座談会

座談会「多文化社会の日本語コミュニケーション」

座談会
「日本語を外から眺める ―言語の視点から見る日本と韓国の文化交流―」
 
進行役 水谷 修(名古屋外国語大学長)
座談者 井出 里咲子(筑波大学講師)
李 徳奉(韓国・同徳女子大学教授,韓国日本学会前会長)
小倉 紀藏(東海大学助教授)
平田 オリザ(劇作家・演出家)

司会(中野) それでは,準備が整ったようですので,これから座談会,「日本語を外から眺める―言語の視点から見る日本と韓国の文化交流―」を始めます。
 既に座談者の方々にお並びいただいておりますので,水谷先生の方から御紹介いただけますでしょうか。皆様から見て左手にいます名古屋外国語大学長水谷修先生です。

進行(水谷) 座ったままでいい。ごめんなさい。
 御紹介の方は,時間が少し延びたせいもあるし,もともと75分でこの経験豊かな先生方にお話をたっぷりしていただくのは不可能であります。だから,少しでも時間が欲しいので,御紹介,お名前だけ,最初のプログラムの2ページのところをごらんいただきますと,一番下の四角い枠の中に座談者とありまして,そこにお名前が上がっております。こちらにいらっしゃるのが井出先生,そのお隣が李先生,それから小倉先生,そして平田先生。
 今日は,私,ここのところ何年もずっと続けて,座談会の進行をするときには「先生」というのをやめてまいりました。いつも「さん」と言ってきたんですが,今日は「先生」でいきたいと思ってます。どうしてかといいますと,限られた時間の中で,フロアから質問をいただくチャンスをつくれない。そうしたら,私のお仕事は,皆さん方にかわって4人の先生方から貴重な,本当に豊富な経験を持ってらっしゃるので,少しでもたくさん知恵をいただきたい。私は,皆さんに代わって質問をしていく,お願いするという立場でいきたいと思っておりますので,今日は先生と言わせていただきます。決して皆さん方を低くするという意味ではない,私自身を低くして向かっていきたいと思っております。
 それから,途中どう転んでいくか,大きな流れとしては,先ほどの平田先生のお話を受けて具体的な事例へ持っていき,言語の事実関係,言語の形や使われ方の中で韓国語の話者と日本語の話者の間にどんな問題が今起こっているか。特に,サッカーや冬ソナで見事に扉が開いた,このときこそ,もしかすると実は一番大切な時期ではないか。遠くにあるときには,その姿をある意味では客観的に見ることができる。ところが,近付いたために,それこそコンテクストは同じだと思いかねない,そういう状況に入りかかって,それを客観的に見るためのノウハウを私たちは発見していきたい,そして具体的な手がかりをいただきたいと,こういうことであります。何回も繰り返してお話をしていきたいと思いますし,どうぞ御発言なさりたいときにはもう勝手に話し始めていただいて,そうだよ,ちょっと待てとかなんていうふうにして進めていきたいと思いますんで,最初は,座ってる順番にちょっと一言ずつお願いしようと思うんですが,平田先生はお疲れですからちょっと後に回しまして,小倉先生から何かいい事例をひとつ御紹介いただけたらと思います。あるいは,思ってらっしゃること,信念を御披れきを。

小倉 小倉と申します。
 今,平田先生から非常におもしろいお話を伺って,それで早速私が確認したかった,お聞きしたかったというよりは確認したかったことは,韓国のドラマですとか映画とか演劇のせりふはいわゆる下手なせりふですねということをお聞きしたかったんです。つまり説明過剰という意味ですが。先ほど個人的にお聞きしたらそうだと,まさにそうだというふうにおっしゃいました。

平田 そうですね。ドラマにもいろんなスタイルがありますから,冬ソナみたいな分かりやすいものは逆に今は日本でも受けているわけで,それはそれでおもしろいし,いいと思うんですけど,ただ一つだけ事実として言っておきますと,例えば,今年の秋から冬にかけて日本の戯曲がソウルの大学路(テハンノ)という劇場がたくさん集まってるところで,5本上演されたんですね。これはもう画期的なことなんです。今まではほとんど1年に1本あればニュースだったのが,5本一挙に。これはもう日本語戯曲の上演ブームのようになってると。これは,韓国では海外の作品や翻訳劇は多いんですけれども,今まではヨーロッパの演劇をやっていたのが,若い演出家に日本語戯曲をやる上でのアレルギーみたいなものはほとんどなくなった。そうして読んでみると日本の戯曲はおもしろいし,非常に緻密に構成されているってことで,一挙に今上演が増えてるんですね。そういう意味では,韓国はもちろん俳優さんの実力なんかは日本よりも圧倒的に上だと僕は思いますけれども,戯曲のことに関して言うと,日本の戯曲というのは非常に韓国の演劇界で見直されているということはあります。

小倉 先ほど個人的にお伺いしたときよりも大分婉曲な感じですね。先ほどあれは下手だっておっしゃいましたよ。もちろん,日本的な意味で,ということですが。

平田 下手,うん。
 あのね,これは歴史的経緯もありまして,韓国の近代演劇,これ植民地支配下で日本の築地小劇場にいた留学生が帰って始めたというのが,韓国での近代演劇の始まりとされてるんですが,実は最近の研究で,その前に新派が相当行ってて,劇場を建てていくんですよね。当然経済から入っていくんで,大衆演劇が先に入る。ところが,その大衆演劇は分かりやすいわけですね。要するに,「一本刀土俵入り」とかああいう世界で,あと「金色夜叉」とか,ああいう演目がやられてたんですね。非常に分かりやすいわけです。あれが冬ソナに今つながってるんだということ。もう一つは,これ誤解を恐れずに言うならば,その新派の名優たち,韓国人の新派の名優たちが,半数以上が今の北朝鮮の方に行って,それで今の北朝鮮のあのアナウンサーの非常にクサいしゃべり方というのは新派の影響じゃないかという,これはちょっと怪しいとこですけど,そういうことも言われております。

小倉 今,日本では,「冬のソナタ」ですとか韓国の映画やドラマが非常にブームですよね。やはりそういう作品を見て日本の方たちが不思議に思うのは,何でこういうせりふを韓国の俳優さんは言うんだろう,ということです。そういう質問が非常に多いんですね,私のところにも個人的に。なぜなんですかと。やはりそれは日本と違って,先ほどの平田先生のお話だと,要するにコンテクストにどのくらい依存してるかどうかというところが大分違うんだと思うんですね。韓国の場合は説明過剰です。「下手だ」というのはそういう意味であって,別にけなしているわけでは決してありません。先ほどの話で言えば,美術館に入ってきて,ああ,美術館だなという。みんなゆっくり歩いてるね,デートしようよって,そういうのを全部言ってしまうような,そういうような感じのせりふが多いんですね,韓国の場合は。それがなぜなのかということをやはり皆さん知りたがっている。
 例えば,男女二人で雰囲気を出したいときに,日本のドラマですとか映画だったら言わないようなことを,必ず韓国のドラマは言う。必ず星が瞬いていて,「星だね,きれいだね」というふうに言うんですね。「星たちは私たちのために瞬いているんだよ」というようなことを言う。それは,日本のドラマのつくり手からしたら禁じ手といいますか,絶対にやってはいけないことだと思うんですけれども,韓国の場合はそれが普通であって,しかもそれが今の日本の方たちに非常に魅力的なものとして見えているというところが,私は非常におもしろいなと思っているんです。日本社会がずっと捨ててきたもの,つまりコミュニケーションの仕方というものを今変えようとしている時期にかかっていて,それが韓国の説明過剰な物語の魅力というものになっているのではないかなというふうに思います。では,なぜ説明過剰なのかということに関しては,後ほど機会があれば御説明したいと思っていますが。

進行(水谷) いや,是非,今のお芝居のお話ですけれど,普通の生活の中の言葉遣いで今の御発言に関係のあることがあったら,伺っておきたいんですが。

小倉 やはり,韓国の人たちは説明をよくします。私の今の気分はこうです,なぜあなたはそういうふうに考えるんですかということをよく聞くし,自分でも説明するんですね。なぜ単一民族の国で,しかも歴史的に非常に均一性の高い社会をつくっていた韓国社会でそういうことが行われなくてはならないのかということが,我々にとっては非常に知りたいことなんですよね。日本はよく島国といいますけども,島国で閉鎖されている,閉ざされている国だからそういう説明が必要ないんだというふうに言えば,韓国も単一的な国家を形成していたというのはもうずっと昔から,国民国家というものができる前からそうだったわけですから,それが不思議なところです。私は,それを儒教的なものではないか,儒教的な思想,それから社会の影響ではないかなと思ってるんです。では,つまり儒教的な社会というのは,人間はいかに立派な人であるかということによってしか評価されなくて,それは,例えば恋愛するにも韓国の場合は,韓国のドラマを見ているといきなりベッドシーンに入ったりすることは全くありません。必ず,愛し合う,あるいは愛そうとしている男女が愛の理由を説明します。くだくだと説明するんですね。それが,私たちにとっては魅力的に最近見え始めているというところがおもしろいのではないかなと思っているんですけれども。

進行(水谷) なるほど。多分ここにいらっしゃる方たち,今日できるだけ多くの手がかりを,これから先考えていただくことになると思うので,今の「説明」という言葉にちょっとこだわりたいんですが,お許しください。母語話者として,今まで出てきた説明絡みのお話について,ちょっとおっしゃりたいこと後に回していただいて,今のことについてどうですか,御意見は。

李 確かに,中国,韓国,日本,三つの地域を比べてみた場合,もちろんステレオタイプ的な話になっちゃうと思うんですけれども,中国人が韓国のドラマを見てますと,ちょっと説明が足りないと思うし,日本のドラマは,説明がもっと足りないといった感じなんですね。だから,日本から見たら過剰ですけれども,中国から見たら過剰じゃなくなっちゃう。それには,いろいろ理由が考えられますが,それについては,座談会の後半に触れられると思いますが,やっぱり韓国の社会というものは統一性を非常に目指している,そういう社会ですので,日本だとあうんの呼吸ということで,言わなくても何とか通じるようにやってますけど,韓国の場合は,とりあえずお互いの気持ちのやりとりによって統一性を目指していく。そこで,表現を急いでしまう。そういう傾向は確かにあるんじゃないかと思いますけど。

進行(水谷) 文化人類学的と言いますか,井出先生のお立場からも何か今の説明についておありですか。

井出 そうですね。私の場合は韓国との接点は,2年間韓国で日本語教育の方に携わりまして,その前はずっとアメリカにいたんですけれども,アメリカは多民族社会ですので,英語といってもいろいろなものがありますし,自己表現のやり方もコミュニティとか人種によって随分違うんですけれど,それでもやっぱり自分を説明していかなければいけない文化というふうに,それでないと負けてしまうというか。それが韓国に来た途端に,私はまず一番最初に,アメリカとか欧米社会の中で自分を必死に保とうと格闘していた時期から比べると,ああ,なんて近いんだ,似てるんだっていうショックが,ショックというか喜びの方がまず最初に大きかったんです。表面的に似ているという部分があるからこそ,先ほどの平田先生のお話にもあったんですけれども,そのところがあるからこそ自己表現の上での違いやギャップというのがすごく大きかったんです。
 例えば,ちょっと非言語的なところになりますと,学生さんとお話ししてるときとか1対1で話してるときに,相手が私の目をじっと見るんですね,一番最初に会ってお話をしているときとか。それにまず圧倒されたというか,え,こんな感じだったかしら,日本人てどうだったかしらっていうことをすごく考えさせられまして,それから私が,例えば何か教えたりとか,授業で質問を受け付けたりとか,これ日本語でやってるんですけども,私の韓国語力がまずなかったもので。そのときの発言の仕方,手の挙げ方,積極性っていうものが,またこれも全然違って,ある意味アメリカ人の積極性とはまた違った勢いがありまして,じゃあ似てるけど違うっていうのは何なんだろうということをすごく思わされたところがあったんですけれども,その一つには,説明をしたり,自分のことを発言していったり,それから相手にもどんどん質問していくという姿勢は,それが一つの思いやりというか,相手との関係をつくる上での丁寧表現というか,それだということ,それが一つ絡んでいるということに気が付いてから,少し,ちょっとほっとしたというわけではないんですけれども,似ているからこそギャップのところが難しいなということを感じました。

進行(水谷) はい,ありがとうございました。今のお話の中で,相手を見つめるというあたりの問題,ちょっと今そちらへシフトしたいと思うんですが,何かうなずいてらしたけれど,思い当たることがおありなんじゃないですか。

小倉 相手を見つめるというよりは,日本人は視線をそらせる人が多いですね。それはやっぱり主体性の問題なんだと思います。その主体性の表し方の問題であって,韓国の人は,やっぱり主体性がない人は駄目な人というように,はっきりと人間のランクづけをする傾向にありますから,これは,「私は主体性があるんだ」ということをはっきりとその場所で相手に見せつけたいということだと思いますね。

進行(水谷) 演出技術としては,そのあたりで気を遣われることはありますか。目線とか何とか言われるような。

平田 そうですね。それは共同作業するときはそうですし,実際,特に恋愛,ずっとさっきからドラマとか恋愛の話が出てきてるんですけど,韓国の男性はああいうことするんで,普通に。僕の知ってる男性でも,プロポーズのとき道路に寝たやついますからね。結婚しなきゃ死んでやるって言って。本当ですよ。プロポーズに行くときは,大体雪の日を選んで,肩に雪を積もらせていくんですよ,わざと。で,ここまで待ってましたとかいって,それはもう普通なので。だからあんまり,ドラマのことで言うと。
 あと,例えば,ちょっとずれますけれども,「その河をこえて、五月」をつくったときにおもしろかったのは,家族の役柄で,次男が35,6なんですけど,カナダに移民したいっていう話で,それがお母さんになかなか言い出せないって設定だったんですけど,甘えるんですね,お母さんに。お母さんにひざまくらをする。それはちょっと日本人からするとびっくりするじゃないですか,35,6の男性がお母さんにひざまくらをしたりとか。それも普通なんで。井出先生もお書きになってると思います,スキンシップの問題とかも随分違うので,そういうことはお芝居をつくってる上で,例えば僕の台本を韓国の方がやると,余りにスキンシップが少ないんで,やっぱりどうしても演出上つけ加えていかなきゃいけなくなったりすることはありますね。

進行(水谷) 確かに,韓国人の学生と接してると,ちゃんと顔をこちらを見てものを言うことが多い。それが目をそらしたときは,あ,何かあるっていうのはこちらが感じやすいんですが,韓国人の立場で,日本人がやっている相手の顔を見るときの態度について,李先生はどう感じてらっしゃいますか。

李 日本に来て,日本人にじろじろと見られた経験が余りないんで,答えようがないんですが,ちょっと昔,筑波大学に初めて来て,面接のとき先輩からのアドバイスに,先生たちを直接目を見ないで,机あたりを見ながらしゃべるように言われて,わけが分からないまま,とにかく言われたとおり,面接のときずっとこのあたりを見つめて話してたら,後で評判が,とても行儀がよい留学生だったと。そういう反応があってびっくりしたんで,できるだけ日本に来て私も視線をそらすようにしてたら,今度は韓国でも普段そらす癖が身についてしまって,個人的には困ってます。

進行(水谷) 日本人が割に目をそらしてやってる,それを見てて,信用できないとか,そういうふうにお感じになったことはない。

李 韓国的にそれを受け取る場合,やっぱりある温かさというより,どっちかといえばよそよそしさを感じる傾向はあるんではないでしょうか。

進行(水谷) さっきおっしゃったように,日本人は相手の目を直視はしないんですが,調べた範囲では,一定の範囲でのこの辺は見てんですね。だから,全然よそ向くのは,これは日本の中でもよそよそしいだろうと思うんですよね。はい。
 それでは,少し御自身のテーマへちょっとずつ入って行きましょうね,はい。よろしいですか,こっちから。

井出 今のことで一つ加えたいなと思ったことが,その目線の問題なんですけれども,アメリカの言語人類学者でスーザン・フィリップスという人がいるんですけれども,その方が70年代にアメリカンインディアンの学校での調査をした研究がありまして,それはアサバスカン系のインディアンなんですけれども,白人とアサバスカン系の子供が一緒に勉強を学んでいるのですが,どうも全体的に見るとアサバスカン系の子供たちの成績が悪いと。それをいろいろ調査して,フィールドワークを通して見ていくと,そのアサバスカン系の子供たちは,家庭の中で目を見て話してはいけないという,親とか見知らぬ人の目,目上の人の目を見てはいけないというふうに教わって,それで教室に来るものですから,授業中先生の顔を見ないんですね。それが,先生側の方としては,集中をしていないとか,こちらに興味を持ってないとかそういう先入観がいつの間にかできてしまっていて,その人たちが,子供たちの成績をつけるときに,それがいつの間にか先入観が反映されていて。2か国語を使っているという問題もあるんですけれども,いかに私たちが,例えば教える立場の者としても,先入観というものが入ってしまうと,これ目線という,もうほんの少しのことなんですけれども,アングロサクソン系の文化との違い,価値観の違いで,子供たちの教育に随分大きな影響を与えてしまっているという報告が70年代に出されて,大きな反響というのを得たんですけれども,目線一つみたいなものって,もう本当に歯磨きみたいな感じで,意識はしないんですけれども,実際には教室の中でこういった結果も招いているということです。

進行(水谷) はい,ありがとうございます。
 何かおっしゃりたいですね,小倉先生。

小倉 目線の話で言うと,これは礼儀なんですね。目線をそらすという礼儀であって,韓国にも特に女性の場合は外面(ウェミョン)といいますけれど,それは80年代くらいまでの韓国の女性はやっていましたね,この礼儀をですね。相手と目線を合わせてはいけないという礼儀なんです。ですから,必ずこういうふうに,店の人でもおつりを返すときでも相手を見ずに返しました。相手,見知らぬ男性と目を合わせてはいけないということなんです。それがなくなったのが80年代の終わりくらいで,女性でもはっきりと相手,男性,見知らぬ男性と目を合わせるようになりました。これがやっぱり韓国社会の変化のときでしたね。

進行(水谷) 今たまたま目線のことを話題にしましたけど,非言語的な行動はいろいろな面でコミュニケーションの上で問題を起こしますが,なおかつノンバーバル*1,非言語的なもので,これがあるよと追加しておきたいという。はい,どうぞ。

*1 ノンバーバル (nonverbal) 言語を用いない。言語以外の。


李 一番典型的なノンバーバルランゲージの一つとして,自分を指すとき,日本だと大体鼻先の方を指しますよね。韓国人はほとんど自分の胸あたりを指しますが,このしぐさから考えてみますと,日本の場合は相手が見ている自分,相手中心の自分を指してる。韓国は自分が考えてる自分を指してるわけですから,いろんな行為構造の違いがそこから生まれるわけですけれども,ただそのコンテクストが分からないまま見てみますと,やっぱり韓国人から日本人のこういう指し方を見てますと,余り品のよい行動とは思えない。軽々しく見えちゃうんですね。逆にまた,日本からはこういう胸の指し方に対して非常に堂々としているような,生意気な,そういうイメージがしたりして,そういう指し方一つだけでも感じ方が違いますので,こういう問題もより具体的に研究していかなければと思ってます。

進行(水谷) そうですね。50年前の日本語教育の世界では,圧倒的多数の教師が,(鼻先の方を指して)「私は」とこうやっていたんです。ところが,このごろどうも見ていると変わってきているんで,多分よく観察してらっしゃると思うんですが,どうですか。余り,これ,なくなったような気がしませんか。

平田 そうですね。余りしなくなってるんじゃないですかね。どうでしょう。でも,(胸あたりを指して)これもどうかな。どうなりますかね。どうしてるんだろう。

進行(水谷) どうしてるんですか。皆さん,すいません,自分を指してみてください。「私は……」と,何かおっしゃるときにどうなさいますか。恐縮ですが,はい。

平田 ああ,みんなこう……。

進行(水谷) あ,手が動いてない方は何もしないってことですね。こうしたままで,「私は水谷です」と,こう言うということですね。あるいは,「私は先生です」とかというときには。
 逆に伺いましょう。「それは私です」と言うときに,(鼻先の方を指して)こうする方はいらっしゃいますか。ちょっとお願いします。はい。10人ぐらいですよ。これがどうも現状のようです。何かこのごろだんだん下へ下がってきて,この辺へ来てるような気がするんですけどね。でも,こういうことは,例えば日本語教育の立場にある者としては,演劇でもそうでしょうけど,よく実態を調べて把握する必要があると思うんです。それから,さっきのお話の,(鼻先の方を指して)こうするとちょっと軽く,悪い印象を与えるという情報も持っている必要があると思うんですね。
 ノンバーバルの話はこれぐらいにしておいて,次の話題へ入っていきましょう。言葉そのものでしょうか。何かおありでしたら,いいですか。じゃあ,いかがですか。新しいことで。

李 日本語を勉強するということは,結局日本人とのコミュニケーションがとりたい,またはもっとお互いに親しくなりたいということで勉強すると思うんですけども,2002年ワールドカップのとき,あるインターネットサイトで,日本の若者と韓国の若者がお互いにメールでやりとりするサイトがあったんですけども,それには翻訳機が使われてまして,お互いの言葉で一応入力し,翻訳された文章を読んでお互いにやりとりする仕組みだったんです。もちろん翻訳機の完成度が高くないということもありますけども,大体意味は通じたみたいですが,ただ誤解が生じやすくて,とても怒ってる若者が多かったんですね。挙げ句の果ては,もう誰がこんな翻訳機なんかつくって自分を怒らすんだと怒りを表す若者もいました。とにかくお互いに意気投合できない,そういう状態でみんないらいらしている,そういうことが実際にありました。
 それから,もう一つは,日本語の勉強を始めるときは,チューター*1なり日本語を教えてくれる人から非常に親しくされてるんですけども,ある程度しゃべれるようになってからはだんだん遠ざかっていく,そういう現象も。もちろんすべてとは言えませんけれども,そういう経験を強いられる学習者がかなりいるんですが,やっぱりその理由の一つとして考えられるのは,日本語の分からない学習者というのはいつもにこにこしてますよね。本当にいい子ぶってますから,教える側からすると非常にかわいくて,自分から手を差し伸べて何か面倒見てあげたい,そういう相手ですから,なんでも世話をするようになるわけなんですが,だんだんしゃべれるようになってきたら,今度はそれが,確かに日本語は日本語なんですが,言葉の弾丸みたいになってしまって,どんどん激しい言葉が飛んでくるわけですから,よけるようになっちゃうわけなんですね。それはなぜかといいますと,言葉は日本語だけれども,言語行動そのもの,内容そのものは韓国語が日本語に化けて飛んでくるわけですから,言われる側からすると,それに太刀打ちできない状態。だから,そういう状況は,やっぱり言葉だけを覚えて言語行動がまだ分からない状態のコミュニケーションというのは非常に危ない,そういう経験を聴く場合があります。

*1 チューター (tutor) 個人指導の教師。


進行(水谷) そういう問題は,例えば待遇表現*1によく表れるとか,何か,どういう言語の形の上で,私たちはどういう点に手がかりを求めて気を付けていったらいいんでしょうね。

*1 待遇表現 話し手が,聞き手あるいは話題の人物との人間関係によって,尊敬・親愛・侮蔑などの気持ちをこめて用いる言語表現,またはその形式。


李 待遇表現のような場合,間違っても,文法的な間違いのレベルですから,すぐ直ると思いますし,しかし,そういうレベルよりも,話題のとり方から,話の進め方自体が違いますので,さほど簡単なもんじゃないと思いますけど。

進行(水谷) さあ,でもこれすごく大事なことで,どうぞ,はい。

小倉 やっぱりそれは先ほど申し上げたように,ドラマだとか映画のせりふでもそういうことなんですよね。例えば,「冬のソナタ」でユジンという女の主人公が,ミニョンという男の主人公に,この人は理事という職位にいるわけですが,「理事様のように非人間的な人とはこれ以上仕事をしたくありません」って,そういうせりふをばしっと言うところがあるんです。これは日本語のせりふでは,「あなたのように冷酷な人間とは」と翻訳してありましたけれども,韓国語では「非人間的な」と言ってるんですね。理事様の下で下請みたいな形でユジンというのが働いてるわけです。そのユジンが,自分を雇っている,会社は違うけれども,雇っている相手に対し「非人間的な」というような言葉を使うことは,日本語ではないと思いますけれども,韓国語ではそれが普通です。確かに怒ってるっていうことを表現しているわけですけれども,それでも比較的普通に,そういう言葉を使うわけですね。ですから,日本語がある程度分かるようになった韓国人の韓国語話者が,「非人間的な」という表現を日本人に対してするんでしょうね,恐らく。ですから,そこでかカチンときてしまうということで。
 ではなぜそういう言い方を韓国の人がするのかということです。韓国の人は日本人の本音と建前の使い分けというのを非常に嫌います。本音を言わないで建前というのはうその世界じゃないかと。うその世界と本当の世界の二重性を生きているんじゃないか,日本人は,ということで嫌うんですけれども,韓国にもそういう二重性というのはある程度あるんですね。その二重性というのは,私の言葉で言うと“理”と“気”といいます。“理”という世界が道徳性,原理性,そして公式さ,公式性というものを重要視する世界であり,“気”の世界というのは,情の世界,“理”と“情”というふうに日本語でも言いますけれども,人間と人間との情の通い合い,余り堅苦しいこと言わないで同じだということでつながり合うと,そういうような感情,感覚,そういう世界がある。つまり二重性が韓国にあります。例えば韓国の人と話していると,よく日本人の方が違和感を感じるのは,昼間,韓国人と日本人が話し合って,歴史認識問題ですとか仕事の契約のことですとか,そういうことでやり合う。韓国の人は非常に強く言葉を発して,こちらがたじたじになってしまう。この人は私のこと嫌いなんじゃないかというふうに思ってしまうんだけれども,夜になると酒が出てきて,酒が入ると,これは一気に打ち解けた雰囲気になって,自分を攻撃していた昼間の韓国人の態度が変わってしまう。
 この二重性は何なのかと。どちらが本当でどちらがうそなのかということを日本人は悩むんですけれども,韓国人はそれは両方本当なんですよね。両方本当で,昼間の理の世界,原理原則の世界と,夜お酒が入ったときに気の情が通い合う世界というのは両方とも本当なんです。本当の世界であるということを我々は理解しないと,お互いに何かうそつきのように見えてしまうということがあると思いますね。今李先生がおっしゃったのは,ある程度言葉が上達してくると,自分の,要するにその世界ですね。韓国人だったら理の世界と気の世界を持っている。日本人だったら本音と建前を持っている。それをただ翻訳して相手の言葉で言ってるだけになってしまうから,逆にそこで摩擦が生じるという,そういうことをおっしゃったわけですよね。非常におもしろいことなんです。

進行(水谷) いや,ものすごく大事な問題だと思うんで,できればもうちょっと具体的な,今のこと,非人間的みたいな,そういうもの,何か思い出されることありませんか。こういう言い方も傷つけ合うことあるよとか。

小倉 例えば,このパンフレットの後ろの方に,生越先生の分科会資料があります。韓国人と日本人の行動あるいは言葉のギャップがあって,例えば韓国の方が遅刻をした。遅刻をして,例えば17:00に約束したのに17:10ごろに来ても謝らないというふうに書いてあります。確かに,そういう傾向が非常に強いんですね。何も謝らないで,すぐそこに座って,もうずっと前からそこにいるような顔をしているというようなことなんですよね。それが日本人に非常に不快感を与えるわけですけれども,だからといって,韓国人がいつも遅刻して謝らないわけではないんですね。例えば,最近の大学の現場で見ますと,日本の学生の方が遅刻したときに謝りません。日本の学生は,遅刻して入ってきても,それに対して自分の謝罪というのを全くしません。けれども,韓国の大学で恐らくそういうことをやると,先生にこれはこっぴどく叱られてしまいます。何で君は遅く来たのに,その理由も言わないし謝らないんだって,そういうことなんですね。それはやはり韓国に二重性があるということです。理の世界と気の世界というのがあって,それをスイッチで切りかえないとまずいと。
 つまり,大学の授業というのは,これは原理原則の世界なんです。そこでは,学生は先生より1分後に来てもだめなんです。先生よりも先に来なくてはいけないんです。そういうことはきちっと守らなくてはいけない。ところが,友達同士ですとか何回かもう既に会った関係においては,そういう原理原則の世界はもうやめようよって,お互いの間で関係が成り立っている。そういうところで原理原則を立ててしまうと,その人は何か情に薄い人というふうに思われてしまう。ですから,ここはわざと遅刻してみようというようなことで,遅刻してみて相手が,もし5分くらい遅刻しただけで私のことを責めたり,あるいは不快感を持ったとしたら,これはこの人はまだ私に対して理の世界でやろうと思っているんだな,嫌な人ねって,そういうような感じを持つんだと思いますね。

進行(水谷) ということは,例えば,韓国人の学生が遅刻してくるでしょ。そうすると,まずほとんど説明しますよね,バスが遅れたのでって。日本人の場合だと,それをやるやつはちょっと変なやつで,結局……。

小倉 なぜ自己弁護してるのかって,そういうことですよね。

進行(水谷) ええ,なりますけどね。そうすると,韓国人の学生が,バスが遅れたのでって言ってる間は,それはまだ情の世界へ入ってきてくれないと僕は考えるべきですか。

小倉 そうですね。それは公式的な世界であるから。大学の授業の場合は,遅刻を許している先生もいると思いますよ。ですけれども,許してないほとんどの先生の場合は,これは,まず遅れてはいけませんし,遅れたら,ちゃんとその理由を言って謝罪をしなくちゃいけないということですね。

進行(水谷) それ理の世界ですよね。

小倉 私自身失敗したんですよ,韓国へ行って暮らし始めたときに。友達がいつも約束に遅れてくる。韓国にはコリアンタイムがありますよって聞いていましたので,授業も遅れて行っていいんだなと思って少し遅刻して教室に入って行ったらかんかんに怒られたんです,先生にですね。日本から来たこんなばかがいるって言ってね。だから,やっぱりそれはわきまえるところとわきまえないところというのが,やっぱり日本語の空間でもあると思いますけれども,韓国でもやっぱりあるんですよね。

進行(水谷) なるほどね。今の話の流れ,聞いてらしてどうですか。

李 二つの観点から考えられると思うんですが,一つは時間そのものに対する文化,地域的考え方がかなりずれてるということ。きちんと守る習慣というのは,やっぱりアジアでも日本の方が一番きちんと守る方で,韓国へ行きますと少し余裕がある。また,中国に行きますともっと余裕があって,タイあたりに行きますと,その日のうちに会えばいいのに何で時間を守らなきゃならんのか。インドあたりだと,その月のうちでいいんじゃないかと。そこまで時間の文化的なとらえ方が違っていますので,私も個人的には40歳まではきちんと守る方だったんですが,そういう文化差があるということを知ってからは,わざと遅らせるように努めたりしてるほどです。それからもう一つは,やっぱり韓国の,いわゆる謝る,またはお礼を言う,そういう行動自体は,言葉以前の問題がありまして,小倉先生のおっしゃっている理の関係,その人と自分との,理によってでき上がっている関係によって行動がすべて決まっちゃうんですね。だから,それを言うべき相手もいれば,言わなくてもいい相手,そういう関係によって言う場合と言わない場合が分かれますので,その理解なしでは,言葉そのものだけではどうも解釈できないと思います。
 だから,そこのところが韓国社会の難しさだと思うんです。例えば日本語で「内と外」ってありますよね。日本の場合は,「よそ」「外」から「内」「身内」までたどり着くには非常に時間がかかって,相当辛抱しないとそういう関係に至らないんですが,韓国の場合は,会った途端「内の世界」に入っちゃうんですね。そうすると,韓国人はすべて「内の関係」なのかというと,そうでもない。「内」そのものが何重もの「内」があって,内から身内に至る,そこの道のりが非常に複雑なんですね。だから,そこに理の関係,相手と自分との関係がどういう理の関係に進歩していくのか。そのやりとりのプロセスがまた難しいんで,そこでのいわゆるいろんな激しい表現,激しいぶっちゃけなどは,もっと深い「身内の関係」に行く努力のプロセスだと私は解釈してます。だから,日本的なやりとり方と韓国的なやりとり方は,そこのところが大分違うわけなんですが。

進行(水谷) はい,ありがとうございます。日本語の教師としてそういうことが分かってくるために観察をするとしても,韓国人と接触する,しかもそう深い関係にまで簡単になれるわけではありませんから,といって,こういう機会でしか実は今,情報何かありますでしょうか,そういうことを勉強する,こういう本が手がかりになるよとか。
 一つの方法は,日本社会の中で手がかりを探す手が僕は実はあると思ってんですね。自分自身が“腰かけ”世代ですから,こんなきれいなのは“いす”になりますけど,ほかのは“腰かけ”なんです。それが,ずっと自分が,どんなに今動いている日本社会の画一化の中で頭の中が変わっちゃったかってのは,こないだ夏に,浜田というところが島根県にあるんですが,行ってみてびっくりしたんです。町の中で,行き交う高校生なんかがあいさつしていくんですよ,みんな。それで,これは特別の教育訓練をしてるのかと思ったら,そうでなくて,誰にでもそれはやるというのがまだ残ってる。だから,都会を中心にしてものすごくコンテクストが画一化してきてる中で,外国文化に接する教師として芽をつくり出していくための手がかりがどこにあるのかっていうことに,今すごく関心があるんですけど,どうですか,お仕事なんかしてらして。

平田 そうですね。僕自身はそういうことのために,大学でも短期の留学生なんかが来ると,日本人と最初に打ち解けるために,演劇とかコミュニケーションゲームを通じて最初に打ち解けてもらったりするっていうことを仕事としてやっているんですね。そのプログラムを開発するってことをやっていて,やはりどうしてもそういう接触の場面は限られますから,日本の場合にはですね。それをある程度人工的にでもつくっていってあげるってことは必要だと思うんですね。そして,子供のときからシミュレーションする。そのときに演劇とか表現教育っていうのは重要な役割を果たしていくんじゃないかと思うんですね。
 あと,やっぱり芸術の世界で言うと,やっぱり国際共同作業っていうのが最近になってやっと出てきまして,するとやっぱり日本の特殊性も分かってくるんですね。先ほどから時間の問題が出てきましたけど,僕は2002年に一緒に作品をつくるといったときに,一番最初の日本側のスタッフとのミーティングのとき,最初僕はもう韓国側の立場で,とにかく日本人は世界で一番計画が好きな民族なんで,計画どおりにやらないと嫌なわけでしょ。だから,何か30年前に計画した要らなくなったダムをいまだに計画どおり建てちゃったりする国なので。で,この計画書は,じゃあ日本側では必要なんで立てましょうと。でも,これ韓国人には見せないようにしましょうと。韓国の方に見せると,今度は,おれたちを信用してないんですかっていうことになるんですよね。やるって言ってるじゃんという感じですよね。いや,これ本当にそうで,で,実際にやるわけですよね。結果としては,別にお互いいいものをつくるわけだからいいんですね。
 じゃ,どっちがグローバルスタンダードかっていったら,どっちかというと向こうの,韓国の方がグローバルスタンダードで,日本人が異常に計画が好きなんで,こんなのは多分ドイツと,あとアメリカの一部くらいだと思うんですね,こんなに計画を立てるというのは。そういうことで,日本の特殊性も分かってくる。でも,特殊だから悪いってわけでもないと思うんですね。例えば,劇場で,共同演出してた演出家が日本に打ち合わせで来て,劇場で舞台美術を,ほかの演目ですけど,建てているのを昼ぐらいから来てずっと見てたらしいんです。僕は夕方から打ち合わせだったんで行ったんですが,まだずっと見てて,そんなに見てておもしろいって聞いたら,もうすごい,日本の舞台美術はプラモデルをつくるようにどんどんできていくって言って。じゃあ韓国はどうするのって言ったら,適当につくっといて,けんかしながらつくるって言うんですね。実際にそうなんですよ。で,徹夜してでもやっぱりつくるわけです。
 でも,それよく考えていくと,日本は,東京の劇場っていうのは世界で一番劇場費が高いんで,短時間でつくんなきゃいけないんですね。だから,それまでの準備をきちんとやって計画どおりにつくっていかなきゃいけない。というのは,日本の貧しさの反映でもあるわけです。でもさらに,日本の舞台監督という進行役の進行の仕方っていうのは,芸術品のように計画どおりやっていくわけですね。やっぱりそうすると,韓国の俳優さんたちも,あ,この方が楽だなあっていうことになってくるわけですね。その舞台監督さんは韓国の,先ほどちょっと話に出てきた国立劇場の主演女優さんに大変気に入られて,昨年舞台監督の技術の講習に招かれて行ったんですね。
 だから,特殊だからといって別に卑下する必要もない。でも特殊であるってことを知る必要はあると思うんですね。そのことが逆に海外にいい影響も与えることができる。だから,まずきちんとお互いのことを知るためには,やっぱり共同作業っていうのは非常に重要だなといつも思います。

進行(水谷) どうすべきかの方に一歩ずつ入ってきておりますが,一番最初に一言ずつってお願いして,李先生のところで終わってしまいました。井出先生にも,このことについて問題提起をお願いしたいということで順にこう来たんですが,途中で,私の進め方がひどいもんですから,ぶわあっと行っちゃったんですが,あるいはもうおっしゃっちゃった?問題提起のできるだけ具体例に従って……。

井出 いや,そうですね。似ていて違うというのでもよろしいですか。

進行(水谷) もちろん結構です,はい。是非。

井出 その一つの例として,例えば,李先生もおっしゃってらっしゃるんですけど,あいさつという概念がありますよね。あいさつというのは人間関係,今日の平田先生の電車の中の4人がけですか,あそこのシーンなんかもそうなんですけれども,人と人とが最初にコンタクトしていて,その場を共生というか,その場を一緒にともに過ごすっていうことはどの場でも,今こういう場面でもあることだと思うんですけれども,そこで,それはどの文化へ入っても一番最初に経験することだと思うんですけれども,私は最初に韓国に行って,韓国では名刺の交換もしますし,あいさつも,何々と申します,よろしくお願いいたしますということを韓国語で覚えればそれでいけるっていう感じで,本当に,ああ,とても似てるなっていうふうに,先ほども申しましたが,思ったんですけれども,ただ一つ,すごく私が違和感があったものとしては,例えば食事をするときにウエイトレスの人が,日本語に訳すと,おいしく召し上がってくださいというふうな言い方をして,一言あいさつをしてくれたりとか,買い物をしたりするときも,パン屋さんで買い物をするとそういうふうにあいさつをしてくれるんですけれども,あ,何ていい表現なんだろうというふうに思ってたんですね。ただ,それがだんだんエスカレートしてきて,デパートで洋服を買うと,店員さんが渡してくださるときに,「きれいに着てくださいね」っていうふうにおっしゃるんですね。
 それから,友達のお子さんにサンダルをお土産で買った友達がいるんですけれども,その人も「きれいに履かせてあげてください」っていうふうに韓国語で言われまして,私も,「きれいに着てください」って言われたときは自分のファッションセンスを疑われているような,そういう感じがして,それがもう何度も何度もそういう表現をいろいろ聞いていると,すごくそこまで踏み込まないでちょうだいというような気分にされたりもしたんです。例えばテレビののど自慢でも,日本ですと,「では,張り切ってどうぞ」なんて言ってマイクを渡すところを,韓国では「上手に歌ってください」と言ってマイクを渡して,それであるときに,ああ,これが韓国のあいさつの定型表現の一つなんだというふうに気がついて,何となく懐にふっと落ちるような感じがしたんです。日本語も,よろしくお願いしますとか,いろいろとお世話になっておりますとか,便利な定型表現っていろいろあるんですけれども,それがちょっと形が違う定型表現というものが出てくると,こんなにも抵抗感があるのかということなんですけども。定型表現のように,韓国語ではこういった場面でこういう人に対してこういう使い方をするんだっていう,先ほどのホワットとハウのハウの部分というのを,いかにそれに気付いていくとていうことが大切かということを,やはり日本語を教えたり言葉を教えるときに,ないがしろにできないなと感じます。

進行(水谷) 今日の限られた時間でも,少なくとも今私たちは一つの大きな手がかりを得ようとしてると思うんですね。それは,韓国人の学生がちょっと日本語が上手になってきてべらべらしゃべるようになってくると,勝手なことを言うと。何をなぜっていうようなことを,李先生もそれに近いことをおっしゃったんですが,それをどう受けとめるかというこちらの姿勢の持ち方について一つさっき例があって,また今,井出先生が出してくださったわけですが,今の「上手に着てください」ですね。これは,どんな形で出てきますか。それから,そのとき日本人はそれに対して,今おっしゃったように,気分よくないという反応をしてるということは皆さん同意してくださいますか。どうでしょうか。

小倉 私の大学では毎年大体20人くらい,夏休みに語学研修で韓国の大学に学生を連れていきます。大体1か月韓国に滞在するんですけれども,その結果,韓国を好きになる学生とそうでない学生が,もともと韓国に行きたいという学生なのにもかかわらず,大体半分半分くらいになってしまう。それはどういうことかというと,やはり韓国に行きますと,相手との距離を狭めてコミュニケーションするというものが主ですから,そういうものに対して嫌がってしまう学生もいるんですね。つまり,相手と自分との境界をはっきりとしたい。韓国の場合は寄宿舎の共用のフロアみたいなところに冷蔵庫があって,そこの冷蔵庫に誰かが例えば牛乳を買って置いておくと,それは誰でも共有して飲むわけですね。何でも,食べ物も共有するという,そういう概念があります。それが嫌な日本人学生はそこに入り込めないということですね。日本人学生は,牛乳などにも書いておきます,名前を。これは私のものだから誰も飲まないでと,そういうことなんですね。ですから,そういうタイプの学生はどうも韓国に適応しにくいということがありますね。
 共同生活をしなくても,やはり韓国に行ったときに,一人で韓国で食堂で食事をしてると,食堂のおばさんが,あなた寂しいでしょって言って,友達紹介してあげますよって,そういうふうに言いますからね。要するに,チャックと言うんですけれども,必ずペアでないと,この人は,あるいはこの物体は寂しいはずだという,そういう観念が非常に強い。そういうところで,あなたにこの服はぴったり合うから,そういうふうに着てあげてくださいよって,そういうメッセージだと思うんです。けれども,それが余計なことだというふうに思ってしまうタイプの人はちょっと韓国に適応しにくい。私も実は韓国に適応しにくいんです。何でこんなにずかずか入ってくるのって,そういうことだったんですけれど,今は……。

平田 疲れちゃうときありますよね。

小倉 ええ。

平田 長くつき合ってても,20年ぐらい韓国とつき合ってても,しばらく行ってると,ちょっと休みたいっていう感じのときがある。それで嫌いになるかどうかは別にしても,それはどんなに日韓関係でずっとつき合ってる方でもあるんじゃないかと思うんですけどね。

李 「上手に着てください」という言葉自体は命令形なんですが,韓国語は,確かに命令形で相手に話しかける場合が多いですよね。ただ,「上手に着てください」というのは,その意味を考えてみますと,これ着たらとても似合うに違いないから,きれいになりなさい,それを保証する,そういう保証つきの褒め言葉が含まれてますので,必ずしも命令そのものではないんですけども,ただ何で韓国人はこれだけ立ち入った話が好きなのか,疲れるほど強いられるのか,それはやっぱり相手との認識の仕方の日本と韓国の大きな違いだと思うんです。例えば,日本は「自然災害の多い国」ですよね,韓国に比べて。台風はあり,地震あり,火事あり,本当に災害の多い地域なんで,どうしても「村共同体」が社会の基本になってしまう。そうなりますと,非常に理にかなう,または段取りが大事だとかそういう準備の大事さ,先ほどの計画性とか,そりゃ自然災害ですから,去年,今年あった災害は,大体は来年あたりにならないと来ないわけですから,じっくりと1年間計画を立てて準備しておけば乗り越えられる。
 しかし,韓国の場合は,歴史始まって以来1,000回ぐらい外国からの侵略があったんです。そうなりますと,それは「戦難災害地域」なんですね。戦難災害地域で1年おきの計画を立てていては,それは国がつぶれるに決まってますから,やっぱり臨機応変力,早い者勝ち,そういう,いわゆる個人の活性化がとても大事になってきますね。だから,そのときはやっぱりお互いに早い者勝ちですから,集団の基礎というのは「血縁型集団」にならざるを得ない。結局,当てになるのは自分の血縁だけ。そうなりますと,周りはすべて家族,身内ですから,とにかく自分に会いに来た人はもう自分の身内として初めから付き合い始める。そうすると,当然会った途端,先ほどの敬語を決めるためにもそうなんですが,年齢は幾つなのか。結婚はしてるのかどうか。してないと,なぜしてないのか。いつするつもりなのか。フィアンセはいるのかどうか。それをなぜ長々と全部聞いちゃうのか。よそ者としての,いわゆる身内になるための情報をすべて一遍にその場で調べるわけなんですね。それを調べ終えた上で,その次の段階から付き合いましょうと。それが基本なんです。だから,すべてが立ち入った話になるわけです。だから日本からすると,それはもうあり得ないことですけども,そういう社会的な仕組み自体が「血縁社会」的な社会と,「村中心の地縁社会」的な違いも,そこから発する違いだと,私はそういうふうに理解してます。

平田 子供のことは本当によく聞かれるんですね。僕,毎年のように,毎年会ってる人でも,まだできないのかって聞かれて,最初のうちは,今研究中とかって答えるんですけれども,やっぱり本当に家族のこととか非常に重要なんで,共通の話題ってこともあるとは思うんですけれども,これは日本の方で韓国を嫌いになってしまう理由の相当上位の部分になりますね。特に日本の女性は嫌がるようですね,やはり。

李 そこは理解のために非常に肝心なところだと思うんですが,当然,村中心社会では迷惑をかけない,隣に迷惑をかけないのが道徳の中心になると思うんですが,韓国の場合は,逆に,迷惑はかけられて当然。大事なのは,その包容力なんですね。周りの迷惑をいかに包容するのか,そこがまた人間のレベルの判定の基準になりますから,迷惑のかけっ放しなんですよ。だから,迷惑をかけ合って,そのお互いのやりとりとして二人の関係がだんだん深まっていく。だから,そのような行為ができないということは,もうよそよそしいことなんで,そこのところの理解がやっぱり,韓国を理解するためは肝心なところだと思います。
 10数年前に慶応大学で行われたある調査の報道があったんですが,日本に来たばかりの留学生たちに日本についてどう思うのかを調べてから,同じ留学生に1年後にまた同じ調査をしてみたら,最初は,何て親しい親切な国なんでしょうと,非常にポジティブな反応が出てたんですが,同じ学生たちが1年後には評価がだいぶ下がっているという報道でした。それはやはり最初の,いわゆるあいさつの段階における日本人の親しさを信じて,自分なりにそれに合わせて親しくなったつもりで行動をとっていてたのに,1年たっても同じだったということ。それじゃ,自分はだまされてたのではないかと。特に韓国人からすると,当然,けしからん,これこそ人間としてあり得ないと。そういうふうになっちゃうんですね。だから,1年たってから韓国人は,それじゃもうあきらめるしかないという段階に来てるのに,日本の友達からすると,そろそろ内の関係として付き合ってみてもいいかなと。タイミングがずれちゃうんですね。そういう文化的な違いじゃないでしょうか。

小倉 学生を見ていてもそうだし,それ以上の年齢の人を見ていても,日本人の中には韓国的なコミュニケーションが好きな人もたくさんいますし,韓国人でも,韓国が嫌で,日本のような分け隔てのある関係というものが非常に心地いいんだという人もたくさんいますし,ですから,お互いにコミュニケーションのやり方とか人間関係のつくり方というのを選べるようになれば,私はいいと思いますけどね。近いからしょっちゅう向こうに行ったり,あるいは自分の友達やネットワークというものをそういう心地よいものにしていく,ということもあり得ると思いますね。

進行(水谷) やっぱりこちらの姿勢の問題みたいですね。だから,こちらの姿勢の中に,開いた形で,こういう可能性も受け入れられるよってのがあれば,それなりの対応ができる。ところが,一つのやり方しか持ってない人だと,ぶつかったらそれでおしまいってことになりますね。
 今のお話伺ってて,実は僕は余り違和感ないんです,韓国流の。どうしてかっていうと,自分の父親の田舎のおばさんたちなんぞは,もう二言目に,結婚はいつだとかなんとかってのは,もうしょっちゅう繰り返しやられるっていう状況があったんで,むしろ今日本の変化の中に何が起こっているかっていうのをちゃんと見つめないと,もしかすると,外国人の学生に我々うそを言う可能性があるかもしれませんね。
 さて,あと13分になってしまいましたので,今お話が出てきた流れ,大変よく全体を考えて話をしてくださってありがたいですが,どうぞ,こうすべきだという前提に基づいて,なおかつ言葉上の問題でもこの視点は注目点はあるよっていうことがありましたら,お一人2分半ぐらいずつでどうぞ。

井出 今,先生の,例えば世代によってもやっぱり韓国に対して持っているイメージとかも違うと思うんですけど,例えば私の例ですと,私は割と大学時代,高校時代,歴史とか地理の勉強の中で欧米ばっかりをやって,それでアジアというものは,これは強烈に覚えてるんですけど,高校の地理の時間に白地図をやったときに,アジアだけを塗らなかったんですね。それで,そのまま1年が終わって,それで大学に進学して,私の中では在日の韓国人の方の問題とかいろいろ含めて,それは怖い問題で,話してはいけなくて,韓国は強くて怖くて日本人が嫌いという,そういう先入観を持ってずっと来ていたんです。けれども,韓国に行って初めて韓国語を聞いて,まず,何て韓国語ってやわらかいんだろう,きれいな言葉なんだろうっていうことを,本当に一言もしゃべれないまま行ったんですけれども思いました。最初に行ってから,学生さん,特に女の学生さんの口元ばっかりじいっと見てしまって。口の動かし方がすごいきれいっていうか,口紅の塗り方とかもきれいなんですけれども,全部,何で何でこんなにきれいな感じなんだろうっていうふうにずっと見ていて,ふと,母音が多いからこんなに,また話し方のやわらかさっていうのはこの音の違いもあるんだっていうことを教わって,そこからどんどんのめり込んでいったっていうか,魅力に引きずり込まれていったんですけども。その後に,日本語も見てみると,私は日本語を教えながら「あいうえお」というふうにやってますけれども,日本語にも,例えば方言,英語の発音の〔エー〕みたいなやつはないって言いながら,東北の方へ行けばきちんとありますし,琉球の言葉を見ていくともっともっと豊かな,〔ティー〕という音ですとか,今も,例えばカラオケで,夏川りみさんの「涙そうそう」が何かカラオケで今一番歌われているとかいうふうにどこかで聞きましたけれども,そういった中で,どんどん生活の中に入ってきている言葉の豊かさっていうのが,韓国語を通して私は初めて,自分がいかに日本語っていうのを固まったものとして見ていたのかなっていう形で思わされました。それはその前にずっと欧米対日本,日本っていうもののアイデンティティを語るときに,どうしても英語と比較して日本語はこうだ,主語がないからこうだ,ああだということばかりを見ていたところ,韓国を見ることによってもっと中を見るようになって,じゃあ方言は何なんだろうとか,国語って何だろうとか,標準語っていうことは何なんだろうっていうことを考えるきっかけをいただいたわけです。だから私は,例えば授業で社会言語学ですとか,あと英語を教えるときでも,韓国語の場合はこうですとか,では皆さんの地域ではどうですかとか,そういう視点で,何語がというのではなく,言葉って何だろうというスタンスを自分の中に韓国語を通してもらっているなという,そういう気持ちがします。

進行(水谷) はい,ありがとうございます。25年かな,もうちょっと前からですかね,僕,中学校の外国語教育の中に韓国語と中国語の教育を1年間に1週間でいいから入れるようにっていうことを言っているんですが,誰も聞いてくれませんでしたね。でも,今はもう絶対に必要な時代に入ったようですね。
 はい。李先生,いかがですか。

李 今までは日本語と韓国語の目立つ違いだけを話し合ってきたんですが,よくあることで,オーストラリアなりアメリカなどに留学に行ってた日本人と韓国人を見てみますと,必ずと言っていいほど友達になって帰ってくるんですね。英語でしゃべってたはずなのに,英語圏の人よりは日本と韓国の間が親しくなってきて,中には結婚までして帰ってくる。それは何を意味するのか。英語でしゃべってても,基本的には情緒が通じ合ってる。なぜ,日本と韓国にいるときは,通じなくていろいろ争ったりしているのに,遠いところに出ていくと通じちゃうのか。それは,そちらに出てからは二人とも身内の関係になっちゃうんですね。身内的な行動としては解けやすい,通じ合う,そういう文化を持っているということですから,これらを実らせるためには東アジアがブロック化して一つの身内になってしまうこと。そうなると,当然頑張らなくてもお互いに身内の関係としてのコミュニケーションがとれる,そういう時代も遠くはないと思います。やっぱり日本も韓国もハイコンテクスト言語と言われていまして,文化性の非常に強い言語なんですよね,お互いに。だから,そこを乗り越えるためには,やはり文化というのはどういうものなのか,異文化にはどういうタイプの異文化があるのか,それを国民教育のレベルで教えて,文化リテラシーとして教育しておかないと,どうもそれぞれの個性が強過ぎて外との接触が難しくなる。これは,東アジアの抱えているこれからの課題だと思います。これは個人的な話なんですが,日本の庭園を今はとても好きで,それにほれてますけれども,それが本当に好きになるまで20年もかかったんです。初めて見たときももちろん,きれいだとは感じていたけれども,それほど好きではなかったんですね,私の自然観に合わないということで。
 だから,そういう目に見えるものでさえも20年かかったもんですから,やっぱり異文化を理解するってことはいかに難しいのかが分かります。異文化理解のためには,理解を急ぐ前にやっぱり異文化に対する考え方,態度,お互いを尊重し合う,そういう考え方から教えることが大事だと。また,理解というのはお互いに理解しないと理解には至らない。片方だけの理解というのは,それは片恋のようなものなので,これからは相互理解的な教え方が必要だと思います。また,最後に多文化主義的な考え方を,日本も韓国も単一民俗だとか,単一言語,単一文化など,ずっと単一づくしになっていましたので,これからは,もう少し自分の中の多様性を見つけて多文化的な考え方をも教えていくべきじゃないかと思います。

進行(水谷) ありがとうございました。EUは意識的にそれを多分始めている,ざるを得なかったとも思うんですが,私たち東アジアの人間はどうも50年前の状態のままで来ているという感じがするんですね。だから,今おっしゃったこと本当に大切だと思います。

小倉 やはり異文化理解というのは一番大切だと思いますね。ですけれども,好きな人はいいんですけれども,好きでない人もいらっしゃるから,ここが問題ですね。異文化というのは,好きでない人に対しては好きになってもらうように,これは努力をある程度誰かがしないといけないと思います。ただ,自然に好きになってもらうということはできないので,自分の文化を理解させようと,他国に理解させようという,そういう努力ですね。日本もそれをやって,今文化庁がやっていますけれども,そういうのがもっともっと必要だというふうに思います。
 それから,もう一つは,異文化というの点で,私なんか今一番コミュニケーションが難しい相手というのは誰かといいますと,自分の娘なんです。これが12歳から13歳になった瞬間に私との距離が遠くなってしまいまして,無言なんです。無言ほど怖いものはないなと思いました。何かしゃべってくれれば,私に対して何か不満でも言ってくれれば,それは対話が成り立つんですけれども,何も言わない。私が何か話しかけてもぷいって向こう向いてしまうという,そういうような状態。だから,何でしょう,もうそういう状態になったら,これはお手上げなんですよね。ですから,もう私そのことで今は,日韓よりもそっちの方で悩んでるんですけれども。それは思春期ですから,2,3年たてば直るよってみんな言うんですけれども,そのショックたるや,今まで一緒におふろ入ってたのに,急にぷいっと私と話してくれなくなっちゃうわけですから。
 そのときに思ったのは,相手を理解しようと思って研究するのも大切なんですけれども,結局,娘というものが今どういう心理状態なのかとか,いろいろ研究しても余り進展がなくって,それよりも何か一緒に本を読んだりとか,一緒に何かしたり,ハリーポッターに興味があるからハリーポッターについて何かくだらない質問してみたりとか,一緒にDVDを見るとか,そうするとうれしそうに話しかけてくれるんです。ですから,やっぱり何か一緒にやるっていうことが大切じゃないかなということが,私の異文化体験から,経験から学んだところですけれども。

進行(水谷) いや,本当にそうですね。子供っていうのはこちらが焦ってしまうと駄目で,やっぱり待つというのがすごく大事で,待っていて,そのかわりもうやめてしまうんではなくって,チャンスが出てきたら,今のちょっと何か手を差し伸べながらチャンスをうかがって,可能性が生まれたら一気にかかるっていう。多分,今,日韓のこの催し自体が,先ほども申しましたけど,サッカーと冬ソナで開いた扉を一気にこれから推し進めるための大事なチャンスじゃないかなと思うんですよね。
 それでは,おしまいに平田先生どうぞ。

平田 そうですね。今の小倉先生のお話を引き継いで言うと,実際に演劇のワークショップ,小・中・高,幼稚園までやるんですけれども,中学1,2年生一番難しいんです。だから,御心配にならないで大丈夫だと思うんですけど。
 ただ,ここでやっぱりフィクションの力っていうのは,まさにハリーポッターとか,要するに今の子供たちは自分をさらけ出すのはとても怖がるわけですね,いじめられたりするもんですから。だから,フィクションで演じさせるっていうことはとても大事で,どう考えてるのってことを聞いても答えは返ってこないんですけど,ハリーポッターおもしろかったよって言うと答えが返ってくるっていう,まさにそういうある種の関係を演じるっていうこと,これ語学教育も同じ部分があるんじゃないかと思うんですね。やっぱり自分の生身を出すっていうことはとても難しいことだし,特に異文化の場合にはみんなナーバスになりますから,そこである種のフィクションの力を使うってことはとても重要なことなんじゃないか。
 それと,あと日韓の話に戻りますと,僕はよく学生たちに説明するのは,僕は韓国が大好きでもうしょっちゅう行ってますし,料理も好きだし,人も好きなんですけど,しかし,人の好みはあるので,日本人全員が好きになんなくてもいいんじゃないかと思ってんですね。ただ,隣の国だっていう関係は変わらないので,これは。そうすると,要するに御近所づき合いですから,別に好きになる必要ないけれどもうまくやっていく必要は絶対にあるので,まさに文化リテラシーですね。ということは,一番気を付けるのは私たち近所付き合いで何かというと,相手が何を嫌がるかをやっぱり知識として知っておく必要があると思うんですね。その上でどういう関係になるかは個々人の問題だけれども,少なくともそこら辺のところはもう少し小学校,中学校の教育の中でもあってもいいんじゃないか。
 それと,水谷先生がおっしゃられたように,さらに言葉の問題で言うと,僕今小学校,中学校の国語の教科書をつくる仕事をしてて,その教科書会社からいつも絶対それは言わないでくださいって言われてるんですけど,もう国語っていう授業は余り要らないと僕は思ってまして,少なくとも小学校の低学年レベルでは国語っていう授業はやめて,表現っていう授業と言語っていう授業に分けて,言語の中に,僕,英語を初等教育の中に入れるよりは,言語っていうのにしちゃって,日本語と英語と韓国語ぐらい一遍にね,もちろん日本語を教えるんだけれど,その中で韓国語では実はこういうふうに言うんですよとか,英語では実はこういうふうに言うんですよっていう教育なら意味があるんではないかと思ってます。そのために韓国語って非常に大きな力を発揮すると思うんですね,日本人が自分の姿を見つめるために。そういう意味でも,韓国語あるいは韓国とのお付き合いの存在っていうのは,これからどんどん大きくなっていくんではないかなと思っています。

進行(水谷) 本当にどうもありがとうございました。今日は,もっともっとお聞きしたいことがあったんですけれど,限られた時間の中では,少なくともこれから韓国の人たち,韓国の文化,韓国の言葉へ迫っていくのに手がかりになるヒントを,私自身は少なくとも三つばかりいただくことができました。何とかして,この次お目にかかるときには多少韓国のことがわかる人間になっていたいと思いますが,今日は本当に御親切にありがとうございました。どうも皆さん,御参加ありがとうございました。拍手をお願いいたします。(拍手)
 それでは,これで終了にいたします。
ページの先頭に移動