育の体制整備について」において「「体制整備」の在り方を考えることで一定の検討が加えられたところであるが」とあります。「方法」の示す範囲というのは広いものですから「? 地域における日本語教育の体制整備について」の「体制整備」の中でどういった体制,方法で,この「生活者としての外国人」に対する日本語教育を進めていくかということは,検討が加えられたということでしょうけれども,最後に「本格的な検討は今後の課題である」とあります。その「検討の課題」というのが,じゃあ,何になるのかというのは示された方がいいのかなと思います。例えば「具体的な学習方法や活動の方法等,本格的な検討は今後の課題である」とか,何か説明を加えるとはっきりしてくると思います。
○西原主査
「本格的な検討」というのは何の検討なのか,具体的にということでしょうか。
○岩見委員
ええ。それは最後の「? 今後の課題」にもかかわってくると思います。
○西原主査
まず,最初におっしゃったことですが,最初は「生活者」というのはどういう人であるかということで,これは日本人であっても外国人であっても「生活者」であるというところになっています。そして「生活者としての外国人」を定義するときにそういった「生活者」としての側面を有する外国籍とか外国出身者とか,そういうことにした方がより分かりやすいのではないかという,そういう御意見ですか。
○岩見委員
外国籍とするとその上の意味とちょっと反するわけですよね。外国籍でなくても日本籍であってもこれは含んでいると言いたいわけです。
○西原主査
「生活者」というのが最初に定義されて,その次に「生活者としての外国人」というのが定義されていますね,その「生活者としての外国人」というのは上に述べた「生活者」としての側面を有する,この場合は日本人ではなくて外国人という定義になっていると思うのです。
○岩見委員
多分,文がつながっているからその前の定義とこちらの定義とが,複雑になって分かりにくくなっているのだと思います。
○西原主査
二つの定義が書かれていますが,一つは「生活者」が定義されています。そしてその次に「生活者としての外国人」が定義されている。これは文を二つにした方がよろしいですか。
「生活者」とは,滞在形態,在留資格及び日本人であるか外国人であるかのいかんにかかわらず,だれもが持っている生活という側面に着目して,我が国において日常生活を営むすべての人を指すものである。「生活者としての外国人」とは,そういった側面を有する外国人を指す。」とした方が分かりやすいですか。
○岩見委員
私としてはここで,対象とする外国人というのが日本の国籍を持つ人であっても「生活者としての外国人」の日本語教育を必要としている対象者であるということを,どこかで入れていた方がいいのかなという気持ちがあって,そういう考えがもう一つこの文の中には表されていないと思っているので気になったわけです。
○山田委員
一番最後の「したがって,「生活者としての外国人」には」というところに「国籍のいかんにかかわらず日系南米人や日本人の配偶者のほか」というふうに入れると,御指摘のようなニュアンスは生まれると思うんです。
○西原主査
そうですね,「実際の国籍にかかわらず,日系南米人や日本人の配偶者のほか」と続いたら,より明確になるだろうと思いますね。
○山田委員
そうですね,例えば日本国籍を持っている中国帰国者で日本語ができない人もいるし,逆に日本国籍者ではないけれども在日の人たちもいるしというふうにいろいろあると思うんです。
○西原主査
そうすると「実際の国籍にかかわらず」と,そこでまた入れますかね。
○山田委員
そうすると,ちょっと広がるのではないかと思うのです。
○井上委員
あと問題になるのは,子供たちは除かれるという考え方ですよね。
○西原主査
いえ,そうではないです。
○井上委員
文部科学省には「外国人児童生徒の教育の充実のための検討会がありましたけれども,外国人子弟は公教育の中で進めるという考え方だったのですが,例えばその範囲で十分カバーされていない,例えば外国人学校へ行っている子供たちをこの中に含めるかどうかというのは微妙な話になりますよね。
○西原主査
この表を見ても子供が自主的に暮らすかどうかという生活側面については含まれていないんですね。ただそれが意図的に子供を排除しているかというと,それはそうではないのではないかというふうに思うので,子供を含まないということを特に言う必要があるかどうかと思うのですが,それはいかがでしょうか。
○山田委員
私は逆の発想があって,ここで子供を含むか含まないかあやふやにしておくよりは,含まないというふうに言った方がいいと思います。子供は子供で別にふさわしい検討をする場を設けて,それなりの子供用の検討をすべきだと思うんですね。
○西原主査
それはそうなんですけれども,ただ,「子育て・教育を行う」というところが別紙の大分類の1ページ目の一番下に既にあるわけです。つまり子供が学校に入るということがあるわけです。この場合には子供を学校に入れるというニュアンスですが…。
○山田委員
でも,これは生活の一部として子供とかかわるということがここに入っているのであって子供に対する教育とは違うのではないでしょうか。
○西原主査
大人が子供とかかわるだけではなくて,子供が学校に入るということも当然この中の一部ですよね。だから子供を特別に排除するということではないのではないかと私は思っていたのですけれどもいかがでしょうか。
○中野委員
4ページの一番最後の行に「外国人児童生徒に対する日本語指導」というのが入っていますよね。ですから,もし排除するならここをもう一回検討しないといけなくなるのではないかと思います。
○西原主査
ユネスコが作った子供の権利条約に日本も批准したので,そのことによって日本の学校に子供たちが入ってくるようになったという経緯がございます。その子供の権利というようなことだけを考えるのであれば,もちろんその部分については別途ふさわしい検討の場が必要になるでしょうけれども,生活者としての側面をいろいろな切り方で切れば,それはその側面ということにはならないでしょうか。
○国語課長
事務局として,ここに「児童生徒」と書いていないのは,排除するということではなくて,その中心となる対象ではないということでございます。「児童生徒」と切り分けるということではなくて,学校教育における日本語指導というそういう切り方をして,そういうものはここで対象にしないということです。その学校教育というのが日本における学校教育法の1条にいうところの学校であるとか,それはブラジル人学校であったりとかそういうことになるかもしれませんけれども,そういう学校教育における日本語指導は対象にしないということは書くかどうかは別にしてはっきりした方がいいと思います。飽くまで対象としては,児童生徒は入り得るというのが事務局としての考え方でございます。
○西原主査
学校教育というのはないけれども,4ページでは児童生徒に関しては,「学校だけでなく地域全体で取組を進めることが重要であり」と書いてありますよね,そこのところを消すというのはおかしいですよね。
○国語課長
学校教育における正規の活動はここでの対象としないという,そういう意味かと思います。
○西原主査
文部科学省の初等中等教育局が立てるようなカリキュラムをここでは別に立てないということが前提となっているという話ですよね。
○山田委員
「生活者としての外国人」というくくりで,その中に,生活者としての子供の外国人も入ると考えるとすれば別紙の表はもっと細かくなると思います。この4ページで言っているのは,学校社会を自分のメインの場として生きている子供たちと,その子供たちに対応する教員だったり教育委員会だったりいろいろ学校関係者がいますけれども,そちら側でやっていることと,そちら側から連携を地域社会に求められたときにそれは拒むべきものではないんだという,そういうニュアンスだと思うのです。
○西原主査
もっと積極的なのではないでしょうか,地域は子供を育てるわけなので。
○山田委員
いや,それもいいのですが,ここでの「生活者としての外国人」というものの中に「生活者としての子供の外国人」というのは,これまでも想定して考えていなかったと思います。
○西原主査
大きな枠組みとしては成人が想定されていると思うのですけれども,ただ,どういう人たちということはここで一切言っていないんですよね。例えばどういうタイプの人たちとか,どういう生活をしている人たちとかいうことは一切言わずに「生活者としての外国人」,生きていればすべての人という,ここではそんな感じですよね。その時に子供というのを特に排除してしまうかという,そういうことではないかと思うのですけれども。つまりそのことをやり始めると大人も,どのような人を排除し,どのような人は排除しないかを考えなければならなくなりません。
○山田委員
ただし,大人の場合はここで検討してきたことの多くは含まれるんですよ,だからこそ先ほどの配布資料2の6ページの上から三つ目のパラグラフに,「したがって,「生活者としての外国人」には,日系南米人や日本人の配偶者のほか,留学生・就学生,研修生,ビジネス関係者等も含まれるのである」と入っているのであって,ここに「子供の外国人等」を含めていないわけです。
○西原主査
ただ,子供も健康安全に暮らすんですよね,そして住居を確保維持するのはどうか分かりませんけれども消費活動を行います。で,目的地に移動もします。子供が子育てをするかどうかは分かりませんけれども,そういうふうにしていくと人とかかわったり,社会の一員となったり,自身を豊かにしたりするのは子供も当然やるんですよね,それなりに。
○山田委員
もし子供もかかわるのだということを明言したとすると,例えば子供の生活者としての側面というのを学校では扱わなくてもよくて地域社会でしかるべきボランティアなり何なりを組織して,やってくださいということにならないとは限らないと思います。
○西原主査
そこを余り厳密にすると日本人教育についても同じことを言わざるを得なくなってくる。我々が地域における教育力というときに,これはだれも排除しないでしょう。
○山田委員
例えば社会教育や家庭教育や学校教育というそういう教育をくくって,そういうのは学校が中心ではないけれども教育としてあるのだと,それはそのとおりで分かります。その範囲で子供も含まれますというのは十分分かるのですけれども,ここで検討してきたことの中心にはそれは入っていなかったし,ある種のニーズが成人とは違う子供を対象にするというふうに明確に言ってしまうと,やっぱり私はまずいと思います。
○西原主査
公教育の部分というのはここでの対象になっていないのですが,子供と大人をどこで分けるかというといろんな問題が生じますよね。
○山田委員
実際問題,私がボランティアとしてかかわっていたのは子供で,地域社会が子供をうまく受け止めなければいけないということは分かっているのですけれども,それは何でうまく受け止めなければいけないかというと,学校教育でうまく受け止めてもらっていないから地域でやらざるを得ない部分が出てきているからです。それでまた,文化庁国語課でも子供も含まれているんだとなると……。
○西原主査
いえ,含まれていると明言するよりは排除するということを言わないという,そのことが大切なのではないかというふうに私は受け止めているのです。つまり排除し出すと切りがないからです。
○井上委員
全体の感想も含めお話ししたいと思います。日本経団連は,人口減少の下で日本社会は外国人をどう受け入れるべきかという提言を昨年10月に出しましたが,その中で注意したのは統合政策という言葉の使い方でした。経済界ですから日本に来る外国人には,やはり日本語をしっかりと学んでしっかりマスターしてもらいたい,要するにここに書かれているようなことはできるようにしてもらいたいということはあるのです。しかし,それを強制的にやるのか,あるいはもう少し緩やかにやるのか,それとも機会を提供するのであとは任意でやってくださいというのかというところまで,実は詰めきれていないのです。それは恐らく日本の国の中でもコンセンサスがまだ得られていないのではないかと思います。それが今回の資料にもやはり反映しているように思います。国民的なコンセンサスがないから取りあえずは,コーディネーターを育成したり,カリキュラムを作ったり,教材を作ったりと,こういうものをやっていきましょう,目的とか目標はこういうものですよといったことになるわけです。
この機会に強制的にやるのか,やらないのかということをきっちりとした議論をしていく必要がある。根本的に統合政策をどうすべきかというコンセンサスがないまま議論をしても結論が出ないのではないかと思います。ようやく結論が出始めたのは小中学校の児童生徒についてで,公教育で受け止めましょうということになった。問題は例えば,高校に進学するときに中学の勉強だけでは全く対応できないということです。ですから川崎などでも,高校に進学させるためのボランティア活動が行われていますが,こういう場を使わないと難しい。
それからもう一つは,いわゆる外国人学校ですね,ブラジル人学校では大体週に二,三時間しか日本語をやっていないわけです。コミュニティーとしてはブラジル人,ペルー人の集まりでポルトガル語やスペイン語をしゃべっていますから,自立ができない。自立ができないということで,この人たちに日本語教育を強制するのかどうか,またそこで統合政策に戻ってきてしまうわけで,今回のここでの審議は国民的なコンセンサスができていないという中では,これが精いっぱいなのではないかと思うのです。ですから今,西原主査がおっしゃったように余り排除する,しないということを書く,書かないというのはやっぱりちょっと行き過ぎで,排除するものではない,という程度の表現が良いと思います。
それから山田委員がおっしゃったような国籍の問題というのは,これは明確にできない。いろんなタイプの方がいらっしゃいます。日本国籍を持っていても日本語は余りできないという方はたくさんいらっしゃいますから,日本人という意味ではなくて,明らかに外国につながっている方,あるいは在留資格上かなり自由に活動のできる資格を持っている方,そういう方々についてはここの議論をベースとした日本語教育の目的,目標の中で対応していただかないとまずいのではないかなということです。非常に大きな円を描いたので,ここに大体入るという説明ができるような文章だと良いと思います。したがって6ページは,皆さんはこだわっているというか,私も引っ掛かったのですが,一生懸命定義をしようとするのだけれども,実は抜け落ちているところが見える文章になっている。それが逆にかえって混乱を招くので,もう少しざっくりと書いた方が,山田委員のおっしゃったように国籍のいかんを問わず生活者として日本で生活する,あるいは働いている,学んでいる人たちを対象にするというくらいで良いのかもしれないですね。そうなると後ろもすっと読めるような感じがするのです。
○佐藤委員
今のところには論点が二つあって,前の方の「生活者」という定義のところの日本人であるか外国人であるかというところ,それから国籍にかかわって日本人と外国人と両方含むという読み方ですよね。これは日本国籍か外国籍であるかということではないわけですね。それであるとすると,先ほど山田委員がおっしゃっておられたような配布資料2の6ページの「したがって」というところに「様々な国籍を」というのを入れればよろしいと思うのですが,問題は例示の仕方がこれでいいのかどうかということだと思うのです。
就学生という在留条件とビジネス関係者というようなものが並列されていいものかどうかという議論になってくるので,この辺の例示の仕方を少し工夫されてはどうでしょうか。例えばこの例示のところを削って「様々な国籍を持つ人を含む」とするとか。要するにこの辺のところをもう少しあいまいにした方がよろしいのかなと思います。つまり例示をされてしまうと,じゃあ,それ以外のはとなりますので。  例示の前の方は日系南米人や日本人の配偶者というと,何か日本国籍あるいは外国籍の話なのかと読めてしまいます。
○西原主査
ルーツとして日本が見えるということですね。
○佐藤委員
はい,それと在留資格の問題が並列されているので,どうもここでこういう議論をしてしまうと抜けるか抜けないかとかそういう議論になってしまうので,ここの書き方を少し工夫すべきではないでしょうか。
○中神委員
現在,多分典型的な「生活者としての外国人」ではなくて,最初から短期滞在が決まっている実習生,研修生ですか,そういった方が地方自治体の国際交流協会辺りで開いている日本語の教室に学びに来ています。そういった方は滞在期間も限られていますし,大体滞在の資格も限られているのですけれども,むしろ学習に対するインセンティブが高いものですから,学習意欲はありますし,教える方も熱心に教えています。そういった方が今の段階では前面に出ていますが,本来的には「生活者としての外国人」ではないのですけれども,そういった方も含む必要があるのではないかなということで,ちょっと御提案させていただいたわけでございます。
○加藤委員
先ほど,「生活者としての外国人」といった場合,南米の方とか配偶者というのを一般的には認識していたように思うんですね。けれどもそうではなくて例えばこういう人たちというので「等」というのが付いているので,私も聞きながら,「あっ,でもこんな人もいたな」なんていうのを思い浮かべました。要は日系人やその配偶者だけではないんだということを言いたいために「等」が付いたのだろうなという認識をして聞きました。いかがなんでしょうか。
○西澤委員
先に実際の国籍のほかに「国籍や在留資格にかかわらず」と入れて,ただこういうものも入りますよという意味で幾つか研修生とか留学生も入っていますよということを念のために例示しておくという感じの方が分かりやすいのかなという感じもします。
○西原主査
実際の国籍や在留資格というのは,実は上の方にも書いてあるわけですけれども,在留形態,在留資格及び日本人であるか外国人であるかにかかわらず,だれでも生活者です。そしてその中で「生活者としての外国人」という場合には,日本人をそこでは排除するわけなんでしょうけれども,生活者としての側面を持つすべての外国人を指すという二段階の定義になっていて,「したがって」というのはそれをかみ砕いて言うと,それこそ今加藤委員がおっしゃってくださったように一般的に「生活者としての外国人」という言葉から想定してしまう日系南米人や日本人の配偶者だけでなく,短期滞在者の方々,例えば留学生・就学生たちのような方々も含まれているのですという,そういうことなのだと思うのです。
○中神委員
私も本来的には「生活者としての外国人」というのはイメージですけれども,当然定住者あるいは永住者のことだと思うのです。
○西原主査
まあ,本来的にはですね。そうするつもりの人ということかもしれないですね。
○中神委員
ええ,ただ,先ほど御指摘になったように,結局日本がどういった方に対して積極的に教えるのか,あるいは教える体制を整えるだけなのかという方針というか方向性を出していないものですから,そうなってきますと在留資格とかあるいは在留期間の長短で分けてしまうと,実際にはなかなか難しい面が出てくるので,先ほどおっしゃった,漠とした書き方しかできないのかなという気がいたします。
ただ,正直,私ども実務家として本当はいわゆる定住化あるいは永住者化の方向を明確にしている方の対応を優先的にですね,そういった方向を示していただければ一番いいのではないかなと思っておるのです。けれども,正にまだコンセンサスができていない段階では現実として日本語を学ぶ必要がある人というのはたくさん見えるわけですから,幅広く受け入れるという方向で示すしかないのかなという感じはしております。
○西原主査
では,ここで言うべきなのは「実際の国籍にかかわらず」という部分と,それから「長期滞在予定者と短期滞在予定者」という区別が…。
○中神委員
余り区別すると変になると思いますけれどもね。
○西原主査
国籍にかかわらずという御意見が出ました。それから短期滞在予定者なのか長期滞在予定者なのかでここが分かれているという御意見も出ました。そのことを伺っておくということでよろしいですか。
○杉戸副主査
私の意見を言わせていただくと,「生活者とは」の後ろに滞在形態について出てきてしまっていますが,その1行は後ろに回して「「生活者」とはだれもが持っている「生活」という側面に着目してすべての人を指すものであり」とし,つづいて,滞在形態とか在留資格というのは持ち出さずに,その滞在形態についてはその後半の「「生活者としての外国人」とは」というところに持ってくると良いのではないでしょうか。
○西原主査
「滞在形態,在留資格のいかんにかかわらず」と。
○杉戸副主査
はい,二つに分けるということを一つの案として検討して具体的な代案を来週示してはどうでしょうか。
○西原主査
では,そうしたいと思います。(→了承)
ほかにはどうでしょうか。
○井上委員
8ページの「2「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容についての考え方」のまとめ方についてです。10項目については今までも随分議論をした結果だと思うのですけれども,要するに日本語のコミュニケーション能力によって生活上の行為をしていくということを,いわゆる日本語を母語としない人たちに求めるというトーンが,それなりに出ているのではないでしょうか。
冒頭申し上げましたが,強制することができない以上,この程度の書き方であるのかもしれませんが,日本に来たからにはこれくらいのことを大目標にし,中分類,小分類で具体的に話せるようにならなければいけません,ということが,これで明確になってくるということは非常に重要だと思っていて,今回の報告書の意義というのは正にここにあるのではないかと思っています。その中に正に「日本語コミュニケーション能力を求められる」とか,それから大分類でされた例えば「社会の一員になる」とかいったような言葉,こういったところが我々から見ると一歩踏み込んでいて,外国人の皆さんにも理解していただかなければいけないという意味で非常にいい書き方になっているのではないかなと思います。
○西原主査
ほかに「?「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」の部分につきまして,何かありますでしょうか。私だけが気になっているのかもしれないのですけれども「? 今後の課題」というのは我々自身が我々自身に宿題を出したというのと同じことなんです。「? 今後の課題」として三つあると考えられるんですね。一つは,この別表の内容を更に教材作成に向くように検討をし直すということだと思うんですね「2」は,教材作成です。そして「3」はその達成目標に関して評価規準を作り,検討するとなっています。「?「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」から今後検討すべき課題の「?」へのつなぎ方がここで終わって大丈夫かというのがちょっと気になっているところです。つまり,内容についての考え方を示しました,こういうような生活上の行為をコミュニケーションの手段として日本語でできるようになることが非常に望ましいことです。それは使いたければカリキュラムやシラバスを構築する際にお使いになることができますよ。次に次期以降,我々はそれを教材に作ります。そこで,これが教材になるのだということを「?「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」の終わりに言わなくて大丈夫でしょうか。つまり「?「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」から「? 今後の課題」に飛躍はないでしょうか。
○杉戸副主査
よく似たことを考えていました。具体的に言うと配布資料2の8ページの下から2行目の「ただし」から9ページの最初の2行,それをもう少し強い調子に書き改めることで「? 今後の課題」へのつながりが出てくると私は思いました。  具体的に言いますと,8ページの下から2行目の「ただし」は,「ただし」ではないと私は思います。せめて「また」にして,そして9ページの上から2行目の「参考情報」というのはもっと強く,ちょっと語弊があるかもしれません「参照枠」とか「検討の基盤とすべきである」として次の「今後の課題」を検討するための基盤を「? 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」で示したのだという,そういう調子に最後の4行で表現をした方が良いのではないかと思います。  言葉として配布資料2の9ページの一番上の行に「カリキュラムやシラバスを構築する際に」というのが出てきますが,これは「? 今後の課題」の「1」と重なりますね。
○西原主査
ええ,そうです。しかしその下の書き方だと「どうぞ」と言っているようで。
○杉戸副主査
何か人任せにするような印象を持ちます。
○井上委員
配布資料2の「? 今後の課題」のことで意見を言いたいと思います。参考として取りあえずは出すということなのですが,例えば「? 今後の課題」の「1」の最後のパラグラフですが,「検討を行う必要がある」とあります。ということは,この日本語教育小委員会が検討を行うということになりますね。
それからその次の「2」の第2パラグラフの最後,「その他関係者と連携協力しながら作成を進める必要がある」とあります。
最後,評価規準についても「行います」となると,これは明らかに国家的プロジェクトです。そのような覚悟を持って書かれているということですね。それについて皆さんのコンセンサスが得られたということですね。
○杉戸副主査
「日本語教育小委員会又はその他の検討の場において」とありますが…。
○井上委員
そこのところは,正に「その他の検討の場」というのを見て,ちょっと投げてしまうというのは無責任な感じがしないでもないのですが,ここですべてができるかというと,それもまた違うと思います。
○西原主査
ですから,来年の今ごろ私たちがどういう立場にあるかということを予告するような感じのことを書いているわけです。それはやり過ぎだということでしょうか。
○井上委員
私はそこまでの覚悟を持って書くべきではないかと思います。
○西原主査
はい,多分その覚悟で書かれていると思うのです。それなのでこのつなぎが気になってかなり飛躍があるのではないかなと思ったというそういうことなのです。
例えば「知識,行動,交流,言葉」という,そういう教材化へのステップとして教科書になるようなときにはそういうことをするという議論がありました。
○佐藤委員
すみません,「? 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」」と「? 今後の課題」の間に飛躍があるというのがちょっとよく分かりにくいのですが…。
○西原主査
「? 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」」のところは,これは飽くまでも参考情報ですよと言っているわけです。けれども「? 今後の課題」では教科書を作りますと言っているわけです。
○西原主査
今,杉戸副主査がおっしゃってくださったようなことでよろしいと思うのですけれども,「? 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等について」を踏まえて,教材を作るとなると,「? 今後の課題」の「1 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容の更なる検討とそれを踏まえたモデルカリキュラムの開発」が教材化の前に必要です。
以前,「知識,行動,交流,言葉」という四つの側面から内容を分析していくということが教材化のステップになるという御意見があったと思うのですが。
○佐藤委員
教材を作って,そしてその教材の妥当性だとかを検証して,果たして効果があるのかどうかというところをやるのが妥当なところだと思うのです。しかし,それは理論的な話であって,この日本語教育小委員会でできるかどうかということについて,今,西原主査がおっしゃることはちょっと分かりにくいのですけれども。
○西原主査
例えば「健康・安全に暮らす」というときに,こういうことは知っておいた方がいい,こういうことはできた方がいい,それからこういうことは聞いて分かった方がいいということ,それから発信できた方がいいというようなことがありますよね。そういうふうな目でこの大分類・中分類・小分類を検討し直すということが,「? 地域における日本語教育の体制整備について」で行われるのではないかと思うのです。
○佐藤委員
ちょっとまだよく消化されていないのですけれども,要するにカリキュラム評価をするのでしょうか。実際にそれが「生活者としての外国人」ができるようになったかを検証するのでしょうか。
○西原主査
いや,教材化のために「1 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容の更なる検討とそれを踏まえたモデルカリキュラムの開発」を行うのだと思うのです。この別表の内容を使って,それを教材化するためには何をしなければならないかということが「1」ということではないかと思うんですね。
○岩見委員
私もこの三つの課題であるカリキュラム開発,教材作成,評価規準の検討と,これはステップを踏んできちっとやっていかないと,いきなり教材に向かったりすると,とっても危険だと思うんですね。おっしゃるように本年度目標ができて,生活者としてのその「生活上の行為」が書かれた。今度は教材化,その指導,評価にしてもここの個々の言語内容を分析してから,この行為を達成するためにどんな日本語が必要で,どういうふうに教えていくかとか活動していくかとか,そういう分析が当然できなければいけない。そこは実際上の使用の調査ですとか,だれが教えるのかとか,そういう様々な角度から分析,研究が徹底的にされないうちに教材化するというのはとっても危険なことだと思うんですね。だからそこが何かいきなり教材作成と並べるのでいいのかなと,ちょっと危惧するところなんです。
○西原主査
紙媒体を作るかということは教材作成の最終目標とするとして,例えばダウンロードできる形で素材集を作るという国際交流基金がなさっていらっしゃるような,そういうことですと並行して,進めることが可能ですよね。
○岩見委員
本当に学習者が利用しやすい形で教材として使えるような材料を提供していくというか,その形態についてもいわゆる従来的な教材というイメージでとらえられてしまうと,その多様性に対応するのが困難になります。
○山田委員
前から言っていることですけれども,教材あるいは指導法の開発とか何かそういう意味で,方法ということも入れていただきたいのです。教材というとそれを用いないといけないととられやすいものですから。
○西原主査
つまみ食いはできてもこれの範囲からお使いくださいよという,そういうことですね。
○山田委員
そうですね。例えば「健康・安全に暮らす」の中で「診察を受ける」というのがあったとしたら,それは何らかの材料を使って何かするというよりも実際に医者に行ってみましょうみたいなこととか,それから行って観察してみよう,ほかの人はどうしているのだろうかというような,実態としてそこにあるものも教材にしてしまうというような,そういう発想を持った教材的なものから,何らかの方法的なものまで含めた形で言うために,ここでは「教材・指導法の開発」としてはどうかと思います。
○西原主査
例えば国際文化フォーラムもAJALTも国際交流基金もリソースセットをネット上に載せていらっしゃいますよね。それで,使用したい教師とかはそこから適当にアレンジして自分の学習者用にそれを何かこう料理するということをするわけですね。教材と言っている場合は,最初はそういうことなのではないでしょうか。
○山田委員
それに加えて,日本社会側も外国人とかかわることで学びがそこで起こって,相互に学びながら一緒に地域社会を作っていくというそういう発想で,活動を組み込むといいと思うのです。
○西原主査
例えば,国際交流基金の素材も活動例がいっぱい入っています。
○山田委員
それは分かるんです。ただ,一般の人の頭の中にあるのは,教材を作るというと何か教科書を作って,これさえ使えば何とかなるというものでしょう。じゃあ,その指導書を作ってくださいになってしまうと,余り良くないんじゃないかと思うのです。
○岩見委員
山田委員のおっしゃることよく分かります。配布資料2の9ページ「? 今後の課題」の「1」の最後に「具体的な「方法」を例示する」とありますけれども,ここをもう少し指導法の開発とか活動とかいうことにするか,あるいはもう独立させて指導法の開発について書くか。カリキュラムに含めてしまえばいいのかもしれませんが,もう少し指導法について強調して書いた方が良いのではないでしょうか。
○西原主査
分かりました。「? 今後の課題」の「2 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の参考例としての教材作成」のところを参考例としての「教材・指導法」というふうにしておけばよろしいでしょうか。
○山田委員
非常にいいです。
○西原主査
はい,ではそうしましょう。「教材・指導法の開発」ですか。
○山田委員
ええ,「開発」だと思います。
○岩見委員
「開発」がいいですね。
それから,「?」の「1」の「モデルカリキュラム」の「モデル」というのはどういう意味で書いていらっしゃるのか伺いたいのですけれども…。
「模範的な」ということなのか飽くまで一例で,また前の参考情報というニュアンスなのか,どっちなんでしょうね。
○西原主査
「モデル」については公開しますので,皆さんどうぞ御検討くださいという意味でのモデルですよね。
○日本語教育専門職
これが唯一絶対無二のものでは必ずしもないということでございます。飽くまでも参考ということです。
○岩見委員
絶対に無二のものではないということが「モデルカリキュラム」という言葉で一般の方に伝わるでしょうか。
私としてはある程度国が作るものは,自信を持って薦められるものを作るべきだと思うんですね。ですから,強制ではないけれども何かみんな共通に参照できますよというようなカリキュラムのガイドラインとすべきではないか。「モデルカリキュラム」というと何か意味に二面性があるかと思います。
○山田委員
「例」にしたらいいんじゃないですか。「具体的な」の後の「「方法」を例示するモデル」を取って,「具体的なカリキュラム例の開発」としてはどうでしょうか。
○岩見委員
ええ,構わないですけれども,私はむしろもっとガイドライン的な,だれにでも役立つ大枠作りをもう少し細かく示すようなものを作ったらいいんじゃないかなと希望しているのです。
○西原主査
国際交流基金が作っていらっしゃるスタンダーズ,共通参照枠は参考になるでしょうか。
○杉戸副主査
近いものですね,基本的には。
配布資料2の「?」で既に検討された中の文言として,「「生活者としての外国人」に対する日本語教育の目標及び標準的な内容・方法」というのが繰り返し使われています。2ページで2か所,1ページにも1か所,それと響き合うモデルというそういうことだと理解します。
○西原主査
そうすると,「モデルカリキュラム」と言わないで,「標準的な内容」と言った方がよろしいでしょうか。
○杉戸副主査
はい,私としては先ほど岩見委員がおっしゃったようにあいまいさを生じるとすれば,その「標準的な」という言葉をあえて使った方が良いと思います。この「標準的な」という言葉はその後で出てくるんですね,地域の特性とか目標に応じて適切な形で修正されるべきその基になるようなものを「標準的な」と言っているというくだりがあるのです。
そこを踏まえた言葉だということが安心できると私は思うので……ということです。
○西原主査
「それを踏まえた標準的な内容の開発」ですか。
○杉戸副主査
はい。
○西原主査
それで大丈夫ですか,文言として「カリキュラム」という言葉は教育界ではどの程度共有されていますか。
○佐藤委員
教育課程のことを「カリキュラム」という場合もありますけれども,非常に広く取られていて学習経験の総体みたいなものを「カリキュラム」と言うわけですね。子供たちの学習経験そのものと言ったりもします。学習経験を組織立てていくので,当然目標が入り,内容があり,方法があり,評価もあるというのを「カリキュラム」と言います。そうすると標準的な内容・方法だけでは不十分であるだろうし,目標もあるだろうしという議論になる。モデルカリキュラムを開発するということはそういう行動指針みたいなもの,こういうことをやってほしい,できるようになってほしいということを言わんとしているのではないでしょうか。
それが一つの目標であるとするのであれば,こういう内容等をこういう方法でこういう教材を使いながら,そしてそれをその人たちが実際にそれができるようになったかを評価し,あるいはそれがうまく循環しているかどうかをフィードバックしながら,もう一回それを返すような一連のプロセスを普通は呼ぶのだろうと思うのです。つまりそういうことをこれでやろうとするのか。そうすると,配布資料2の「? 今後の課題」の「1」と「2」というのは何か同じことを繰り返しているような感じですね。それを具体化したものが教材というふうになってしまうのかですね。
○西原主査
教材とこれは「・」がついて「教材・指導法」になりましたので,配布資料2の「? 今後の課題」の「2」はかなり具体的な内容になっていると思うのですけれども,「1」を「カリキュラム」と呼ぶことはできないでしょうか。
○佐藤委員
いや,「カリキュラム開発」というのはよろしいと思います。これはこれで分からなくはないとは思いますけれども,それが「モデル」なのかどうかというのはちょっとまた別の議論かもしれません。
○西原主査
「モデル」を入れないで,「それを踏まえたカリキュラムの開発」としてはいかがでしょう。
○加藤委員
「モデル」という文言を入れた方がいいと思います。これが唯一のものではないと私は思っていますので,ここでのカリキュラムは何がコアかちょっと分かりませんが,「生活者」と言われる人たちにとっての必要最低限の内容だろうと思います。そういう意味の一番最低限のところを,まず示し,それに付随する教材を示すということではないでしょうか。
○西原主査
その「モデル」というのを「標準的な」と言い換えてもいいのでしょうか。
中神委員が地域の方にここで作成するカリキュラムの活用を呼び掛けるとき,「モデル」という文言について,どう思われますか。
○中神委員
実は今の関係もございまして,前回示していただきました全体の構成案を地元の実際に教えている方にお見せしたところ,私どもとしては実は制度論に関心があったのですけれども,実際に教えている方はこの内容,別紙の表を見まして,「これ,どうやって使うんですか」と,いわゆる内容に関心がございました。限られた時間の中でどうすれば効果的に教えられるかということを,一応既存の教科書を使っているのですが,毎回これでいいのかどうか,何がベストかということをずっと考えているということでした。
聞きますとかなりの方が既存のテキストを使っているのですけれども,どうも次第に自分でテキストを作り出してくる例が多いらしいのです。結局,よりいいものを作っていく際の基準が欲しいということを言っていました。別紙の表はかなり細かく書いてありますから,恐らくこういったものを参照して次にカリキュラムを作る,それから教材を作るという話になってきますと,かなり期待も大きいのかなという気はするのです。半面今市販されている教材は山のようにございます。そういった教材を使っていますので,さらにその上を行くと言っては大げさなんですけれども,ある程度スタンダードになるようなものを作るとなると,これも大変かなという気はします。もちろん,方法としてはこういうことかと思うのですが。
ここで一点だけ。モデル教材のイメージについてですが,今回生活全般にわたる目標と内容を検討していますが,これを見た場合に,次回は全体をカバーするような教材が出てくるんだというように思ってしまいます。多分それは誤解だと思うのですけれども,そんな期待を余り持つようなことがあると,大変かなという気がしまして,今,事務局が考えているモデル教材というのはどの程度のものなのでしょうか。
○日本語教育専門職
まず,その地域,またその学習者によって,こちらの別紙に掲げた内容をすべて学ばなければならないかと言うと必ずしもそうではありません。先ほど山田委員の方からも御指摘がありましたが,1から10まで学べばいいというものを端的には示せないというふうに私は思います。それぞれ学習者に合わせてこの中から必要なものを選んで内容を作ってゆく以外にはないと思います。とはいっても何も無しにやってくださいというのでは現場の方は,「ちょっと無責任じゃないか」というふうに思うだろうと考えたときにある学習者を想定しつつ,その学習者に適当なカリキュラムは,例えばこうですよといったイメージをモデルカリキュラムとして示せるのかなと思います。今申し上げたのはむしろ教材に近いところの話ですが,その前提となるカリキュラムを考えています。
○岩見委員
教材にもいろいろありますので,辞書的なのとか絵つき辞典でちょっと会話の付いたものとか網羅的に「生活上の行為」が示され,非常にカラフルで学習したくなるようなというものとかいろんな形の教材が考えられると思うのですが,それはまだこれから考えるわけですよね。でも,各地域でそれぞれの特性において,またそこで作れるような材料も提供すると,そういうようなことができるといいと思います。  ところで,「モデル」という言葉はどうなりますか。
○西原主査
佐藤委員もかかわっていらっしゃいましたが,1990年代に日系人の子弟たちが入ってきたときに文部科学省が子供向けの日本語教科書を作ったのです。「日本語を学ぼう」シリーズ1,2,3というものなのですけれども,それは世の中よりはかなり先行して場面シラバスを取り入れた教材でした。学校生活の場面で文型積み上げでない教科書と言われているモデルを作ったのです。そうしたら専門家は評価してくれたのですけれども,実際に教える日本語の先生たちには大不評で,「もう駄目,これは絶対使えない」「一体これはどうしたらいいんでしょう」という評判で研修を繰り返したというようなことがありました。しかし,10年たってみましたら新しく出てくる教科書のたぐいはみんなそのパターンになってきたのです。10年掛かったんですね。
ですから作成した教材に対する反応には,かなり覚悟した方がいいんじゃないかと思います。また別の話ですけれども,「小学校の英語」というアクティビティー例みたいなものを文部科学省が作ったのですけれども,これも専門家は評価しています。しかし,現場は「何,これ」と言っていますよね。というようなことがあって,まあ,しょうがない。専門家がうなるようなものをまず作るしかないのかなと。
○岩見委員
いや,でも学習者が学習したくなるというのが一番の基本にないと駄目ですよね,支援者が使いやすいことが優先されては本末転倒になろうかと思います。
○西原主査
それはそうです。上で申したのは,子供たちの反応を受けての先生方の声です。
○山田委員
場面シラバスの教材は日本に在住する学習者に一番合っていて,これはいいんじゃないのというふうにうなったというそういうことですよ。
○西原主査
そういうことです。
○中野委員
全体の流れなんですけれども,配布資料2の6ページの真ん中辺りでこの小委員会は日本語教育の目標,それから標準的内容までは審議を行ったけれども,方法は次の課題として残すとありますよね。ですから,大ざっぱな流れとしては目標,内容まで来て,次は方法だという流れがありますよね。ですので「? 今後の課題」の一番は日本語教育の方法の開発というか,方法の検討というのが自然のような気がするんですね。その方法というのは少し大きな意味を含んでいるのですけれども,その方法の中にカリキュラムとか教材リソースとか指導方法とか,そういうものが一体化しているのではないかなと。そしてもう一つが今度は評価というものが課題として残るという整理の仕方の方が分かりやすいかなと思います。
それと「? 今後の課題」の直前にある別紙の表の有効性ですね。この数行は確かにこの表は何に役立つのかというのは入れたいという意図は先ほど御説明があったのですけれども,何かちょっと先取りをしているところがあると思うんですね。カリキュラムとかまだ何も言っていないのにカリキュラムやシラバスに使えるとかって,この中では何も言っていないのに出てくるので,別紙の表がすぐに何かの役に立つというよりも,もうちょっと後になって皆さんの役に立つのでしょうから,あえてこの4行は入れる必要はないのかなと思います。つまり飽くまでも参考例であるというかそこで止めて,そして「今度の課題」というふうに入れば何か自然なように私は思うのです。
○西原主査
そのつながりが私も大変気になって先ほどからそういうふうに申し上げているのですけれども,そうすると中野委員としては「? 今後の課題」の前振りのところにその部分を入れたらいいんじゃないかということですね。
○中野委員
そうですね,あるいは別紙の表の有効性を今ここで言わなくても,ともかく今内容の大枠を提示しましたというところで,まず終わって,そして「今後の課題」は方法ですとする。で,方法の中にカリキュラムとかシラバスの話が出てくるわけですよね。
○西原主査
ただ,内容は完結したものではありませんので,内容の再検討,つまりこれは飽くまでも生活上の行為の表ということになっているので,そこから何か学ぶべきものを作り出していくという作業が「今後の課題」ということになりますね。
○中野委員
内容の更なる検討というのはもちろん一つですね。
○西原主査

そうですね,そうしますとここのつながりがいきなり「今後の課題」に行っちゃうと,何かこう流れていかないんじゃないかというのが私の心配なんですけれども。
○中野委員
そうですね,ですから「今後の課題」の冒頭にもう一度内容の大枠は提示したけれども,「今後の課題」としてこの内容,方法,評価というものが検討される必要があるというような前文を挿入してはいかがかなとちょっと思いました。
○西原主査
そういう方法でももちろんつながりますよね。
○尾﨑委員
配布資料2の「? 今後の課題」の「3」に「日本語能力及び日本語指導力に関する評価」というのがあって,指導力を客観的に評価するための評価規準とありますが,この評価は何のための評価を想定しているのでしょう。宿題としてはコーディネーターという言葉が出てくるんですね。それから「専門家がかかわって」というのも出てくるのです。ところが先ほどの中神委員のお話なんかを伺っていても,私たちみんな分かっているのですけれども現場で教えているのはかなりの人がいわゆるボランティアと呼ばれている人たちです。それをボランティアではなくて指導者というふうにここでは用語で使っていますね。国は指導者の指導者を養成するのだと,そして一番最後に日本語指導者の指導力を客観的に評価するというと,普通はこれを素直に読めば一般市民がボランティアとして活動にかかわってきている,その人たちの指導力を客観的に評価するという意味になります。そうすると,何のために評価するのかなというのが気になるんですね。外国の方の日本語能力を評価するというときには,その評価をどう使うかは多分お使いになる立場がいろいろあって,でも御本人も評価してもらった方がやっぱりいいのだという方向に進みたいということがあるので,ここは全く問題はないのですが,「指導者の指導力を客観的に評価する」というような検討課題をこの「?」に入れることになったのはなぜだったのか,今年度の審議を振り返ってもよく思い出せないんです。ここはちょっと確認しておいた方がいいかなと思います。
○西原主査
長期的展望に立って,この3行ができたということですよね。日本語教育能力検定試験の内容が変わりつつあって,そしてそこの内容が変わりつつあることと連動して日本語指導者の指導力ということの再検討が一方で動いています。そのことを考えると,だからボランティアであれ,だれであれ,先ほどの国籍であれではないけれども,かかわる人がどういうふうにかかわっていったら良いかということも評価の対象にしていかないといけないでしょうという予告だと思うのです。来年度それができるかということではないので,パラグラフとしては二つあるべきものが一つになっているということですね。多分尾﨑委員の御懸念はそこまでいきなりここに書いてしまうのは,ちょっとやり過ぎではないかという御意見だと思うのです。
○山田委員
私は逆なんですけれども,指導者というのは明らかにプロの実務家だというふうに思います。だから評価をしてもらうことが自分の今後の活動につながって有り難いという意味で,これはボランティアというのは何を指すかというのも定義しなければいけないと思うのですが,今までのようなボランティアがここで活動をしてもらうことではないというふうに私は思うんですよね。
ボランティアは別な意味でもっと相互にかかわりながら一緒に学ぶ存在であって,それはもう一つの十分に大切な役割だと思うのでそれはそれでやるのですが,「生活者としての外国人」にとって必要な場面というようなものがあって,これらを身に付けることで社会参加できる,そこまでするというのであればこれはプロの仕事であって,専門家が当たるべき内容で,その専門家がお金をもらわないというのだったら,それはそれでもいいかもしれないけれども,専門家である必要はあると思う。だから評価があって当然しかるべきだというふうに私は思うのです。
○加藤委員
私はそういったところにこの日本語教育小委員会で議論すべき根本的な課題があるのではないかと思います。これからもっと「生活者としての外国人」というのは増えていく状況で,いわゆる定義はまだですけれどもボランティアという人に頼っていていいのかという課題があります。もっとプロとして専門家としてかかわる際のこういったカリキュラムを作り,モデルを作り,確かにこの3行で言うことには飛躍があるかもしれませんけれども,そこには当然専門家として受けるべき評価というのがあって完結するのではないかと思います。
○西原主査
ですから,学習達成目標が達成されているかということについての達成度を評価する評価規準というのが一つ立ちますよね,これはいいわけですね。そして日本語指導者の指導力の評価が突然すぎて誤解を生むというのであれば,それはなお書きするのでしょうか。それともただし書きするのですか,「同時」にというようなことでつなぐのでしょうか,「及び」ではなくて。
○杉戸副主査
二つ並べるなら「及び」とあっても「なお」であっても同じ効果になると思います。
○西原主査
二つのパラグラフにしてはいかがでしょうか。
○杉戸副主査
はい,少し弱めることはできるだろうと思います。
○西原主査
国がお金を出したり,自治体がお金を出したりということで成り立つような日本語支援事業であれば,事業のそのものが評価されなければならないのは当然ですよね。
○尾﨑委員
例えば10回なら10回,講師料を行政が払って,10人なら10人の外国の方に10回授業をやった。で,10回やったら外国の方がどのくらい日本語がどこか伸びるか,そしていろんな意味で良かったというふうに評価されるということがなければ,お金をただつぎ込んで済むというわけではないですよね。
そのこと自体は問題ないのですけれども,そこにかかわった指導者と呼ばれる人が,その結果を背負うようなシステムに持って行くのか。もしそうだとすれば今学校教育であれ何であれ,すべてそうですけれども,大学の教員にしてもそうですし,大学で日本語教育をやっている人間にしてもすべてこういうような評価システムというのが入らなければいけないのですよね。そういうのは現実にはないわけで,それをやることは非常に難しい問題をはらんでいるということがあります。
○西原主査
そうです。ただ,その評価というのは今本当に我々の生活を律し始めている,だれであっても。
○尾﨑委員
律し始めているのですけれども,少なくとも大学であったり日本語学校であれば既に給料をもらって仕事をしているのだから,その教員がどれだけの仕事ができるかということを評価するというのは当たり前だと思うのです。それもまだ実はできていないときに,どうして地域のボランティアの方がかかわって実施しているところにそのような仕組みを持ち込むのか。こういう制度を持ち込むことによって有償で責任を持ってやれる人とそうではない形で貢献する人たちを分けて,もっと体制を整備していこうというのが山田委員の発言の趣旨だと思うし,加藤委員もやっぱりきちっとお金をもらってやるような方向に行かなければいけないと言う。その考えには全く賛成なんです。
しかし,それを保障するようなものがどこにもなくて,確かにここにいろいろ国,すなわち文化庁はこういうことをやる必要があるとずっと書いてありますけれども,それがどうなるかという保証もないときに,指導者の指導力を客観的に評価するようなものを作る会議にだれがどうやってかかわって,何を議論するのかなというのは非常に興味があります。ですからやってみるのはいいと思うのですけれども,私自身はそういうことを思いつつ,これを見ていたということなんです。
○西原主査
いかがでしょうか。一つのチョイスは,今回は指導者の指導力というところまでは書かないでおくということも考えられますが。
○尾﨑委員
そんな文言がどこかに入っていましたよね,違いますか。だからそれはそれでもう進んでいるのだったらこれで結構ですけれども。
○日本語教育専門官
指導力の評価方法については国の担うべき役割であるというのは,今期の前半で御審議いただいたまとめの中に既に入っておりますから。
○尾﨑委員
指導力というのが記憶になかったんですよね。
○日本語教育専門官
2ページの「?」の「1 各機関の役割分担」の「(1)国の担うべき役割」の上から二つ目の○のところです。
○尾﨑委員
明確に入っているんですね。もとに戻しますけれども,一番最後に出ている「指導力を客観的に評価する」というこのことについて何のためかなという疑問を持ったり,それをやるということがどういうことなのかなということを私自身が疑問に思っていたのですけれども,ここに出てくる経緯があったということは分かりますので,これを落とせという主張はしません。
○西原主査
もう少し書き加えたらいいのかもしれません。つまり日本語能力の審査規準と日本語指導力の審査規準は,二つの違う評価規準なのだということをはっきりさせることが必要なのかもしれませんね。
○佐藤委員
配布資料2の「? 今後の課題」の「1」,「2」は前述のモデルカリキュラムの辺りですね。教材や指導法の作成といったときに,地域の実態に応じてそれをきちっと構想できる力というのは指導者にはどうしても必要なんですね。というのはJSLのカリキュラムを作成した時の反省があるんです。つまりJSLカリキュラムでは,カリキュラム概念を根本的に変えたんですね。ある特定の内容をきちっと配列してお示しをするのではなくて,実は事業を構想する力を指導者に求めたわけです。であるがゆえに研修というものと一体化したものとして我々は提案してきたのです。けれども,それが切り離されてしまって,つまり指導者の実践的力量をどう高めていくのかという議論がないままに示されてしまうので使えないというようになってしまうわけですね。これも同じだと思うのです。ですから指導者を客観的に評価するための規準というのは,その実践力を高める上で一体どういう力が必要なのか,そのためにはどうすれば良いかという議論をここですべきなんです。
○西原主査
そこまで踏み込んで書く必要がありますね。
○佐藤委員
と思います。つまり配布資料2「? 今後の課題」の「1」,「2」を現実のものにしていくためにはこれと連動させないと非常に難しいというふうに思うのです。
○中野委員
一つだけちょっと気になっているのは「日本語コミュニケーション能力」という言葉なんです。この小委員会の大前提は6ページにありますけれども,「生活場面と密着したコミュニケーション活動を可能とする能力」,これは当然文化的要素がかなり入るはずですよね。でも何か「日本語コミュニケーション能力」という言葉,あるいは6ページの「1」の直前にある前述の「「生活者としての外国人」が,その「生活」のために必要な日本語能力」という,ここはせめて「日本語コミュニケーション能力」と直した方がいいと思うのですけれども,「日本語コミュニケーション能力」というのは当然文化的要素を含んでいるという前提で読めばいいのですか。
○西原主査
そうですね,つまり生活上の行為を行うための,日本語で行うためのコミュニケーション能力というふうになっていると思うのです。
○中野委員
そうですね,ですから決して日本語ができればいいというものではないということです。
○西原主査
日本の文化が生活から切り離されて言葉そのものとして独り歩きするのではないということですね。
○中野委員
はい,そうです。ただ,聞き取り調査の中に日本語だけを教えればいいという例もあったと思うんですね。
○西原主査
それは私も非常に危惧しますので,だからこそこういうものを具体例とともに示す必要があって,かつこれが教育につながっていくでしょうということを次期に私たちは言って見せなければいけないですよね。
○中野委員
そうですね,一般の方が読んだときに何か日本語だけというふうにとられないようにですね。
○岩見委員
ほかに,ちょっと文章としておかしいなと思うのが2か所あるのです。「? 今後の課題」の9ページの「1」の第2段落に「今後,」で始まるところがありますね。そこの「単に行為としてできるようにする必要があるものなのか,又は,そのために日本語コミュニケーション能力を身に付ける必要があるものなのか」というところです。
○西原主査
二者択一ではないですね。
○岩見委員
ではないですよね,ここの文章がちょっと変じゃないかと思いますね。行為を達成できるようにするためのコミュニケーション能力を,やはり分析した上で,そのカリキュラムの中に入れていく必要があり,二者択一のものではないというふうに思います。それが一点。
○西原主査
そうするとこれは知識の問題というふうに書き換えていった方がよろしいですか。
○岩見委員
いや,今後その生活上の行為を達成するための日本語コミュニケーション能力の分析について,さらに検討を進めていく必要があるとか,そういったような文の方がいいのかなというふうに思います。
それからもう一点は次の「例えば」のところで,「言語としての日本語の内容をどのように位置付けるかを検討するとともに」と,何か言語だけが浮かび上がってきてしまっているようで,狭義の言語の文法とか言語要素のみならず行為の達成のための必要な能力をもう少し検討するというような,コミュニケーション能力の検討とおっしゃったけれども,そういうような広い検討が書かれているべきかなと思います。
○西原主査
以上でよろしいでしょうか。
「はじめに」の部分について,内容そのものについてはよろしいでしょうか。何か御意見がございましたら早急に御意見を事務局の方にお寄せくださいますように,よろしくお願いいたします。
今提言されました内容につきましては,御意見を反映させて次回会議の前に委員のみなさんに郵送できるようにお願いします。それでは,委員の方々の御意見が事務局に更に届くということをお願いいたしまして,今日の会議は終了いたします。
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