基調講演

講演
「年少者への日本語習得支援について異文化間教育の視点から考える」
講演者:佐藤 郡衛(東京学芸大学教授)

司会(中野) それでは,これから基調講演に入りますが,舞台の準備がありますので,少しお待ちください。
 その間に,若干のご案内を差し上げたいと思います。
 先ほども申し上げましたが,今年度のテーマというのは,「地域における年少者への日本語習得支援について考える」です。大会全体のテーマに関しては,プログラムの2ページに書いてございます。先ほどの施策説明でも,文化庁,それから文部科学省,そして今の国際交流基金という順番で説明がありましたけれども,年少者の日本語習得支援の問題は,それを第2言語として勉強するか外国語として勉強するかというような問題も含めて,いろいろな問題を抱えているわけです。地域全体で何とか解決していく方向に国内の場合は特に考えていかないと,予想もしないような事件が起きたりしてしまうということがあります。明日のプログラムも実は年少者でくくっている話を先ほど申し上げましたが,実際に年少者の日本語習得支援について考える場合,どうしてもほかの領域の考え方というのを導入しなくては充分な対応ができないことが少なくありません。
 これから佐藤郡衛先生に,日本語教育と最も関連深い領域の一つである異文化間教育の視点から年少者の日本語習得支援について考えていただくためのお話をしていただきたいと思います。
 佐藤先生のプロフィールについて若干触れたいと思いますけれども,プログラム,皆様のお手元にあるところでいいますと,26ページをごらんになっていただくと,佐藤先生のテーマ,それからプロフィールが書いてございます。そこに書いてありますように,佐藤先生は一貫して異文化間教育という領域で尽力してくださった研究者の一人でありまして,最近では,先ほどから申し上げているように,JSLカリキュラムの小学校編,中学校編の座長も務めておられますし,それから年少者の日本語あるいは言語の生活をどのようにして最適な状況に持っていけばということを日ごろから考えておられる方の一人です。
 それでは佐藤先生,よろしくお願いしたいと思います。(拍手)

佐藤 御紹介いただきました学芸大学の佐藤と申します。
 本日,私に与えられたテーマが,「年少者への日本語習得について異文化間教育の視点から考える」というテーマでございます。三つキーワードがあるわけですね。「子供」というキーワードと「日本語習得支援」というキーワードと「異文化間教育」というキーワードがあると。今日お話をさせていただくことは,今,子供たちが日本語習得なり日本語教育を受けているに当たって,いろんな問題をもちろん抱えているわけです。そういう問題に対する具体的な解決案を今日お話をすることではないと。つまり,そういう問題に対して一体どういうような視点を私たちが持っていったらいいのか。それを今日は異文化間教育というような視点からお話をさせていただきたいなと。と申しますのは,今,外国籍の子供たち,あるいは日本語が不十分な子供たち,一人一人非常に違いますし,あるいはその子供が置かれている学校の状況であるとか地域の実情も全く異なっていますよね。ということは,一般的な解決策というようなものを提案するというのは非常に難しい。逆に,余りにも無責任でもあるわけですね。つまり,そういうものをどう見ていったらいいのか。そこを今日は,私が専門とさせていただいている異文化間教育というような観点からお話をさせていただきたいなというふうに思っております。
 今日の話は,三つ柱を立てて,これから50分ぐらい時間を……,押しておりますので,いただいておりますので,三つぐらい柱を立てて,順に進めていきたいと思います。一つは,これまで,異文化間教育を中心にして外国籍のお子さんを対象にした研究というものが15年ぐらい,今経過しました。その研究を通して一体どういう成果があって,どういう課題を今抱えているのかということをまず最初に簡単にお話をさせていただきたい。そして二つ目に,じゃあその成果や課題を子供の日本語教育,あるいは日本語習得支援というものにどういうように生かしていくことができるだろうかということについて考えてみたい。そして3番目に,異文化間教育という視点をはっきりさせて,子供の日本語習得支援について,異文化間教育という視点からある程度の提案をさせていただきたいと。今日はこの三つの柱を順にこれからお話をさせていただきたいというふうに考えております。
 青い表紙の28ページから31ページに私のハンドアウトがございますけれども,これに沿ったり沿わなかったりしながら少しずつ話を進めていきたいと思いますけれども。
 最初に,その研究の成果と課題ということですね。
 私自身は1980年代の半ばぐらいに現在の職場に赴任しました。当時,学芸大学の海外子女教育センターというふうに呼ばれていたところでございます。80年代の後半から,私もその仕事の一環で,帰国した子供たちの学校であるとか,帰国した子供たちに直接インタビューをしたり,そういう仕事にずっと携わっていたんですね。それが,80年代の後半から急速に,日本語ができない子供たちが学校に増えつつあるということに気づくことになったわけです。これは入管法の改正という国策と非常に絡んでまいりますけれども。そのときに何を最初に始めたのかというと,いまだに覚えておりますけれども,当時の文部省が91年に初めて調査を実施するわけです。私どももそれとほぼ同じ時期に実態調査を始めたんです。
 では,どんな実態調査かというと,まずどんなことに困っているんだろうか。日本語の力は,読む,書く,聞く,話す,あるいは母語はというようないわゆるアンケート調査を日本語の学校なり先生に対して行ったんですね。それが私がこの仕事にかかわった初めのことなんです。全国各地で当時の文部省の実態調査であるとか,いろんなところでそういう実態調査が始まっていく。これが最初のスタートだと思います。そして,それを今度受けて,文部省も当時,「ようこそ日本の学校へ」という手引き書をつくったんですね。各都道府県の教育委員会でもそういう手引きいろいろな形でつくり始めた。あるいは,その子供の実態を踏まえて日本語教材を各学校がつくり始めた,あるいは教育委員会がつくり始めた。つまり,開発的な研究であるとか,それから実践的な研究というものが90年代になって急速に展開してくるわけです。
 でも,そこで私が気がついたことがあるんです。それは何だったのかというと,実は日本の学校なり日本語の教師を対象に聞くということが果たして意味があるんだろうかということです。異文化間教育というのは,一言で言いますと,自文化―自分の持っている文化的な基準で相手を見ないということなんですね。簡単に言えば。つまり,私どもがやってきた研究というものが,私たちが明らかにしている現実が,果たして当の子供たちの実態を反映したものであったのかどうかという反省が出てくるんです。90年代の半ばぐらいに。
 そこで,私ども異文化間教育学会を含めていろんなところが,いや,これは違うのではないのか,もう少し実態をとらえていくためにはフィールドワーク。皆さん,エスノグラフィーとかいうような話をお聞きになられたことありますでしょうか。民族誌的方法といって,私たちがある一定の仮説を持って,これはこうだろう。その仮説を検証するために実はいろんな調査をやるわけです。そうすると,今申し上げましたように私たちがつくった仮説というのは,非常に自文化に彩られているわけです。そうではなくて,ありのまま,そこで一体何が起きているのか。それを記述していこうよと。これをエスノグラフィーというような言い方をするわけです。文化人類学から来ているんですね。文化人類学というのは未開社会に行って観察をするわけですけれども,それは西洋の基準でもって未開社会を切り捨てるわけではないですね。そこに参与しながら,いろいろな形でありのままの事実を記述していくと。これが実は私たちの世界でも始まってくる。これが90年代の半ば以降の話です。
 そして,中で出てきたことは,二つ,非常に重要な視点が見出せたと思うんです。その一つは,子供の側,子供の主体というものをどういうふうに研究の中に受けとめていったらいいのかということ。もう一つは,適応というのは個人のレベルだけではないですね。最近の悪しき,私は心理主義というんですけれども,個人の問題にすべて還元してしまう。例えば留学生が不適応を起こす。それは留学生個人の問題だけではないですね。受け入れる側の問題があるわけです。つまり,主体と環境との相互作用の中で適用という現象が起きてくる。そこをやはりきちっととらえていかなければいけないということが,当たり前のようなんですけれども,研究のレベルではようやくそういうことに気がつき始めたということなんです。
 私が15年近くこうした研究をやってきて,じゃあどういう成果があるんだろうか,どういう課題があるんだろうかというときに,三つほど見えてくるなということがあるんですね。一つは,研究に対する姿勢ということです。あるいは,皆さんが地域の中で実践されていれば,実践の姿勢ということにつながっていくと思います。どういうことか。つまり,異文化間教育では,何のための,だれのための研究かということを問い直すことが必要なんじゃないかということに気づいたということです。何を今さらと言われるかもしれませんけれども。研究する側,あるいは実践する側と学習者の文化的な背景が違っているために,研究する側がつくり上げた現実,あるいは実践する側がよかれと思ったことが,当の学習者―子供にとって一体どういう意味を持つのかということを私たちはとらえ直さなければいけないのではないか。これが第1点です。つまり,私たちがやっていることすべて善として,何か教えるということはいいことなんじゃないか。本当にそうなんだろうかということをもう1回問い直す必要があるということです。
 それから第2点目。異文化間視点というものの重要性が浮かび上がってきた。今までの私たち―私たちと言ってはいけない―私が少なからずやってきた研究というのは,最初は一つの文化的な基準をもとにした単一文化的な研究なんです。自分の枠を固定して,そこの枠でしか見ないわけです。あるいは,複数の文化を比較してそれぞれの特徴を明らかにする。帰国生はこうだ,一般生はこうだっていう2項対立的な枠組みをつくり上げて,そういうことを自分もやってきたわけですね。そうではなくて,相互作用という視点,異文化間的視点というのは実はインタラクションの問題なんですね。皆さん,異文化間教育と異文化教育は違いますよね。異文化間というのは「間」。私たちはよく冗談で,「間」がなかったらマヌケってよく言うんですね。ですから「間」が大事,関係性の問題なんです,これ。こういうことが浮かび上がってきた。つまり,外国人というカテゴリーや,あるいは何々人というカテゴリーは,関係性の中でいかようにも変容するものだということです。私たちが,研究する側が,外国人という枠をつくり上げてきたんじゃないか。実は違う見方から見たら,その枠は流動的になる,変わり得るんだということなんですね。これが二つ目です。
 そして三つ目。人間形成の歩みをどうもトータルにとらえていく必要性があるんじゃないか。文化間移動してきた子供の場合,ぜひ皆さん考えていただきたいことがあるんですけれども,子供たちの今まで生きてきた過去,つまり母国でや出身地,出身地域や出身国での生活経験であるとか学習経験と,今いる子供の現在とが切り離されているんじゃないかということ。それをどうつないでいくのか。それが私たちにとって重要なテーマになってきたわけです。そして,日本の子供もそうかもしれませんけれども,外国籍の子供,特に一番大きなテーマになるんだろうと思いますけれども,将来展望が持てないという問題があるわけですね。役割モデルがいないわけです。そういう過去と現在と未来をどうつないでいくのか。子供の生活なり子供の発達をどうトータルにとらえていくのかということがテーマとして浮かび上がってきたということです。これが十数年にわたってやってきた一つの,私たちが今,少なからず私が今到達している一つの視点になってきた。
 じゃあ,こういう視点を子供の日本語教育にどう生かしていけるかということを二つ目の柱でお話をさせていただきたいと思うのですが,一つ目の柱についてまた後ほど,パネルディスカッションがございますので,そこの中でもまた,今度はもう少し第三者的に触れてみたいと思います。
 じゃあその成果をどう生かすのかということですけれども,これもいろいろな生かし方があろうかと思いますけれども,やはり一番大事なのは,外国籍の子供たちの教育の理念というものが果たしてあるんだろうか。自分のやってきたことを反省的にいえば,現実的な問題への対処が忙しくて,子供の生活をトータルにとらえていくとか,そういう理念というものをどうつくっていったらいいのかということが子供の日本語教育の中では一番大事になってきているんじゃないか。子供どうしたいのということですね。じゃあそのためにはどうすればいいのかというときに,皆さんには釈迦に説法かもしれませんけれども,子供にとって第2言語としての日本語の意味というものを改めて私たちは確認する必要があるんじゃないかということです。どういうことか。言葉というのはただのスキルではありません。表現のツールで,子供にとってみたら,言葉がなければ表現はできないですね。表現できなければコミュニケーションがとれないわけです。当然のことです,これは。そして,関係性の中で子供たちは言語を習得していくんだろうと思うんです。
 最近,正統的周辺参加論とかっていう学習の新しい見方が出てきておりますけれども,例えば,乳幼児が自分の母語を獲得していくときに何なのか。ある家族という実践の場,共同体にかかわることによって,おのずと言葉というのは習得していくわけです。そういう関係性をどうつくっていくのか。つまり,子供の自己成長を支えていくための場づくりをどう考えていったらいいのかということが非常に大事になってくるのではないのか。関係性の中で言葉の習得がなされ,言葉を発達していくとすれば,どういう望ましい場をつくっていくことができるか。これが大きなテーマになるんですね。場なんて難しいこと言いますけれども,カリキュラムでもいいんですよ,これは。そういうことを私たちは考えていく必要性がある。
 二つ目は,学習論という視点が大事になってくるかなというふうに思うんです。つまり,固定した内容が先にありきではなくて,多様な子供に応じて,その内容をどう料理するか。さっき言った,子供の発達をトータルにとらえていこうというときに,日本語の体系というものが先にあるんじゃない。もちろんそれを否定するものでは全くありません。しかしながら,子供との関係性の中でそれをどうつくっていくのかという視点を私たちが持つべきだということです。さっき言った異文化間の「間」という,関係性というのはそういうことです。ですから,学習論というものがどうしても必要なんじゃないか。
 それから三つ目は,統合という視点です。つなぐという視点です。最初に戻りますけれども,最初の課題のところでお話をさせていただきました。子供たちにとってやはり一番大事なのは時間軸。過去と現在と未来が分断されているというところに問題があるんですね。それだけではなくて,空間も実は分断されているのではないのか。
 私自身も,1980年代から1990年代の初めにかけて,その空間のつなぎということでいいますと,学校と地域の,例えばここに大勢おいでになってらっしゃると思いますが,ボランティアの方々,この関係って,もしかしたらうまくいくかなと思った時期がありました。それはどういうことかというと,日本語教育というのは学校の教科にございませんね。当時,先生方は,今のような研修制度もございません,なかなか。そうすると,まるっきりお手上げなわけですね。国語は教えられるけれども,日本語は教えられない。もう目の前に子供がいる。そのときに学校の先生は,ボランティアの方々に救いを求めたわけです。つまり,学校ができないからどんどん入り込んできて,うまい関係がつくられていった。
 ところが,残念なことに,学校の方に体制ができ上がってくると,その関係がどうも断ち切れてきたんですね。これが90年代の半ば以降ぐらいでしょうか。地域と学校というものはお題目のように連携と言われますけれども,じゃあどうしたらこれをつないでいくことができるのか。子供にとってまさに居場所をつくる。学校でなかなか居場所がつくれなければ,地域の中でどう私たちが居場所をつくっていくことができるんだろうか。それをどうつないでいくのか。これをやっぱり私たちが考えていかなければいけない。
 それから,日本語教室と一般学級の関係をどうしていったらいいのか。必ずしもうまくいっているわけではないですね。ある先生,日本語教室の先生に聞くと,管理職から,悪いけれども,3年我慢してくれって言われてきたっていう寂しい話も聞くわけです。決してそんな,もちろん一生懸命やっていただいている先生もいっぱいいるわけですけれども,一方でそういう方もおられるわけですね。そうすると,その関係をどうつないでいくのか。
 そして,もう一つ最後に。空間的な話だけではなくて,時間をどうつないでいくのか。先ほどの繰り返しになります。私,福岡に行ったときに,ある事例にぶつかったんです。それは,非常におもしろい先生だったんですけれども,自分のめがねが壊れたので,あるめがね屋さんに行って受け答えしてくれた店員さんがいて,どうも日本語が違うな,あなたどういう人って言ったら,中国帰国者だと。じゃあ,うちの学校にいっぱいいるから,ちょっと来てくれない,ボランティアでって。そこがきっかけになって,山口県の方の大学を出られて福岡で勤められたアリヨシさんという女性がおられたんですけれども,その女性が学校に入っていった。今まで,中国帰国者の子供たちが自分を隠していたわけです。それはなぜといったら,自分の出身を隠すわけです。そして,そのアリヨシさんの支えの中で自分の本名を名乗り,そして今度,中国語を習うようになっていった。それはどういうことかというと,初めて自分の過去と今がつながり,そしてその彼女の出現によって未来への展望が開けていったということだと思うんです。その子供にとって,まさに過去と今と未来をつなぐ仕掛けというものを私たちがしていく必要性があるんじゃないのか。異文化間教育というのは,まさにそういう関係性を,自分の中に含めた関係性のネットをどうつくっていくかということなんです。
 時間が少し押しておりますので,三つ目の柱に。今日皆さんに聞いていただきたいことは,これからが本論になるんです。何なのかというと,野山さんから先ほど言われまして,異文化間教育という視点をちょっとはっきりさせてくれないかということなものですから,異文化間教育というものについて,どういうことなんだろうかと。何かわけのわからん言葉でしょう,異文化間教育とか他文化教育とか国際理解とか国際教育とか,わけのわからんのこといっぱい並んでいるわけですから,改めて異文化間教育というところを少しお話をしていきたい。
 これは別に研究者の会合ではございませんので,少し平たくお話をさせていただきたいんですが,29ページの?のところに,異文化間教育の四つの要件というようなことを書いてみました。異文化間教育というのは,個別の対象ではなくて,文化間にまたがる関係性をとらえていくことなんですね。あるいは,関係の中で展開する事象をとらえていくということです。一つ,そこから言えることはどういうことか。平たくいえば要するに,一方的な見方ではないですよということです。総合的な物の見方なんだよ。今起きている現象というのも,かかわりの中で関係の中に埋め込まれてそこで起きているんだということです。
 そういう視点を持つということは例えばどういうことかというと,私がよくお話をさせていただくんですけれども,私は大学の教師になって随分なるんですけれども,5年目ぐらいにあることに気づいたことがあるんです。どういうことかというと,それまでは,学生が寝ていると,ああ,何て下手な授業やったんだ,何とかしようと思って帰るんですね,うちひしがれて。ところが,5年ぐらい過ぎてくると,寝ている学生を責め始めるんです。おれが一生懸命しゃべっているのに,何であいつら寝るんだ。それがまさに一方的な見方,固定した見方になるわけです。そこに起きている現象というのは,関係性の中に埋め込まれた結果なんですね。その関係の中でその現象が起きていくわけです。
 例えば,外国籍の子供は学習意欲がないってよく言うんですね,学校の先生方は。本当にそうなんでしょうか。何かさもそこにいる子供の本質的な性格であるかのように,意欲がない。それはあなたが意欲を起こさせてないんじゃないですかという話なんです。そういうことを私たちがその関係性の中で物を見ていくというとらえ方が一つだということ,最初のとらえ方だということ。
 例えば,留学生などを相手に私も授業などやりますけれども,留学生が半分以上になると授業が成立しないんですね。同じようになっていたら留学生はついてきませんね。そこを,関係の中ですから,どうやって考えたらいいのか。留学生との関係をつくりながら,どう授業をつくり上げていくのかというようなことをやればいいわけです。つまり,関係の中に埋め込まれてその現象が起きているんだということが一つです。そういう見方だということです。
 二つ目は,相互作用ということをやっぱりどうしてもここで強調しておきたいんです。つまり,カテゴリーの変容ということです,これも。相互作用の中で,外国人だったら外国人というカテゴリーが消えたり出てきたりするというのは,そのインタラクションを通してなんですね。もっとわかりやすく言えば,外国籍の子供たちをかかわりの相互作用の中でどう支えるかという議論が必要になってくるということです。一方的な話ではないということなんですね。よくお話をさせていただくことがあるんですが,フランスのジアールという哲学者がいて,見えざる三者関係って言っているんですね。どういうことかというと,憧れに憧れるというんですね。先生方どうでしょうか。学校の先生などとかかわっていったときに,その先生に憧れて,その先生の持っている,やっているものに憧れていくということです。言葉の習得もそういうことがあるんじゃないか。相互作用の中で,教えられているその人のすばらしさ,その人の人間性に触れて,そしてそこから学習が進展していくというとらえ方です。こういうのを相互作用と言っているわけです。
 それから三つ目に,もう1回繰り返します。人間の成長,発達というところを対象にしていくものなんですね,異文化間教育というのは。言語習得というのも,関係性の広がりの中で言語というのを習得されていくのではないか。つまり,参加,協働を通して成長していくんだという視点を持つということです。だから,その成長を支えていくために,さまざまな異文化適応の促進であるとかカウンセリングであるとか,そういう観点でもってやる必要があるんじゃないかということですね。
 それから四つ目に,個々人の関係からその個人が埋め込まれている文化的,社会的文脈に目を向けながら,その関係性を変えていく変革性というものが非常に大きな特徴でもあるわけです。現状の枠の中に入れるんじゃなくて,相互作用を通しながら,その場,そのものを変えていく,つくり上げていくということです。こういう視点なんですね。そこから少し,私たちが何を学んでいけるのか。1番の関係性の中というときには,さっき地域の日本語―きれいな冊子のやつ,先ほど野山さんからいただいた,皆さんまだ持っていらっしゃらないでしょうか。その中に,日本語教師として必要なスキルとしてエポケーとかって書いてあります。多分皆さんどこかで,明日でもやるんですか,エポケーとかっていう話は。判断留保っていいます。つまり,私たちが関係性の中で埋め込まれているときに,一方的な見方でもって見るのではなくて,今そこに起きていることを少し判断を保留しておこうよ。これ,ぜひ皆さんお願いしたいんです。今目の前にいる子供たちは,私たちのずっと慣れ親しんできた子供観から見たらおかしいかもしれない。しかし,それはおかしいかどうかということはちょっと判断を保留しましょうよ。そういう行動が出てくるのはその子供の文化的な背景であったり,その子供の置かれている社会的な背景を通してその子供を理解していきましょうということを私たちに教えてくれるということです。
 私も初期のころに,見ていたらおもしろいんですね。ブラジルから来ている子供だったんですけれども,部活はグラウンドを5周して始めるという決まりがあるんですね。私なんか観察手伝って見ていたんです。ブラジルから来ている子供だけ半周してずっとブラブラして,最後にまた半周してちょこって入ってくるんですね。おい,あいつはサボっているんじゃねぇかとかって先生も見るわけです。でも,その子によく聞いてみたら,楽しんでこれから走るのに,何で最初からこんなに走るのということがあるわけです。つまり,ある物事,その出てきたものをそのまま判断することが非常に難しいわけです。外国籍の方はそうですよね,文化的背景が違うわけですから。であるがゆえに,その判断というものを少し停止,留保しておこう。しかも,感情が高ぶったときに判断することほど,人間の判断はまずいものないですね。最近どうでしょうか,皆さん。私もやることがあるんですけれども,メールってまずいですね。チクショー,頭に来た。ダァーってやっていると,人間関係壊してしまうんですね。だからいったん留保して,もう1回頭冷まして見ると,あっ,こんなこと書いてはいけないと思ってやるわけです。つまり,そういう判断を留保するということ。これが1番の関係性の中からというときには,そういう視点をぜひ持っていただきたい。
 二つ目は,相互作用という観点から言えば,対話性ということだと思うんです。対話というものが私たちがこういう異文化間教育の中でとりわけ大事にしたい一つの視点であるわけです。コミュニケーションだけではないです。子供の世界とか学校の世界というと,非常に予定調和的なコミュニケーションをベースにしますよね。ところが,外国籍の子供たちを対象にして文化的背景が違ったときには,必ずしも予定調和的ではないわけです。対立が起きるわけです。それを,対話を通しながらどう調整していくのか,どう関係性をつくり上げていくのかということなんです。ここを二つ目に強調しておきたいなと。つまり,相互作用というところを分析の焦点にするのが異文化間教育だと。じゃあそこから見えてくるのは,対話性ということが私たちにとって非常に大事な点じゃないかということです。
 それから三つ目の,人間の成長,発達をどう支えていくのか,これをどう見ていくのか。文化間移動してきたときには,おのずと過去と現在との間の不連続がある。その不連続をどう埋めるかということが異文化間教育の対象になるということです。そのためには何が必要か。ネットワークづくりですよね。ネットワークをどうつくっていくのか。ですから,こういう研究のテーマに地域というところが必ずついてくるわけです。具体的な生活の場の中でどういうネットワークをつくって,それをどう保障していくのか。子供の発達を保障するということですね。ネットワークのためのネットワークではないわけです。子供の成長を支えていく,そしてそこにかかわることによってそこに参加し,協働することによって,おのずとそこに新しい信頼関係ができ上がっていくという構図だと思うんです。ネットワークというものが次の視点になってくる。それから,変革性というときには,地域づくりであるとか学校づくり,いわゆる望ましい環境づくりというものを私たちは視野に入れなければいけない。こういう問題を考えていくときには,子供たちの進路保障をどうしたらいいのか。制度的な問題もありますよね。どういう環境をつくっていったらいいのか。つまり,今までのような一つの国の中でその子供をどう支えるかという議論だけではなくて,違う国籍であるとか違う民族であるとか違う文化的背景を持っている子供たちが日本に来て一緒に学ぶという時代になったときに,どういう制度というものを変えていったらいいのか,受け入れ側の制度をどう変えたらいいのかという議論です。私たちはそういう視点を持っていく必要があるんじゃないか。
 じゃあ,もう少しさらにそれを突き詰めていったときに,異文化間教育というような視点を実際の授業場面でどう生かしていくことができるんだろうか。一つは,子供に適合的なねらいというものを明確にしていく必要性があるんじゃないか。私たちがJSLカリキュラム―後で若干触れたいと思いますけれども,JSLカリキュラムというものをつくったときに一番ネックになったのが,実は,JSLカリキュラムというのは固定した内容を最初つくろうかというイメージもあったんです。ところが,例えば,たとえでごめんなさい。私が今話をしていますね。次から次へとばらばらばらばら入ってこられたら,私は何をしゃべったらいいのか。そういう状況が学校で起きているわけです。そうすると,固定した内容をつくるということは非常に難しいんですね。90年代から日本語教材というのはいっぱいつくられたんですけれども,共有できないんですね。ものすごい難しい。ねらいというのは適合で,その子供に合ったねらいをどうつくるかということ。これが一つです。
 二つ目は,教材,素材の持つ文化的な適合性というのもやっぱり考えていく必要がありますよね。国語の教科書に載っているようなものが果たしてその子供の素材として適切かです。例えば,算数に載っている,数学に載っているものが果たして適切なんだろうかと。そういう問題もあろうかと思います。それから,支援や指導というものを私たちは今まで実態概念であるかのように使ってきた。つまりどういうことかというと,だれにでも当てはまる指導の方法があるんじゃないかということを言い続けてきたわけでしょう。そうではないんですね。さっき言った異文化間教育というのは関係性ですから。ということは,支援や指導というのは関係性の概念だと。つまり,子供に応じてどういうふうにしていくのか。ですからぜひ皆さんにお願いしたいのは,子供に対してどういう教材と結びつけていくのか,その子供にとって何がいいのかということをぜひ考えていただきたいと思うんですね。それが私たちにとって必要なんじゃないか。異文化間教育とかから見たときにそういうことをぜひお話をさせていただきたいということ。一言だけちょっと触れさせてください。
 JSLカリキュラムというのをずっとつくっているわけですけれども,一筋縄ではいかないんですね,難しくて。はっきり申し上げまして。だから難しいんです。ただし,日常的な言語というものが日常生活にかかわる言葉というのは,子供たちの生活を通して子供はおのずと結びつけていくわけです。実は授業というのもそういうことなんではないか。授業への参加を通して,子供は学習するための言葉を身につけていくはずなんだということを私たちは想定したわけです。そうすると,授業に参加するための力をどうつけるかということがJSLカリキュラムの大きなねらいです。つまり,異文化間的な視点が明確に入っているわけです。そして,今の子供たちの学習をスタートさせるときに,子供たちの今まで持っている既有知識であるとか母語だとか母文化を支えにしながらどういう授業を組み立てていくのか。過去とつないでいくということです。そして,今までのようなカリキュラム観とは違うカリキュラム観という,固定したものが非常に難しかったということです。
 このJSLカリキュラムに関して,まだなかなか私たち自身が,小学校編つくらせていただいたんですが,発信なり普及広報の段階でまだまだ不十分なところがあるんですね。その辺のことを改良しつつ,改めてまた皆さんのお手元にぜひお届けしたいというふうに今考えております。こういうものをもしも使っていただくことが可能であればどんどんお使いいただいて,逆に私たちをお呼びいただいて,ワークショップをぜひやらせていただきたいんですね。こういうのはともにつくっていくカリキュラムにしていきたい。ぜひその中にボランティアの方々も入っていただきたい。このJSLカリキュラムを普及広報していくためにはどうしても皆さんのお力が必要なんです。なぜというと,さっき言ったように,子供の生活の場というものは学校だけじゃないわけです。地域もある。そして,そのいろいろな場をつなぐことによって子供の生活をどう保障していくのか,子供の学習をどう保障するかっていうのが私たちの仕事なんです。その仕切り変えていく必要性がある。JSLカリキュラムというのはそういうような機能も役割も持っているんじゃないかというふうに思っているわけです。ぜひこれはご協力いただければなというふうに思います。
 もう少しJSLカリキュラムについてお話をしようかと思ったのですが,50分でやめなさいというふうに言われておりますので,済みません,時間のことばかり申し上げまして,最後に改めて,異文化間教育というのはどういうことなのかというと,何が皆さんにとっていいのかな,あるいはこういうことをぜひお願いしたいということを最後にお話しして終わりにしたいと思うんですが,自分の実践を相対化して,文化的背景の違う学習者の視点から自分の実践を振りかえることだと思うんです。私たちの実践というのは,研究もそうです。自文化中心主義というものが非常にはびこっているわけです。ですから,その実践を振りかえる,あるいは相対化する視点になり得るということです。だからこそ判断留保とか対話であるとかコミュニケーションとかというものが必要になってくるということです。そこをぜひお願いしたいということです。
 一番最後に,31ページのところに,「異文化間教育からの提案」などと大層なことを書かせていただきました。日本語教育については,当然,日本語教育の世界の方々が大先輩であるわけです。しかしながら,先ほどから繰り返しになりますけれども,子供の日本語教育,そして子供がどういうふうにして日本語を習得していくのか,そのための支援といったときには,実践の縄張り,あるいは実践の領域であるとか研究領域の閉鎖性というものをいかに打破していくかってやっぱり必要だと思うんです。研究なり実践をどう融合させていくのかということが今強く求められている。逆にいえば,それがあるがゆえに,子供たちがなかなか自分の思いを言葉として表現できない,沈黙を強いられているということもあるんじゃないか。そのためには,どうしても協働というものが必要になってきている時代じゃないかなというふうに思うんです。
 昨年まで,私が任期で異文化間教育学会というところの会長をやらせていただいていて,西原先生とお話をさせていただくことがあるんですが,何か一緒にやりましょうという提案ですね。私たちも日本語教育のさまざまなこれまでの蓄積から学びつつ,逆に,今私が申し上げたような異文化間的な視点というものを持ち得ることによって子供の日本語教育という視点も変えることができるのではないか,多少,国家的になるんじゃないか。つまり,私たちがずっと今までよかれと思ってやっていたことが果たしてどうなんだろうか。しかし,それをやっていくためには子供との関係を変えていかなければいけない。そして,常に弱者,常に外国人だというカテゴリーそのものをどうやって相互作用の中で壊していくかということが求められているわけです。そういうことを相互乗り入れをしながら,具体的な実践レベルでの交流というものがこれからますます必要なのではないか。私もこの大会に初めて―初めてだと思いますが,呼ばれて来たわけですけれども,ぜひこれを機会に皆さんと一緒に何か考えていくような時間なり,実践というものをつくらせていただきたいと思いますし,逆に私の方から見れば,JSLカリキュラム等がございますけれども,そういうようなものの実践をぜひ一緒にやらせていただけないかという提案を逆に皆さんにさせていただきたいなというふうに思います。
 異文化間教育というのは何か硬いような話に聞こえがちですけれども,決してそうではない。くどいようですけれども,関係性。その関係性の中で子供たちが成長していく。そして,あくまでもマイノリティーだとか弱者というようなカテゴリーに埋め込まれた関係というのは変える必要もあるわけです。差別の構造というのを。そういうところに異文化間教育という視点がもしかしたら有効になるんではないかというふうに考えております。
 ちょっと言葉足らずのことがございますけれども,言い足りなかった部分は,私は後ほどのパネルディスカッションの方でまた登壇をさせていただきたいと思いますので,そのときに再度,もう少し補足的な説明をさせていただきたいと思います。
 ちょうど50分ということで時間を厳守させていただきましたけれども,午前中はありがとうございました。これで終わりにさせていただきたいと思います。(拍手)

司会(野山) 佐藤先生,ありがとうございました。時間を守っていただいて本当にありがとうございます。

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