基調講演

基調講演「日本と韓国の文化交流体験の醍醐味」

基調講演
「日本と韓国の文化交流体験の醍醐味」
講演者:平田 オリザ(劇作家・演出家)

司会(中野) それでは,早速プログラムを進めてまいりたいと思います。
 まず最初に,「日本と韓国の文化交流体験の醍醐味」というテーマで平田オリザ先生から御講演をいただきます。
 ここで平田先生の御紹介をさせていただきます。
 平田オリザ先生は,国際基督教大学教養学部を卒業された後,在学中に結成した劇団青年団を率いて,みずから支配人を務める“こまばアゴラ劇場”を拠点に活動する劇作家であり,そして演出家でいらっしゃいます。また,現在は桜美林大学総合文化学科で教鞭もとっていらっしゃいます。学生時代に韓国へ留学されたのを初めに,日韓国民交流記念事業「その河をこえて、五月」を韓国の劇作家と共同で執筆,演出するなど,韓国とのかかわりは深く,現在は文化庁が実施する日韓文化交流事業の芸術文化アドバイザーでもあります。自分とは異なる価値観を持った他者の存在を認識するための対話力の重要性を提唱されています。これは日本語教育にとっても非常に示唆深いもので,注目されております。
 それでは,平田先生,よろしくお願いします。

平田 よろしくお願いします。御紹介いただきました平田です。ちょっとのどのぐあいが悪いものですから,お聞き苦しいところがあるかと思いますが。
 御紹介いただいたんですが,今日はとても緊張しておりまして,要するに僕は日本語教育の専門家でもありませんし,それから,韓国は1年,大学の学部時代に留学してたので,多少は韓国語もしゃべれるんですけれども,専門家ではないものですから,ふだんの一般の方向けの講演だと,韓国はこうですとか日韓関係はこうですというふうに気楽に言えるんですが,今日はそれぞれの御専門の方がいらっしゃってるんで,大変しゃべりづらいんですけれども,できるだけぼろを出さないように1時間ほどしゃべりたいと思っております。
 ただ,この日本語教育に関しては,この1年ほどで随分いろんなところで講演に招かれたなと思っております。それはやはり日本語教育の先生方の中でも,演劇とか身体表現というものがスキルとして非常に重要だということを気付いていただいているのではないかと。あるいは,逆に言うと,僕の印象では,日本語教育の先生方というのは最初から日本語教育の教師なわけではなくて,いろんなところからなっていって日本語教育に携わってる方が非常に多いという印象があるんですね。そうすると,日本語教育に限らず,日本の語学教育の中で身体表現というのはあまり今までは重要視されてこなくて,そういったことを例えば大学で教えてもらったりということがあまりなかったと思うんですけれども,海外に行くと,当然語学を習得する段階で身体との結び付きというのは必ず出てくるわけで,そういうことを御経験なさった上で,演劇もちょっと何か生かせるんじゃないかというような関心を持っていただいてるんではないかと思います。今日はできるだけ,日韓のお話もしたいと思いますし,日本語教育のお話もしたいと思いますが,私は専門が演劇ですので,まず演劇の話を中心にしていきたいと思います。
 先の寺脇文化部長のお話を少し受け継いで話をするとすれば,演劇教育とか表現教育というのはヨーロッパが一番盛んで,特にイギリスが一番盛んなんですけれども,イギリスで盛んだ,盛んだといっても,せいぜいその歴史は5,60年,要するに戦後なんですね。なぜイギリスがそれほど表現教育を重視し始めたかというと,やはりこれは,イギリスが植民地を失っていく過程で,どんどん植民地から人が戻ってくる。それと同時に,植民地の支配層が難民のような形でどんどんイギリスに流入してくるわけです。それで,イギリスの地方都市が急速に多国籍化していくわけですね。どんどんいろんな肌の色の人が普通の田舎町に増えてくる。そのときにコミュニティが崩壊しかけるわけですよね。これはどうしようかとなったときに,表現教育あるいはスポーツなども含めた文化政策に頼らざるを得なかった。要するに,異文化を理解するには政治や経済ではなくて,スポーツなども含めた文化や芸術に,これは頼らざるを得ないわけです。
 例えば,僕の最近見たビデオでは,イギリスのある中学校ですけれども,1学年でミュージカルをつくるんですが,そのミュージカルをどうやってつくるかというと,子供たちが自分の親にどうやってイギリスに来たかっていう話を取材してくるんですね。その取材した内容を持ち寄って一つのミュージカルをつくると。そうすると,それは普通の公立中学なんですけれど,1学年で親の出身地が30か国にわたっているんですね。いろんな経緯でここに集まって,私たちは今一つのコミュニティをつくってるんですよというようなミュージカルをつくる。そういうことを小・中学校の段階から非常にたくさん行っていくことによって,異文化の理解を深めつつ,一つのコミュニティをつくっていくと。芸術,文化っていうのはそれを,今日話ししていきますけど,衝突をできるだけ回避しながらそういう作品をつくっていく能力があるんじゃないかというふうに僕は思っております。これは日本語教育においても大変重要な部分があるんじゃないかと思って,今日その話をもう一つはさせていただきたいと思っています。
 2002年にワールドカップがありまして,その関連事業で,「その河をこえて、五月」という作品をつくりました。これは,日本と韓国の本当の合同公演で,戯曲は僕と韓国の若手の女性の作家の方と2人でEメールでやりとりをしながら1本の作品をつくりました。これをどうやってつくったかを話すとそれだけで1時間かかってしまうぐらいに,もう大変,1年ぐらいかかったんです,1本の戯曲をつくるのに。当然,大体日本人同士でも二人で1本の戯曲をつくるなんてことはないですから,必ずけんかになりますので,大変な努力をしてつくりました。それから,演出も,日本側は僕が演出も兼ねたんですが,韓国側は別の男性の方が演出家として参加し,それから韓国から俳優さんが5名,日本側から6名で,舞台上には日本語と韓国語がまざって,日本で上演するときには韓国語の部分には日本語の字幕が出て,韓国で上演するときには逆になる。それは大変な大きな成果を上げまして,朝日舞台芸術賞グランプリという大きな賞いただきまして,来年再演されます。関西地区でも,恐らく神戸と,大津のびわ湖ホールで上演されると思います。是非御覧いただければと思います。
 このお芝居は,設定が,ソウルの漢河(ハンガン)という大きな川がありますね。あの河原で花見をする。韓国の方も花見はするわけですね。そこで韓国で韓国語を習っている日本人の一つの教室の生徒たちがお花見に行くと。それに,そこのクラスの先生が家族を連れてやっぱりお花見に来て,一緒にお花見をしながら,何か話が通じたり通じなかったりしながら2時間ぐらい異文化コミュニケーションの姿が描かれていくという話なんですけれども。ですから当然,日本側は,役柄としていろんな役柄が出てくるんですが,みんな片言の韓国語しかしゃべれないと。韓国側は,植民地支配の時代に教育を受けたお年寄りのお母様が,これは流暢な,ある意味で今の私たちよりも美しいような日本語をしゃべれる。これ実際に,当時で77歳のペク・ソンヒさんという人間国宝クラスの女優さんに来ていただきまして,大変なすばらしい演技をしていただきました。それから,それ以外に,韓国語学校の先生は日本人とのつき合いがあるので,別に日本語はしゃべれないけどある程度わかると。これが長男ですね。次男夫婦はほとんどしゃべれない。それから,日本側の在日韓国人で韓国語を勉強に来ていて,その恋人が出てくるんですね。その恋人は若い世代で,日本の大衆文化に興味があって日本語をちょっとしゃべれる。そんな構成になっていて,片言の日本語とか片言の韓国語とかが飛び交いながらコミュニケーションをとっていくというお芝居になっています。
 それをつくる過程でやはりいろいろおもしろいことがあったんですけれども,非常に象徴的だったのは,けいこの最初のころに,お花見のシーンなんで,三田和代さん扮する初老の主婦の方がお弁当をつくってくるんですね,お花見ですから。で,わあってあけると,卵焼きが入っていたりタコのウインナーが入ってて,日本人はみんな,ああ,懐かしいっていって喜ぶってシーンがあるわけです。ところが,韓国の方がそれ見て,まず台本を読んで,タコのウインナーって何だっていう話になって,それで,あ,そっか,タコのウインナーはないのかと思って,いや,タコのウインナーって,ウインナーをちょっときざんでいためると,こう開いてタコみたいになるんだよって言ったら,ふうんって言うんですね。あんまり反応がないんですね。それで,僕の演出助手の女の子が翌日わざわざつくってきてくれたんですね,タコのウインナーを。で,これだよって,日本人側はもう何か相当反応を期待して,これでどうだっていう感じで見せたら,また,ふうんと,「それで?」という感じなんですね。
 そのときになってやっと,ああ,確かに韓国の人はあんまりお弁当の見た目にそんなに気を配らないんだってことを思い出したんですね。僕の知り合いでお父様が日本人でお母様が韓国人という女性がいて,彼女は日本で育ったんですけれども,遠足がとても嫌いだったそうなんですね,子供のころ。それはどうしてかというと,韓国のお母さんですから,料理はとてもうまいわけです。ところが,遠足になると全然気を使ってくれなくて,おにぎり三つ並べただけで,あとたくあんという,そういうお弁当なんですね。あんまり見た目を気にしないんです。でも,よく考えてみると,あんなにお弁当の見た目を気にするのは日本だけであって,グローバルスタンダードは韓国の側にあるんですね。新婚夫婦がグリーンピースでハートマークつくったりするのは日本だけなんです。ああ,確かにそうだったなって思って,そのときになって思い出すわけですね。
 しかし,僕は20年韓国と付き合っててもこういうことはよく起こるわけです,ああ,確かにそうだっていうことが。ヨーロッパの演出家とも一緒に共同作業よくしてますけど,ヨーロッパ人とやるときには,もうちょっといろいろ最初から考えると思うんですね。これ分からないだろうな,タコのウインナーとか。ところが,韓国の方は,もちろんウインナーは食べる,それからタコも食べますね。それ分かっているわけです。だから,何となくタコのウインナーでも通じるような気になってしまうんですね。ところが,いざやってみると,あ,そっか,タコのウインナー通じないんだってことが起こるわけですね。こういうことは非常によく起こるわけです。
 御承知のように,韓国もお箸で食事をするわけですけれども,厳密に言うとお箸とスプーンで食べる。ルールとしては,お箸はおかず専門,スプーンで御飯とスープを食べるというルールになってるわけです。それから,食器は持ち上げない。大体鉄で熱いんで持ち上げられないんですけどね。日本は逆ですね。これを日本人の俳優にやらせてみると,当然プロの俳優ですからできるわけです,最初のうちは。ちゃんとスプーンで御飯食べたりとか,箸でおかず。ところが,これ,せりふと同時にやると,知らないうちに御飯持ってるんですね,持ち上げてるんです。これ難しいんです,やっぱり。無意識に出ちゃうんですね。そのときに初めて,私たちはいかにして食事をしてるかということに気が付くわけですね。ここが重要なわけです。
 恐らく,日本人がはしと茶わんで飯を食うということを認識したのは,ナイフとフォークで飯を食っている西洋人を見たときですね,130年ほど前。ああ,俺たちだけがこういうふうに食べていて,違う人もいるんだということに気がついた。でも,これはWhatなんですよね。「何を」という違いなんですね。ところが,Whatだけでは演技に結びつかないんです,演劇の場合には。Howが分からないと駄目なんですね。しかし,どのようにというのを認識するのは,同じものを使ってる人で違う行動をしてる人と接触しない限り,本当に自分たちがどのように使ってるか分からないんですね。あ,私たちはお茶わんは持ち上げてお箸で御飯を食べてるってことは,余りに当たり前過ぎて私たちは気が付かないんですね,韓国の文化に触れるまでは。逆に言うと,韓国の文化に触れるということは,私たちにそういう日本人の姿を少しだけ明瞭にさせてくれる。
 あるいは,他人の家に上がるときに日本人はくるっと靴を逆方向に向けて,帰る方向に向けて上がりますね。あれ韓国の方嫌がるんですね。お前そんなに早く帰りたいのかって思う。でも,これも靴を脱いで家に上がるという文化を共有してるからこそ起こる衝突なんですね。ヨーロッパの方とはこういう衝突自体が起こらないわけです。こういうふうに,近い文化に触れるということはとても重要なことで,そのことによって私たちはある自分たちの姿を見つけることができるわけです。
 僕は,よくいろんな演劇のワークショップをするんですけれども,そのワークショップの中の一つに,汽車の中で,列車の中でAさんとBさんが座ってて,これは知り合いなんですね。そこにCさんがやってきて,席を譲ったりしながら,旅行ですかと声をかけると。こういうものをよくやります,テキストで。これ意外と難しいんですね,日本の方がやると。高校生なんかが多いんですけど,高校生とやると,初対面なのに妙になれなれしくなって,「旅行ですかあ。」とかなっちゃったりとか,あるいはすごい緊張して,「りょ,旅行ですか。」とかなっちゃったりするんですね。それで,最初のうち,僕は何でこれがうまくいかないのか分からなかったんですね,当時。10年ほど前ですけれども,高校生と付き合いがなかったので。それで,何でうまくいかないのかなと聞いたら,非常に高校生らしい答えが返ってきて,いや,僕たちは初めて会った人と話したことがないからって言うんですね。それ誰でも最初は初対面だろうと思うんですけど,要するに他者との接触が少ないってことだと思うんですね。
 そういうふうに見ていくと,一般社会人向けのワークショップでも,相当苦手な人が多くて,ああ,これ他者と触れ合うのは苦手な人,日本人は多いんだなってことが分かってきたわけです。皆さんも,例えば中高年の男性の方でも,席の決まった宴会だといいんだけどカクテルパーティーは苦手という方多いと思うんです。せいぜい名刺出して何とか商事の何とかですと言って。あと,話題ないですから,野球の話ぐらいして,どうですかね,楽天は…って言って。話題なくなると,だんだん壁の方にみんな下がっていっちゃうわけですね。
 ああ,みんな苦手なんだなって思い出して,それ以来ちょっと聞くようになったんですけれど,ちょっと今日も聞いてみたいんですが,こういう列車自体がもう少なくなってしまいましたが,外国に行く飛行機の中とかでもいいんですけど,自分から積極的に話しかけるという方もいらっしゃると思うんですね。それから,自分からはあんまり話しかけないという方もいらっしゃると思うんですね。それから,場合によるという方もいらっしゃると思うんですけど,自分から話しかけるという方はどのぐらいいらっしゃいますか。あ,結構いますね。1割強,はい。大体関西は全国平均よりちょっと高くなります。では,自分からは話しかけないなという方はどのぐらい。ああ,これ多いですね。半分以上ですね,やはり。場合によるという方。場合による,場合によりますか。どんな場合ですか。どうぞ,はい。その……。いいですか。あんまり話しかけないタイプですね,実はね。ほかに。水谷先生,どんな場合。

水谷 迷惑そうな人……。

平田 相手に,やっぱり相手によると。

水谷 そういうときはしない。でも,何か待ってるなという……。

平田 なるほど,はい。やはり相手によると。
 そうですね,これやっぱ相手による部分が大きくて,要するに話しかけるって手挙げた人でも,相手がものすごく怖そうな人だったら,まず話しかけない。一方で,話しかけないという方に半分以上の方が手挙げたわけですが,相手が赤ん坊を抱いてたりして赤ちゃんがじゃれついてきたりしたら,これまあ何か話さないとしょうがないわけですよね。かわいいですねとか,何か言わないと,今度は自分が怖い人だと思われてしまうので話しかける。まあ,相手によると。
 同じ質問を,オーストラリアでワークショップやったときにオーストラリアの大学生や大学院生に聞いたんですけど,そのときには,どんな場合ですかって聞いたら,いきなり人種によるっていう答えが返ってきたんですね。ああ,これはやっぱりワークショップってのはいろんなとこでやってみるもんだなと思ったわけです。そりゃもう,日本で何百回とやってますけれども,日本ではそんな答え返ってこないわけですね。返ってきたらびっくりしますよね。高校生が,はい,人種によると思いますとか。残念ながら,まだ日本の高校生ではそういう答えは返ってこないわけです。ところが,オーストラリアでは人種によるって答えが返ってきて,彼らの解説によると,イギリスの上流階級の教育を受けた男性は話しかけないと言うんですね。これは,イギリスの上流階級では人から紹介されない限り他人と話してはいけないというマナーがあるので,話しかけないんだと。だからあいつらお高くとまってんだという,ちょっと偏見も入ってると思うんですけど,そういうとこがある。
 一方で,アメリカとかオーストラリアってやたら話しかけてくるわけですね。アメリカでも,東部よりも西部の方が圧倒的に話しかけてくる比率は高いです。これは開拓からの歴史が浅くて,さっきの赤ちゃんの例の逆ですね。自分が相手にとって安全な人間だってことを早く示したいという,そういう風土がまだ残っていると,これは話しかけるわけですね。
 例えば,イギリスのように固定した社会だと,これは住んでる地域とか階級によって同じ英語でも随分違いますから,イントネーションとかが。これは,話さないんじゃなくて,話しかけにくいんだと思うんですね。相手との関係が分からないと話せない。
 じゃあ,日本語はどうかというと,日本語も多少話しかけにくい言語なんだと思うんですね。日本語や韓国語というのは敬語が発達してるもんですから,相手との関係が分からないとなかなか話しかけにくいわけです。韓国語の場合は,特に日本語以上に年齢による敬語が厳しいので,厳しい人はもう一つ年上でも敬語でしゃべらなきゃいけないわけですね。これは,封建社会では別にそれで構わないわけです,相手との関係が固定してますから。ところが,私たち現代社会に生きていて,同世代で初対面の人としょっちゅう会うわけですよね。すると,困るわけです。
 韓国語の場合には,大抵会話の非常に初期段階で年齢を聞くわけですね。韓国語の場合には何歳ですかと聞かないで何年生まれですかと聞くんですけれども,大体韓国の方はそれ以外のこともすごくいろいろ聞いてくるんですけれども,必ず年齢は聞く。ところが,女性は困るんですね。女性にいきなり年齢を聞くわけにいかないので,大体僕と同世代だと,学生時代デモは大変でしたかとか,年齢を大体特定して話すと。
 皆さんも韓国にこれから行かれる方,今特にブームですから,女性の方行かれる方多いと思うんですが,韓国の男性からいきなり年齢聞かれることがあるわけですね。失礼ねと思うこともあると思うんですけど,あるいは逆に,この人ちょっと私に気があるんじゃないかしらって思うこともあると思うんです。これ誤解なさらないようにしてください。そういう文化というか,そうしないとコミュニケーションがとれないんですね。
 日本語も多少話しかけにくい部分があると。日本語の場合には,それに社会的な関係が加わりますから,要するに社会的な関係がはっきりしないと話しかけにくいって部分はあるわけですね。
 僕がよくこのことを大学の学生とか高校生に説明するときには,やっぱりまだ社会経験が少ないので,こういう話よりももっと興味を持つ方向で説明するときにはサッカーの話をよく出すんですけれども,2002年に日韓共催のワールドカップがあって,韓国チームはベスト4まで進出したわけです。大躍進を遂げた。戦前の予想では日本の方が上まで行くんじゃないかと思われてたわけですけど,韓国チームはものすごい力を発揮して上まで行ったわけですね。
 これなぜ韓国のチームが非常に躍進したかという理由の一つが,それまでは韓国のサッカー界というのは,野球もそうなんですけど,ものすごいエリート主義なもんですから,高校や大学で甲子園みたいな大会のベスト4とかベスト8に残らないと,もうその段階で団体競技であってもほとんど試合に出られなくなってしまうというような,ちょっと日本人にはよく分からないシステムになってるんですね。その結果として,野球とかサッカーのプロの選手たちっていうのは,ほとんどがすごく限られた大学や高校の出身の選手で占められているわけです。それとプロがありますから,そのどっかで必ず先輩,後輩の関係になってるんですね,代表チームの選手たちというのは。しかも,先輩,後輩で言語の使い分けは非常に厳しいと。
 そうすると,韓国語をお話しになる方は御存じだと思うんですけれども,韓国語の敬語っていうのは非常にどんどん言葉が付け加わっていくんで,どんどん長くなってしまうんですね。ですから,直訳すると,パスするときに,「先輩様,ボールをお蹴りいたします」っていうような感じになるわけです。これ本当ですよ。これ,直訳するとそうなりますよね,大体ね。それから蹴ると,まどろっこしくてしょうがない。で,間違えると殴られるわけでしょ。それで,これを初めて,オランダ人のヒディングという監督が来て,そのことを直感的に理解して,これじゃ駄目だと。少なくともフィールドの中では呼び捨てにしなさいと。対等な人間関係にしなさいと。それで実際に,選手の起用も学閥とかにとらわれない平等な起用法に変えたわけです。そこで韓国チームは,潜在能力はありましたから,一挙に日本を追い抜かしたわけですね。
 日本は,ずっと韓国よりもサッカーのレベルは低かったわけですけれども,Jリーグができて,それから三浦和良さんとか中田選手とかが外に出ていって,当然欧米ではこれ全部呼び捨てですから,選手同士は。何だ,呼び捨ての方が楽じゃないかってことを持って帰ってきて,日本の代表チームはそれより随分前からもう呼び捨てになっていたんですね。要するに,先輩,後輩の上下関係がある状況というのは,ある狭いレベルの中では非常に強い団結力を発揮するんだけれども,国際レベルの試合になるとそれではもう通用しないってことなんですね。そこで戦うためには,どうしてもフィールドの中だけは対等な人間関係をつくって,そこで戦っていかなきゃいけない。こういうふうに説明すると,少し学生も分かってくれるということなんですけど,さてちょっと話をもとに戻して,そういうわけで,私たちは話しかけるか話しかけないかでも随分人それぞれ違いますし,それから民族とか人種によっても違うと。ただ,民族や人種によってもある程度の傾向があらわれるけれど,しかし,同じ日本人でも話しかける人もいれば話しかけない人もいる。それから,日本の中でもやはり地域性が多少あって,先ほど関西は多いと言いましたけど,多少なんですけど多いんですね。
 例えば,2年ほど前にアイルランドでワークショップをやったときには,全員がいきなり話しかけるっていう方に手を挙げたんですね。そしたら,もう場合によるっていう話がまずできなくなっちゃったんです。これ僕の推測では,ダブリンというのはギネスビールの発祥の地で,パブの文化があるんですね。会社員が帰りにパブに行ってビール飲んで,大画面のサッカーを見てわあってなって,もう知らない人同士でも肩組んで話すっていう雰囲気があるんですね。実際にパブへ行くと,もういろんな人から話しかけられるんで,そういう風土があると話しかけるんじゃないかと。
 最近発見した例では,つくば市というところが茨城県にありますけど,ここ学園都市なんですが,そこで7月にワークショップをした際に,大体話しかける人は全国平均で1割ぐらいなんですね,関西はちょっと1割強ぐらいなんですけど,そのつくば市は2回やって2回とも4割ぐらいの人が話しかけるに手を挙げたんですね。実際ワークショップでも外国人の方も参加してましたし,ハーフの方も高校生とかも参加してたりして国際的な雰囲気だったんです。ああ,さすがにつくばは国際都市だなあと思ったわけですね。ところが,僕のゼミの学生で,やはりつくばの近くの出身の女の子がいて,夏休みだったんで手伝いに来てくれてたんですね。で,一緒に昼御飯食べてて,そのときにその話になったら,いや,あれはオリザさん,つくばは国際都市だから話しかけるんじゃないんです,つくばっていうのは常磐線が,田舎電車で全部ボックス席なんでついつい話しかけるようになっちゃうんですって言って,要するにいろんな要素で話しかけることが決定すると。
 こういうように,人に話しかけるか話しかけないかとか,あるいはある言葉からどんなイメージを受けるかとか,そういうものを非常に広い意味でコンテクストと呼びますね。ここでは社会言語学の方が使うよりももうちょっと広い意味で,その人がどんなつもりで言葉を使っているかということと考えていただければいいと思うんですけれども。私たち演劇をつくる者にとっては,俳優は俳優のコンテクストがあるわけです。劇作家は劇作家のコンテクストがあるわけですね。これが重なればいいんですけど,そう簡単には重ならないわけです。
 今ここでは,旅行ですかというせりふが問題になってます。「旅行ですか。」ってすごい簡単なせりふなんで,簡単に言えそうに思ってしまうんですが,いざやってみると,妙になれなれしくなったり,妙に緊張してしまったりする。理由は簡単ですね。要するに,半分以上の方は話しかけないという方に手を挙げたわけです。それはコンテクストの外側にあるということです。もっと簡単に言えば,ふだんしゃべらない言葉だということです。でも,余りに簡単な言葉なので何となく言えそうな気持ちになってしまうんですね。
 これがもっと全然違う文化的な背景のものだったら,もうちょっと気を付けると思うんですね。例えば,チェーホフさんという作家がいますね。チェーホフという作家は100年前のロシアに生きていた作家です。100年前のロシアが舞台になってますから,私たちとは全然文化的な背景の違うせりふが出てきます。例えば,「銀のサモワールでお茶を入れてよ」なんていうせりふが出てきます。この中で銀のサモワールでお茶を入れたことのある方。多分いないと,僕はまだ人生で3人しか会ったことないですね。二人はロシア人です。一人は,大阪芸大の今教授をなさってる秋浜悟先生という新劇界の大御所の先生です。昔の新劇の方はまじめで,リアリズムを追求しましたから,コンテクストの壁があると,一生懸命百科事典を調べたりとかロシア料理店に行ったりして,銀のサモワールってこんなつぼみたいな機械ですけれども,ロシア料理店とかによく飾ってあります。それを使わせていただいて,ああ,これが銀のサモワールかといって演技に反映すると。これがリアリズムの考え方ですね。私たちのようなアングラとか小劇場の出身者は,わからないせりふは早口で大声で言うってことになってますから,「銀のサモワール!」とかいってごまかすんですけど,これごまかすなりに考えてるんです。どう考えてるかというと,銀のサモワールって何だ,分かんねえな,でも観客も分かんないから適当に言っとけっていうふうに考えてるわけですね。ところが,「旅行ですか」については考えもしないんですね。
 これ何でもそうですね。例えば,ロミオとジュリエットのバルコニーのシーンがありますね。「おお,ロミオ,どうしてあなたはロミオなの」。この中でバルコニーのある家に住んでる方。いても,ちょっと手挙げにくいですよね。まして,ロミオが忍び込んで分からないようなうっそうとした庭とかに住んでる方は,多分日本語教師はしていないと思うんですね。手入れが悪くてうっそうとしてる場合はあると思うんですけど。でも,あれバルコニーじゃないと駄目なわけですね。物干し台とかじゃ駄目なわけでしょ,お父さんのパンツとか下がってたら全然駄目です。でも,日本人には分からないんです。何が分からないかというと,バルコニーのある家がどのぐらいの金持ちかが分からないんです。だって,物干し台ならどこにでもあるじゃないですか。でも,分からないんですね。分からないと演技できないんです,ジュリエットの役になったときに。この人はどのくらいの金持ちなんだろう。そして,分からないから,考えるんですね。
 チェーホフは100年前,シェークスピアは400年前,そこまで昔の話でなくても,例えばテネシー・ウィリアムズという作家がいますね。これは20世紀を代表するアメリカの劇作家ですけれども,「欲望という名の電車」という杉村春子さんの主演で大変有名になった作品がありますが,これが1950年代に紹介され始めたときに,「ボーリングに行こうよ」っていうせりふがあるんですけど,この「ボーリングに行こうよ」が分かんなかったんですね。ボーリングって何だってことになったわけです。翻訳者のところへ聞きに行ったんですね,俳優たちが。そしたら,翻訳者も,今みたいに自由にアメリカに行ける時代じゃないので,分からなくて,辞書を調べて,ボーリングっていうのはどうも鉄の玉で棒を倒す遊びらしいよって伝えたそうなんですけど,これではボーリングのコンテクストは全然分からないですよね。
 だって,なぜなら,私たち劇作家が「ボーリングに行こうよ」っていうせりふを書くってことは,ボーリングに行くという内容が大事なんじゃないんです。これはもうビリヤードでもパチンコでも何でもいいんです。だけど,ボーリングに行こうよって言い合う関係だってことをお客さんに伝えたいんですね。そのコンテクストを伝えたいわけです。しかし,ボーリング自体が分からないと,そのコンテクストは伝わらないわけですね。今皆さんは,御自身がボーリングをするしないにかかわらず,ボーリングに行こうよって言い合う関係がどんな関係かは大体イメージできますよね。だって,私たちは初対面の人に,「つかぬことをお伺いしますが,ボーリングに今日行きませんか」とは言わないわけです。それをイメージできると。それはコンテクストを共有してるということなんです。でも,ボーリングを知らないとそれは共有できない。知らないから,考えるわけですね。
 これは,コンテクストの問題というのは,先ほどのタコのウインナーも同じです。タコのウインナーがお弁当箱の中に入ってるということを劇作家が書くのは,ただ思いつきで書いてるわけではないんです。いや,厳密に言うと思いつきで書いてるんですけど,それはスキル,技術として書いてるわけです。それはどういうことかというと,この三田和代さん演じる主婦の方が,子育ても終わって,そんな主婦の方がだんなさんの赴任に付き合って,前のときにはちょっと韓国って違和感があったんだけど,今回は最後の赴任なんで付き合って,初めて韓国語を学んでみようと思って来たという役柄なんですね。そこでお弁当,そういうことを一々言葉で説明するのは下手な劇作家であって,ぱっと開いたとこにタコのウインナーがあるということで,ああ,この人子育てとかも経験してきて,ある程度生活体験のある人なんだなっていうことが無意識に観客に伝わる。これが劇作家が使うコンテクストというものなわけです。ところが,そのタコのウインナー自体を知らなければ,そのコンテクストは伝わらないわけですね。
 話をもとに戻すと,「旅行ですか」,これは気にしないわけです。でも劇作家も演出家も,当然言えるもんだと思って書いています。俳優も言えるもんだと思って言うわけですけど,うまく言えない。うまく言えないと,だんだん演出家はいらついてきますね。大体演出家っていうのは怒りっぽい人間が多いんで,「何で言えないんだよ,こんな簡単なせりふ」とか,「駄目だよ,人に話しかけるときそんなふうにしちゃあ」って言うんですけど,話しかけないんですもん,半分以上の人は。もし皆さんがチェーホフやることになって,いきなり演出家に,「駄目だよ,お前,銀のサモワールでそんなふうにお茶入れちゃ」と言われて灰皿ぶつけられても困るでしょ。「うちはティーバッグでしか入れてないんで」とか,ちょっと言うと思うんですけど,「旅行ですか」だと,言えない俳優が悪いような気になってしまうんですね。演劇というのは,本来他人が書いた言葉,コンテクストの外側にある言葉を,どうにかして自分の体から出てきたかのように言う技術なんですね。そのように振る舞う技術なんですけれども,しかし,何となくそれが完全に合致しないと自分が悪いような気になってしまうということなわけです。ここに演劇をつくる上での一つの大きな落とし穴があるわけです。
 実際のワークショップでは,これ韓国でも何度かやったことあるんですけれども,AさんとBさんが話しててCさんが入ってくるわけで,Aさんが高校生なんかで非常に話しかけにくい場合には,相手方のCさんに何か物を持ってもらう。例えば,Aさんがサッカーが好きだったらば,Cさんにサッカーの雑誌を持ってもらって,「サッカー好きなんですか」っていうふうに話しかけると,意外と高校生ぐらいでも話しかけられるようになっていくんです。そうやって,その人その人で他人に話しかけるエネルギーの度合いは違うので,どのぐらいのエネルギーで自分なら話しかけられるのかってことを自分なりに意識してもらうというのが,このワークショップの趣旨です。今日は演劇の話がメーンではないのでこのぐらいにしておきますが,そんなことをやっております。
 もう少しだけ,私たちがどのぐらい違うコンテクストで話してるかってことを考えていきたいんですけれども,そうですね,じゃ,一番はじの方。今お座りになっている物体を,ふだんは何と呼んでますか。

参加者 物体。いす。

平田 いすですね。
 いすを,いす以外で御家庭で呼んでらっしゃる方いらっしゃいますか。「ちょっとお母さん,チェア取って」とか,そういう方。ないですか。
 僕は大学で,一番大きいクラスは100人ぐらいいるんですけど,そうすると,各学年に一人ずつ,今5年目ですけど,1学年だけいなかったですけど,一人ずついす以外で呼んでる学生がいる。その学生は腰かけと呼んでいる。で,おじいさんかおばあさん一緒に住んでますかと聞くと,両方とも御存命で大家族で住んでると。大体僕の経験で言うと,75歳を超えると腰かけと呼ぶ方の数が俄然増えてくるんですね。そういう方が家族の中核にいると,その学生がどんなに若くても家の中では腰かけと呼ぶんですね。でも,これ1%なんです。1%の文化とか言語を思いやるというのはとても難しいことで,私たちはそれを腰かけと呼ぶことも知ってるし,その意味も知ってるけれども,まさか相手が腰かけと呼ぶと思って生活してないんですね。1%というのは大体どんな数字かというと,日本で言うと,在日朝鮮人,韓国人の方の人口が大体1%ぐらいですね。あるいは,琉球の文化の影響下で育った方が大体1%弱ぐらいだと思います。そういう文化を思いやるというのはとても難しいことなんですね。もちろん,いすと腰かけではそんなに衝突は起きないんです。というか,日本語同士ではそんなに衝突は起きないんですね。
 今のは年齢によるコンテクストのずれですけれども,例えば衝突の起きる例としては,せっかく関西に来てますから紹介しますと,関東と関西ではシャベルとスコップが逆なんですね。これどうです,植木鉢に土を盛るのは何ですか。

参加者 シャベル。スコップ。

平田 ああ,シャベル。どっちですか。じゃあ,聞いてみましょう,皆さんに。せっかくですから。植木鉢に土を盛るのはスコップの方。ああ,そうですね。はい,シャベルの方。シャベル,少数派ですね。
 これ,東京では逆転します。というか,ほとんどシャベルになるんです。これは,コンフリクト*1が起こる可能性がありますね。工事現場で親方にシャベル持ってこいって言われて,関西でですよ,シャベル持ってこいって言われて,東京出身の人間がこんな小っちゃいやつ持ってきたら,すごい怒鳴られると思うんです。でも,こういうことは実際の生活現場ではほとんど起きないわけです。起きないし,まあ笑って済ませられるわけですね。1回頭はたかれて終わりぐらいになるんですけど,演劇というのは,これ言葉を突き詰めていく作業なもんですから,こういう衝突が非常に起きやすいわけです。
 例えば,僕10年ほど前に高校生と一緒にお芝居をつくる仕事をしたんですけど,台本も書き下ろしたんですね。そのときに,「放課後にマクドナルドに寄っていこうよ」っていうせりふがあって,これがなかなかうまく言えないんです,ある女の子が。前後のせりふはナチュラルに言えるんだけど,そのせりふだけ言えない。何で言えないのか,それも分からなかったんですね。どうしてうまく言えないのかなって聞いたんですけど,そしたら,私は絶対マクドナルドとは言わないからこんなせりふ言えませんって言うんですね。東京の子ですから,マックと言うわけです。
 ちょっとこれも今日聞いてみたいんですけど,マクドナルドと言う方とマックと言う方と,そしてマクドと言う方がいると思うんですけど,マクドナルドとふだん言う方はどのぐらいいらっしゃいますか。ああ,結構,このぐらいいると落ちつきますね。マックはどのぐらい。マックも結構いますね。マクド。マクドはやっぱり多いですね。
 このマックとマクドは非常に若い人の言葉でも地域性が分かれる言葉で,僕はよく三重県で高校演劇の指導に行くんですけれども,伊賀上野地方と四日市だけがマクドなんですね。あとマック。あと,最近発見した例では,鳥取県は25歳以下がマックなんですね。それ以上がマクド。これは,御存じのように,鳥取っていうのは高校を卒業すると就職するにしろ大学行くにしろみんな関西に行ってたわけです。関西文化圏ですから。ところが,あそこはものすごい交通の便が悪いんで,今は,車で関西に出てくるのと飛行機で東京に行くのと負担があんまり変わんなくなっちゃったんですね。で,文化はどんどん東京から入ってくるために,ある一定年齢以下はみんなマックになっちゃったんですね。これはもう関西文化圏が東京文化に侵食されてる非常に顕著な例なんで,文化庁としても施策を考えていただきたいと思うんですけど。最近は,それ以外に,東北を中心にマクドって言う新しい地帯がまだら状に出てきています。これは僕の調査と推測では,最近出店した地帯でミスタードーナツと同時期に出店すると,ミスドにつられてマクドになるんではないかと。これはまだ学会にも発表されてない最新の,今日の講演と全く何の関係もない知識です。
 先ほどの例は,僕が高校生にコンテクストを押しつけてしまった。僕はふだんマクドナルドとしか言わないんです。でも,高校生のコンテクストではマックなんですね。だから,これはマックと書かなくてはいけなかった。ただ,こういうこともプロの演劇の世界では実はあんまり衝突にならないんです。なぜかというと,「いや,私はふだんマクドナルドとは言わないのでこんなせりふは言えません」って言ったら,その役者にはもう二度と仕事は回ってこないからです。だから,普通はこういうことはないんです。高校生だから,ああ,そうだねっていって僕はせりふ変えたわけですけれども。
 こういうことは大丈夫なんですけれども,ところが,問題は目に見えないコンテクストのずれがあるんですね。せっかく日本語の先生方が多いと思いますのでちょっとお話をすると,かつて神奈川県の腰越小学校というとこで“ねさよ廃止運動”というのがありました。これは,1960年代に東日本を席巻した非常に大きな国語運動で,「ね,さ,よ」という助詞を言わないようにしようという運動でした。「今日ね,僕さ,学校に行ったよ」っていうのを,「今日僕は学校に行きました」ときちんと言いましょうという運動だったんですね。ちょっと指導の厳しい学校だと,「ね,さ,よ」を3回使うと廊下に立たされちゃうというような非常に厳しい運動です。
 一方で,同じ1960年代に福岡県の嘉穂郡では“ね・はい運動”というのが行われていました。「はい」は何かというと,これは,九州の子供たちは大人から何か言われたときに「はい」と答えないで「うん」て答えるんですね。今沖縄なんかは大人の方でも「うん」と答えますね。これは方言なんです。方言なんですが,今恐らく一番誤解を与えやすい方言の一つなんですね。1960年代,高度経済成長の時代ですから,どんどんどんどん東京や大阪に就職していくわけですね。そのときに上司から何か言われて「うん」て答えたら,殴られますから,とにかく大人から何か言われたら「はい」と答えなさいという運動でした。「ね」は何かというと,これは「たい」や「ばい」を使わずに,とにかく「ね」を使いなさいという運動です。福岡県の嘉穂郡といってもあんまりイメージがないかもしれませんが,あの五木寛之さんの「青春の門」の舞台になったあの炭鉱町で,確かに言葉はちょっと荒い感じがするんですね。ですから,「ね」をつけとけばマイルドに,標準語っぽくなるからってことで,「ね」をつけなさいという運動です。
 これどちらもその時代には切実さがあったんだと思うんですけど,100年も前の話じゃないんですね。たかだか3,40年前に,日本の小学校の国語教育で大まじめに行われてた運動だったわけです。でも転校した子とかいたらかわいそうだと思うんですよね。よし,東京行くばい,「ね」使うばいって行って,「ね」を使ったら廊下立たされちゃうわけですから,教師に対して相当不信感を持ったと思うわけです。
 今はそんなことはないんです。僕は東京の大学で演劇を教えてますけど,今イントネーションで苦労する子供ってほとんどいないですね。
 ただ,例えば僕と同世代ぐらいで岡山出身の言語学者がいて,岡山も「ね」は使わないわけですね。「の」になりますよね。関西は「な」になると思うんです。「私な,今日な,学校行ってな」と。「ね」はもともと西日本であんまり使わない助詞なわけですね。そうすると,彼は言語学とか国語学やってたこともあって,一生懸命標準語を使おうとしたわけです。で,「ね」を連発したんですね。1週間で,あいつはおかまだってことになっちゃったんですね。要するに,「ね」というのは東日本で多く使われる助詞であると同時に,女性が多く使う助詞であるという特性を持ってるために,別におかまでも同性愛でもそれは本人の自由だからいいんですけれども,あらぬ誤解を受けない方がいいですね。また僕今「ね」を使いましたけど。私は東日本の出身なんで,ある一定頻度で「ね」を使うことに慣れているわけです。必要以上に使うと,誤解を受けるということなわけです。
 そういうふうに考えていくと,もし東日本出身の劇作家が書いて東日本出身の演出家が演出をして,西日本出身の俳優が演じているとします。ここに出てくる「ね」は誰にも説明できませんね。また僕は「ね」を使いましたけど,なぜなら,東日本の人間はこの「ね」を東日本特有の助詞だとさえ意識しないで使ってるからです。西日本の方は何となく「ね」を使うと東京弁っぽいなっていう意識をされたことはあると思いますけど,東日本の人間はまず意識しないで使ってます。でも,説明はできませんね。これ,婉曲表現の「ね」だなとか,ちょっとこれ確認の「ね」だなとか,そんなこと意識して使ってるわけじゃないわけです。一方で,西日本出身の俳優の方はふだん使わないわけですから,字面だけ戯曲上に「ね」って書いてあっても,その「ね」がどんなニュアンスの「ね」かは分からないわけです。今の若い人たちは違いますけれども。コンテクストの外側にあるわけですから,ボーリングというのが辞書を調べてどんなゲームか分かっても,そのコンテクストが分からないのと同じように,「ね」も分からないんです。それでうまく言えない。でも,東日本出身の演出家は,まさか日本人で「ね」が言えないやつはいないだろうと思ってるわけです。こんなところに原因があるとは全く思わない。
 大体演出家,さっき怒りっぽいと言いましたが,あともう一つの特徴として,どんな簡単なことでもできるだけ難しく言うっていうのが演出家の特徴なんですね,学者と演出家の特徴なんですけれども。うまく言えないと,心理の掘り下げが甘いなとか何か,戯曲の読みが浅いんじゃないのとかっていうふうに言うんですけど,そんなことじゃなくて,ただ関西出身だからこの語尾は言いにくいってだけなんですね。若い演出家の現場ほどこういうことがよく起こります。要するに,単純なコンテクストのずれが原因であるにもかかわらず,それを見抜くことができずに,心理とか本人の努力の問題,そういう精神論に転嫁してしまうわけです。
 これ,結構日本語教育においても重要なことで,要するに,日本語教育,日本語教育って言ったって,日本人の先生自体がコンテクストが少しずつ違うわけですから,当然それを一律に教えることはできないわけです。しかも,日本語というのはこの助詞とか助動詞によって話し手の気持ちを伝える部分が非常に大きいので,ある程度の基礎レベルまでは統一した教授法でいいと思うんですが,そこから先になっていくと,要するに会話がある程度上級レベルになっていくと,このコンテクストに含まれる部分というのが非常に大きくなってきますね,助詞や助動詞の。これをどう教えていくかっていうのは非常に難しいことだと思うわけです。僕は専門家ではないので,難しいだろうなとしか言いようがないんですけれども。専門家ではないのでこの解決方法は示せないんですが,どういうことかはちょっとお話しできると思うんですね。
 それどういうことかというと,要するに演劇というのは,これは演出家というのは,経験を積んでいくと,あ,この人関西出身だから多分この助詞は言いにくいんだろうなとか,あ,この人ふだん人に話しかけないんだろうなってことが直感的に分かってくるんですね。直感的に分かってきて,じゃあ,ちょっと演出の方法変えようかとか,じゃあ,ちょっと劇作家と相談して語尾を変えていこうかっていうふうになっていくわけです。要するに,経験を積んだ演出家ほど自分のコンテクストを押しつけるんではなくて,俳優のコンテクストと劇作家のコンテクストの共有できる部分を見つけて,それを広げていくというノウハウを身につけていくわけです。これは,実は日本語教育においても非常に重要なことなのではないかと。要するに,ある段階まで行くと,これは一律に教えるんではなくて,自分のまずコンテクストってものをきちんと把握して,日本人としての自分のコンテクストというものを把握して,相手のそれまで習ってきた日本語というものを把握して,そのすり合わせから共有できる部分を広げていくっていう行為が,どうしても教育の過程で必要になってくるんではないかと思います。
 私自身は,こういうコンテクストのすり合わせという演劇の手法というのは,単に日本語教育だけではなくて,あるいは教育の問題だけではなくて,日本社会とか日本の地域社会をつくっていく上でとても重要な役割を果たすんではないかというふうに思っています。どういうことかというと,どんな共同体でもコンテクストのすり合わせというものを長い時間をかけて行っているわけです。30年とか50年とかかけて,企業の中だけで通じる言葉とか,学校の中だけで通じる言葉とか,その地域で通じる方言とかができていきます。一番分かりやすい例,夫婦だと思うんですけど,夫婦というのは異なる文化,異なるコンテクストで育った二人が一緒に暮らし始めるわけですよね。ある家ではいすと呼んでて,ある家では腰かけと呼んでる二人が一緒に暮らし始める。だから,コンテクストの衝突が起こりやすいわけです。これ皆さん結婚の御経験のある方は分かると思うんですけど,もう正月のお雑煮のおもちを丸くするか四角にするかで大げんかになっちゃったりするわけですよね。
 例えば,ちょっと想像していただきたいんですが,日本では電子レンジというものを「電子レンジ」と呼ぶ家と「レンジ」と呼ぶ家と,そして「チン」と呼ぶ家があります。三つ必ずあるわけですね。新婚旅行から1週間ぐらいをちょっと想像してみてください。相手に対してもちょっと疑問に思い始めますね,この人大丈夫かなあと。そのときに,だんなさんは「チン」と呼ぶ家で育ってたと。奥さんは「レンジ」と呼ぶ家で育ってたと。たまたまおかずが冷めてて,だんなさんが,「ちょっとこれチンしてよ」と言うとしますね。と,奥さんびっくりするわけですよね。何,チンて。いやいや,そう言う家があることは知ってたけれども,まさか私の愛する人がとか,ちょっとこの人マザコンなんじゃないのとか,心配になるわけです。心配になるだけならいいんですけど,そこでくすっとか笑っちゃったりすると,もう男心はいたく傷つくわけですよね。だって,何しろその人は20数年「チン」だと思って生きてきたわけですから,コンテクストを笑われるっていうのは本当に全人格を否定されるような思いになるわけですね。これは皆さんも教師の経験がある方はお分かりになると思うんですけれども。で,新婚旅行からたまったものがあったりすると,今度,チンじゃないかよっていうふうに逆ギレして,破局に至ると。
 破局には至らないですね,普通は,愛があれば。愛があれば,それを乗り切るわけです。乗り切って20年もして,まだ旦那さんはチンと呼んでて,奥さんはレンジと呼んでるなんて,そんな家はないわけです。必ず,実は私たちは無意識にコンテクストをすり合わせて,家の中でもそれを腰かけと呼ぶのかいすと呼ぶのか,レンジと呼ぶのかチンと呼ぶのか,決めていっているわけです。
 あと,日本では子供が,これ韓国もそうだと思うんですけど,子供が何て呼ぶかっていうのは非常に大きな要素なんで,例えば電子レンジってくるくる回りますよね。最近のは回らないですけど,ターンテーブルがくるくる回る。あれで子供が「くるくる」って呼んだとしますね。もうみんな親ばかだから,ああ,くるくるね,くるくるしようねって言って「くるくる」になるわけですね。で,子供は「くるくる」だと信じて育って,また悲劇が繰り返されるっていうことになる。
 こういうふうに,家族のような小さな共同体でも必ずコンテクストのすり合わせっていうのを私たちは行っているわけです。しかし,演劇というのは,これをたかだか2か月ぐらいのけいこの間に,あたかも家族のように,あたかも恋人同士のように,あるいはよく知っている劇団員同士でもあたかも他人のように振る舞う技術を持ってるんですね。そこに演劇の培ってきたノウハウがあるわけです。あるいは表現教育,あるいは演劇等を語学教育に取り入れる一つの意味もそこにあるんだと思うんです。そのように振る舞うんだと。実際に私たちは,ふだんの言語生活でも振る舞っているわけですよね。何かの形を振る舞っているわけです。それを意識して振る舞うかそうではないかだけの違いなんですね。だとすれば,コンテクストをすり合わせていくある種の習慣を,演劇を通じて身につけていってもらえる可能性があるんではないかというふうに考えています。
 そして,このことは,今日の日本語教育の大きなテーマからは少しずれるというか広がっていってしまいますが,日本の地域社会にとっても非常に大きな力を発揮できるんではないか。なぜなら,今まで日本という国は,明治以降130年ぐらいを考えてみても,大きな国家目標があって,その国家目標に従って生きていけば大体の人が幸せになれた,そういう国だったわけですね。それは,もっと簡単に言えば,親や先生の言うことを聞いて,できるだけいい学校に行って,できるだけいい企業に入って,企業でも上司の命令を聞いていれば給料が上がって,車が買えて家が買えると。そういう社会を築いてきたわけです。しかし,この10年ないし15年で,もうそれは完全に幻想だってことがよく分かったわけですね。どんな大きな企業に入ったってつぶれる可能性があるわけですから,そういうことはもう確かなことではない。その中で,当然価値観が多様化してくるわけですね。今,上場企業の新入社員のアンケートをとっても,7割ぐらいが出世を第一には考えてないというふうに答えるそうです。そのぐらい多様化する。これは別に日本だけの現象ではなくて,欧米のどの国を見ても,あるいは今韓国を見ても,価値観が非常に多様化してきています。それはもう成長型の経済から成熟型の社会になると,要するに給料上がらないわけですから,給料上がらなくなったら,その給料でどう幸せになるか,人それぞればらばらになっていくに決まってるんですね。そういう中で私たちは生きている。
 しかし,私たちは,幾らばらばらだといっても,ばらばらなだけでは生きていけないんです。私たちは社会的な生き物ですから,必ず何か共同体で解決していかなければいけない問題がある。それはもう教育の問題であったり,医療の問題であったり,例えば,幾らばらばらだといっても,「私の感性からいって燃えないごみは(火)に出すわ」とか,そういうわけにはいかないわけですね。決めなきゃいけないんです。ただ,何が変わったかっていうと,今までは誰かが,お国とか自治体とかが決めてくれてたことを,全部自分たちで決めなきゃいけなくなっただけなんですね。しかし,その中でコミュニケーションの質っていうのは大きく変わってくると思うんですね。どういうことかというと,今までは誰かが決めてくれていたことに従えばよかったわけですから,どちらかというと価値観を一つに統一する,心を一つにとか一致団結とかというコミュニケーション能力,大きな価値観を理解する能力が求められてきたと思うんですね。しかし,これからはばらばらなわけです。そうすると,そこでは,ばらばらであるということを前提にして,ばらばらな人間がどうにかしてうまくやっていくコミュニケーション能力が求められていると思うんですね。
 これ,文化庁の河合長官なんかもよくおっしゃってることですけども,こういうものを私たちは協調性から社交性へというふうに呼んでいます。要するに,大体演劇をやってる私たちのような人間は,小学校時代に,「平田君は自分の好きなことは一生懸命やるけれども協調性に欠けています」って大体通信簿に書かれるような人間が演劇やるんですけど,協調性はもういいわけです。そうではなくて,私たちは,極端に言えば,嫌いな人間とも2か月間だけは疑似共同体をつくって,家族のように,あるいは恋人同士のように振る舞う能力を持ってるんですね,演劇人は。この社交性の方がこれからの日本社会にとっては重要なんではないかということなわけです。ただし,これ言うのは簡単なんですけど,日本人にとっては大きな精神の構造改革なんですね。
 これは,実は今日の話に,強引にテーマに持っていくとすれば,常に外国人と接しなければいけない日本語教師にとっても持たなきゃいけない,そして,一度日本人の精神構造を大きく変えなきゃいけない部分なんです。どういうことかというと,私たちは心から分かり合えないとコミュニケーションではないというふうに教え育てられてきたわけです。でも,これそうじゃないんですね。心からなんて分かり合えないんです。心から分かり合えないんですっていうと余りにそっけないんで,もうちょっと厳密に言えば,心から分かり合えないんです,すぐには。心から分かり合えないんです,初めからは。というところから出発しないといけないんですね。
 私たちは実際分からないわけです。パレスチナの子供の気持ち分からないですね。イラクの人々の気持ちやチェチェンの人々の気持ちは分からないわけです。でも,分からないからほっといていいってことではないですね。分からない人たちともどうにかしてうまくやっていくのが国際社会なわけです。心から分かり合えなければコミュニケーションではないというのは,聞こえはいいんだけれども,そこの中には,心から分かり合えない人は排除していってしまうという,やはり島国の論理の中でずっと生まれ育ってるわけですね。そうではなくて,分からないことから出発すると,違いから出発するということが重要なんではないか。その違いの中で共有できる部分を見つけ,広げていくということが重要なんではないかと思います。
 その際に,そうは言っても,余りにかけ離れたものは確かに注意はできるんだけれども,逆に微妙なサインには目を向けなくなってしまう。そこで,韓国という非常に近い文化,そしてある種の文化を共有していながら少しずつずれがある。例えば,「ね」というのを気が付かないのと同じように,タコのウインナーも気が付かないし,箸の上げ下げも私たちは気が付かないわけですね。こういう周辺にある,コンテクストがぶつかるかぶつからないかの周辺にある,そういう事象を丹念に見ていく。そして,それをお互いに尊重し合って,そして共有できる部分を広げていくということが,私たち日本人が今まで一番欠落していたコミュニケーションの在り方なんではないかと思うわけです。
 韓国と付き合うことによって,私たちをそのことに気が付かせてくれるし,また韓国の方たちの側からも,日本語を学ぶというのが単に,今までのように政治や経済のために学ぶということではもはやなくなってきてますから,今実際に韓国の日本語学科の若い学生たちと話すと,一番の理由はやっぱり漫画が読みたい,それからXジャパンの歌詞が知りたい,映画のせりふが知りたいっていうところが動機になってるんです。日本人の側もそうなっていると思います。そういうところから始まる新しい日韓交流というのは,まさにこのコンテクストのすり合わせということなのではないかというふうに思います。ですから是非,何か一方的にコンテクストを押しつけるのではなく,お互いがコンテクストをすり合わせて広げていくような交流と,そして日本語教育を進めていただければと思います。
 では,これで終わりにしたいと思います。どうもありがとうございます。(拍手)

*1 コンフリクト (interactive)(conflict) 衝突。矛盾。


司会(中野) ありがとうございました。
 お話が大変興味深く,盛り上がりましたので,質疑応答を,お一人ぐらいでしたらお受けしたいと思いますが。

参加者 O大学のNです。どうも興味深いお話,ありがとうございました。
 非常に演劇づくりの過程で,劇作家それから演出家,俳優の3者の間でコンテクストのすり合わせをしないといけないということ,よく分かりました。そこでふと気づいたのは,観客とのすり合わせというのは,これまたもう一つの問題として出てくると思うんですが,そのあたりはどんなふうになっていますでしょうか。

平田 それは,あと1時間ぐらいかかるんですけれど。
 先ほど言った,コンテクストの問題ですね。要するに,劇作家というのは,三田和代さんが出てきて,この方は子育ても終わった主婦で今韓国語を習いに来ていますっていうことを文章で伝えたら,これ劇作家の仕事ではなくなるので,そのときに,タコのウインナーっていう小道具を使ってそれを示すわけですね。僕は,そこに舞台と客席の間での内的対話が行われているというふうに思っているわけです。それはどういうことかというと,観客に気が付いてもらうということなんですね。それはだますということでもあるんですけど,一流の詐欺師は,最後までだまされたことに気がつかせないのが一流なわけですね。あたかも自分で信じていくようにしていくわけですね。そのためには,僕はよく遠いイメージから入ると言うんですけれども,どういうことかというと,これは全然日韓の関係とは関係ないんで申しわけないんですけど,一応お話しすると,例えば美術館が舞台だとしますね。駄目なせりふってどういうせりふかっていうと,舞台にこう役者が入ってきますね。入ってきて,「ああ,美術館っていいなあ。」,これ駄目なせりふですね。分かりますね。なぜ駄目かっていうと,これは対話がないからなんですね,客席との。これ,遠いイメージから入る。例えば,美術館っていうイメージは,静かだとか,デートに向いてるとか,人がゆっくり歩くとか,絵が掛かってるとか,そして美術館という名詞もあると。遠いイメージっていうのは,例えば静かな場所たくさんありますね。デートに向いてる場所もたくさんある。人がゆっくり歩いてる場所はあんまりないし,絵がかかってる場所は限られてる。美術館は美術館しかないと。そうすると,例えば二人デートで入ってくるわけです。静かだってことを強調したいときは,「たまにはこういう静かなとこもいいねえ。」っていうせりふを入れる。それから,デートだってのは見りゃわかります。ゆっくり歩くことを強調したいときには,ちょっと男の人を前に歩かせといて,「もう少しゆっくり歩きなさいよ。」とかって。ああ,じゃ,ここゆっくり歩かなきゃいけない場所なんだなって,だんだん分かってくるわけです。最後,はけ際に,「たまには絵を見るのもいいねえ。」って言うと,ああ,ここ美術館なんだってことが自然に分かってくる。こういうプロセスをつくっていくっていうが劇作家の仕事なんですね。これを皆さんは見てて,劇作家は何の苦労もなくこういうのを書いてるように思われますが,一応考えて書いてるっていうのが,僕が内的対話と呼ぶものです。よろしいですか。

司会(中野) 平田先生,御講演どうもありがとうございました。もう一度大きな拍手をお願いします。(拍手)

平田 どうもありがとうございます。

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