地域日本語教育シンポジウム


日時:平成16年8月4日(水)
文化庁

地域日本語教育シンポジウム【主催:財団法人国際日本語普及協会】
  「外国人在住者の地域参加と共生社会の在り方」
 
司会 吉田 依子(社団法人国際日本語普及協会事業部長)
協議者 大蔵 守久(財団法人波多野ファミリスクール主管)
アブドラ ムザファー(気仙沼市「小さな国際大使館」館長)
平川 孝美 旧名:ブイ ティ ミン ヒュウ(賢明女子学院教諭)
ヤマダ キヨコ ベッティー(横浜市教育委員会指導主事助手)
助言者 西尾 珪子(社団法人国際日本語普及協会理事長)

橋本 皆さんおはようございます。
 定刻になりましたので,日本語教育大会の二日目を始めたいと思います。
 今日のプログラムは,午前中はこれから12:30まで,社団法人国際日本語普及協会の方に毎年行っていただいていますが,シンポジウムということで午前中行いたいと思っております。
 それから,午後は分科会形式になりますが,三つの会場に分かれまして研究協議会を行います。こちらの方は事前にお申し込みをいただいた方が対象となりますが,第1分科会と第5分科会,会場がグリーンホール,ここになりますけれども,こちらの方にはまだ会場に余裕がございます。まだお申し込みをされていない方でも,第1分科会と第5分科会は御参加いただくことができますので,御希望であれば,御出席いただきたいと思います。
 それから事務連絡ですが,昨日,1日目に忘れ物をされた方がいらっしゃいましたら,この会場の受付の方でお預かりしております。忘れ物がある方はそちらの方にお問い合わせください。それからあと,書籍関係,日本語教育の関係の書籍を学生ホールという,パンフレットの一番後ろの裏側に地図を載せておりますが,学生会館という建物の1階の学生ホールがございます。そちらの方で日本語教育に関する書籍を販売しておりますので,ぜひ御利用いただきたいと思います。
 それでは,早速プログラムに入りたいと思いますが,簡単に,このシンポジウムの事柄についてちょっと御紹介したいと思っております。
 私,文化庁の国語課の橋本と申しますが,文化庁では社団法人国際日本語普及協会の方に,地域の日本語教育関係の事業を幾つか委嘱をしてお願いしております。例えば,地域日本語支援コーディネータ研修とか,それから日本語ボランティア研修,それから教育相談事業とか,そしてこのシンポジウムも事業の一環として委嘱をしております。
 国際日本語普及協会,AJALTと略称で呼んでおりますが,AJALTの方は全国でいろいろボランティア研修とか,いろいろな取り組みをしていただいて,地域の日本語教育に関するいろいろな情報を,現場の情報をいろいろ収集されて,我々は非常に参考にさせていただいているんですが。毎回このシンポジウムでは,その地域のいろいろな日本語教育の現状,実情に関していろいろなテーマを設けていただいて,毎年シンポジウムを開催していただいております。今日はテーマといたしまして,「外国人在住者の地域参加と共生社会の在り方」というテーマでシンポジウムをお願いしております。
 それでは,早速ですが,進行をAJALTの吉田さんの方にお願いしたいと思いますので,よろしくお願いいたします。

吉田 ありがとうございました。
 ただいま御紹介いただきました国際日本語普及協会の吉田依子でございます。本日は司会進行を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 簡単に,趣旨説明とシンポジウムの進め方についてお話しいたします。
 先ほど御紹介いただきましたように,文化庁の地域日本語教育推進事業の中でのシンポジウムの開催は,今年で4回目になります。これまで地域日本語学習活動の充実,地域日本語支援のコーディネータの役割,ネットワークの構築をテーマにシンポジウムを行ってまいりました。今回は「外国人在住者の地域参加と共生社会の在り方」というテーマで,12:30まで行います。昨日のシンポジウムでお話しくださったエマニュエルさんが,「もっと外国人の声を聞くといいのでは」とおっしゃいました。今日は,エマニュエルさんにも喜んでいただける企画ではないかと思っております。
 2000年の全世界の推定移民総数は約1億7,500万人に上ったそうです。日本もこの大きな流れに無縁とは言えない状況になっています。2003年,平成15年末の日本における外国人登録者数は約191万人に達し,総人口の1.5%を占めています。大都市はもちろんのこと,小さな市や町でも外国籍住民の方が多くいらっしゃいます。気がついてみると,いろいろな文化や生活習慣を背負った方々が,私たちのすぐ隣で生活しているという環境になってまいりました。隣人として私たちができることをするというのはもちろんのことですが,外国からいらして地域に住んでいる方々にも,地域の活動に積極的にかかわっていただきたいし,企画段階からそのお力をかりる必要が出てきたのではないかと思います。
 一方方向の支援ではなく,互いによりよい地域社会をつくっていくために,外国人の方々にもぜひ一歩踏み出していただきたいと思います。そして,一歩踏み出していただくために,私たちは何をすればよいのか。今日は,パネリストにお迎えした方々と,会場の皆様と御一緒に考えてみたいと思います。
 今回のシンポジウムの流れを簡単に説明させていただきます。
 まず初めに,パネリストの方から自己紹介をしていただきます。前につくりましたお名前のところが,余り後ろからよくお見えにならないかと思いますが,自己紹介でしっかり紹介させていただきますので,お許しくださいますようにお願い申し上げます。その後,お一人ずつ,現在していらっしゃる活動,それからお考えになっていることなどをお話しいただき,それに関して質疑応答,コメントを会場の皆様からもいただきたいと思っております。
 次に,少しテーマは大きくなりますが,これからの共生社会の在り方について,パネリストの皆様と会場の皆様と意見交換をしていただければと思っております。どうぞ皆様,積極的に御参加くださいますようお願い申し上げます。
 それでは,パネリストの皆様を御紹介します。本日お迎えしたパネリストは,地域住民としてしっかり根をおろし,市民として積極的に活動していらっしゃる方々です。
 私の隣から,外国人在住者に対する日本語支援や生活支援を企画され,積極的に活動に加わっていらっしゃる宮城県気仙沼市の小さな国際大使館館長のアブドラ ムザファーさんでいらっしゃいます。(拍手)
 お隣が,神奈川県横浜市の教育委員会事務局小中学校教育課で指導主事助手をされているヤマダ キヨコ ベッティーさんです。(拍手)
 最後になりましたが,兵庫県姫路市の賢明女子学院の中学・高校で数学と情報を教えていらっしゃいます平川孝美さん,旧名ブイ ティ ミン ヒュウさんをパネリストとしてお迎えしました。(拍手)
 皆様の活動のお話が,地域の新たな活動へのヒントになれば大変うれしく思います。
 それでは,自己紹介をお願いいたします。

ムザファー 皆さんおはようございます。
 私の方,最初から始まりますけれども,自己紹介の方はたしか一番難しいと思います。なぜかというと,たった5分だけ説明するんですけれども,そして自分の人生,今は42歳ですけれども,この42年生きたのをたった5分だけで説明するんです。そして,始まる前に,皆さんは,ちょっと私も迷っているんですけれども,どっちがよろしいですか。英語で話すか,日本語で話す。どっちもよろしいですか。じゃ日本語でしましょう。
 私の名前はアブドラ ムザファーです,クウェートの出身です。クウェートはとても小さな国です。よく皆さん御存じですけれども,日本の自衛隊,今しょっちゅうクウェートに入って,クウェートからイラクに入るんです。クウェートは,人口は大体400万人ですけれども,クウェート人だけは100万人です。あとほかはほとんど外国人です。だから4分の1だけクウェート人です。生まれてから今までは,この意識は向こうでは国際の言葉を余り使わないです。もう毎日国際の生活をしているんです。だから,日本に来たときは,たしか毎回毎回国際活動,いろいろ何でもかんでも国際の言葉を使うんですけれども。私,正直言って,14年ぶりに東京に来ました。17年間ずっと宮城県の気仙沼に住んでいたんです。だから,東京に昨日来たんですけれども,もう東京は大丈夫かなとずっと不安だったんです。まるで別な国に来る感じだったんです。なぜかというと,もう本当に田舎の男が東京に来たという感じです。でも,昨日来て,東京の人も日本語しゃべるんだ,大丈夫だ,こういうふうにやっとほっとして安心しました。
 正直,私17年前に気仙沼に行ったときは,外国人の方は少なかったんです。大体2人,3人ぐらいですか。そして町中を歩くと,もうみんなじっと私の顔を見て,まるでエイリアンが歩いているようにです,町中。もうみんな指差して「外人だ,外人だ」。だから,あのとき本当に嫌になったかもしれないです。でも,今は町中を歩くと,子供たちみんなは外人のかわりに「ハロー」と声かけるんです。だから,やはり日本もだんだんインターナショナル,国際的な町になったかな。
 そして,自分の妻は日本人ですけれども,彼女は気仙沼出身です。そして,皆さん多分知りたいかもしれないですけれども,彼女にどこで会ったか。本当はこれはトップシークレットです,言ってはいけない。でも,せっかくわざわざ東京に来たんだから,言いたいんです。実は昔私はカリフォルニア大学で4年間,コンピューターサイエンスの勉強に行ったんです。彼女も英語を1年半ぐらい勉強に行っていたんです。そしてある日,私はカリフォルニア大学の中を歩きながら,急に彼女に会いました。そして急に止まったんです,固まって。そして声をかけました。もちろん英語の会話ですけれども,Excuse me Where are you from,どこから来ましたか。そして彼女は日本から来た。そして私の方からYou are beautiful,あなたは美しいよ,私は面食いだよ。そして彼女はThank you,ありがとう。そして私は「じゃもう一つ聞いていいですか」,そして彼女は「何ですか」,「実は私あなた結婚したいんです」,そして彼女は「いいよ,別に」。そして世界で一番早い結婚だったんです。まあ皆さん,冗談です。
 現在,子供がうちは3人いますけれども,中学校3年生,男の子と小学校5年生,男の子と,一番下は小学校3年生,女の子が生まれたときはやったー,万歳をしたんですけれども,やっと女の子が生まれたんです。
 私が日本に来る前の日本のイメージは今と比べると全く違いました。例えば,日本のイメージは,昔は日本というと富士山,芸者,電気製品何でもつくれる国です。でも,私も経験あるんですけれども,私の妻はクウェートを訪ねたとき,私の弟は昔,これは20年前の話ですけれども,ソニーのウォークマン,厚いのを持っていたんですけれども,「ミユキ,ミユキ,直して」。そして私の妻は「えっ直す,何のこと」。そして私の弟は「だって日本人何でも直すでしょう」「いや違う,違う」。だから,向こうの日本人のイメージはみんな賢い。みんな何かが壊れたときは修理に出さないんです,自分で家で直すの。でも,日本に来たときはイメージ変わった,日本はなんときれいな国,日本は電気製品の国だけじゃないんです。日本はコンピューターの国だけじゃないんです。だから,人間関係は温かい。お互いに尊敬するのはとても大切なこと。だから,とてもこの国がだんだん好きになって,だから日本に来たときは確か,あなたはだれを一番愛している,もちろん私の妻一番愛している。でも,残念ですけれども,彼女は今ランク2になった。1は日本愛している,2は彼女です。ありがとうございます。ちょっと長かったかもしれない。(拍手)

ヤマダ おはようございます。
 御紹介いただきましたブラジルから来たヤマダ キヨコ ベッティーと申します。皆さんが御存じの通りブラジルはクウェートと比べるととても大きな国です。今のお話を聞いてムザファーさんはナンパがとても上手なんだなあと驚きました。
 私が初めて来日したのは20年前ぐらいです。留学生として,国で勉強していた心理学の知識を深めるためにきました。そのとき,日本は狭くてごちゃごちゃしていて,日本人は気を使いながら時間に追われて生活していると感じました。本音と建前,ストレートに物事を言えないということには戸惑いました。
 そのときは,日本での「心理学」が,ブラジルとか海外で勉強されている「心理学」とはちょっと違っていて,セラピストとかカウンセラーの地位もやっていることも違うと分かり,あまり勉強にならなかったなと感じ,ちょっとがっかりして,もう日本には戻らないと思いながら帰国しました。
 その後,私はスペインへ留学して,またブラジルに戻りました。しばらくしてから,日本からブラジルへ仕事で行っていた私の今のパートナーに会いました。その後,私はまた日本に再度来日しました―「外国人花嫁」として…。それが15年前ぐらいです。
 私の自己紹介は簡単ですが,これで終わらせていただきます。(拍手)

平川 おはようございます。
 私は,21年ぐらい前にベトナムからやってまいりました。ベトナムの名前はちょっと長いんですが,ブイ ティ ミン ヒュウといって,風がヒュウと飛ぶ,それと同じ発音なんですが。実は,私はボートピープルとしてボートでサイゴン陥落から7年くらいたって,ちょっと共産党の政権に耐えられなくて,国を逃げることになったんですね。そのときは,私の兄2人と,私は家の中では末っ子なんです。3人で国を逃げまして,幸いなことに3日間だけかかって,マレーシア近辺の海にたどり着いたんですね。そこからマレーシアにある難民キャンプに運ばれたというか,運んでいただいたんです。そこから自分たちの意思で日本に行くことを希望して,当時は難民キャンプには,日本を希望するというベトナム人はほとんどいなかったんですね。どうしてかというと,非常に知られていないと思います。私たちは日本に行きたいという特別な理由というのもありますが,日本に行きたいということを言ったら,周りのベトナム人の友達たちが,もう一斉に変わった者だなというふうに言うぐらい,非常に珍しいケースでした。その関係で,日本に行くことの許可がおりまして日本に来ることになったんです。それはもう21年前,逃げたのは15歳ぐらい,もう年ばれましたね。
 そして,兵庫県にある姫路市,きれいな世界遺産の姫路城の近くに難民センターというか,きちっとした言い方は定住促進センターですね。そこに入れられるというか,悪い表現ですね。そこに案内していただいて。
 第1印象というのは,それまで全く日本語が分からなかったんです。空港で初めて日本人らしき女の方が電話して,当時,公衆電話がものすごくはやっていたと思いますけれども,携帯なんていうのはなかったんですよね。公衆電話をしている姿が目に入ったんです。何を言っているのか分からないんですけれども,「はい」と言いながらうなづいて「はい,はい」と,それが初めての私の覚えた日本語だったんですね。
 センターに入っていって,センターの方が非常に何という礼儀正しさ。私が見たことのない,マレーシアではそんな礼儀正しい方に出会ったことないなというふうに思いました。初めは好印象でした,すごく。今でも好印象ですが,誤解しないでくださいね。
 それから,ちょっと夕方,夕暮れだった時期だったんですが,関西国際空港からにぶの仁豊野に向かっていたんですか,非常にネオンの光というか,町が明るい,もうまぶしいほど明るかったという,今でもその印象が残っていますね。というのは,それまで私は1年ほど,難民キャンプといっても島だったんですね。島の上での難民キャンプですので,非常に夜になると暗いんです。暗いし,暑いんです。もちろん冷房がないんです,当たり前ですけれども。赤道のちょうど真上ですよね,マレーシアというのは。かなりもう年中暑いところですが。それがいきなり非常に技術の最高に発達している日本に来て,もうそれでびっくり仰天というか,ものすごく印象が深かったんです。それぐらいでよろしいでしょうか。
 今現在は,ちなみに平川孝美になっていますが,名前は両方使っています,都合のいいときに使います。書類上にはこの名前になっていますが,普段は,その風が飛ぶ,風のごとくやってくるというヒュウという名前しか使っていません。家でも,一歩勤め先を出たら,自分のベトナム名を使っています。それも事情がありますが,また後ほど,また機会があればお話しいたしましょう。この辺で,一応自己紹介とめておきます。(拍手)

吉田 皆様ありがとうございました。
 一番後ろの方,声の具合はいかがでしょうか。届いておりますでしょうか。何か聞こえにくいなどがございましたら,サインを出していただければと思います。ちょっと聞こえにくいですか,大丈夫ですか。聞こえにくいようですから,ちょっと手を挙げていただけますか。聞こえにくいですか。じゃ皆様,もう少しマイクに近く,このくらいではいかがですか,大丈夫ですか。はい,ありがとうございます。なるべく近くでお話しいただけますようお願いいたします。
 それでは,ムザファーさんから,現在していらっしゃいます活動の内容について,少し詳しくお話しいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

ムザファー 皆さん,今聞こえますか,大丈夫ですか。
 さっきの話ですね。17年前,気仙沼に来たときは,たしか外国人の方は全然少なかったです。私ともう一人のアメリカ人の方と,あとオーストラリア人の方,たった3人。気仙沼の人口は6万5,000人ですか。そうすると,6万5,000人の中でたった3人だけだったんです。そうすると,来たときは,たしか私の妻は日本人,日本語を話す。だから,もう私の右の手みたいです。困ったときは助けてください。ただ,これ以上は,例えば彼女が入院したときは,私は一人で家で留守番したんですけれども。そして毎日,郵便局さんはいろいろな手紙を持ってきますね。そして,この手紙をあけると全部日本語が書いてあります。そして,例えば電気代か水代かガス代か,全然何も書いてなくて,ただ数字と,あとムザファーは片仮名で,「イェイ,ムザファーと書いてある,分かった,分かった。これは何か,自分の名前だ」。でも,これ以上は分からない。そうすると,仕方なく,隣のおばちゃんの家にわざわざ行って,「おばちゃん,ちょっとこれ読んで」。でも,やはり人間はたまにはプライバシーもありますね。こういうものはちょっと見せたくない。でも,隣のおばちゃんはもう全部見ている,見せているんだから,あらあら,ムザファーは随分今月の電気代大きいですね。今月は随分金使った,VISAカード使ったね。だから,もう私の秘密は全部分かっているんです。だから,もう悪いことをすることはできないんです。なぜかというと,彼女は私の秘密を全部分かっているんです。だから,これを考えると,やはり何とかならないかなって。なぜかというと,町中を歩くともう全部日本語。空気の中は全部日本語。だから,私いろいろな国に行ったことあるんですけれども,そんなに困ったことはないんです,正直言って。なぜ,この愛する国に来てそんなに困るの。だれのせいかな。なぜかというと,私も自分のイメージは,日本語を話せないから問題ないんですけれども,でも,全部漢字で書いてある。そうすると,例えば一番驚いたのは電気製品です。電気製品,例えば私の妻が入院したときは,あなたが洗濯してと言われたの。分かった,私頑張って洗濯します。でも,洗濯のボタンを見ると,全部漢字で書いていますよ。そうすると,どれにしようかなと適当に押したり。だから,これもとても困った。
 あのときは,10年間でやっと心は落ち着いて,じゃこれからは気仙沼のために,外国人のために何かやりたいと思ったんです。そして,この間に外国人の方がだんだん増えました。現在430人ぐらいいます。そうすると,ほとんどお嫁さんが多いんです。フィリピン,韓国,中国人がほとんどです。そうすると,彼らのために,私も自分で苦い経験たくさんあったし,困ったこともあったし。だから,これからは彼らが困らないためには,私が何かしないと。
 6年前に,気仙沼市長に,たまたまチャンスがあって,いろいろ会議があったんです。そしてあのとき私はポンと口から出したんですけれども,「市長,お願いがあるんです。ぜひこういう小さな大使館をつくりましょう」。そうすると,皆さんは多分小さな大使館,何でこういう名前をつくったか知りたいでしょう。実は,外国人の方,例えば日本人の方が海外旅行に行くときは,パスポートなくしたとき,お金なくしたときにどこに行く。やはり日本大使館。そうすると,大使館は何のためにできているかというと,国の人たちを助けるために。それで,例えば私が知りたいこと,パスポートの関係,ちょっとアドバイスしてほしい,もらってほしい。クウェート大使館は東京にあるんですけれども,わざわざクウェート大使館に行って,いろいろなアドバイスをもらうんです。でも,私たちが気仙沼でフィリピン人のためにフィリピンの大使館をつくるのはとても難しい。それで,あのときはこのユニークなアイデアですか,小さな大使館。そういうわけで,この小さな大使館は,いろいろな国の方は小さな大使館にいけば,向こうが知りたいこと,困ったこと,ちょっと聞きたいことは,もう小さな大使館のスタッフはぜひとお手伝いする。
 まずはこの小さな大使館の活動ですが,例えば,4年前にやっと設立したんですけれども。そして現在まで,まず月に4回,日本語教室をやっています。これはだれが参加できるかというと,ほとんど外国人のお嫁さんたち。フィリピン人と韓国人,ブラジル人もいるし,ペルー,チリ,いろいろな方は正直言って日本語がほとんどゼロです,彼らは月に4回,(木)の14:00間来るんです。この場所はどこにできているかというと,気仙沼市役所の中の場所を借りて,日本人の学校の先生たちのボランティアの方が来て教えるんです。
 そして,もう一つのことは,お嫁さんたちは小さい子供がいるんです。1歳,2歳,3歳の子供たちはまだ幼稚園に行っていない。そうすると,ここも私の方は負けないで,じゃもっとボランティアの方がほしいんだよ,ベビーシッティングしてほしい。そうすると,もう一つの部屋を借りて,お母さんたちは勉強しながら,隣の部屋で3,4人のボランティアの方が子供たちの面倒を見るんです。そしてこれは毎月やっています。ただ,日本語の勉強だけでは足りない。そして去年からもう一つふやして,これは何かというと,日本の生活の勉強です。なぜかというと,日本語が上手になるだけでなく,やはり毎日の生活の中ではこれもとても大切なこと。彼女たちの旦那さんたちはほとんどフィッシャーマンで,船に乗って1年に1回しか帰らないんです。それで,おじいさん,おばあちゃんと一緒にいるか,それともひとり暮らし。だから,やはり彼らにアドバイスしたり,日本の文化を教えたり,日本の考えを教えたりする。小さな大使館の力をもっと入れて,彼らたちにいろいろなことを教える。  もう一つは,毎月簡単な新聞をつくっているんです。これは小さな大使館ブリテンニュースペーパーというんです。この新聞は英語,日本語,あとは中国語の新聞です。この新聞の中身ですけれども,まず町の活動。今月はどういう祭りがある,どういうイベントがあるかを書いているんです。もう一つは,気仙沼に住みたかったら,例えば新しい単語は覚えてほしい。例えば皆さんは日本語を覚えると,「これは鉛筆だよ」とこれは分かるんですけれども,「幾らですか」,これはHow much。ただ,これ以上の言葉も,例えば市役所に行くとき,普通の会話は使わないんです。「誕生日いつですか」言わないですね,例えば「生年月日」。こういう単語も教える。毎月五つぐらいはこういう単語を覚えてください。これもとても大切なこと。
 そして,教室の中だけじゃなくて,もう一つ大事なことは町中を歩きながら案内する。例えば,今月は公立病院の観光―観光と言ったら変かもしれないですけれども。公立病院の中,皆さんこういう機械ありますよ。ここはカードを入れて,自分の名前を書いて,例えば番号を押して,そしてここは線がありますよ,青い線に行くとレントゲン,こういう会話をしながら教えるんです。なぜかというと,やはり人間はパンフレットだけあげて読んでくださいというのは,結局は置いておくだけ,読まなくなる。だから,実際聞きながら,見ながら勉強しましょう。これも毎月毎月やっています。
 もう一つはイベント。このイベントは何のためか。外国人を喜ばせるのではなく,町に住んでいる人たちは,日本人たちと外国人たちはお互いに仲良くしましょう。仲良くしましょうということは,結局私たち残念ですけれども田舎です。そうすると,田舎はまだちょっと壁があるかもしれない。フィリピン人の隣はフィリピン人のお嫁さん。「こんにちは」と声かける優しい親切かもしれないですけれども,でもこれ以上は余り会話ないかもしれない。そうすると,例えば国際料理をやったり,たまにキャンピングやったり。
 例えば,気仙沼の人たちは,あなたたち,もしフィリピンのことを知りたかったら,わざわざフィリピンに行っていろいろなことを勉強するかもしれないけれども,あなたの目の前にフィリピン人がいるんだよ,何でも聞いていいんだよ,フィリピンのこと。そうすると,いろいろな活動が。例えば3年前,気仙沼で大きな港祭りがあるんですけれども,3年前からはフィリピンのパレードがあるんです。インドネシアのパレードもある,中国のパレードもある。それだけでなく,ここで満足しないで,屋台も…,例えば気仙沼の人たちは,生まれてから今までは焼き鳥食べるのは当たり前,焼きそば食べる,当たり前。でも,去年からインターナショナル屋台があるんです。韓国の屋台,クウェートの屋台。私の方は無理無理もう参加したんですけれども,シシカバブを出したんです。親に電話して,つくり方教えてください。おいしかったかどうか分からないんですけれども,一応は参加したい,目立ちたい。だから,こういう活動をいろいろやってみたかったんです。
 そして,小さな大使館についてもう一つお話しする前に,外国人のためにだけじゃなくて,例えば英語班,インドネシア語班,中国語班があります。だからだれでも,例えば気仙沼の中でスペイン語をしゃべる人は,お願い,名前を申し込んでください。あなたの名前と電話番号は私たちがキープする。なぜかというと,万が一何かあったとき,例えばスペインの方,ペルーの方は,このボランティアの方にお願いして,通訳してくださいと頼みます。彼らの電話番号をきちんとメモしているんです。なぜかというと,例えば,気仙沼の人がインドネシアに行きたい,日本人の方ですけれども。そうすると,小さな大使館に来るんです。「ちょっと私,インドネシアに行きたいんですけれども,インドネシアの細かいことを聞きたいんです」。そうすると,インドネシア語をしゃべる方にお願いして,そして彼にいろいろな情報,細かいことを聞いています,だからお互いに,小さな大使館は日本人のためにもできているし,外国人のためにもできているんです。だから両方だと思います。
 これから一番力を入れたいことは,小さな大使館のオリジナルホームページをつくりたいということです,ネットワークをつくりたいんです。なぜかというと,私たちの町は,隣の町,たくさん小さな町がいっぱいあるんです。ところどころの町に10年,15年,20年のお嫁さんたちもいるんですけれども,彼らたちは悩むときとか問題があるときはメール送ったり。ただ,残念ですけれども,彼らはコンピューターの使い方がまだ分からないかもしれないです。それで,ちょうど今年4月に小さな大使館でできれば,今年は無理かもしれないですけれども,来年はもう一つレッスンをふやしましょう。これは何かというと,コンピューターのレッスンをお嫁さんに教えてみようと
思っています。お金もかからない。なぜかというと,さっきの話,私は4年間コンピューターの専門の勉強したんです。だからもうかなりできる。そうすると,彼らにぜひコンピューターの勉強も,簡単なメール,どうやってメールを送るかも教えたいんです。
 だから,これからはこの小さな大使館は,本当に小さな大使館ですけれども,いつか自分の夢は大きな大使館にしたいんです。ありがとうございます。(拍手)

吉田 ムザファーさん,ありがとうございました。
 引き続き,ヤマダさんにお話をしていただきたいと思いますが,今この瞬間にどうしても聞いておきたいということがおありの方はお手をお挙げいただけますでしょうか。
 よろしければ,ではヤマダさんにお話をしていただきたいと思います。お願いいたします。

ヤマダ ムザファーさん,気仙沼市の外国人人口は430人とおっしゃいましたね。私の住んでいる横浜市の外国人登録者数は5月末現在で6万8,257人です。日本における外国人の登録者数人口は総人口の1.5%と吉田さんがおっしゃいました,横浜市では1.9%です。
 横浜市では,354校の小学校があります。中学校は145校です。全部で499校で,在籍している児童生徒数は26万人ぐらいで,その中に50か国からの外国人児童生徒が2,170人います。その中で621人が日本語指導を必要としています。この数字は外国人だけ,要するに外国のパスポートを持っているお子さんだけです。外国につながる児童生徒を含めましたら,この数字は2倍ぐらいになると思います。
 私は,2000年から横浜市の教育委員会でForeign Consultant,指導主事助手として働いています。主に外国につながる児童・生徒の教育に関するプログラムを担当しております。私は,この仕事に就く前に,約10年間神奈川県で外国人からの様々な相談を受けたり,職業安定所で外国人の仕事探しを手伝ったり,労働相談の通訳をしました。その間に,たくさんのボランティアの方にお世話になったり,一緒に仕事をしたり,連携をとりながらいろいろとやってきました。そのおかげで,たくさんの方とのつながりができたと思います。
 その方たちの中で,日本で生活している外国人の子供たちの教育にかかわっている方たちから最近よく言われるのは「教育委員会は遠い存在だと思っていたんですけれども,最近になってちょっと柔らかくなって,身近に感じるようになった。」ということです。そういうとき私はとてもうれしいです。 行政だけの力ではできないことがいっぱいあると思います。外国人児童・生徒の教育もその一つです。皆さんもよく御存じのとおりに,日本語ボランティアの支援を受けた子供たちと,支援を受けなかった子供たちの日本語能力−生活言語能力と学習言語能力−を取得するための期間にはとても大きな差が出ます。
 そこで,私自身は日本語の指導員とだけではなく,外国人の子供の支援に携わっている方たちのすべて,ボランティア,学者さん,学生,研究者とはいつも連携を意識しながら仕事を進めるべきだと思いますし,お手伝いができることはいつでもやりたいと思います。以上です。(拍手)

吉田 ありがとうございました。
 ヤマダさんのお話はとても短くコンパクトに終わりましたので,ちょっとさらにお話伺いたいと思うんですが。その教育委員会に入られて,ヤマダさんがとても今よかったなと思っていらっしゃることはどんなことでしょうか。

ヤマダ 一つは,外部の人,と言ったらおかしいかもしれないけれど,教育委員会の人ではない方たちから,連絡がとりやすくて,何かお願いすることもしやすくなったと言われるときはとてもいいです。
 もう一つは,私が勉強したのは児童心理学なので,この仕事を始めて少しは子供たちに近づけたという気持ちです。私は子供たちに日本語を教えたりしないので,もうちょっと子供たちに接したいと感じたりしますが,私の好きなことをやっているとは思います。

吉田 ありがとうございます。
 さらに,急に教育委員会に入られたというわけではないと思うんですが,どのような経緯で今そういうお仕事をしていらっしゃるのか,ちょっと補足していただけますでしょうか。

ヤマダ 私が日本に来たときは,日本語を話すことや平仮名,片仮名の読み書きはできていました。でも,簡単な漢字以外は分からなかったので,2年間日本語学校に通って勉強しました。
 日本語は本当に難しいと思います,特に読み書きは。昨日ムザファーさんと平川さんとお話しした時,お二人もおっしゃっていましたが日本語を覚えるため,本当に努力をしたそうです。私も,日本語学校での勉強以外に家でも5時間漢字の書き取りなど勉強を毎日しました。
 日本語能力検定の1級を取ってから,ボランティア活動か何かやろうかと思って,神奈川県外国籍県民窓口に相談しました。ちょうどそのときにポルトガル語とスペイン語のできる人を探しているので応募するようにと進められて,応募したら運良く採用されました。その仕事と横浜市と川崎市の職業安定所の通訳と労働局のアドバイザーの仕事を同時に9年間くらいしました。
 ある日,職業安定所にいたとき教育委員会からポルトガル語とかスペイン語,英語ができる人を探しているとの電話がありました。私の目の前にちょうどフィリピンの方がいましたので,紹介したら話が違っていて私に応募してほしいとのことでした。で,応募したら,また運良く受かってしまい,今の仕事をしています。

吉田 ありがとうございました。
 ヤマダさんに今ぜひ御質問ということがありましたら,お手をお挙げいただければと思います。よろしいでしょうか。
 それでは,平川さん,お話をいただければと思います。

平川 どうもお待たせしました。私は,さきのパート2ということで続きのお話をさせていただきたいと思います。
 姫路市の仁豊野(にぶの)の方に来て,私のそもそも国を逃げたという一番大きな理由というのは,私は本国に,自分の母国ベトナムにいても続けて勉強することはまずできないというのが目の前に分かっていたことです。というのは,政治的な関係で,私の父は旧政権の国会議員だったんですね。本政権,共産党政権の方に暗殺されたんです。そんなわけで,履歴書が悪いということをはっきりと言われました。なので,もう目の先は真っ暗で,そんなわけで,もうこれではということで逃げる決心をしたんですね。
 なので,もうとにかく勉強できるところならどこでもいい,もうとにかく続けてできることならば。ただ,ここで小さい声で申し上げますが,勉強は嫌いなんです。嫌いですが,将来のことで,かなり小さいころから母に教育されてきたんです。とにかく勉強しろという,もう勉強しなかったら何もできないよという,母自身が勉強できなかった身分だったので,そんなわけもあって,嫌だと思いながら,でも勉強は続けたいということで日本を希望したわけですし,日本に来て,じゃもうどうやっても,何があっても勉強を続けたい。すごく熱心さが伝わったんでしょう。勉強したいということで,センターにもその熱心さが見事に伝わって,珍しく,その近くの市内の私立カトリック系の賢明女子学院,今の私の勤めているところなんですが,そこに入れていただいたんですよ。
 最初は,この人どういう人かなって,多分向こうも考えておこうという期間で聴講生として入れてもらったんです。聴講生というのは,クラスの名簿には載っていません。正式に一員になっていませんでした。それが中学2年生の半ばだったんですね。ようやく中学3年生になって,試験とかもありまして,それでようやく「もうあなたは正規生になれるんだよ」,その一言ですごくうれしかったんですね。
 結局,正規生として中学3年生が修了して,そのまま一貫教育のところなので,そのまま高校を続けて,言葉の問題もありましたので,とにかく文系というのは無理なんですね。将来の進学を考えるときに,まず文系というのは無理。じゃ国立も無理。削っていくと,理系の中で一番これは日本語を使わないであろうと思う数学を選んだわけです。それは大間違いでした。もう大学に上がると文字だらけの数学ですよね。あれはn次元の世界でやっていますので,高校までの数学というのは3次元なんですよ。目に見えるxyzの3時空が空間までが最大ですけれども,もう大学に行ったら文字だらけで,あれからまた数学の言葉を勉強したんですが。
 それはさておいて,それがきっかけで,では数学科を出たら,今度はどういう仕事を選ぼう,その都度,その都度考えたんですが,のん気な方ですのでね。それで,初めはすごく理想高く,お医者さんになりたいなと理想高く思って,数学科を選んでこれではなれないというのが分かって,なれないから,じゃどんな仕事ができるのかなと,数学科の卒業生としてね。そうすると,機械を相手にするのか,人間を相手にするのか,その二つの道の中のどれかというのを考えたときに,人間の方が嫌な部分もあるけれども,おもしろそうだなということで選んだわけですよ。なので教職の道を選んだんです。それが大学3年生のころでした。そのころから,もう教師になろうということを決心して,幸いなことに,横浜にある雙葉学園で内定をしていただいたんです。そこで3年間,専任として数学を担当しました。赤い糸で結ばれて,明石まで糸を張って結ばれて結婚してしまって,相手は明石なので,結局兵庫県に戻らないといけない状態になって,雙葉を去ることになったんです。で,前置きが長いんですが,現時点は賢明の,自分の母校としてのところに戻ったわけです。
 私は,お二人の方ほどすばらしく外国人のためにというのはほとんど,考えてみたら恥ずかしいくらい何もしていないなと,今ちょっと身をもともと小さいですけれども,さらに小さく感じているんですが。
 本職以外の活動と申し上げると,大したことではありませんが,翻訳もしています。ちなみに,大したベトナム語はしていません。15歳に国を出ましたので,私の知っているベトナム語の基本的な,基礎的なベトナム語というのは,その15歳まで身についた部分なんです。それからプラス私の日ごろ読書している部分とか,それで忘れないようにしているわけですが。その能力で翻訳を年に何回か引き受けたり,本職でさえちゃんと仕事をきちっとこなしていないかもしれないので,大きい声では言えませんが,通訳もたまに引き受けたりします。これはものすごく特別なケースでないと,私は引き受けないことにしているんですね。というのは,例えば私が過去にしたケースで,小学校3年生のベトナム人の子がレイプされたんですね,日本人の中年の男にレイプされた事件なんです。そういうような特別なケース,つまりプライバシーを絶対に守らないといけないケース,プラスその子のあとのフォロー,教育に関すること,精神的なフォローも兼ねてのものしか引き受けません。それ以外はほかの方でもできるということで逃げています。
 それから,進学相談が主に一番多く相談を受けているんです。もちろんベトナム人のみです。別に何人でもいいですが,ただ私の身の回りにいるのがベトナム人が多いので,教会関係もありますし多いので,その関係で結局,結果的にはベトナム人の相談しか引き受けていないなということになっていますが。
 実は,私は驚くほどのことですが,子供たちは自分の親の仕事以外の職業を余り知らないのがびっくりするんですね。どういう仕事に興味持っているのと聞いても,分からないんです。じゃテレビとかいろいろなものに目を向けていって,例えばニュースとか見て,例えばテレビとか見て,あるいは周りの人たちの仕事を見て,どういうのがいいのかなって一応考えてみなさいと宿題を出したんですけれども,そういう子供が意外に多いんですね。びっくりしました。多いから,結局どういう方向に進めばいいか,もちろん分からないわけですよ。自分の可能性は別としてね,可能性は別として,興味持っている分野自体分からない。何に興味持っていったらいいかというか,それすら分かっていないから,興味持てないという考え方もあるでしょうけれども。そういうのを相談を受けたりしています。
 それから,年に何回か,話は下手なんですが,どういうわけか,何回か講演は依頼されていますが,主に私が引き受けるテーマとしては人権に関する講演ですね,それから多文化,ともに生きるという,一緒に暮らすにはどうしたらいいかというようなテーマ,まさに今日のテーマなんですが。そういうテーマに関しては,頼まれたら喜んでするという形で,毎年何らかの形で何回かありますが,それぐらいですね。
 現在,活動を止めている,休止中というのもあります。実は私は4年前に子供ができて,今4歳ですね。その子供ができる前は,ベトナム人の子供たちに,私のあいている時間,平日はほとんど無理だったんですが,(土)(日)だけなんですけれども,その二日をかけて,勉強についていけない子供たちに教えたりしていたんですね。それをずっと2年ぐらいやっていまして,それで子供ができて,これは無理だなということで,私の今勤めている学校の隣にカトリック教会があって,そこの一角の部屋を借りて,教会の方に頼んで引き継ぎをお願いしてあります。今でもそれが続いているんですが,私は一切タッチしていない状態なんです。もう放ったらかしにしている状態なんですね。
 将来は,できれば私の本職から離れないように,子供の教育,それを重点にして,特にベトナム人の子供の教育に重点を置いて活動できたらなと思っています。もちろん本職以外の一つの仕事として,それができたらなと思っています。もうちょっと子供が大きくなったら,夢見ていますが,そんなところでよろしいでしょうか。(拍手)

吉田 平川さん,ありがとうございました。
 会場の方のマイクはスタンバイできておりますでしょうか。
 まず初めに,パネリストの3人の方に,今のいろいろなお話でちょっと質疑応答とかありましたら,お願いいたします。

ムザファー ヤマダさんにちょっと聞きたかったんですけれども,さっきのお話,気仙沼では外国人の方は430人ですけれども,でも横浜では6万8,000人以上ですか。そして一つ聞きたいんですけれども,この6万8,000人はかなり大きいと思いますけれども,彼らが一番困っていることとか,悩みあることの一番は何ですか。

ヤマダ 何でしょうね。その6万8,000人の中にもさまざまな方がいらして,日本に来られた理由もさまざまだと思います。国籍もいろいろとありますし,ケース・バイ・ケースじゃないでしょうか。
 例えば,私の出身の国のブラジルから来ている方たちは,主に出稼ぎで,労働者として来ています。ですから,その方たちの一番大きな悩みは,やはり労働関係じゃないでしょうか。私も相談員として働いていたときは,いろいろなケースの相談を受けました。
 今,私は子供の教育の方の仕事をしていますので,教育に関する悩みだけを聞いていますが,ここでもトラブルとか問題は本当に多いです。

平川 ムザファーさんに質問したいんですが,日本語指導,月に4回とおっしゃっていたんですよね。それって,教える方のあっせんはどのように工夫されているんですか。教える先生の数とか。

ムザファー 現在,生徒さんは19人いるんです,毎回変わるんですけれども。ただ,先生たちは必ず3,4人一緒にいます。だからメインとサブ,こういう感じです。そして学校の先生たち二人と,あとはアシスタントみたいです。そうすると,先生が教えながら,あとは書くレッスンもあるんですけれども,そうすると,この4人の先生たちが回って歩きながら,一人一人と一緒にしゃべったり,会話したり,そして大体4人ぐらいいます。

平川 その4人というのは,学校の先生というのは市からなんですか。それともボランティアとして,御自分で。

ムザファー 学校の先生たちですけれども,でもまったくボランティアを,私たちは教育委員会にお願いして,この時間あけて,この時間,例えば何時から何時までは小さな大使館に来て教えてくださいと。だから全くフリーです。

平川 ありがとうございます。

吉田 ほかにいかがですか,よろしいですか。
 それでは,会場の皆様,何かコメントをいただければと思います。
 それで,大変紹介がおくれましたが,こちら私の隣に本日のコメンテーターとして,国際日本語普及協会の理事長の西尾珪子が控えております。御紹介おくれまして失礼いたしました。では,後ほどコメントをもらいたいと思います。
 それでは,すみません,お手をお挙げいただきましたのに失礼いたしました。じゃ,前の方から。

参加者 埼玉県の加須市から参りましたKと申します。
 今日は,3人の方のお話を聞いて,私のかかわっている外国人の方を本当にもうみんな連れてきたい。少なくとも3人ぐらいは連れてきて,そうするともう本当に,こんなふうに日本の国の中で根づいて頑張ってやってくれているんだということがどれほど力になったかということを考えると,私はぜひ連れて一緒に参加できればよかったなというふうに思います。
 特に,ヤマダさんや平川さんの場合には,現在に至るまでに日本の人たちとどういうふうにかかわりながら,現在に至ったかというところがよく分かるし,ムザファーさんも,特に奥様も助力もあったと思いますし,その辺よく分かるんですが。ムザファーさんにお聞きしたいんですけれども,市長さんとお話になったということはお聞きしたんですが,その後,今この小さな大使館と地方自治体との関係,どんなふうな協力関係でやっていらっしゃるか,そこをちょっとお聞きしたいと思います。
 実は,私が今ここへ来ているのも,これからこういう市でやっているグループ単位の日本語支援,それから生活支援のそういうグループをまとめて,行政とどういうふうに一体化してやっていくかということを,皆さんのお知恵をおかりしたいと思って参加したものですから,ぜひムザファーさんのお話をお聞きしたいと思っています。

吉田 ありがとうございます。じゃ,ムザファーさんどうぞ。

ムザファー 私,気仙沼の話をしますけれども,気仙沼の中にはいろいろな団体があります。ただ,これは個人です。そうすると,この団体は予算を決めれば,この予算があれば何か活動やりましょう,こういうイベントやりましょう。
 ただ,私の考えですけれども,6年前の話ですけれども,こういう個人の団体はいつまで続くか分からないし。そうすると,自分自身はこういう団体,小さな大使館みたいのをつくりたいんですけれども,ただ,サポートは100%市からです。こうしないと,結局個人になると,だれだれさんお願いします,今度こういうイベントありますよ。ちょっとコピーお願いするよ。忙しいんです,今日は私参加できないと,結局は最後こうなります,個人の場合。そうすると,これはよく私も理解しているんです。この小さな大使館の前は,幾つかの団体もあったんです,自分自身でつくって。友達同士でこういうことをやりましょうというときは電話をかけて,ごめんなさい,私明日はいないんです。来週は,もうだんだん面倒くさいことも出るし,疲れも出るし。そうすると,一番正しいと私思うんですけれども,やはり市にお願いすれば。例えば市にお願いするときは,今日は面倒くさいと言わないから,市が面倒くさいと言ったらもう悪いです。だから,小さな大使館の方は全く,例えばオフィスから,機械から,コピー機から,全部市が用意しているんです。そうすると,これはレギュラースタッフが3人いるんです。この小さな大使館はまちづくりの中のグループですけれども,そうすると,こっちも安心して小さな大使館は死ぬまであるんです。そうすると,これ安心です。
 ただ,個人の団体だったら,もう例えば私がクウェートに行って,自分の故郷に帰って,日本に戻ったときは,この団体はもういないかもしれないんです。だから,やはり市の方がやれば確かに安心だと思います。よろしいですか。

参加者 ありがとうございました。

吉田 今のことに関連して,どなたか何か御意見,御質問等おありでしょうか。
 前の方,お願いします。

参加者 今のことでムザファーさんに重ねてお尋ねしたいんですが,東京の品川区でNPO法人の日本語支援教室をしておりますNと申します。
 個別の活動については,区の方の支援というか,援助もいただいているんですが。ムザファーさんの場合は,その小さな大使館という活動全部がもう市と一体化しているわけですよね。その活動を始めるアイデアはムザファーさんが出されて,先ほどのお話ですと,市長さんとお会いになる機会があって陳情なさった,お願いしたというふうに私は理解しましたけれども。やはり,そういう個人的な何かつながりが最も基本だったんでしょうか。
 今後,例えば皆さん大勢そういう方いらっしゃると思うんですけれども,確かに市とか区の協力のもとで行けば,かなり安定した活動が得られます。私たちも,実は資金づくりというのが今一番の問題でして,ボランティアの活動をしながら,では資金の調達はどういうふうにしようかというのがかなりの問題になっておりまして,ムザファーさんの活動の安定性の源に非常に興味があるんですね。それはムザファーさん個人の御尽力で,市長さんとお話し合いになって,そういう権利を非常に幸いな形で得られたのかなと。ほかの人もそういうチャンスはどうしたら得られるのだろうと思いまして,ちょっとそこら辺,もう少し詳しく教えていただけますでしょうか。

吉田 ありがとうございました。
 もちろんムザファーさんの魅力も十分あるかと思いますが,じゃちょっと詳しくその辺をお願いいたします。

ムザファー ごめんなさい,短くしますけれども。もちろん,私と市長の関係は全く何もないです。ただ,市長からなぜこういう話が出たかというと,実は市長は,自分自身が市長になったとき,気仙沼に住んでいる外国人を3,4人ぜひ招待して話したいということで,私たちはあのときは市長のオフィスに行って,確か御飯を食べながら一緒に話をて,そして市長があのとき私に聞いたのは,「ムザファー,あなたは気仙沼に今もう10年以上いるし,もう外国人の先輩。そして気仙沼の中で何をしたいですか,もし市の力をかりたかったら」。そして,私はあのときこの小さな大使館の話をしたんです。
 ただ,まさか市長がオッケーと言うと思わなかったです。私一応は声かけたんです。そして1年半たって急に電話が来て,ちょっと市長があなたに会いたいです。そして私は行って,市長は「ムザファー,あなたが言った前の話,小さな大使館が私すごく気になって興味があるんです」。ただ,私が市長と話したときは,イベントをやるとか,いろいろな活動をやるというのが目的じゃなかったです,最初は正直に言って。
 一番の目的は,外国人が困ったとき,どこへ行けばいいの。例えば簡単な話ですけれども,離婚の話,旦那さんの暴力。そうすると,彼らはどこに行けばいいの,だれに相談すればいいの。そうすると,気仙沼の中にこういう小さな大使館つくってほしいと,まずこういうこと。だから,多分,市長はこれを頭の中に残したかもしれないです。まず,外国人と気仙沼の市長はお互いに平和に仲良く住んでほしい。だから,この町中でトラブルは起こしたくない。じゃ小さな大使館があった方がいいんじゃないかな。そしてあのとき,警察の方も呼んで一緒にまた話したんですけれども。私は宮城県の警察通訳センターでもいろいろやっているんですけれども,裁判までたまに行くんですけれども。
 そして,小さな大使館の活動,実は余り細かく言いたくないんですけれども,外国人の方が小さな大使館に来て,月に1回,第3(木)にあるんですけれども,外国人の方で困った方,悩みがある方,自分の旦那の暴力,だれでも来るんです。そうすると,私たちも秘密を守って聞きながら,ただ私たちは弁護士ではないから,そうすると,例えばあなたは離婚したい。分かった,じゃ専門の方の電話番号を私が教えて,専門の方に行ってくださいと私は推薦します。こういうふうにもやっています。だから,小さな大使館のまずもとは,外国人を助けるためだったんです。まずこれが最初だったんです。よろしいですか。

参加者 じゃ,気仙沼にはもともと余り外国人のための窓口がそれまでなくて,市長さんのお考えと,ムザファーさんのアイデアとが一緒になった。

ムザファー そうです。

参加者 市長さんが変わっても,多分それは引き継がれて……。

ムザファー いや,もうずっと続くと思います。でも,最初これがまずできた後はレギュラースタッフがいます。レギュラースタッフは7人です。そしてボランティアの方は大体80人です。皆さん毎回集まらないですけれども。そして,毎回ミーティングしながら,こういうアイデアが出る。例えば3年前,市民運動会。市民運動会は地域だけ出ます,例えばここの地域ですけれども。でも,3年前はこういうアイデアで,じゃ外国人の方も市民運動会に出てほしい。そうすると,3年前から私たちも市民運動会に出ているんです。小さな大使館の運動会の活動も出ています。
 だから,もうできるだけ皆さんのアイデアは―アイデアを出すのはただです,お金かからない。だから,皆さんばんばんアイデアを出してくださいといつも言っています。

参加者 ありがとうございました。

吉田 それでは,ほかに御質問,コメントありましたら。じゃ,こちらの列の方お願いいたします。

参加者 Kと申します。
 平川さん,ヒュウさんに御質問なんですけれども。ベトナムを出られるとき,日本を希望した人がほとんどいなかったというお話でしたけれども,そのときどうして日本を希望なさったか,御説明していただかなかったので,秘密なのかなと思ったんですけれども。もし差し支えなければ,どうして―周りの方は多分ほとんどアメリカとかオーストラリアとか行かれたと思うんですけれども,どうしてわざわざ日本に。それが一つ。
 あともう一つが,そのとき,日本に対して何か一つイメージを持っていたと思うんですけれども,それから日本に来たばかりのときも多分イメージがあったと思うんですけれども。それから今現在,日本に対してのイメージ。その三つのイメージ,ベトナムにいたときに日本に対するイメージ,日本についたばかりのときの日本に対するイメージ,それから今現在,日本に対するイメージ,その三つですね。
 質問二つありますので,よろしければお答え願いたいと思います。

平川 日本に来る理由は秘密にしようかと思っていたところですが。実は,そもそも出た理由としては,もう勉強できないから逃げたわけですね。なので,勉強できる環境であればどこでもいい。じゃ,なぜ日本を選んだかというと,周りには―周りというのは,日本以外の受け入れの国としたら,当時はオーストラリアとかアメリカとかカナダとかが一番メインというか,一番人数的に多いんですね。その中でいろいろ迷ったわけです,実は。迷って,一番ポピュラーな考え方でいくとアメリカですね,第一は。そうすると,アメリカとなると,1983年でしたので,そのときの規制としては,私の父が旧政権の者ですから,当然無条件でその者の子供がアメリカに行けるんですね。ただし,18歳以下です。私は条件はクリアしていました,18歳以下でしたので。ですが,私と一緒に来た兄2人が18歳より上だったんですね。なので,これで私が一人でアメリカに行って,それから私の名目で残りの二人を呼び寄せるという形であれば行けるわけです。ですが,そこまで死を覚悟して一緒に逃げたもので,今離れて,そこまで離れる理由があるのかなということで,それよりじゃ3人一緒に行けるところ。しかも,私たちの条件としては,一刻も早く,1日でも早くマレーシアを出たい。
 というのは,そこはもう本当に,西尾さんも来られたそうですが,本当にすごいところです。すごいというのは,とにかく島の上なんです。赤道の真上なんですね。トタンでつくられているんです。非常に暑いんです。部屋の中にいても,頭触って熱い,熱って感じだったんですね。どこにいても,海の中以外は暑いんですね。多分西尾さんが来られたときは,トタンでつくったそのトタンがほとんど壊れていて,ビニールシートで補修されたらしいんですが,私のときはトタンの方が主にだったんですね。それでもぼろぼろですけれども,雨が降るともうぼろぼろ,雨水が入ってきますね。その状態なので,もう一刻でも早く出たい。なので,たまたまそのときにカナダと日本が受け入れるよと,希望出したら審査するよという知らせで両方出したんです。実はどこでもいいということで,両方出して。ただ,日本を思いつくそのきっかけというのは,昔に私が来る大分前に,私の遠い親戚の人が数学を勉強するために日本に来たみたいです,話によると。私の母からその話を聞いたんですが,数学の博士課程を修了したらしいんですけれども。その人がいるんだということで,じゃ日本に行ったら勉強の方ちょっと頼りになれるなというのも,一つの大きなきっかけだったんです。ただ,来たときは彼はもういないということが分かったんですが。それはさておいて,それも一つの御縁だったと思いますが。
 両方,カナダと日本に出したら,日本人は非常に勤勉ですね。感心しました。マレーシアに来られて,カナダの高等弁務官も一緒に来られたんですね。日本の方と一緒に来られて,ただ暑いので,カナダの方々はもうちょっと一息休もうということで休んだわけです。その間,日本人の方は早速仕事が始まったわけです。なので,先に呼ばれました。先に引っかかったんです。それが御縁ですね。本当によかったと思います。カナダに行ったら,私はもともと勉強は嫌いな方なので,すぐ勤勉な国でないと,多分私もだらけてしまうと思いますので,かえってよかったと思います。
 二つ目の御質問は,日本に来る前の印象というのは,正直に言ってゼロに近い印象でした。さっきのムザファーさんと同じぐらいですが,もうとにかく富士山,それも形すら,恥ずかしいですが勉強しなかったので形すら,きれいな富士山があるというのはちらほら聞いただけであって,写真を見たこともないですね。きちっと勉強したら,恐らく教科書に載っていたでしょうけれども,勉強する気もなかったので,本当に教科書見なかったんですね。知らないんです。きれいな富士山があるという程度なんです。あとは,ちらほら日本人は低いよ。だから,家はすごくもう屋根も低くてという話を聞いたくらいです。それは日本に来る前ですね。余り良くないですね,ごめんなさいね。
 日本に来たときの印象はさっき申し上げたんですが,ものすごく本当に明るい国,きれいな国。私の最初に出会った日本人というのはセンターにいらっしゃる方ですので,その関係もあるでしょうけれども,非常に丁寧ですね。説明も丁寧にしてくださるんですね。なので,日本人ってこんな丁寧なのねって。食べるときも,私の家ではもう全然普通にこうやってひじをかけて食べたりしていたものですが,今はもう完全にそれはなくなっていますが。それが普通だったのに,日本に来たときは,それが全然日本人にはその風景が見られないんですね。感心しました。
 今の印象はどうかといいますと,私の今一番多く触れ合っている日本人といったら,若い人たちですね。今現在中学1年生を担任しています。去年は高校3年生を担任しています。6歳差がありますが。印象と申し上げますと,これは賢明の質がもろに見えてしまうと思いますが,私の思っていたほどの丁寧さというのがどこに消えたのか,不思議なんです。ロッカーを,生徒一人一人のロッカーがあるんですね。2階建てになっていますが,下の層がギザギザしている形になっています。それはなぜかというと,足で閉めているんです。ここは女子高なんです。私の思っていた丁寧さはどこに消えたのか,この子らが大きくなったらどうなるのかなって,日々燃えて,その子供たちを真っすぐになるように曲げていますけれども。年のギャップもありまして,生徒からしたら,私の年はちょうどお母さんぐらいでしょうか。お母さんより1歳,2歳ぐらい下でしょうね,中学1年生の子にしては。去年の子たちは高校3年生ですので,ちょっと年とったお姉ちゃんという感じでしたが,今年はまさにおばちゃんですね。なので,そのギャップもありますけれども,それだけじゃないんですね,カルチャーのギャップもありますね。
 言葉づかいもびっくりするほどすごいんですね。「むかつく」という言葉自体,私の頭の中の辞典がその言葉は存在しなかったはずですが,このごろはしょっちゅう聞いていますし,それから「死ね」という言葉も軽く使っているんですね。これはびっくりしますよ。多分皆さんもびっくりなさって―びっくりなさらないんですね,これは重症ですね。もう本当に,生徒の回す手紙をもらったというか,ほかの子から「先生,こんなのあったんだ」と泣きそうな顔をして持ってきたんですけれども,それを読むと,もうあんた早く死ね。ものすごく簡単に,私の世代にしたら「死ね」という言葉のかわりに「ばか」とか,それと同じレベルに使っているように思います,最近の生徒を見たら。
 なので,今の印象は,子供に対しての印象はそれなんですが,大人に対しての印象は,私の出会う層は,ほとんど本当にそれこそ御父兄の方とか,今のこういったボランティアとか,そういう人権に,あるいは外国人の問題を熱心に考えていらっしゃるような方々が多いので非常に好印象なんですが。ただ1個,こういう嫌な思いをまだいまだに覚えていますが。私が横浜雙葉にいたころに結婚したんですね。横浜で式を挙げました。何とかのカテドラルでしました。その結婚式のための準備として,教会の中の説明とかを受けないといけなかったんですが,これは教会に対しての批判を決してするつもりはありませんが,たまたま出会った方なんですけれども。そのおじさんが,初め出会ったときに,私は当時はまだ国籍帰化をまだしていませんでしたので,名前はベトナム名でした。外国名を見たせいなのか,それは全く推測に過ぎない話ですが,「今時間がないの」と言われまして,「別な日に来なさい」と言われて,別な日って,私の主人になろうとする人が明石なんですね。なので,別な日と言われても大変だなと思って,もちろん予約とかもしないといけない,それは常識的ですが。2時間後ということを言われましたので,ちょっと早く来たんですけれども。それで,そのおじさんと歩きながら聞かれたんですが,「あんた,どんな仕事をしているんだ」,「私はこの近くの学校で勤めています」,どんな仕事,どんな仕事と突っ込まれるから「数学を教えています」と言ったら,「ちょっと今案内しようか」って急に変わったんですね。その案内を早速してくださったんです。助かったのは助かったんですが。だからといって,すべての日本人はこうであるとはもちろん言えないことです。ですが,中にこういうどこの国にもある話だと思いますが,私の出会ったたまたまその中の一人の日本人はそれでしたので,印象的というと,すごく仕事で判断される方がいらっしゃるんだなと思いますね。
 なので,私は帰化するときに,さっき理由はあるとか,事情があるとか,さっき一言言ってそれで流したんですが,帰化したときに,なぜアルファベット一部分を使わなかったというと,本当に日本名にした方が便利なんですね。これは残念な話なんですが,便利なんです。私は黙っていれば,何も疑われないで済む。私も何も物事を言わなかったら,多分ですが,私のことを日本人だと勘違いされているでしょう。だから,普通の目で見てもらえる,そう考えて,もちろんその理由だけではないんですが,それが自分のどこかにあって,迷わずに日本名に全部にしたんですね。これは一つ理由だったんですが。ちょっと残念ではあるんですけれども,これだからと言って,私は日本人になったわけではないんですけれどもね。
 ちょっと話はずれましたが,こんなものでよろしいですか。

参加者 どうもありがとうございました。
 仕事とか身分とか立場とかを見て判断するというのは,常日ごろ私自身も経験しておりますので。時々私自身が教師になったり,普通の労働者になったり,いろいろ立場を変える生活をしております。

吉田 ありがとうございました。申しおくれましたが,御質問の際,お名前と御所属をお願いいたします。
 ほかにいかがでしょうか。先ほどあちらの奥の方,お手を挙げていらっしゃった方があるかと思いますが,じゃどうぞ。

参加者 埼玉県でボランティアをしていますTといいます。
 今日のお話ありがとうございました。お3人の方にお聞きしたいことがあるんですけれども,近年になりまして,随分と地域の日本語教室が数多くされてきていると思います。ボランティアの数も大分ふえていると思うんですが,先ほどちょっと,いろいろ親切にしてくれるのはいいんだけれども,プライベートな部分もというお話があったり,人権のお話とかもあったりしましてお聞きしたいんですが。
 私もこうやっていまして,時折,日本語を教えるボランティアという形でのみ,何か動いているようなところが大きいように思うんですね。やはりそちらの表題にもあるように,地域参加と共生社会ということを考えた折に思うことは,やはり生活支援というものを基盤にして外国の方々と一緒に住むということの意識から,その中から日本語を一緒に勉強しましょうということなのではないかなと,最近では私自身も周りの方と一緒に活動して強く思うんですけれども。それでお願いしたいことがあるんですが,とりわけ地域の日本語教室あるいは日本語教室のボランティアの方たちが,昨今,学校教育の方に取り出し授業とかでかかわることが多くなってきていると思いますが,そういう方々に向けて,何かもっとこういう視点から日本語を一緒に勉強しようという形の支援をしてほしいということがあれば,お尋ねしたい。つまり教える側ということが非常に強く私は出ているように思うんですね,最近のボランティアに対して。そのことに対して何か御意見があればいただきたいということが一つ。
 それからもう一つなんですが,小さな大使館という活動を通しまして,それからあと人権とか,外国人の労働の問題とかも通しまして,それから帰化をされたという平川さんのお話とかから思うことは,やはり外国人の方の参政権の問題は大きいのではないかと感じています。ですので,その参政権,すなわち一緒に住むということであれば,やはり参政権のことについて何か御意見があれば,お尋ねしたいと思います。お願いいたします。

吉田 ありがとうございました。
 大きな質問を二ついただいたかと思います。お3方に一人ずつ,まず初めの質問についてお答えいただけますでしょうか。

ムザファー まず,例えば,どうやって外国人に上手にうまく日本語を教えるというんですけれども,例えば日本の国は残念ですけれども,一つのことが足らないです。例えば,私の国はさっきの話,クウェートは,400万人の人口ですけれども,この中でクウェート人は4分の1だけ。ただ,一番大切なことはテレビの番組です。例えば,日本もNHK教育がありますね。クウェートの場合,いろいろなチャンネルがあるんですけれども,一つのチャンネルは外国人のためのチャンネルがあるんです。これは全く簡単な英語です。そして,この番組のチャンネルですけれども,半分はクウェート人の方が出るんです。リポーターか,アナウンサーか。でも,半分は外国人が出るんです。例えばこういう番組があるんですけれども,インド人のマジョリティーは,クウェートにいるインド人は大体20万人以上ですけれども,インド人の方はアラビア語をぺらぺらしゃべる,英語をぺらぺらしゃべる。そうすると,ここでインド人のためにアラビア語を教える。町の中のいろいろな活動,いろいろな情報を教える。この番組は24時間ですけれども,外国人のために。そうすると,外国人の方は,この番組,このチャンネルをつけて,勉強しなくても聞きながら自然に,ほかの国の言葉が自然に耳に入ると思います。だから,日本の場合は今スカイパーフェクトテレビですけれども,例えばフィリピン語を聞きたかったら,スカイパーフェクトテレビのスペシャルの専門のチャンネルがあるんです。そして,NHK教育も日本語を教える番組があるんですけれども,ただ何か足りないです,正直言って。そして,もし私が日本語を覚えたかったら,専門の学校に行く。専門な学校に行くとかなりお金がかかる。外国人の方は,そんなにお金をかけたい方はいないと思います。例えば月に何万円。
 そうすると,小さな大使館の場合,私たちはどういうふうに教えているかというと,一つは,日本語は小学校の教科書を使って教えているんです。もう一つは,気仙沼の三陸新聞があるんですけれども,あの新聞の中は漢字,ハイライトの漢字,今日はこの漢字だけを覚えましょう。そしてもう一つは,日本語を覚えながら,例えば三陸の新聞は3番目のページはお葬式,だれが亡くなったとか,これまで教えているんです。なぜかというと,私たちの毎日の生活の中ではこれも大切だよ,これはアドバタイズメント*1じゃないんだよ,だれかが亡くなったんだよ。ここの中でいろいろなことを教えているんです。
 だから,実は言葉覚えるのは,昨日も吉田さんと西尾さんと話したんですけれども,実は言葉はぺらぺらになりたいより,うまく人間関係,人間の気持ちに入りたかったら,やはり言葉,ことわざ,冗談,これ全部言葉です。これ全部うまくしゃべれば,上手に相手の人間とコミュニケーションがうまくいくんです。だから,お名前は何ていうんですか,何歳ですかではなく,もっと深く。
 例えば皆さんは,私日本に来てから17年間ですけれども,日本の国―ごめんなさい,ちょっと話外れるかもしれないですけれども。例えば日本の国は島の国,島の国と言われているんですけれども,実はそんなことないと思います。不思議なことがあるんですけれども,例えば日本人は何でも食べられる。世界じゅうの国の食べ物何でもチャレンジする。イタリアの料理,中国の料理,韓国の料理,何でも好きです,何でも食べたい。
 もう一つは行事。日本はほかの国と比べて世界一行事が多いです。もう毎週あるんです。そしてこれは日本の行事だけだったらいいんですけれども,例えばクリスマスとかバレンタインデー。バレンタインデーでは足りない,じゃ義理の日をつくろう,ホワイトデーをつくった。今度はまた何年たつと,分からないんですけれども,ホワイトデーからもう一つつくれるかもしれないです。だから,日本の国,本当に行事が好きな人間,食べ物が好きな人間。
 じゃ,何で島の国,何で外国人と合わないか。ここは私も正直言ってなかなかぴんと来ないんです。だから,じゃ言葉かな。例えば,パーティに行くときはいろいろな人間に会う。そして,いつもみんな私に同じパターンを聞くんです,納豆食べる。そして納豆,グッド,オッケー,オフコース。そして刺身食べる,オッケー。そして次に漢字できる,できない,じゃ日本人にならなんだ,じゃんじゃんと終わるんです。そうすると,皆さん考えるのは,これ以上の会話ないのかな。納豆食べますか。パーティの時間は3時間だよ,皆さん。納豆食べますか,刺身食べられる,すごい。まるで納豆食べれば,刺身食べれば,国籍日本人を簡単にもらうと,そんなことないですね。でも,これ考えてみると,納豆食べられますか,刺身食べられますか,そうすると安心,ほっとして,この外国人もやはり日本人になった。
 でも,私,将来のことで心配事一つあるんです。最近はテロのことを結構みんな不安ですし,心配ですけれども,例えばテロの方は,日本人の気持ちに入りたかったら,皆さん,納豆食べる食べる,刺身食べる。それで仲良く仲良くなっても,もっとひどいこと,悪いことをするかもしれないです。なぜかというと,みんなほっとして,この外国人の方は日本人になった。だから,皆さんは外国人の方で納豆食べる人は,日本人の気持ちになったんじゃないんだよ,皆さん。だからこれは忘れないでください。
 ごめんなさい,オーバーしたんですけれども。

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吉田 ありがとうございました。ちょっとずれたかなと思いますが。どうぞよろしくお願いします。

ヤマダ 最近ボランティアの方も取り出し授業とかいろいろとやりながら日本語を教えて,その意識が教えることだけになっているとおっしゃっいましたが,私はそう思いません。逆に,ちょっと前までは外国人は何も分からない,何もできない,何も知らない,かわいそうだから何とかしてあげないとだめと考えていた日本人はたくさんいたのに今は大分かわったと感じます。特にボランティア活動していた方の中ではそんな方が多かったと思います。
 今でも,私たちのことをかわいそうだと思っていらっしゃる方もいるでしょうが,日本を本当に好きで,自分の故郷を捨ててまでも来ている外国人がたくさんいるということは知っていただきたい。今ボランティア活動をされている方と接していると,皆さんはお互いに学んでいるということを分かっていてやっていると思います。ボランティア自身が上から,下にいる外国人に教えているという気持ちをもっている方はあまりいないと感じます。

平川 そうですね,日本語指導というのは,ふだん私はもうほとんど携わっていない状態なんですが。私の身の周りに,特に最近はベトナム人の男の人が在日ベトナム人の女の人を飽きたのか,本国に行って美人を連れてくるんですね。その若い奥さんたち,しかも,かなり年齢も離れていたりするケースも多いんですね。その若奥さんたちが来て,当然言葉が分からないんですね。本当に最近,日本語を教えてくださるという方がふえたと思いますね,本当に多いんです。上からなのか,私は実際携わっていないので分からないんですが,実際自分がその団体の中の一員とかではないのでね。ただ,多いということと,それからできることなら,一番私は生活に困っているというところは,その若い人たちが日本に来て,本当にごみの分別とかも,それすら分からないんですね。それから,分かっていても,しないといけないというのは分かっていながら,なぜしないといけないのか納得いかないという部分もあります。だからちゃんとしない。ちょっとこれ1本ぐらいまぜて,一緒に紙類に入れてもいいんじゃないかという軽い意識が多いんです。
 というのは,本国には,ベトナムにはまぜて捨てた方が,ごちゃまぜにした方がかえってありがたいんですね。捨てると,ほかの人がそれで生活費の一部として,それを拾ってリサイクルに売るんですね。なので,まざって捨てるのが当然だと,そのようにずっと小さいころから,生まれたときからずっとその環境の中で生きてきた人間なので納得いかないところがあって。日本語だけの勉強じゃなしに,プラスそういう生活の中での話,勉強というよりも話をする,一緒にする。そしてお互い聞いて,それがものすごく大きい勉強じゃないかなと思いますね。第一印象で,そんなごみの問題で近所のつき合いが悪くなったら,もうやはりそこの奥さんはできないと,そこの奥さんはちゃんとしてくれないから嫌だなということになったら,本当にうまくやっていけないし,どんどん孤立してしまいますので,悪循環になりますので,ぜひそこら辺にも力を入れていただきたいなと思います。生活に関しての指導,日本の日常生活の中での物事の考え方とか,それの情報交換ができたらいいなと思います。それを通して日本語の勉強になるかと思いますね。

吉田 ありがとうございました。
 それでは,もう一つの御質問,参政権についてということで,じゃ平川さんからお願いいたします。

平川 そうですね,これほどおかしいことはないと思いました。それは税金は払っているわ,でも参政権はないわ。発言の場がないんですね,いわば意思表示の場がないんですね。でも税金を一通り皆さんと,一般の日本人と変わらないはずですよ。それはすごくおかしいなとずっと思っていたんですね。
 私の帰化する理由の一つ,参政権という理由もあります。さっき帰化したら便利だからという,もちろんそれだけじゃないんですけれども。参政権,自分で意思表示はできる。今回は民主党に投票した方がいいのかな,そういうたった1票だけですけれども,主人の1票を入れて2票になりますものね。結構大きいと思います。それの周りを全部合わせていったら,もう10票軽々超えるので,すごく大きいと思いますので,ぜひその辺のところもね。
 それから,参政権だけでもないんですが,現在はちょっと良くなっているんですが,数年前までは,外国籍の人が公立の高校とかの教師になれなかったんですよね,数年前までは,今は大丈夫だと思いますが。そういうところもあって,おかしな国だなと部分的に,全部じゃないんですが,そういうところはもうちょっと開放的にオープンな形でしてもらいたいなとは思いますね。以上です。

ヤマダ 私も外国人の参政権は大事だと思うんですけれども,その前に日本人でも,その権利があるのに使っていないということがとても不思議だと思います。私の国では選挙で投票することは権利じゃなくて義務になっています。外から見ていて,義務化した方がいいんじゃないかなと思う時もあります。その方が日本人の政治に関する意識が大きくなるんじゃないですか。ですから,権利になっても,外国人がみんな投票するかということはちょっと分からないと思いますので,外国人の参政権というよりも,日本人の方が先にきちんとやった方がいいんじゃないかなと思います。
 先ほどの日本語のことにちょっと戻るんですけれども,私も日本語を教えるというのは,まさに生活の支援だと思いますので,日本語指導,生活支援と分けて考えていません。ですから,日本語を指導されている方は生活の支援も同時にしていると思います。

吉田 それでは,西尾さん,今のことに関していかがでしょう。

西尾 もう少し…。

吉田 もうちょっと後で。じゃ,もうお一方ぐらい,御質問がありましたら。

参加者 座ったままで申しわけございません。私,愛知県K市国際交流協会日本語教室のボランティアをしておりますBと申します。
 ヤマダさんにお聞きしたいのですが,私たちの住んでいる愛知県は,豊田市,豊橋市と同様に日系のブラジル人がとても多くいます。私の住んでいる江南市も,近くに小牧市,もう少しで中部国際空港になってしまうんですけれども,名古屋空港があるということで,私の住んでいる江南市は小牧市の隣にありますので,その関係上,江南市に住んでいる外国人の9割が日系ブラジル人または中国人で占めています。横浜市みたいに多国籍ではないので。
 そして,私は日本語ボランティアの中でもブラジル人を担当しているんですけれども,そこでお聞きしたいのですが,ブラジル人は最初出稼ぎのために日本に来て住んで,2年から3年のうちに帰るという目的なので,日本語を勉強しなくてもいいわ。周りがもっと10年,20年住んでいるヤマダさんのような方が通訳をしてくれればいいわという関係で,なかなか日本語を勉強しなくてもいいという安易な考えを持ったブラジル人の方もいらっしゃいます。そして,それからその気が変わり,日本にだんだん定住して,それが2年が3年,3年が4年,4年が5年というふうに長くなっていって,子供もブラジルで生まれたわけではなく,日本で生まれて,日本の公立の小学校や中学校に入るということが多くなってきています。横浜市の教育委員会みたいに,外国籍のヤマダさんのように,私たちの江南市は100%日本人で教育委員会はなっておりますので,小学校に入ってもなかなかどういうふうに対応していっていいのかが分からない状態です。だんだん公立の小学校に入学する小学生,中学生が多くなってきていますので,私は日本語ボランティアとしてなんですけれども,ヤマダさんにお聞きしたいのが,具体的にいつカウンセラーみたいな感じでやっていらっしゃるのかということと,あと日本語の指導を分かる範囲で構わないんですけれども,日本語の指導を公立の小学校の教室内でやっているのか,はたまた市役所のある一部分の部屋を借りてやっているのかという,もう少し市立小・中学校に在籍する外国籍の児童の教育にかかわってとおっしゃっていましたが,もう少し具体的にいつやっているのかとか,私たちの市でも,そういうふうに日本語のボランティアが必要になるぐらいの日本語指導を必要としている児童がだんだん増えてきていますので,横浜市の例で構いませんので,ちょっと具体的に教えていただけたらいいと思います。

ヤマダ まず先に,ブラジル人ですけれども,本当に国民性で怠け者なんです,私も含めて。ですから勉強しようと言っても余りしないと思うんです。今定住化が進んでいますが,2,3年で帰る,いつかは帰るという考えはみんな持っています。いろいろな人と話していると,いつか帰るんだから,日本語は勉強しなくてもいいやという人が多いです。マジョリティーがそうだと思います。日本には仕事をしに来たんだから,お金をために来たんだから,時間もないし疲れているんだからいいやという人が多いと思います。私は,大人だったら別にいいと思うんですよね,自分の自己責任だから。ただし,私が大きく本当に問題になっていると思うのは,教育に関するそんな大人の意識が子供にも伝わってきちゃっていることです。それと,特にブラジル人の間では,子供を公立の学校に行かせなくてもいいやという人たちがいます。どうせブラジルに帰るんだから,ブラジルの教育を受けたらいいと思っている人もいます。日本では義務教育じゃないので,無理やり行かせることはできないしこっちも何も言えません。これが今一番大きな問題だと思っています。親の意識を動かせることが一番大事だと思います。で,多分皆さんは大人の方と接していると思いますので,そんな親御さんの教育に関する意識を動かしていただきたいなと思います。
 住んでいらっしゃるような小さなところでは,教育委員会からの,そういう日本語支援とかが余りないからこそ,ボランティアの方々の力が必要だと思います。私が働いている横浜市の教育委員会では日本語の講師が24人いまして,全員母国語,いろいろな言葉ができます。現在は2か国語以上できないと採用しないということです。その方たちに学校に回っていただいたり,あとは集中教室というのが4か所ありますので,そこで近隣の学校からの生徒に放課後日本語を教えてもらっています。先ほども言ったように,日本語指導というのは本当に生活支援なので,日本語だけ教えるということじゃなくて,心の相談も結構受けていると思います。
 大人は自分が決めて,自己責任で日本に来ていますが,子供たちは自分が来たいから来ているということではない,来るのがいやなのに連れてこられている。例えばブラジルで友達もいて,学校生活もよくいっていたのに,日本に来たらだれも知らない。学校に入ったら,昨日エマニュエルさんが言っていたように,字幕なしの映画を見ているように感じている子供さんもいるでしょう。ブラジルでは成績もよかったのに,日本に来たら急に「ばか」になったということなので,本当に心の問題は大きいと思います。そういう心の相談員にも,その先生方はなっていると思います。
 あと横浜市の方には,日本全国と同じように,国際教室があります。学校に5人以上外国籍で,日本語指導が必要な子供がいるときは国際教室が設置されます。横浜市では今48校に設置されています。この仕事もちょっとやっていますが,こんな支援が横浜市の教育委員会からはあります。でも,まだまだ足りないと思うときがありますので,日本語支援のボランティアの力が必要だといつも言っています。

参加者 ありがとうございます。
 あと,どうしてももう1点その件でお聞きしたいんですけれども。日本で生まれた子供が定住が長くなり,形ということで公立の小学校に入ることが多くて,例えば連絡帳とかありますよね。そういう連絡帳をよく,やはり担任の強制で持ってくる持ち物とか,いろいろな便りとか,そういう便りとかは大丈夫ですけれども,例えばインフルエンザのあれですとか,風疹のあれですとかも,全部やはり日本語で書かれているので,持ってはくるんですが,やはり親がそういうふうに意識をなかなか持たないというのか,ただ学校に入れさせればいいわという意識が多いのか。やはり日本語だけなので,なかなか風疹とかはしかとか,やはり子供が結構通訳をして,子供の立場で書いてしまうことが多くて,それはよくないなとは思っているんですけれども。親の意識をちょっともう少し,やはり公立の小学校に入れたんだったら,意識を高めるためにはどうしたらいいのか。

ヤマダ ごめんなさい,でもね,その意識というのは外国人だけじゃないと思いますよ。学校に入れたらもう学校に任せるというのは,今の日本人の親の中でもたくさんいます。何もしてくれない親はたくさんいますから,それは外国人だけじゃないと思います。
 確かにおっしゃったように,そのものが翻訳しているものでなければ,子供に訳をしてもらったり,話し合いに子供に通訳をお願いするなんてとんでもないと思います。本当は子供は「あなたはもっと勉強しないとだめだよ」,と言っているのを「僕はとても上手だ」とか「いい子だ」,と訳しているのかも分からないですよ,何を言っているのか分からないのだから。そういう通訳を頼むのは難しくて良くないと思います。
 横浜市の方では,そういう連絡,学校の文書とか通知の翻訳集があります,8か国語でできています。学校の方は,例えば運動会がありますとか,いつ,持ち物はこれですということを,ポルトガル語とかスペイン語とかいろいろな言葉で書かれているものを親に渡すようにしています。
 あと,通訳が必要なときには,横浜市の国際交流協会にボランティア通訳という制度がありまして,その力をかりています,とても助かっています。もうちょっと個人的でプライベートな問題があるときには,先ほど私が言いました日本語の先生たちに行っていただいたり,あるいは私が何かできる時は,私も学校の方に行って,親と話したりはしています。

参加者 ありがとうございました。

吉田 ありがとうございました。
 それでは,コメントを西尾さんからいただきたいと思います。

西尾 一つ一つにかかわるコメントをさせていただこうかと思ったんですけれども,有意義なお話がいろいろと進んでいきますので,むしろ最後に少しまとめて言わせていただこうかと思って,今まで黙っておりました。
 今日はともかく,この3人の方に皆さんの前でいろいろとお考えを披露していただきたいと思ったのです。今,御存じのように,日本に定住する外国の方がますます増えておりますけれども,今までの時期は,外国から来られて,その方たちを日本人が支援する,外国人は支援される,それからあるいは,私ども日本人が受け入れる,日本社会が受け入れる,そして外国の方が受け入れられるというような,こういう図式の中でいろいろなことが整備され,計画され,そして実際に支援が進んでいっていたと思うんですけれども。
 私は最近このぐらい本当に腰を据えて一生懸命この日本社会のために尽くしていらっしゃる外国の方たちを実際見ますと,私どもももう少し観念を変えなければいけない,そういう時代が来たのではないかと思うのです。違う価値観とか違う文化,そういうものが入ってくることによって,日本の社会を変えていきたい。つまり新しくみんなで新しい社会をつくっていきたい,そういう時期が来ているということが言えると思うのです。やはり違うものが接触することによって生まれるものは新しいもので,日本人が,皆さんがいろいろ感じていらっしゃるかと思いますが,日本人自身の手で今の日本を変えることは至難の技だというふうに思えます。あらゆるフィールド,あらゆる分野を見ても,なかなか中から事柄を変えていくというのは難しいと思います。こんなにすばらしい方たちが,このお三方だけでない,いろいろな国から日本の地域に来られていて,そして一生懸命自国の方あるいは外国の方のケアも含めて,日本の社会を良くしようとしていらっしゃる。そこで,それこそ一緒に力を合わせて,新しいこれからの日本の社会をつくっていくんだという,そのことを私どもは学ばなければならないのではないかと思うんです。
 実は,気仙沼に私も行ってまいりまして,小さな大使館も見てまいりまして,市民の市役所の中の一隅にきちっとデスクが置かれていて,文字だけは大きく小さな大使館と書いてありました。大変すばらしい場所をもう得ていらっしゃる。そして本当に一つ一つ提言していらっしゃるんですよ。ほかの,例えば町に花をいっぱいにしようというような,そういうボランティアさんもいるんですけれども,そういうことがムザファーさんのいろいろな発案で進んでいっているんです。それから,今,平川さんはもう具体的に日本人の人づくりをなさっているわけですね,教育の現場にいて。そしてヤマダさんは教育委員会というところによくぞ入ってくださって,そして活躍してくださっている。国づくりです。そしてムザファーさんは,小さなとおっしゃいますけれども,大事な大事な気仙沼という港町で,本当にまちづくりをしていらっしゃるんです。そのことを私は大変にすばらしいこと,そしてこういう方,たまたま国際結婚していらっしゃるとか,大変学歴も高い方たちで,そういう点の共通点はありますけれども,まずこういうことを先駆けてやってくださっている方の姿を皆さんに見ていただきたい。そしてその意見を聞いていただきたいと思ったのです。本当によく今日は話してくださったと思って,大変ありがたく思っております。
 それから,先ほどの幾つかの御質問にもありました地域の日本語教室のことなんですけれども,私も全国回らせていただいておりまして,いろいろとやはり地域地域の特性がありますし,そこにどういう外国人がたくさん来ているかということで,随分支援の仕方も違うんですね。いろいろな受け入れの整備の仕方も違います。例えば労働をするために来ている方もある,研修のために来ている方もある,あるいは留学生がたくさん何千人と来ている県もある。そういうふうに見ていきますと,まるでその目的のために何か日本語を答えなければならない,日本語教室を夜でも(土)でもつくって,少しでも日本語を覚えていただかなければならないというふうに,そこのところに活動が特化し過ぎていっているのではないかと思うのです。
 もちろん私たちは日本語支援者ですから,日本語に集中するのは当たり前かもしれませんけれども,まず何をする目的で日本に来られていても,何よりもまず人間なんですよね,いらっしゃる方は。そして,その人間にかかわるすべてのことを持ってこられているわけです。例えば家族のこともですし,あるいは時系列で考えれば,子孫のことまで含めて持ってきていらっしゃるんです。そして,別に目的のことだけのためにいようとしていらっしゃるんじゃなくて,生活すべてを日本に預けられてるんですよね。ですから,生活支援と日本語支援というのはやはりもう切っても切れないものだと思います。日本語だけをただ流暢になっていただくというよりも,日本の生活文化に根差した言葉を覚えていただくことなんですから。適応障害なんていう言葉が突然ここのところ言われておりますけれども,社会に適応するために,人間の生活の全面的なケア,そしてその受け入れの整備というものを考えていかなければならないんじゃないかと思うんです。だから,このことだけすればいいというような,余りそこに特化して偏る―偏るという言い方は悪いですけれども,そこだけに集中した狭い考えを持たないで,外国の方が来られているということは,全部生活も,人格も全部を持ち込んでいるんだということに,もう少し配慮が必要なのではないかというふうに思います。
 時間は余り取りたくないんですけれども,一つこういう話が最近ありましたので御披露したいんですけれども。国際機関ですけれども,国際移住機構というのがあります,IOMといいます。その国際移住機構が国連大学で国際シンポジウム,国際会議を開きました。世界の人口の移動ということについて丸一日,非常に大勢の方たち,もちろん外国の方からもいろいろな意見がそこで出ました。そのときに言われた言葉が私は大変気になりましたというか,印象に残りました。その言葉を今日今までのディスカッションの中に出ていなかったことですけれども,新しく投げかけさせていただきたいと思うんです。
 それは,外国人がたくさん入ってきてくださる,つまり日本の少子・高齢化,いろいろな生産力や労働力を埋めるためにも,あるいは今後の日本経済を活性化するためにも,外国人がたくさん入ってこられる。これは大変いいことです。
 ところが,今まで日本の受け入れ方はどちらかというと,入ってこられるとどういうメリットがある。どういうデメリットがあるというような,メリット,デメリットという視点で論じられることが多かったんですね,今まで。ところが,この国際会議で非常に新しいことを言われていたのは,もうそんなことを言っている時代じゃありません。確かに50年先には日本人の人口は1億を切るかもしれないけれども,日本人の人口というときの日本人とは何を指しているんだということから考え直さなければなりませんよね。いろいろな方たちが国際結婚して,フィリピンの方もブラジルの方もたくさんまた日本人口というのは増えていくんですから,何をもって日本人というのか。新しい日本人というふうに考えるのか,新しい日本社会と考えるのか。その辺からももっともっと広い見地から日本というものの将来を見ていかなければいけないということなのです。
 そういうときに,外国の方がたくさん入ってこられるときに,比較的日本人というのは,それのためで,どういう利益があるかということを考えがちであるという議論が出ました。つまりメリットとデメリットという対立でなくて,コストとベネフィットという―片仮名をあまり使っちゃいけないですね。費用なり経費と利益ですか。それが出るという,こういう組み合わせで物事を考えていかなければいけないんじゃないか。そこまでもう運用の段階まで来ているんじゃないか。
 そうすると,私たちはどちらかというと,比較的利益の方,つまり生産力が上がる,労働力が上がる,あるいは経済的にいい刺激がある,そういうふうに利益のことばかり言っているけれども,実は入ってこられるのは,さっき言いましたように,目的のためのロボットじゃなくて,全人格の人間が入ってこられるんだから,そのことを考えると,もう少し全体にこの受け入れの整備にコストをかけなきゃいけないんじゃないか。もっと費用がかかることに気がつかなきゃいけないんじゃないかということが,そのときの議論だったのです。私にはこれが非常に印象的であり,新鮮でした。
 それは,地域の自治体の方たちも,今たくさんここにもいらっしゃいますし,いつも自治体と連携して仕事をしていらっしゃるボランティアの方たちのお顔もたくさん見えますけれども,やはり外国人が入ってくるのには,しかるべき整備をするのに予算をかけなきゃいけないと思うんですね。何でも善意と熱意のボランティアの方たちにお願いしていて,もっと本質的に整備すべきことを棚上げしてはしないか,二の次にしてはしないかということを私は感じます。これから,さらにもっと外国の方がふえていくことを考えたときに,皆様の地元がそういうことに対してきちっとコストをかけているか。そしてその結果,いろいろなことに,利点も上がっていくというのは当然ですが,それに気づかず受け入れを安易に考えているんじゃないかということなのです。今日は一つ,国連大学のシンポジウムの話の受け売りで悪いんですけれども,今日はこれを皆さんに持って帰っていただきたい,お土産にしていただきたいなと思った次第です。
 こういうコメントでよろしいでしょうか。(拍手)

吉田 ありがとうございました。
 会場の皆様も,パネリストの皆様も本当にありがとうございました。あっという間に時間が過ぎまして,もう残り10分ということになってしまいました。最後に,パネリストの方に一言ずつお言葉をいただきまして,閉会としたいと思いますので,ムザファーさん,お願いいたします。

ムザファー もう12:00過ぎたし,皆さんもだんだんお腹すいたし,だからできるだけ早目にポイントだけしたいんですけれども。ごめんなさい,言いたいことたくさんあったんですけれども。
 私の方から,まず一つは,皆さんは外国人とコミュニケーションしたかったら,もしあなたが英語をしゃべれない,じゃコミュニケーションできないかと思ったら,これは間違いです。世界のコミュニケーションは英語じゃないです。まずこれが一つ。
 もう一つは,外国人の方は日本に来ると,いつまでもお客さんの形をしないでください。なぜかというと,私もですが,どこでも人はお客さん,お客さん。そうすると,だんだん外国人の立場が強くなって甘えている。私たちは外人だ,何も分からない。だから全部日本人に任せる。だから,たまには外国人の方を,パーティのとき,イベントのとき,あなたも何か一緒にやりなさい,あなたもテーブル運んでください。でも,残念ですけれども,どこでも行くと,例えば気仙沼でいろいろなパーティ,イベントがあるときは,外国人はいいから座ってください。日本人はテーブル運んで,何かして,後片づけ。外国人はさよならとみんな帰って,日本人は焦ってふいたり,掃除したり。だから,これは日本人は悪い癖を外国人につけているんです。だから,これもぜひ皆さん,これからは外国人の方も一緒に参加して,一緒に何かやってください。
 もう一つ言いたかったんですけれども,実は西尾さんにこの前話した話ですけれども。実は私,小さいとき母からいつもこの話を聞いたんです。この人間の指。いつも母と,お母さん,何でこういうことがあった,何で悪い人はいるのと,いろいろ話が出るんですけれども,そうしたら母はいつも必ず指の話を出すんです。これは何かというと,人間の指は同じ長さと太さじゃないんですね。皆さん,この中で同じ人はいますか,長さと太さ同じ人はいますか。同じじゃない,太さも同じじゃない,だから便利です,人間の手。もし,皆さん,自分の指が太さは同じ,長さも同じだったら不便だと思います。
 だから,これは私たちの社会です。社会の中は,日本語をしゃべる,日本語をしゃべらない方もいるし,いい人もいるし,悪い人もいるし。でも,人間の指は長さいろいろです。だからピアノを上手に弾く。もし人間の指が同じ長さだったら,ピアノは絶対弾けないです。だから,人間のハーモニーは,やはりこれからはお互いに仲良く一緒にこの国に住んでほしいなと思います。
 本当はこれ以上しゃべりたいんですけれども,遠慮します。ありがとうございます。(拍手)

ヤマダ 日本の行政の外国人への支援は不十分だとよく言われますけれども,十分というものは何でしょうかと思うんですよね。人間というものはいつも不十分で満足していないので,何でも不十分だと思ったりします。
 でも逆に,日本人が外国に行ったら,その国からどういう支援を受けられますか。全然,何も受けられないと思います。日本では,外国人が例えばビザの更新をしようと思ったら,自分の言葉で対応してくれる窓口もあります。仕事を探したいと思いましたら,通訳つきで仕事を探してくれるところもあります。何か悩みがありましたら,自分の母国語で相談を受けることもできます。それで私は十分だと思っていませんし,それでいいとは思っていないんですけれども,もうちょっと外国人の方にも頑張っていただきたいなという気持ちはあります。
 先ほどもおっしゃっていたように,今はどこに行っても日本語を勉強するところはあると思いますし,無償で教えてくれる方もたくさんいます。それなのに,日本に来て何十年もたっているのに,日本語が下手な人もいて,一人では何もできない方がいるので,本当にそれはもう外国人自身が悪いんじゃないかなと思います。厳しいと結構言われるんですけれども,日本人が外国に行くときは,日本語でだれかから声をかけるのを待っていないと思います。少なくとも,一言二言はその国の言葉を覚えると努力をすると思います。本当に日本に住んでいる外国人の努力が足りないなと思うときはあります。
 「郷に入れば郷に従え」と言われるように,外国人も日本の文化,生活習慣,考え方を理解して,日本のいろいろな制度とか法律を重視しながら生活していっていただきたいと思います。ともに生きるということは,一つの社会を対等にお互い権威を持ちながらつくっていくものだと思います。
 私は,ムザファーさんと平川さんのお話を聞いていて,二人とも積極的だなと思っているんですが,私はもう本当に成り行きで,チャンスがあったときに乗っていったなという感じがしてたまりません。それですから,私からアドバイスというものは一つもないです。最初に,外国人支援に携わっている方にアドバイスできればと言われたんですが,アドバイスは一つもないと思います。
 一つだけお願いしたいことがあるのは,困っている人がいれば,魚を差し上げるんじゃなくて,釣りざおのつくり方と釣り方を教えてあげていただきたいと思います。いつも魚をあげていたら,その人はもう自分から動かないようになりますし,自立にはなかなかつながらないと思います。共生社会のことを考えると,外国人を巻き込んで新しい社会を,新しい住みやすい町をつくっていくことが共生社会じゃないかなと思います。外国人が生活しやすい社会というのは,日本人も生活しやすい社会だと思います。年々外国人は増えていますし,これからも増えていきます。嫌だと思っても,共に生きるようになると思いますので,それだったら,みんな本当にお互いに権威を持ちながら理解し合って,話し合って,みんなハッピーに生きていった方がいいんじゃないかなと思います。
 最後に,こんないい天気に,皆さん海にも行かないで,プールにも行かないで,こんな話をそれも寝ないで聞いていただいたので,どうもありがとうございました。(拍手)

平川 全部いいこともおっしゃってくださったので,これで終わりですと言いたいところですが,せっかく準備してきたものですので,私の十八番を披露します。
 ともに生きるというのは,私の中で一番好きな絵本,これは2歳ぐらいの子供向けの絵本ですが,「あおくんときいろちゃん」レオ・レオニの作ですね。多分私が生まれるその年くらいに日本で出版されたものだと思いますが。そのあおくんときいろちゃんというのは,タイトルどおりに物すごくシンプルなんですよ。青色と黄色だけの話なんですが。
 あおくんは,自分のパパとママと一緒に暮らしていました。あおくんには友達がいっぱいいるんですが,中で一番仲のいいのはきいろちゃんです。きいろちゃんのお家は,あおくんの川を挟んで向こう側のところにあります。
 ある日,あおくんのママが買い物に出かけるので,あおくんに留守番を頼んでいったんですね。あおくんは,初めはちゃんと家で留守番をしていたんですけれども,やはり遊びに行きたいということで,やはりきいろちゃんと遊びたいということで家を出てしまったんです。出て,きいろちゃんのお家に行ったんですが,きいろちゃんがいなかったんです。ずっときいろちゃんを探して探して,ようやく見つかった。もううれしくてうれしくて抱き合ったんです。そんなときに何と緑になったんです。2人は一緒に遊んでかくれんぼとかした後に,じゃね,ばいばいということで,別れてそれぞれの家に帰ったんですね。あおくんが家に帰ってきたら,あおくんのママが「あなた誰,私の子供じゃない」。きいろちゃんも同じことをママに言われたんです。二人は悲しくて悲しくて泣いたんですね。涙が大粒出てきて落ちてきて,その涙があおくんの涙が青色に,きいろちゃんの黄色に。泣いて泣いて全部涙になったんですね。それを見て親が分かったんです,お母さんが分かった。これは私の子供だったんだ。お母さん,お父さんは喜んでうれしくて,自分の子供だったんだ。抱くと,またみんな緑になったという絵本なんですが,まさにこれは共生社会だと私は勝手に思っています。
 つまり,私は青色でもない,黄色でもない。私は日本の社会に溶け込むためには,私は緑になっているんですね。つまり,私は純粋なベトナム人のままでは,恐らくうまくいかなかったと思います。部分的に私は合わせたり,部分的に私のアイデンティティを大事に持っていたりして,それで初めて,今のところは順調にいっているかと思います。
 日本人の方も,できれば青色のままじゃなしに緑色になる,つまり意識の変化ですよね。例えば,いかにして一緒に暮らしやすいかというと,中年ぐらいの外国人,ベトナム人を中心にして話したいと思いますが。中年ぐらいの年になると,運転免許を,その免許を取るのに勉強は大変ですね。まずは無理なんです。といって,じゃ英語で受けられるんじゃないか,英語も分からないんです,私たちは。私はたまたまマレーシアに行って,1年間かけて覚えたんですね。でも,普通は英語もしゃべれないんですよ。なので,運転免許も手に入れられません。田舎に暮らすと,当然それは非常に不便な話ですよね。だから,できればベトナム語ででも,そういう運転免許の試験を受けられるような体制とか,それだけじゃないんですが,例えばそういうところから,行政の方が動いてくださればなという,それこそ緑色に,日本自体が緑色になってくださるとすごく暮らしやすいなと思います。
 もう最後の最後まで,御清聴ありがとうございました。(拍手)

吉田 ありがとうございました。
 じゃ,西尾さん,最後に一言締めていただけますか。

西尾 このシンポジウムを,皆さんが地元にお帰りになって,ぜひまた話題にしていただきたいと思います。こういう方々を御覧になって,皆さんの地元でも早く外国の方にいろいろ行政に参画していただき,また民間でも手をつないで,新しいまちづくりに,これからの日本のまちづくりに励んでいただきたいと思います。
 これが私の一言でございます。(拍手)

吉田 ありがとうございました。
 ちょっと御案内ですが,受付の向かい側で,地域の日本語活動に役立つ教材を展示してございます。お帰りのときに,まだ係の者がおりますので,御覧いただければありがたく思います。
 それでは,時間を5分過ぎてしまいましたが,これで本日のシンポジウムを終わりにしたいと思います。会場の皆様にもいろいろ御意見賜りまして,ありがとうございました。最後にもう一度大きな拍手をパネリストの方にお願いいたします。(拍手)


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