資料5
高松塚古墳壁画の劣化原因に関する検討の経過の概要(骨子)
1.物の劣化に関する基本的な理解について
(1)基本的な考え方
- 生体を除くあらゆる物質の変化は不可逆な過程で生ずるものである。不可逆過程における文化財の劣化を定量的に把握することが必要である。
(2)高松塚古墳壁画の場合
- 現在の視点からみれば,壁画発見当時の劣化状態の把握・認識は不十分であったと考えられる。
- 壁画発見時には,築造当時と比べ,既にかなり劣化していた。
2.高松塚古墳壁画の劣化・損傷の具体的な内容について
(1)漆喰層・石材の劣化
- 壁画発見以降のさらなる粗鬆化等
- 暗色化(漆喰の強化に用いた接着剤との関係)
- カビの痕跡とみられる汚れ
(2)壁画(顔料・描線等)の劣化
- 黒線・赤線の薄れ(白虎,青龍等)
- 表面の汚れと荒れ(玄武等)
- 漆喰の剥落(東壁男子群像等)
(3)壁画の損傷
- 西壁男子群像の損傷事故(平成14年)
- 東壁女子群像の損傷事故(平成20年)
3.高松塚古墳発見時の状況について
- 昭和47年7月の『高松塚古墳応急保存対策調査会中間報告』によれば,「東西両壁では,南に高く,北側に低く,楔形に,損傷と汚染が生じている。とくに顕著なところでは,酒粕状に石灰層が剥離している」等の記載がある。
- 昭和48年3月の『高松塚古墳壁画調査報告書』によれば,「天井と側壁の切石の接合部分の一部から下辺にかけて鉄分を含んだ水の滲出による赤褐色の汚染があり,このため東西両壁の男子群像および青龍の一部が著しく不鮮明となっている」等の記載がある。
- 昭和52年5月の『国宝・高松塚古墳壁画修理報告書(中間報告)』によれば,「漆喰層の表層が浮き上り,表層と共に剥落する恐れのある部分がある」等の記載がある。
- 壁画発見時から,壁面は築造当時と比べかなり劣化していたと考えられる。
4.温湿度等の環境変動について
(1)高松塚古墳石室内の温湿度について
- 石室内温度は,外気温と比較して3〜4ヶ月遅れて連動している。昭和55年頃から外気温が1℃程度上昇している。
- 石室内温度の上昇勾配は外気温の上昇勾配よりも大きいことが判明した。その要因として旧保存施設のパネル系施設に何らかの問題があったのではないか。
- 石室内の相対湿度はほぼ100%程度であり,石室内に人が立ち入ると90%程度に低下した。
(2)石室内の温湿度と壁面の劣化との関係
- 温湿度は,壁面の劣化に直接の影響は少ないと思われるが,壁面に付着したカビやゲル等の生育環境に影響を及ぼしたものと考えられる。温度の上昇はカビ等の生育環境を良好にし,湿度が高いことによってカビ等の恒常的な生育環境をつくり出すこととなった。
5.地震等の石室への影響について
平成16年度(平成16年10月〜平成17年3月)及び平成18・19年度(平成18年10月〜平成19年9月)に発掘調査が行われた。これら発掘調査において判明した調査成果のうち,壁画の劣化に深く関わると考えられる成果は以下のとおりである。
(1)平成16年度発掘調査の主な調査成果
- 地震に伴う墳丘の亀裂や断層が多数発見され,これまで版築の堰板痕跡と想定されてきた(昭和47・49年発見)墓道部の溝状遺構(土層陥没)も,地震による断層と推定できるようになった。これらの地震痕跡は,過去に周期的に発生した南海地震等の痕跡と見られ,地震に伴う亀裂や断層が墳丘の各所に存在する可能性が高いものと考えられる。
- 墳丘部にはモチノキの木株が3カ所に存在し,現在も墳丘内に深く根を張る。植物は,軟質土の充てんされた地震痕跡の亀裂にそって,根を張る状況が確認されており,こうした亀裂が雨水の浸透や,石室内への虫の侵入経路となっている可能性が高いものと考えられる。など
(2)平成18・19年度発掘調査の主な調査結果
- 墳丘の損傷が具体的に確認された。地震による版築層の亀裂(南海地震等の影響),石室石材間の隙間 など
- 墳丘版築の亀裂,石室石材隙間等で生物被害が確認された。 墳丘版築層内の亀裂と草木根,石室周囲から発見されたムシ,旧調査区・取合部のカビ,石室外面で確認したカビ,石室石材接合面のカビ など
6.カビ等の微生物被害について
(1)基本的な考え方
- 高松塚古墳の「現地保存」は,ほぼ100%RHの高湿度条件での保存が前提であり,微生物対策は,高湿度のもと,自然の均衡を保つという方針で行われた。
- 均衡は,きわめて微妙なバランスのうえに立っているものであり,一度崩れると,カビなどの微生物が直ちに繁殖する。
(2)主なカビ等の微生物被害に対してとられた措置
- 細菌対策としては,昭和47年より石室内作業終了時に,パラフォルムアルデヒドを布置した。
- 昭和53年頃から石室内に布置したパラフォルムアルデヒドが結露水によって溶け,気化しない状況となった。これに呼応するかのようにカビの発生量が増加傾向を示した。
- 昭和55年には,樹脂溶液を注入した箇所,剥落止めに用いたうす紙にもカビは発生した。これらのカビに対する処置としては,ホルマリンとエタノールの溶液で滅菌したが,この処置部分に白色粒上のカビが発生したので,トリクロルエチレンで除去した。
- 昭和56年以降は,石室内でパラフォルムアルデヒド燻蒸を実施した。
- 平成13年の取合部に大量に発生したカビ被害については,消毒用エタノール,パラフォルムアルデヒド燻蒸などを実施した。
- 平成13年以降は,エタノール及びパラフォルムアルデヒド燻蒸を行い,平成17年には,これに併せてイソプロパノールを使用した。
7.保存管理上の諸問題について
(1)旧保存施設による制御
(1)旧保存施設
- 旧保存施設は,昭和51年3月に,修理・点検等の石室内作業を安定的環境の下で行うために設置されたものである。作業者が石室内に出入りする際,外気の影響が石室内に及ぶことを出来る限り少なくするため,3つの前室を経て石室入口に到達する構造となっている。
- この施設の機能は,前室の温度を石室周辺の土中温度と調和させるため,銅管パネルに常時温水(冷水)を流す「パネル系」と,前室に入室する場合に石室と同じ温度の風を前室に送風する「空調機制御系」の2系統の空調設備で保存環境を維持しようとしていた。
(2)旧保存施設の不具合
- 旧保存施設の稼働時からパネル系の不具合が指摘されており,改善策の必要性が指摘されていた。
- また,制御の基準としている温度センサーが,石室より外界の影響を受けやすい取合部土中の浅い場所に埋められているため,より深い位置に埋め直すよう,指摘を受けていた(昭和62年:高松塚古墳壁画−保存と管理−)が,改善が図られてこなかった。
- 石室内温度の上昇勾配は外気温の上昇勾配よりも大きいことが判明した。その要因として旧保存施設のパネル系施設に何らかの問題があったのではないか。
(2)石室内の人の出入りの状況
- 人の出入りが多い時期とカビ等の被害の時期は重なっている。
- 最初のピークとしては,昭和50年代の第1次〜第3次の修理時,次のピークは,平成13年9月から石室解体まで続くカビ処置等の生物対策時である。
(3)漆喰の強化に用いた接着剤による影響
- 昭和48年から昭和50年代にかけて,高松塚古墳壁画の剥落止め処置を実施した。漆喰の強化に用いた接着剤は,アクリル樹脂「パラロイドB72」である。
- この樹脂は,当時の壁画保存の世界的権威であった,イタリア中央修復研究所パウロ・モーラ氏から漆喰層の修理に有効との助言を得て使用されていたものである(昭和52年)。
- このアクリル樹脂を使用して剥落止めした箇所には,カビ等の生物被害が生じており,少なくとも昭和55年前半から現場ではこれらに相関関係がある可能性が意識されていた。
(アクリル樹脂「パラロイドB72」のカビへの影響)
- 遺構や壁画の強化,剥落止め等において樹脂を使用することがあるが,多湿な環境におかれている日本の文化財の場合,処置後にカビの被害が問題になる場合がある。
- 「パラロイドB72」等の樹脂を対象としたカビ抵抗性試験によれば,「パラロイドB72」については,概ねカビ発生との因果関係を示唆する結果が得られている。
- ただし,「パラロイドB72」の成分に直接微生物の栄養分になるものが含まれているわけではなく,カビが生える理由は必ずしも明らかではない。可能性として,不純物の影響,また,カビが樹脂そのものを資化(微生物の体内に取り込んで体の一部とすること)すること,樹脂表面の水分がカビに利用されやすい状態にあること等が考えられる。
(4)取合部天井の崩落止め工事
(1)取合部天井の崩落止め工事
- 昭和59年頃から,取合部天井の崩落に関する記録が,当時の写真や日誌等に残されている。
- 崩落止めの工事は平成13年2月から3月にかけて実施されたが,その工事では,カビ対策を適切に施さなかった。
- 工事直後(平成13年3月)に取合部に大量のカビが発生した。
※ 取合部(とりあいぶ)とは,石室と旧保存施設の間にある取り付け部分の空間のこと。
(2)取合部工事と取合部のカビの相関
- 直接の因果関係の立証は困難であるが,工事がきっかけとなった可能性が高いと推測される。
- その根拠としては,
- わずかな期間で大量のカビが発生したこと
- 発生要因として,工事方法,温湿度,外気,作業者等による環境変化が考えられること
- 平成13年に大量に発生したカビは,既に同環境内に定着した常在カビの可能性が高い。
(3)取合部のカビと石室内のカビの相関
- 平成13年当時,取合部に発生したカビが培養株として現存しないか,現存しても僅少のため,広範囲の詳細かつ高い精度の比較検討ができない。また,その当時はカビの種レベルの菌類相の比較という視点での調査が行われていないため,直接の因果関係の立証は困難であるが,以下の状況や可能性を指摘することができる。
- その根拠としては,
- 平成13年3月当時のカビの分類(属レベルの同定結果)をみる限り,取合部で大発生したカビは,例年石室で検出されるものとほぼ同様のものが多かったが,平成13年以前の数年の間には石室内で認められなかったカビなども含まれていた。また,平成13年9月と12月の石室内に発生したカビの調査では,石室と取合部のカビの構成(菌類相の属レベルでの構成)に大きな違いはみられなかった。
- 石室解体に伴う発掘調査の結果等から,石室は完全に密閉されている状態ではなく,外部の亀裂などからカビの「運び屋」となりうるダニやムシなどが容易に石室内へ移動できる可能性が高いことが明らかになった。 など
(5)壁画の損傷事故
(1)西壁男子群像の損傷事故
- 平成14年1月に室内灯の接触等によって石室西壁の男子群像下方部及び同群像胸部に損傷事故が発生した。
(2)東壁女子群像の損傷事故
- 平成20年11月に東壁女子群像について可視分光分析を行った際,機器の先端が誤って壁面に接触し,壁面の損傷事故が発生した。
(6)壁画の劣化に関する諸要因に係る当時のチェック体制
8.国内の装飾古墳の保存管理について
- 我が国には,高松塚古墳・キトラ古墳以外に,約600基の装飾古墳と呼ばれる一連の壁画を持つ古墳が存在する。これらには,高松塚古墳・キトラ古墳と所在する地域や築造年代等において異なる点があるものの,保存管理の観点からは,一体的に議論すべき点も多い。
- 装飾古墳は,?主体部等に保存施設を設置,?覆屋を設置,?開口部・入口等に扉等を設置する等の方法で保存している。
- 装飾古墳は,壁画(装飾部)は常時公開から非公開まで千差万別の公開方法である。
9.海外の壁画の状況について
- イタリアの古墳壁画の修復・保存について
- フランスのラスコー洞窟壁画の保存について