パネルディスカッション

パネルディスカッション
  「日本語学習者の視点から日本語教育を考える―日本語教育に携わる者が留意すべきことは何か―」
 
司会 山田泉(法政大学教授)
補助者 野山広(文化庁文化部国語課日本語教育調査官)
協議者 伊東祐郎(東京外国語大学留学生日本語教育センター教授)
清ルミ(常葉学園大学外国語学部教授)
松本茂(東海大学教育開発研究所教授)
横溝紳一郎(広島大学大学院教育学研究科助教授)
渡辺文夫(上智大学文学部教育学科教授)


司会(野山)後半の部を始めさせていただきたいと思います。
最初にこの後半のパネルディスカッションの構成を少し説明させていただきますと,今日の午後の一番初めに話をしていただいたピーター・バラカンさんのお話,それから先ほどの座談会で話をしていただいた4人の座談会の発表者の方々,こうした日本語の習得にかかわるような内容を踏まえていただいた上で,先生方の御専門と交差する部分があるかと思いますので,そこに焦点を当ててディスカッションしていただくという企画です。必要な場合には,先ほどの発表者の方とか,あるいは会場に発表者の方々と交流を実際になされた方とか,日本語の教授者,として接してこられた方などがいらっしゃるようですので,そこのインタラクション*1といいますか,意見交換があればいいとも思っております。この場の司会は水谷先生にお願いします。私は,前半の部分の補助としてここに入らせていただきます。
それでは,後半のパネルディスカッションに入ります。よろしくお願いいたします。(拍手)

*1 インタラクション 相互作用。


司会(水谷)第2部,パネルディスカッションに入ります。
野山さんのお話を伺っていると,とてもじゃないけど1時間25分では終われそうもありません。(笑)でも,お言いつけでありますから,一生懸命守りながら進めたいと思います。
後半の運び方については今お話がありましたが,資料の16ページ,テーマ「日本語学習者の視点から日本語教育を考える―日本語教育に携わる者が留意すべきことは何か―」で,そして趣旨として,「第1部で提示された,外国人学習者自身が工夫した日本語学習方法や,遭遇した障害とその克服方法などについて,その要因や背景を探る。具体的には,言語習得理論等の専門的・学問的な観点から科学的な分析を試み,その結果を踏まえて日本語教育に携わる者が今後現場においてどのように生かしていけばいいのか,留意点や対応方法等について考える」とがっちりした考え方が出ておりますけれども,これはちょっと表面的な表現をまじめにとらえてここのパネルを進めますと大変つまらなくなる可能性があると思いますので,(笑)ここに上がっていただいたパネリストの先生方の御紹介をまずさせていただくのですが,もう大量の紹介内容が資料に上がっておりますので,お名前だけ御紹介して紹介を終わらせていただきます。
まず一番こちらから,伊東佑郎先生です。(拍手)清ルミ先生です。(拍手)本茂先生です。(拍手)横溝紳一郎先生です。(拍手)渡辺文夫先生です。(拍手)そして,右側に私の目付役として(笑),野山広調査官です。(拍手)
いろいろな枠組みがあって,先生方の御専門の領域がおありなんですが,その領域にとらわれないで,実は先ほどお願いしたんですが,こちらの第1部でお話があった報告の内容と,お話のなさり方等学習した経験,いろいろな問題について先生方が一番お感じになったことで,これはこう助言してさしあげたいとか,何か役に立つことを言いたいなということをまずとにかく一つでも二つでも先生方から出していただいて,そこからお話し合いを始めようということにいたしました。
早速ですが,どなたからでも結構でありますが,順番にいきませんので,指をちょっと挙げていただけると……。

清今のは,学習者に対してですか。

司会(水谷)そうです,さっきの学習者に対して。教える先生に対してでも結構です。当然それも入っていたようですから。

清今日のテーマが「日本語教育に携わる者が留意すべきことは何か」となっておりましたので,この点に着目してお話を聞いてしまいました。

司会(水谷)もちろん結構です。ですが,なるべく具体的に事柄を,焦点を絞っていきたいと思ったものですから,一般論もどうぞまぜてください。

清今のことでよろしいですか。

司会(水谷)もちろん結構です。

清では,トップバッターでお話しさせていただきます。
主に3点申し上げます。まず,文化的な面で,クラウジーナさんがおっしゃった,お礼を何度も言うとか,返礼に関しての違いとか,それからリー・ブンダラさんがおっしゃった,国民年金とか厚生年金とかという違いを説明するのが非常に難しいとか,こういう観点に関してなんですが,日本語教育にかかわる者がある意味文化通訳的な役割を担ってもいいんじゃないかと思います。というのは,日本語学習者に対して先ほどいろいろな方がおっしゃったような形で説明する。日本人側はこう思うよと,さっき松本さんがおっしゃったような形で説明するということも必要だと思うんですが,その周囲にいらっしゃる日本人,例えば家族とか近所の方とか,そういう方々に逆に,お嫁に来た方々はこのように思っている,それは彼らの文化はこういう文化であるからといった形で説明し,理解を促していくということも必要ではないかと思うんです。ちょうどそれに気が付く立場にいるのが日本語学習支援をしている我々ではないかなと感じます。
それから,国民年金とか厚生年金ということを我々日本語教育に携わっている者がきちんと把握して,簡単な日本語で説明できるかどうかということを我々も試されているんじゃないかと思うんです。実は,昨年の第1分科会で,私もちょっとそれに関係のあるコミュニケーションゲームで,よく分かっているはずの「どうも」とか「どうぞ」という言葉を説明して相手に理解させることができるかどうかというのをやってみました。案外難しかったです。日本人同士でも,例えば国民年金とか厚生年金の違いを易しく説明するというのはかなり難しいんじゃないかと思うんです。そういうことを我々も少し自分でトレーニング*1していく必要があるんじゃないかなと感じました。
その次に,日本語学習の面に関してですけれども,先ほどクラウジーナさんがブラジルで国語の教科書を使って勉強したということをおっしゃいました。そして,日系人でいらっしゃるということだったんですが,実は一昨年私はブラジルに参りました。汎米日本語教師会というものがございまして,この汎米というのはAnti AmericanではなくてPan Americanですけれども,カナダ,アメリカ以外の北・南アメリカの先生方が集まって教師会をブラジリアで行いました。特にブラジル国内のいろいろなところで教えていらっしゃる先生方からの悩みといったものがいろいろと聞かれました。そのときに,いわゆる国語の教科書から日本語の教科書への変換は大分定着しているのだけれども,それを教えていっても,今その継承語教育そのものがすたれつつあるということ。それから,日系3世が全く着いてこないし,関心もないというお話がたくさん出ました。そのときの事例として,子供たちが,例えばピカチュウ*2に興味を持つ,それからファミコン*3に興味を持って,そのファミコンが導入路となって,ファミコンの中で使われている漢字が出てきたら,「この漢字の意味を知りたい」と先生に聞いてくると言うんです。そういうときに先生の方が,「その漢字はどうでもいいから,それより先に教科書のこの練習帳をとかすすめるのですが,なかなかだめなのです」というお話をなさった方がいらっしゃいました。私はそれを聞いていて,そういうこと自体が問題だと思いました。せっかく相手が関心を示しているものがある。それに沿うことがまず大事なんじゃないかなと思うんです。
先ほどの池田岩さんのように,長期の学習目標を据えてステップ*4を段階的に上がっていくような方の場合には,日本語能力検定試験向けの勉強というのもあっていいと思うんですけれども,そうじゃない場合,特に年少者の場合には,その子の興味を広げるような形で日本語教育者がかかわるようなことも大事ですし,それから松村マルセラさんがさっき,普通のものを読むことが大事だ,これからは普通のものが読みたい,母親として興味関心のあるものを読みたいということをおっしゃいました。そういう点を我々日本語教育者がどちらかというと無視して,そういうことの前に,先にこっちをやりましょうといって押しつける部分があると思うんです。その前にまず相手に沿ってみるということも大事なんじゃないかな,特に地域の日本語ではそういうことが必要ではないかなということを感じました。以上です。

*1 トレーニング 訓練。練習。
*2 ピカチュウ アニメーション「ポケットモンスター」の一キャラクター。
*3 ファミコン テレビゲーム用のコンピュータの商標名。
*4 ステップ 段階。


司会(水谷)ありがとうございました。
どうしよう。今すごく迷っているんですけれども,今お話に出た幾つかの問題点の中で,ちょっと深めていくやり方をとるか,あるいは次々にちょっとおっしゃっていただいて,まとめながらいくか,どっちがいいかなと今迷っているんですが,野山さん,助けて。(笑)

司会(野山)すみません。せっかく松本茂先生に前半出ていただきましたので,今,清ルミ先生がまとめながら話をしていただいたと同じように,少し松本先生に話をしていただいて,それから皆さんに話をしていただければありがたいと思いますけれども。

司会(水谷)ありがとうございました。(笑)舞台裏を申し上げますと,実は始まる前に野山さんから今のことを言われていたんです。私はあがってしまいまして,清先生のお話を伺ってぱっと忘れてしまったんです。やりにくいかもしれませんが,松本先生,(笑)その路線に戻してくださいますか。

松本幾つかのポイント*1があるかと思うんですけれども,まず池田さんのお話からは,心理にかかわることと,それから社会・地域にかかわる問題がポイントとして挙げられると思うんです。要するに,来たばかりの人たちにとっては,家庭や地域の一員になれるかどうかということが非常に重要で,日本語を学習するプロセスを通して地域・家庭の一員になれるかどうか,ここがポイントになると思うんです。ですから,教える側がどんな日本語のレベルまで達したかということよりも,学習のプロセス自体がその人の心の安定をもたらしているかどうかという点に力を入れる。最初のうちは日本語が十分ではないので,母語の人たちと会うということで心の安定を得たというお話がありました。ですから,交流が大切であるということです。それは日本人との交流だけではなくて,その人が母語で思い切り話すことができるという精神的に安定できる機会を与えながら,日本語の学習面という方にだんだん色を濃くしていくといったプログラム*2を用意する必要があるのかなという感じがいたしました。
それから,堤さんの例では,指導と文化の面で二つポイントがあるかと思うんです。指導の面では漫画です。日本の漫画というのはどんどん輸出されています。少年ジャンプも英語版が出ました。なぜ教材としてよいのかというと,ストーリー*3性があるということです。そして,会話文であるということです。ですから,皆さんの中でも漫画を教材とされている方はいらっしゃると思うんですが,「愛と誠」でしたか,そういうストーリー性のあるもので,どういう関係があるかということが分かった上でこの表現が使われているんだ,ということが分かるのです。場面設定も絵で分かるのです。日本語の場合には,この表現が正しいか正しくないかというのを教えにくいですよね。場面とか人間関係によって表現が変わってくるので,正しさというよりも適切さを教えるためには漫画が教材として有効な場合があるということです。
文化に関しては,先ほど少しコメント*4しましたけれども,どちらかというと,根にあるものは一緒だということを強調してあげた方が安心感が増します。「日本人はあなたたちと違う,そうよね」と相手の不安さを増幅するのではなくて,同じなんだ,でも表現が違う。よく海外に単身赴任で行かれている方が「どうして単身で来るんだ」と現地の人に質問されて,「日本人は企業戦士で,企業のために一生を捧げるんです。日本人は変でしょう。ハハッ」といった説明をしてしまうことが多いんですけれども,「よくよく考えると,親として子供に安定した生活を与えたいということは,あなたたちの国あるいは文化の人たちと同じなんです。ただ,私の息子はもう高校生なので,会社に海外に行けと言われたときに行きませんと言ったら,経済的安定をもたらすことができない,次の仕事を見つけられない。だから,彼の教育とかといった生活面を考えると,一緒に連れてくるよりも日本に置いてきた方がいい。そういう親としての葛藤があって,オプションとして単身赴任をしているんだ」といったことを説明しないんですよね。子供を思う,あるいは家庭を大事にするということは同じだけれども,違う行動に出ることがあるということを分かってもらうべきなんです。最初に同じ部分,根っこの部分を説明するということが大事なのではないかなと私は思います。
松村さんの場合には,心理面です。武蔵野国際交流協会でのプログラムには,教室とマンツーマンがある。マンツーマンの方は,教育ではなくて交流になっている要素が強いということです。ですから,かなり日本語のレベルが低い段階から教育と交流の機会を与えているということです。特に,日本語の力が低い方は自分から切り開いて交流する力がないので,交流の場面を与えてあげるという意味で,市民の方が交流員になって日本語を使って一緒に何かをしていくということと同時に,教室では適切な日本語をなるべく教えていくという合体方式が心理的にも安定感をもたらして,かつ教室で学んだ正しい日本語を応用してみる機会もあるわけです。応用してみると,この場面ではその教室で教わった日本語ではなくてこっちの表現の方がいいよということが出てきて,そこでまた新しい日本語を結果として学べるといったプロセスがあると思います。
ブンダラさんの場合には,言語にかかわること,指導にかかわることがあると思うんです。彼の場合は通訳をやられているので,やはり正しい日本語に対する欲求が強いわけです。ですから,学習者の心理というのを考える必要がある。通訳をやるわけですから,正しい日本語を話さないと商売にならない。ですから,普通の外国の方より正しい日本語に対する欲求が高いのと,それから自分は使わないけれども分かる必要のある日本語表現がたくさんあるということです。ですから,どういう日本語を使う必要性があるのかということを私たちは分析する必要があるのかなという感じがします。例えば,「飯」「御飯」「ライス」という言葉が出てきました。これも,これを説明してしまうか,あるいはこの表現を使える関係性をダイアローグ*5を作ってみましょうとか,ロールプレイ*6をしてみましょうというやり方もあるでしょう。日本人はどう使い分けているかということを探してみましょうという,学習者が自立していくプロセスを私たちが助けてあげるというやり方もあると思うんです。性別とか,その人の生活状態というか,環境とか,あるいは年齢で簡単に説明してしまうことが多いんですが,私自身も「飯」「御飯」「ライス」を使い分けていると思うんです。ファミリーレストラン*7へ行ったら「ライス」と言います。和食屋さんへ行ったら「御飯ください」と言う。「飯」というのは,同じぐらいの年齢あるいは年下の男性に対しては「今日,飯でも食いに行こうか」という言い方をします。ですから,人間関係の中あるいは様々な場面においてどう使い分けるかということに対しての感受性というかセンシティビティー*8を強めていけるように,自分で探せるといった指導法というのがあるのではないかなという感じがしました。
いずれにしても,一番大事なのは心の安定です。私は英語教育に随分足を突っ込んでいますけれども,日本に20年,30年いても日本語ができるようにならないアメリカ人,イギリス人をたくさん見てきました。彼らがどうして日本語ができないのかなと考えてみると,英語で心の安定を保障できるんですよ。英語を話せる人がいっぱいいるので,英語を話していることによって日本にいても心が不安定にならない状況をつくり出せるわけです。ですから,それで彼らはストラグル*9しないんだと思うんです。ただ,例えば英語圏以外の国から来ると,どうしても日本語で心の安定を見つけなければならないような場面が多くなるので,私たち教育に携わる者は日本語学習そのものによって心の安定をもたらしてあげるようなシステムなり方法を編み出してあげる必要があるのかなという感じがしました。以上です。

*1 ポイント 要点
*2 プログラム 番組。催しの組合せ・順序などを書いたもの。
*3 ストーリー 番組。催しの組合せ・順序などを書いたもの。
*4 コメント 意見を述べること。論評。解説。説明。
*5 ダイアローグ 対話。言葉のやりとり。
*6 ロールプレイ 模擬的に役割を演じること。
*7 ファミリーレストラン 家族連れで気楽に利用できるレストラン。
*8 センシティビティー 感受性。感度。
*9 ストラグル 奮闘する。努力する。


司会(水谷)ありがとうございました。
まとまった御意見にならなくても結構でありますから,渡辺先生,横溝先生,伊東先生にも,さっきのお話を聞かれた上でお持ちになった御感想なり,あるいは御意見を。はい,どうぞ。

横溝今,松本先生が一番最後におっしゃったところに関連するんですけれども,私も日本人です。日本にいれば,圧倒的なマイノリティー*1ではなくマジョリティー*2の方です。私は今,日本語教師を養成する仕事についていますけれども,「マイノリティーって,どういう気持ちなんだろうか,というのを考えましょう」というのをいつも言っております。それで,やはりこれは自分をそういう立場に置かないと,なかなか実感できないもののようでして,私の例を一つ出しますが,言語的マイノリティーだなと思ったのは,仕事でエジプトに行ったときです。アラビア語がウワーッと目の前にあって,分からない言葉が飛び交っていて,ひとりぽつんといたときに,この気持ちって何だろうなと思いました。日本語教師としてマイノリティーの気持ちを忘れないでいたいなということについてですが,実は私は23歳まで福岡で,福岡の博多の方言だけを使って生活しておりました。その後ハワイに出ていきまして,それからもうずっと福岡には戻っていないんですけれども,10年ぐらい前ですか,あることに気がつきました。私は博多の方言で敬語が使えないんです。それはなぜかというと,敬語を練習する前にそこを離れてしまったから。ということで,そこから私の学習が始まりました。1個1個,先ほど敬語,敬語とおっしゃいましたけれども,やっぱり文脈で覚えていくしかないな,ということなんです。この共通語は博多弁でどう言うのかなというところで,「何をしているの」というのは,「なんしよんしゃーと」と,この「しよんしゃーと」をメモするわけです。そういう文型レベルもあるんですけれども,単語レベルはもっと難しくて,例えば「なくなる」というのを「のうなる」と言うんです。そこで,「亡くなる」かということで,「そう言えば,○○さん,のうなりんしゃったね」と言ったら,ものすごく怒られたんです。それはどういうことかというと,「のうなるというのは人には使ってはいけない。それは物に使うんだ」と。では,どういうふうに言ったらいいんだと聞いてみると,「死にんしゃったと言いなさい」と。(笑)ここで私が思ったのは,もしかすると,外国の方も同じように,敬語がその文脈,文脈で違うんだなというのが実感としてあるんじゃないかなということです。ここで何が言いたいかと言うと,日本語教師を目指している方,それから今なさっている方,またその支援をなさっている方は,そういう学習者の気持ちになって考えてみるという機会をもっと持った方がいいんじゃないかなということです。以上です。

*1 マイノリティー 少数派。
*2 マジョリティー 多数派。


司会(水谷)ありがとうございました。伊東先生,どうぞ。

伊東今日のお話を伺っていて,今日のテーマである「日本語教育に携わる者が留意すべきことは何か」ということをちょっと考えてみました。日本語教育の方法だとか,あるいは指導法だとかというのは,今非常に多様化しているだろうと思います。それは,当初の日本語教育が留学生を中心にその内容や方法が考えられておりました。その結果,テストとしての日本語能力試験というものも,成人を対象としたものが開発されてきたのだろうと思います。しかし,国内外で日本語学習者の数を見ますと,非常に多くの学習者が数としては出ていますけれども,その中で,では年少者がどのぐらい日本語を勉強するかということを考えますと,6割から7割の年少者が日本語を勉強している。国内においても,小学校・中学校で多くの子供たちが日本語を勉強している。そういうことを考えますと,指導内容と方法は考えられてきてはいるのだけれども,ではその子供たちのための日本語を特定する部分においての開発はどうだったのかなということを考えました。
多くの教育機関で,特に小学校・中学校においても,どこまで日本語を教えたら日本語の指導をある程度めどをつけたらいいか,その評価の方法の手段としてのテストを開発してくれ,そういった道具が欲しいという要求はたくさん出ておりますけれども,私たち日本語教育に携わる者がもし今後するとしたら,一つは,そのテスト開発の分野においてももっともっと私たちの力を発揮するべきではないかなと思います。海外においては,初等・中等教育で6割,7割の子供たちが日本語を勉強している。しかしながら,海外で実施されている日本語に関する試験は,これだけ日本語教育が発達した現在でも日本語能力試験しかないということを考えますと,まだまだちょっとお粗末かなと感じました。
それと,池田さんが4級・3級の試験は非常に易しかったけれども,2級と3級の格差が非常にあるとおっしゃったのはまさにそのとおりで,データからもそのことは分かっておりますし,多くの受験者からその中間の試験が欲しいといった要望も出ておりますので,当然だろうと思います。それは御存じのように,4級・3級というのは非常に基礎的な文法項目あるいは語彙項目が非常に明確になった形で問題がつくられておりますから,多分得点はとりやすいだろうと思います。しかし,2級・1級は基礎言語力を基盤にした中身の,そしてある意味では非常に広がりのある出題内容になっておりますので,多分難しいとお感じになっていらっしゃるだろうと思います。しかし,今後私たちが考えていく上で,ジェネラル*1な,いわゆる一般的な能力試験ということではなくて,アカデミックな試験は何なのか,あるいは職業別,先ほどの通訳のための日本語力は何なのかとか,あるいは工場で働くための日本語力はどうなのかといった,職業別のもっともっと細分化された試験も開発されていいかなと感じます。そういう点で,一つの測定尺度で多くの20万人以上が受験している日本語能力試験ですけれども,果たして本当の力をはかり得ているかどうか,その辺はこれからの検討課題かなと思いました。そして,松本先生がおっしゃった,どういう日本語が使われているか,それを分析する必要があるということですけれども,その結果は,日本語テストを開発する上で非常に重要な基礎資料になりますから,多分そのことは教材開発,そしてテスト開発の双方に大きな効力を発揮するんじゃないかなということを感じました。以上です。

*1 ジェネラル 「一般の」「総体的な」の意味。


司会(水谷)ありがとうございました。渡辺先生,いかがですか。

渡辺ごく簡単に四つのことを申し上げたいんですが,まず一つは,今日4人の方々,池田さん,堤さん,松村さん,リーさん――日本名住友さんのお話を伺っていて,以前私は,水谷先生が国立国語研究所の所長でいらっしゃったころに,国立国語研究所のプロジェクト*1で3年ほど,日本各地の地域の日本語教育のネットワークの調査をやっていたんです。それで,何か所か私は面接調査でお邪魔したことがあるんですが,そのときに感じたことを改めて感じました。それは,地域に住んでいる外国人の方々にとっての日本語学習というのは人権の問題であるという考え方です。これは自分が生きるという最低の保障だと,私はその調査をやっていながら考えたわけです。今日改めてそれを思い出しました。これは皆さん4人の方々の日本で生きるということに深くかかわる問題であるという認識です。
それから,私の専門は心理学ですので,心理学的な観点から三つの点を申し上げたいんです。一つは,自分が何を話しているかというときに,日本語,それから外国語,言葉を話しているときの自分というのがあります。何語を話していても自分は自分だなという感覚をお持ちの方もいるかもしれませんが,ですけれども,おおよその場合,何語を話しているかということと自分の在り方というのは非常に関係があるんだと思うんです。ですから,言葉が違うと違ってくる自分,アイデンティティ*2というんですか。そういう言葉を使い分けて生きるということは,どういうアイデンティティを自分が選ぶのかという問題になるわけです。私は,自分が書いた本の中で申し上げて,それが日本経済新聞のコラムなどに取り上げられたんですが,この問題は,これは反対の方もいらっしゃるのかもしれませんが,私はちょうど役者さん,俳優さんがいろいろな役回りをなさるのと同じように考えるべきだろうと思うんです。それは,本当の中心,中核にあるアイデンティティというのは変わらないんだけれども,その場その場によってもう一つの外側にあるアイデンティティというのを変えていく。そうでないとなかなか言語が持っている人間性にうまく,ちょうどサーフィン*3のように波乗りのように乗っていけないわけです。ですから,2層のといいますか,自分自身,アイデンティティをうまく乗り越えていく,そういうことなんだということです。
それからもう一つは,私が書いた本の中で述べたことですけれども,関西方面で主に使われているものだと聞きましたけれども,中学3年生のための国語の教科書にここの部分が引用されているんです。それは,今私は日本語を話していますが,この日本語を話しているときの私にとっての言葉と私自身の関係と,それから私はフィリピンに通算2年半行っておりましたが,フィリピンの人たちと英語,タガログ語で話しているときの言葉と私の関係,これは違うんです。あと,もちろん英語でイギリス人の方と話したときの英語という言葉と私の関係,その距離感といいますか,違うんです。もちろん日本語で話しているときの自分と言葉の関係というのはもう密着していますけれども,これが英語になると,これは私の場合だけのことかもしれませんが,より厳密に自分の考えていること,感じていることを言葉に置きかえて,しかも論理的に話をしていく,そういう自分とその関係が英語を使う場合には強くなってくる。ところが,フィリピンの友人たちとパーティー*4などで英語とかタガログ語で話していると,私の感じでは,言葉というのは人と楽しく話をする,楽しくその場を生きていくための手だてというか,ですからいっぱい冗談を言い合うんです。冗談というのは,現実も入っているんですけれども,入っていないような部分で冗談を言い合うわけです。ですから,どういう言語を使うかによってその言葉と自分の距離が違ってくるということが,今まで私がいろいろな国へ行って仕事をして生活をして,言葉の問題で苦しんだことの一番大きい問題だったんです。英語ができないとか,タガログ語ができないということではなくて,自分自身が問われる問題なわけです。
ちょっと長くなりましたが,最後に一つ申し上げたいのは,これはもう私が学生のころから感じていたことで,しかもフィリピンから帰ってきてまた改めて感じたことなんですが,言葉を学ぶというのは教えてくれる人の人柄,人格を学ぶということであると,今日4人の方々のお話を聞いていて改めて思い出したわけです。それは,私もそうですけれども,自分の価値観,生き方に合うように自分の言葉を言うわけです,日本語でも何語でも。ですから,そういう言葉をある人から学ぶということは,教えてくれるその人の価値観,人柄をも学ぶということだと思います。ですから,自分がどういう環境でどういう人たちから外国語を学ぶかというのは非常に大きな問題です。私がこれを痛切に感じたのは,私の場合はフィリピンで英語とタガログ語を学んだわけですが,それが私にとっては非常に幸せだった。なぜかというと,2年半のほとんどは,よくものを考えるフィリピン人の友人の中で英語を鍛え,タガログ語を鍛えることができたから,それは自分にとっては良かったなと今も感じているわけです。
ちょっと長くなりましたが,4点皆さんにお話ししたいと思いまして申し上げました。どうもありがとうございました。

*1 プロジェクト 研究などの計画。企画。
*2 アイデンティティ 一個の人格として存在し,自我の統一を持っていること。安定した根っこのようなもの。
*3 サーフィン 波に乗って楽しむスポーツ。
*4 パーティー 社交的な集まりや会合。


司会(水谷)ありがとうございました。
今お話を伺っていて,これからあとの50分の時間を有効に使うためには,議論の焦点を明確にする必要があるだろうと。第1部のお話の中にも出ていましたし,今の先生方の解説の中にもありましたが,ポイントの一つは,日本語教育の世界にといいますか,日本社会の中へ入り込んだ段階,入ってくる段階の問題であります。それが,松本先生は心の安定というのが非常に鍵になるだろうという言い方をなさいましたけれども,入ってくる段階で起こっている問題,その受け入れる人たち,それから当事者,入ってきた人自身にも何を求め,周りでそれを支援する人たちはどんな力を持っていなければならないか。私も年金のことはよく分からないんですが,基礎年金というのは何なのかというのはこの間初めて知ったんですけれども,どこまで周りにいる人は知っているべきか,あるいは知る方法,知る努力をどうすべきかといったことがあるはずだと思うんです。だから,入ってきた段階,生き始める段階での問題点は何であるかということ。もう一つお話に出ていたのは,敬語の問題などにも典型的だと思うんですが,たくましく強く生き抜くために何が必要かということがあると思うんです。だから,この二つをちょっと分けて,まずは心の安定を与える条件は何か。松本先生御自身,さっきはもしかするとおっしゃり足りなかったかもしれないので,どうですか。私はそれにはこれが必要だと思うと……。

松本要するに,人間は人間とかかわっていかないと生きていけないわけです。多分日本人との最初のかかわり合いは日本語を学習する場面だけかもしれません。ですから,その場面において日本語そのものを学習するだけではなくて,交流が進むようなプログラムを考えてあげる必要があると思います。それから,どうしても基礎的な学習から順番に論理的に系統だって教えたいという欲求が教師にはあると思うんですが,学習している人たちは地域の日本語教室においても週に2回とかといった時間の中で学習していかなければならない。だとすると,すぐ使えるものの表現をきっかけに日本人と交流できるというものを毎回もらって帰れると心が安定してくると思うんです。私事ですけれども,2か月前からクラリネットを学習しているんですね。クラリネットで指の動き方とか単調な練習をしていると全然やる気が出ないんですけれども,最近ようやく曲らしいものを練習させてもらえるようになったら,急に練習量が増えたんです。それによって「こんなのできるようになったよ」とか言って家の者に聞きたくないのに聞かせたりして家庭内の交流が図れるみたいなことがあるわけで,(笑)習ってきたものをすぐその場で自分の生活の中で使えるといったことによって,心の安定というか,徐々に日本語を介して自分の世界を広げていけているという実感,これがものすごく大切だと思うんです。となると,教える側にとって何が必要かというと,分析力と観察力だと思うんです。その人がどういう場面で日本語を使っているのか,どういう人たちと交流しているのか。それが,例えば会社の一番下のレベルで日本語を使っているのか,あるいは中間管理職として使っているのか,あるいはおばあちゃん,おじいちゃんとの会話の中で日本語を使っているのかといったことですね。どういうところで日本語を使って,どのぐらいの日本人と交流があるのかということも,相手のプライバシー*1を考えつつも分析,観察していかないと難しいかなと。そういうことを考えてくれている先生がそばにいるということで,またその人にとっては心の安定につながるであろうし,そして自分が聞いて分からない言葉をその先生に聞いてみよう,この先生なら大丈夫だというように,2人の関係性においても,教師あるいは学習支援者と学習者との関係においても,心のきずなというか,安定というものを確かめ合いながら学習していくというのが大切なのではないかなと思います。

*1 プライバシー 私事。私生活上の秘密と名誉を第三者におかされない法的権利。


司会(水谷)今,割に具体的な一つの例が松本先生から出ました。教える人はこういう人がいいと。僕が今伺いたいと思うのは,皆さんの経験の中でむしろマイナスの,こういうのはつらかった,嫌だった(笑)というのは言いにくいかもしれませんけれども,みんなの後輩のために,あるいはそれを助けてくれる人たちのために,私たちは気が付かないで失敗するんです。心の安定に邪魔するようなことをついやってしまうようなことがある。だから,こういうことはついやっては欲しくないということを,絶対にあったと思うので,(笑)正直に教えてください。名前は言わなくていいですから。

伊東一つ言いたいことは,まず地域の日本語の教室は守りたい。今は国から予算は出てこないですね。だから,これを言いたい,本当に。地域の日本語教室を守らないと,私みたいなお嫁さんが来たらすごく寂しいです。大きなところはいいですけれども,学校もあるし。私のところはまずは日本語を教えるところはないです。だから,私,初め来たとき,すごく寂しいです。

司会(水谷)では,地域の日本語教育はいいんですね。

伊東そうです。(笑)

司会(水谷)どうぞこちらへ回して。

ブンダラ先ほど横溝先生がおっしゃったマイノリティー,少数派。私は日本に来たばかりのころ,すぐ感じました。なぜならば,自分は同じ外国人の立場として,同じく取り扱いも平等と思ったんです。例えば役所,そういう大切なところへ行ってみると,カンボジア語での翻訳案内などは全くないです。例えば入管に行っても,説明の中で,英語,フランス語,スペイン語,中国語,大体主な言語ばかりです。あと,自分で勉強したい,研究したいと思っても,カンボジア語で学べる本など全くないです。そうすると,コミュニケーション上の問題も先輩の助けで随分救われました。そうするとさっきの先生がおっしゃったマイノリティーの気持ちが分かり始めたんです。私,難民としていろいろつらい経験があったのに立ち向かう気持ちはあったんです。マイノリティーの気持ちは経験者じゃないと分からない,そのとおりです。
あともう一つ,先ほど松本先生がおっしゃったとおり,日本語を学ぶ過程そのものが学習者自身に精神的な安定をもたらしているかどうかが非常に重要だと思います。日本語の学習を支援する人が,学習者の立場や生活の中での日本語の必要性,学習者の背景にある文化や考え方などに対してどのくらい理解しているかが大切なんです。つまり,授業の方法や交流の姿勢が,日本人と外国人との間の異文化理解の促進につながるようなものであるかどうかが重要なんです。残念ながら,日本社会の現状を見ていると,外国人に対する理解はまだ十分ではないですし国際化の進展もまだ遅れていると思います。先生の方はちょっと耳が痛いかもしれません。私は余り経験がないんですけれども,ただ通訳の立場としてほかの人から聞くのは差別の問題です。日本の方は差別と思わなかったかもしれません。ただ,受ける外国人側は,これは差別だと思っていることがあるんです。簡単に言えば,例えば日本人の社会の一般の人は,余り外国人とはつき合いたくないんです。つまり,知らない人に「おはようございます」とあいさつすると,「あの人は何なんだろう」と,すぐに返事が来なかったんです。そうすると,外国人の心の傷は大きいです。僕は日本語の先生に,日本の社会ではあいさつが大切だと聞いたんです。(笑)私があいさつしたのに,返事が来なかった。これは何だろう。そこから始まる問題です。異文化の問題について話したいこと幾つかあります。異文化の中でうまく適応できないと,差別が始まるんです。例えば,カンボジアの場合は,あいさつはほとんど初めての方に対してだけです。後で毎日「おはようございます」「お先に失礼いたします」「お疲れさま」などを毎回言うような習慣はあまりないです。そうすると,例えば時間になって,先に帰ってしまった。一言も言わなかった。こういうのは怒られてしまうんです。「この人はマナーが悪い」とか,そのように始まるんです。注意される。だから,日本語を教えるのと同時に,できるだけ日本の習慣を,異文化の違いの中で,あなたの国はどういうふうですか,日本の場合はこうなるので,日本の社会に溶け込むためにはこれをできる限り守らなければならないです。簡単に言えば,例えば引っ越した後で,日本の場合はあいさつが必要です。上の人,下の人,隣の人,……こういう習慣から新居での生活が始まりますね。ちょっと長かったので,申しわけないです。

司会(水谷)ありがとうございました。

横溝一言よろしいですか。

司会(水谷)はい,どうぞ。

横溝ブンダラさん,私のを取り上げてくださってありがとうございます。実は私,カリフォルニアに留学したのが22歳のときなんですが,ハワイ経由でカリフォルニアに参りました。カリフォルニアの寮に入ることは決まっていたんですけれども,どの寮に入るのかが分からない状態で,「とにかく来い」と言われました。そこで,ハワイに降り立ちましてイミグレーション*1のところに行くと,「おまえは住所がないではないか」と言われました。当時私の英語の力はとても低いものでしたので,一生懸命説明したんですが,「お前はどうも怪しい」ということで,別の部屋にに連れていかれました。(笑)そこで私は2時間取り調べを受けて,パスポート*2を取り上げられました。「1か月後に,おまえが留学するサンディエゴのイミグレーションに行って,ちゃんと全部証明したら返してやる」と,そこから始まりました。1か月パスポートがない状態で,それをクレーム*3しに学校の方に行きましたけれども,先生は何もしてくださいませんでした。私は非常に寂しい思いをしながら,しかも言葉ができないということで,その分少しは強くなったのかもしれませんが,ただ英語は下手だったんです。文化的にも適応ができていないと。そこで何が始まるかというと,英語が下手な留学生同士が仲良くなるんです。(笑)私は非常にマルチカルチュラル*4な世界をそこで体験しました。少しずつ上手にはなっていったんですが,やはり言語ができないというのは,それぐらい大きな壁があるんだなと感じました。

*1 イミグレーション 出入国管理。
*2 パスポート 旅券。
*3 クレーム 苦情。
*4 マルチカルチュラル 多文化的。


司会(水谷)清さん,どうぞ。

清今ブンダラさんが最後におっしゃったマイノリティーという点と,それから異文化性ということについてなんですが,これは学習者の側からも,マイノリティーが声を上げていく,私たちはこのように思っているんだということを事あるごとに発信していくことも必要だと思うんです。それと同時に,我々学習を支える支援者の側は,先ほど横溝さんがおっしゃったこととちょっと重複いたしますが,日常の自分の体験の中から探すということも必要だと思うんです,相手への共感能力を高めるということだと思うんですが,それは必ずしも異文化というのは,海外に行ってということだけではないと思います。例えば,私はこの中である意味ではマイノリティです。唯一着物を着ております,多分。いらっしゃいますか。いらっしゃらないですよね。唯一の着物です。私はいつも刺すような視線を浴びております,特に中高年の女性から。(笑)「いいわね,ゆとりがあって」と目が語っています。時々,「毎日自分で着るの」とか,「毎日それを自分で手入れするの」とか聞かれます。最近は面倒くさいから「ええ,ばあやが」と答えていますけれども,(笑)ばかばかしいんです。ですが,着物で毎日暮らしてみると,着物の利点はたくさんあるんです。ここで申し上げられませんが,そういうことを発信していかない限り,着物に対する偏見はものすごいです。今日も帰りに多分皆さんで一緒にスナック*1へ行くと思うんですが,スナックに行くと私はママと呼ばれます,「ママ,こっち」とか。(笑)大変なものです,着物に対するイメージ*2。そういうものを変えていくには,私が声を上げて,「着物って便利なところもあるのよ。日本の中で暮らしやすいところもあるのよ」と言うしかないと思っております。
それから,異文化体験への共感ということで言えば,私は今静岡県の旧清水市に住んでいるんですが,同じ静岡県内の東部,沼津市から清水市に3年前に引っ越しました。相当な異文化体験をしております。例えば,自治会がしっかりしていて,町内会がしっかりしているのはいいんですが,葬式があると組長は2日間仕事を休まなければいけません。それで,我々女性たちは駆り出されていくんですけれども,そこでお香典袋を女性は触ってはいけなかったんです,そこの文化では。ところが,私はその受付だったものですから触ってしまったら,女が触ったというので後で悪口を言われた。ゴキブリ退治のホウ酸団子はみんなで(日)に集まってつくる。御日待ち*3の炊き出しも全部女がする。男性は飲む。そういう社会です。それから,私は今借家に住んでおりますが,その借家に大家さんが除草剤を勝手にまいてくださいます。あちらは親切のつもりでしょうが,私は野草を育てているんです。それなのに全部まかれて,そのたびに絶やされます。それから梅の木が1本ありますが,その梅の木に毛虫がいたからそれを全部駆除して,実がなったのを喜んで梅ジュースにしようか,梅酒にしようかと楽しみにしていたんですが,あるとき突然梅の実が消えました。大家さんが取りにいらっしゃったんです。大家さんにしてみれば,自分が貸してやっているうちの庭なのだから,その梅の実は自分の権利。私はそれを借りて対価をお支払いしているのだから,そこの梅の実は私のものと私は理解していたんですが,(笑)そういう異文化体験を相当します。ですから,日本人であっても,先ほど返礼が苦痛だという人がたくさんいらっしゃいましたね。それと同じように,対外国人,対日本人ということではなく,異文化体験は我々もしているのだということ,そういうことを学習者の人も理解していただきたいし,我々支援者がそういうことをお互いに共有することで,お互いに大変ですよね,でも何とかやっていきましょうという解決策を見つけ出すこともできるんじゃないかなと思います。

*1 スナック 軽い食事もとれるバー。
*2 イメージ 心に思い描くこと。具体的に思い描いた像。
*3 御日待ち 前夜から潔斎して翌朝の日の出を拝むこと。特に、正月・五月・九月の吉日を選んで行う行事。


司会(水谷)ありがとうございました。
私,東京へ出ていって,「あ,私は異邦人だ」というのを感じて,慣れるまでに3年ぐらいかかりました。言葉もそうでした。3年はかかりました。そんなものですね。だから,国の違いというような考え方だけではなくて,実は社会の成り立ち方というのは結構複雑であって,それぞれが実は自分自身がマイノリティーだということを考える手がかりはいっぱいあるんだと思うんです。もし感じることがないとすれば,余りまじめに社会を見ていないから。(笑)どんなに自分が小さな人間で,失敗はするし,能力は足りないしということをもし思い知りたければ,もうせっせと偉い人のところへ行くとか,お金持ちのところへ行くとかとやれば,いつでもマイノリティーの経験はできる。(笑)だから,むしろ自分に思いやりの心が足りないとすれば,自分が増長しているんだと,そういうことですね,多分。(笑)異文化の話が出ましたから,渡辺先生,何か一言おっしゃりたいんじゃないですか。

渡辺皆さんおっしゃるように,日常的に異文化なるものを我々は経験しているわけですけれども,私はあえて,私が担当している授業は異文化教育なんですけれども,学生たちに,文化とは何か,それから異文化とは何かという定義といいますか,言葉だけではなくて事例を使いながら授業をするわけですが,そのときには,日常的な経験と比べて,もっと根底的な部分での食い違いというか,違いというか,文化をどう定義するかということでそれは全部違ってきてしまうわけですけれども,私は授業でできるだけ多くの文化の定義を学生たちに示して,その中で考えてもらうわけですけれども,なかなか日常的に確かに違いはあるんですけれども,言葉を超えた違いというんですか,あるいは国を,社会を超えた文化的な違いというのはもっと深いものと定義しないと,文化という言葉を使って議論する意味がなくなってしまうと私は思っているんです。ですから,我々はもっと文化とは何なのかというのを突き詰めて考えて,自分なりの定義をして,それから議論すべきだろうと思っているわけです。自分自身の存在が揺れ動くような,そんな深いものであろうと思っています。私の文化理論は私の本にところどころに書いてありますので,ぜひお目通しいただければと思うんですが,今日話すと長くなってしまいますけれども。(笑)

司会(水谷)でも,本当に言葉を超えた理解の難しさというのは,想像できないことがいっぱいあるということですね。言葉が共通だと,年寄りと若手の間の文化差もありますけれども,努力すればということもあるけれども,幾ら努力しても見えてこない大きな落差があるのかも知れませんね。さて,何か,伊東先生。はい。

伊東先ほどの心の安定ということを考えますと,日本人でも,私も2,3回転職したんですけれども,新しい社会に行くと,言葉が分かっても,その会社だとか大学のやり方というのは違うので,やはり慣れと,自分自身の存在が認められて,そして自分の居場所が分かってくると心の安定が得られるかなということで,必ずしも言葉だけではないのではないかなということを自分の経験で感じましたので,誰でも時間がかかるなと,そこだけはやはりお互い知っておくべきかなと思いました。

司会(水谷)ありがとうございました。
時間が30分になりました。二つ目のテーマへちょっと移らせてください。要するに,何を身につけてもらうか,目標へ向かって。典型的なお話は,敬語のお話の中にまず一つはあったと思うんです。ほかにも幾つかありました。さて,私たち支援者は何を提供できればいいのか。案外野山さんが意見をお持ち…。

司会(野山)私の意見を聞くよりも,可能であれば,例えばイェンさんが日ごろ教室でお世話になっている先生がこの場にいらっしゃいますし,ぜひ一言話していただければと思います。地域でお互い居心地がよくかつたくましく強く生き抜くために何を伝えているのか,あるいはどんな工夫をしておられるのかなど,何か見えてくるものがあるんじゃないかと思います。

司会(水谷)いいんじゃないですか。聞きましょう。どこにいらっしゃいますか。すみません。

司会(野山)イェンさんが通っている日本語教室の代表をしておられる北川さんです。

司会(水谷)あそこにいらっしゃる。ではマイクを。たくましく強く生きてもらうために。

北川初めまして。先ほどイェンさんがお話してくださった教室で日本語教室を運営している者です。御苦労さま,イェンさん。頑張ったよ。まずそれだけ一言言いたかった。
一つ目ですが,先ほど異文化というお話をしましたが,今の社会の中で,異文化理解と言いながら,その異文化のせいぜい80%は許容しても,20%は妥協しながら我々はこの国で共に生きている。例えば,学校でも,行政でも,会社でも,様々なところで生きていくためにどこかで妥協しているのは我々日本人も同じです。そうすると,先ほどそういうお礼の言葉とかというのもしましたけれども,私は彼女に言います。「私も嫌なのよ。でも,そう言わないと気分が悪い人もたくさんいるから,やっぱり言った方があなたが生きやすいじゃない」というふうに教えることにしています。
それからもう一つ,国民年金とか厚生年金の話ですが,私ども日本語の指導者は確かに厚生年金や国民年金の意味までは分かりません。私はそれをやるときに一番やっているのが,自分は何も分からないし,様々なことを知らない人間だと考えたときに,先ほど彼女が専門家の人たちをという話をちらっとしたと思いますが……,まず行政と連携をとる。「国民年金や厚生年金を知らない」と言ったら,私は市役所へ行きまして,「分からないそうですから,我々もいるところで彼女たちや彼らに説明してください」と言います。そうすると,行政の福祉の方とか年金の係の人がいて,「いやあ,何て言えばいいでしょうか」,「うちにはそういうことを通訳する人はいないんです。どうしましょう」と振ります。そうすると初めて,「日本語教室がないと困りましたよね」という話に持っていってくださるので,逆にそういう機会をいっぱい設けます。それから,先ほどの料理の問題もそうですが,確かに私どものお母さんの中でもすごく料理の上手なお母さんはいるのですが,わざと町の中で料理教室を開いている人をお願いします。それはなぜかというと,外国の人を見たことのない人を教室に巻き込みたいと思っているからです。そうすると,「えーっ,こんなに外国の人がいるの」と料理の先生がびっくりなさるんです。そういう場をまた設ける。それから,先ほど日本語を,例えば形容詞を勉強したときに,その「きれいですね」という言葉を使う場所を設けるために,花見を毎年します。そうすると,初めて来た人は「きれいですね」で終わるんですが,2年,3年やると,「これは何の花ですか」とか「どういう名前ですか」というふうに形容詞を使えるようになる。そういう意味では,先ほどのように勉強した言葉をどこで使えるかという場所を私どもは提示してやる。それが日本語指導者の仕事かなと私は思っています。何もかも分かる人であればもしかしたらやるんでしょうけれども,分からない人たちが集まって彼らや彼女たちをカバーしていくとすれば,私が自分でどうやって生きてきているかということを基本にしか教えられないと私は思っています。でも,おかげさまで,先ほど「(教室を)つぶしてほしくない」と彼女は自分の声を発しましたけれども,ああいう言葉でいいんです,市役所の人にああやって言ってほしいんです,「つぶさないで」と。私どもが10回行くよりは,あの人たちが10人か20人行って「なくさないでください,つぶさないでください」と言っている方がつぶれません。おかげさまで13年やらせていただいています。行政の方も,確実にこういう人たちが育つ教室をつくるのであれば予算をつけてくれますということで,おかげさまで予算もつけていただいています。できればこういう教室づくりは,私みたいな者でもできるので,どこの町でもできるんじゃないかなと思っています。それが,今日イェンさんといろいろな方とお話ししていて,そういう形だったらいろいろな人が手伝える。そうしたら,子供だって手伝える。高校生だって手伝える,そういう場所づくりをしていけたらいいし,私は逆に今日思いました,私の今までの教室づくりでずっと続けていこうと。それだけです。よろしく。(拍手)

司会(水谷)ありがとうございました。大変すばらしいお話でした。進行係が意見を言ってはいけないのでしょうけれども,言わせていただきます。日本語教室に限らず,教師というものは不幸な性格を備えていて,自分のできないことは教えてはいけないという,あるいは教えるためには自分ができなければいけないという錯覚をするようであります。これは基本的に間違いだと私は思っています。むしろ,教師の役割は,自分ができないことを学んでいる人たちにできるようになってもらって,自分を乗り越えていく人をつくるということだと思うんです。だから,それにこだわると,先生はいい学生をつくらない,持っている力を伸ばさないで終わってしまう。今のお話は,演出家としての,学習者が自分の可能性を見つけ出す場を用意するということを本当に努力していらっしゃったわけです。本当にすばらしいと思いました。それを実は大学の先生たちにもみんなしてほしいと僕は思っているんですが,いかがでしょうか,大学の先生方は。(笑)日本語を勉強する目標はいろいろある。最初の講演の中でピーター・バラカンさん,あれは一つのすばらしい結果をつくり出したサンプル*1ですね。みんなが,例えば今日の4人の方が,能代市の例と同じようにいく必要はないと思うんです。でも,少なくとも今の段階では,本当に今日感心したのは,戦う日本語が身についているんです。これはすばらしいことで,戦えなくて沈んでいく,我慢しているという人は多いんだけれども,ここまでは多分指導してくださった先生方の御努力の結果だと思うんですが,さあ,この先,日本一の通訳になるかとか,何かそういう方向があるはずだと思うんですが,どのようにしてたくましくということについて,こうしたらどうという…。

*1 サンプル 見本。標本。


横溝それに対するお答えにはならないような気はするんですが。

司会(水谷)ええ,もうどうぞ,何でもいいです。

横溝私は最近,「日本語教育って何だろう」というのが分からなくなってきました。本当に分からなくなってきたんですが,それこそ先生の役割ってどこまでなんだろうかと。コマーシャル*1で,小林薫さんが出ているもので,どこまでダイワハウスなんだろうとかというのがありますね。(笑)そのように,「どこまで先生をやるんだろうか」というので悩んでおります。それに関連してなんですが,たくましく強く生きるために何が必要かということで,最初のバラカンさんのお話を伺っていて,プロデューサーの方ですか,言葉で非常に厳しい方がいらっしゃったと。恐らく,そこで生じていたものは,外国人と思っていなかったと思うんです。日本人と同じように厳しくなさっていたかなと思うんですが,私は日本語教育に携わってきて,外国の方だからということでの特別扱いのようなものが必要なのか,要らないのか。必要だったら,どのように必要なのかということで,非常に悩んでおります。どなたか答えていただければなと思っているんですが。(笑)

*1 コマーシャル 広告・宣伝。


司会(水谷)さあ,どなたか。何かフロアから手が挙がりましたよ。今の答えですか。どうぞ。

参加者先ほどちょっとその件についてバラカンさんに直接お話を聞きました。やはり,間違ったことは易しい日本語で教えてくださいと。確かにそのプロデューサーの方には厳しく言われたんですけれども,その前に日本人何人かに接したんですけれども,外国人だということで,みんな許したというか,見過ごしたと言われていました。ですから,皆さんも,日本語を使っている場面で間違いがもしあれば,後々のために易しく教えてくださった方が結構ですと教えてくださいました。

司会(水谷)ありがとうございました。私たち日本人の言語観の中に何かある種類の欧米に対する劣等感みたいなものがあったりする。欧米に対してだけではなく,日本の国内でも,言語の使用者とその指導の関係についての一つのパターンがあるみたいです。偉い人に,お医者さんに文句を言ってはいけないみたいなことがあるみたいです。でも,よく外国人の日本語教育者ですぐれた人がこぼす言葉の中に,私が偉くなってからはだれも私の日本語を直してくれませんということが多いんです。本当に親切になろうとするならば,もちろん人前で恥をかかせるような思いやりのない指摘は問題だと思うんですが,もし話し手がもっともっと上手になりたいと考えているならば,今おっしゃったように,きちんと間違いを指摘し,よりいい方向 へ向けるべきですね。私がまたしゃべってしまった。すみません。どうぞ,松本先生。

松本最後に水谷先生がおっしゃったことが重要だと思うんです。どれだけ正確な日本語を獲得したいかという欲求が強いかどうかということだと思うんです。強い人にはそれはいいんですけれども,よく地域で見られるのは,相手はそこまでまず日本語のレベルが高くないし,微妙なニュアンスの違いまで今は学習したいと思っていないのに,一生懸命説明してしまうというタイプの方も多いので,それを一般化するのは非常に危険かなという感じがするんです。ですから,バラカンさんの場合には,正しい日本語を話して,日本人のキャスターとも,あるいはブロードキャスター*1とも肩を並べたいという欲求があって,あるいは性格的にもそういうものがあるので,アドバイスが生きている例だと思うんです。それで上手になった。でも,同じように皆さんがそういう正しい日本語を獲得するために,あるいは美しい日本語を獲得するために学習しなければいけないかというと,必ずしもそうではないのではないか。実際は大多数はそうではない人たちではないかというのが私の考えです。だから,「小さな親切,大きなお世話」ということになりかねないので,(笑)注意した方がいいのではないかなと。普通の人の場合は,まず日本語ありきではなくて,まず人間関係ありきだと思うんです。でも,テレビに出ると,一言かんだだけでもすごい間違いに本人は思うんです。ですから,正しい日本語ということに対する欲求なり要求が強い場面にいらっしゃった方はちょっと特別なのではないかなと思います。

*1 ブロードキャスター 放送者。


司会(水谷)それは,先ほどおっしゃった本人,その主体者自身が何をしたいと考えているか,その気持ちが把握できる能力が支援者には必要だということですね。こちらの価値観を押しつけて,「あなたが美しいのはこういう状態になったときだ」と言ったって,御本人が違う美意識を持っていれば,そうはならないですよね。親子の中でもよくそれはやっているようでありますが。(笑)いかがですか,ほかに。ぼつぼつ時間が迫ってきましたので,どうしても今日言っておきたいということをこの際,3分ぐらいまでに限ってですが,おっしゃっていただいて,まとめの方向へぼつぼついきたいと思いますが,伊東先生。

東私自身の経験ですけれども,ずっと成人に対して日本語教育をやってきましたけれども,地域とか年少者の日本語教育に携わって初めて,先ほどの横溝さんじゃないんですが,日本語教師,これまでの自分自身は何だったのかということに突き当たったんです。そういう意味で,日本語教育が非常に多様化しているということを考えますと,特に地域に住む外国人に対して,日本語だけを教えればいいということでは解決できない。それが成人と随分違うところかなと感じております。そして,日本語教育の周辺領域がいろいろな形で見えてくるというのも,今のこの多様化している日本語教育の中に置かれている教師の立場かなと思います。それで横溝さんに聞きたいのは,先ほどの質問,自分自身がこれからどう生きていいか分からなくなってしまったというのは何がきっかけだったのかなと思いましたが,時間があれば答えてください。(笑)

横溝今ですか。

伊東後でいいです。

司会(水谷)今でも,どうですか。

横溝きっかけはいろいろあるんですが,私は海外でハワイで日本語教育を10年やっておりまして,日本国内に帰ってきて2年間,また留学生相手に教えておりました。その後,今広島大学で教師養成をしているのですけれども,いろいろな仕事が入ってくるようになりました。まずは,広島県の教育委員会から,年少者の日本語教育という講義を3時間受け持ってくれと言われました。あまり知らない世界だけど勉強だ,と思ってやりました。1か月一生懸命勉強したんですけれども,知らない世界ってこんなにあるんだなと思いました。それから,福岡市の地域日本語教育推進委員会というのに入りまして,地域の日本語教育というものに初めて触れる機会を得ました。そうするとまた新しい発見があって,そこで出てきたのは,自分が今までやってきた日本語教育って一体何だろうかなということです。その辺から,学習者中心の日本語教育って何だろうなという悩みが出てきて,そこが大きくなって,日本語教育って何だろうなとなった次第です。

司会(水谷)反論はどうぞ明白な形で,伊東先生,あるんでしょう。

伊東共通点があってよかったなと思いました。(笑)仲間が増えてうれしいです。(笑)

司会(水谷)ちょっと余り建設的でない感じがするけれども,まあいいや。(笑)清先生,いかがですか。

清私も日々揺さぶられております。そういう意味で本当に日々これ新たなりという感じなんですが,私も地域の日本語教室にいろいろなところでお呼びいただいていますので,地域の日本語教育にもかかわっていますし,教師教育,それからビジネスマン教育,教師養成,いろいろなところにかかわっておりますが,例えば中学校の同窓会にこの間参りました。「何をやっているの」と聞かれたから,「日本語教師やっている」「そんな元手のかからないもので飯なんか食うなよ」と,(笑)こういうふうに言われました。そう言われたときに言い返せない自分がどこかにいるなというのを自分で実感しました。と同時に,それからこの間北朝鮮から帰られた方々がいらっしゃいますね。あの方々が日本語を教えていらっしゃったということ。お若い時期に拉致されていかれたにもかかわらず,いろいろなところで日本語教師として機能されていたということ。それから,こちらに帰られたときの直後のインタビュー*1でお使いになった日本語が非常にきれいだったこと。しかも拉致された当時の20代というお若い年代からは考えられないような,待遇表現を駆使した日本語能力でお話しになっていました。相当なブランク*2があったはずですが,にもかかわらずあれだけの日本語でお話しになる。それを見たときに,私は日本語教師でお金をとっていていいんだろうかと思いました。そういうことを日々考え続けること,考え続けて,去年も同じことを言ったんですが,半分アマチュア,半分プロというところで模索し続けるしかないかなと今思っております。

*1 インタビュー 人にあって話を聞くこと。
*2 ブランク 空白。余白。


司会(水谷)ありがとうございました。いいですか,はい。

松本コミュニケーション上手になるにはコミュニケーションをするしかないという言葉があります。その発想から,コミュニケーション能力というのに最近は経験というものを入れて考えるコミュニケーション研究者が多いのです。つまり,言語そのものを身につけさせてあげるという発想で授業なり学習支援を組み立てていくのではなくて,どんな言語使用の体験をさせてあげるかと。泳げない人を急にプールなり海へ入れてしまうのは危険ですので,想定できるような場面設定をしてあげて,教室の中でやってみるとか,それから先ほどの能代市の先生のようにいろいろなところに連れていってあげる。ひとりで行かせると危ないので,一緒について行ってあげて学習体験をしていく。教室だけではなくて,外の場面も考えて学習体験を積ませてあげる。ですから,どんな体験なり経験を積んでいるか,それはどういう人とどの場面でどういう目的で日本語を使うかということ,多様な体験ができるように支援してあげると,自然に日本語も身についていく。心も当然安定して,安心していろいろなところに出ていける。出ていければ日本語は当然うまくなっていく。そういったことを地域の日本語学習支援の方は考えてほしい。
もう一つは,大人を相手にしているということを忘れてはいけないと思います,我々が外国語を学習するときの一番の欲求不満というか葛藤というのは,自分の,英語なりポルトガル語なりフランス語の能力が非常に低い。でも,言いたいニュアンスは非常に高いレベルである。あるいは,内容的にも,トピック*1の面でも,もっと大切なこととか重要なことを言いたいんだけれども,自分の外国語能力が低いのであいさつ程度でいつも終わってしまう。このギャップ*2を埋められたような気持ちにさせる教授法です。例えば,私が中学生に英語を教えるときには,問題点を指摘するセンテンス*3を1文書いてみましょう,その問題の原因を1文で書いてみましょう,提案を1文で書いてみましょう,それをやったらどうなるかを1文書いてみましょう,と言います。それで四つの文をつくらせてくっつけると,「あ,スピーチになったね」というような。そうすると,中学生のレベルでも,自分で英語でスピーチができたと。それはまやかしの部分もあるんですけれども,でもやはり人前でスピーチがしたいわけです。中学生の知的レベルに合わせなくてはいけないけれど,英語の力は非常に低い。このギャップをどのように埋めるのかというのが,優秀な教師かそうでないかの分かれ道だと思うんです。「あなたの力は低いんだから,これを覚えなさい」というものではなくて,やはり大人は大人としての知的欲求を満たすような教材づくりをしてあげないと,単に外国語学習は忍耐力を養うということになってしまうとまずいのではないかと。そういう学習でも一部の人はできると思うんです。多分バラカンさんなどはそういう人だと思うんです。でも,ほとんどの人はそうじゃない人たちなのです。特に外国語を教えている方は,自分で外国語を学習した体験が楽しいポジティブ*4な体験だった人が多いので,危ない面がありますね。知らない単語を覚えるのは楽しいでしょう,今まで読めなかった漢字を読めるのは楽しいでしょうと,(笑)そのような押しつけをしないように注意した方がいいのではないかというのが私の考え方です。

*1 トピック 話題。論題。
*2 ギャップ すき間。意見などの隔たり。食い違い。
*3 センテンス 文。あるまとまった内容を表現し,言い切りとなるもの。
*4 ポジティブ 積極的なさま。


司会(水谷)ありがとうございました。

横溝偶然ですが,その話の続きみたいになりますが,私が先ほど特別扱いということを出した一つの理由は,恐らく「自分はそんなことをしてもらった覚えがない」というところから出ているのかなと思います。もちろんいい体験もあったんですが,いろいろなサポートというのを受けたような記憶がほとんどなくて,とにかくネイティブ*1の中に入っていって,または留学生の中に入っていって使うということで,意地を張って少し上手になったというところなんです。そこで,私の心の中のどこかに,特別扱いしなければみんなそうなるんじゃないか,それがいいんじゃないかという価値観のようなものができておりました。それは,私はいわゆる教師としてのビリーフ*2だと思うんです,特別扱いしない方がいいと。ただ,今,松本先生がおっしゃったように,そんな人たちばかりじゃない,ということに気づくことがすごく大切だと思います。今日は4人のそれぞれの方々の習得プロセスというのを見て,やはり日本語を学ぶ方というのはそれぞれ非常に多様性があって,そこに私が持っているビリーフをパンと当てはめるというのはとても危険だなと思いました。これからちょっとまた,そこについて悩み続けたいと思います。(笑)どうもありがとうございました。

*1 ネイティブ (ネイティブスピーカー)ある言語を母語とする話者。
*2 ビリーブ 信念。信条。


司会(水谷)ありがとうございました。渡辺先生,お一言。

渡辺最後ということで,皆様にどういうことをお話ししたらいいか,ちょっと迷っていたんですが,一つ今決めました。それは,私は今上智大学へ来ていますが,その前は東北大学の文学部にある日本語教育教室に勤務していたわけです。そのときに学生だった人2〜3人から,実は最近同じようなはがきをいただいたんです。それは,何かごますり半分があるのかどうか分かりませんが,その当時の学生たちというのは,もう今現場に出ているわけです。日本語教育をしているわけです。外国へ行っている人たちもいるし,国内で様々なところで日本語を教えているわけですが,その2〜3人が同じことを言うんです。「学生のころ,もっと渡辺先生の授業をちゃんと聞いていればよかった」(笑)ということなんです。それで,それはどういうことかなと,いまだにその原因が良く分からないでいたんですが,今この場でいろいろ考えていましたら,多分,何人かの方がおっしゃったことですけれども,大学で学生たちは日本語教育専攻ということで,日本語をどう教えるか,日本語のことをかなり勉強するわけです。ですけれども,実際現場に出てみると,国が違う,言葉が違う,文化が違う人たち,しかも日本語が十分にできない人たちを相手に仕事をするわけです。そしていろいろな問題に出くわしたときにどうしたらいいかという,これが実は私が専門にしている異文化教育の大きなテーマでもあるんですけれども,それにぶち当たったときに,では答えはどこにあるのかということを考えているうちに,何となく私を思い出してはがきを出したくなったのではないかなと思うんです。実は,今年の3月に,上智大学の大学院修士課程の方に,中国のある大学の日本語の専任の講師だった方が修士論文を書いて帰国されたんですが,彼女の論文のテーマは中国における日本語教育と異文化教育の統合についてということだったんです。彼女が熱っぽく私に語るのはやはり同じような問題でして,言葉だけの教育ではもうだめだと。文化的な違いにどう対応していくのかということを中国でも本気に考えて日本語教育を発展させないといけないということで帰って行かれましたが,私の昔の学生の考えていることとその中国から来た先生が考えたことはもしかしたら同じことかなと今ふと思っております。以上です。

司会(水谷)ありがとうございました。
それでは,最後に野山さんからも一言いただきましょう。

司会(野山)今日は前半の座談会からかかわらせていただいて,なおかつバラカンさんにも前もっていろいろお話をお聞きする機会がありました。実はバラカンさんから先ほど「今日,話し忘れたことがあります」ということが1点ありまして,それをお伝えしながら,座談会でいただいた意見も踏まえつつお話をしたいと思います。
バラカンさんは,20数年日本に住んでいらっしゃって,言葉や音楽といったバラカンさんのスペシャリティー*1というか,特殊技能があったから日本でうまくやってこられたのですかということをあるところで聞かれることがあった。それに対する回答なのですが,「自分は割と順応性のあるタイプだったということも大きかったと思います。外国で生活するというのは,言葉ができるだけではだめです。自己主張するところはしっかりして,自分が大切に思っている部分に関してはとことん主張するということが重要です。でも,それ以外の,例えば日常のこととかは,いわゆる郷に入れば郷に従えの精神で柔軟に対応する姿勢がないとだめだと思います。僕は,日本にいるのだから日本語を使うのは当然と思ってやっていたし,仕事のやり方にしてもできるだけ日本的にやるようにしましたから」と答えたそうです。これはかなり深い意味のあるインタビューの回答だと私は思っています。
今日,例えばブンダラさんが最後に,心が通い合うような国際理解の促進の話をしてくださいました。クラウジーナさんは,自分が待遇表現をどこで学んだかということをインタビューしたときに答えてくださったのですが,目上に対する初歩的な待遇表現については,会話の中で,例えば心の通い合った両親やおじから,必然性のある場面で学んだということです。先ほど場面の重要性が出てきましたけれども,そういう場面を設定できる力が多分教師の方には必要だろうと思います。当たり前のことですが,こうした力が必要だろうということと,さっきのバラカンさんのような心を持てるかどうかは,日本語の学習支援に関わる支援者や教員の皆さん御自身がそういう心意気というか,開かれた柔軟な意識や学習意欲を持っていらっしゃるかどうかということにかかってくるんだと思います。マルセラさんもおっしゃったことの中の一つに,「私の先生は,日本語を教えてくださるだけではなくて,日本での私の人間関係を広げることを助けてくださいました」とおっしゃいました。言葉というのは,人間関係を広げていき,自分の居心地をよくするためのある種の手段であり,道具であり,重要なものの一つであるということです。最大の目標値は人間関係を広げることだったり,安心,居心地のいい居場所を見つけることだろうと思いました。
イェンさんの言っていただいたことの中で,結構強烈な言葉がありました。「私の通っている日本語の教室は,普通の学校とは違います。教室に入ると,家庭的な雰囲気に囲まれています。人と人との間に心がつながっています」とおっしゃいました。普通の学校はつながっていない(笑)のかということです。つまり,これは強烈かつ建設的な批判であり,なおかつ地域の日本語教室に求められている正直な気持ちだと私は思いました。そういうことを提供できる方々がイェンさんのような学習者とともに歩んでいけるんだろうなと思いながら,そういう言語環境が作れれば習得も恐らく上がるでしょうし,松本先生もおっしゃっていましたが,バラカンさんのような強い意思がなくても,それを引き出す力にもなるんじゃないかなという気がしました。以上です。

*1 スペシャリティー 特殊性。


司会(水谷)ありがとうございました。
それでは,時間が来てしまいましたのでお開きにしたいと思いますが,一つだけ皆さんにお願いいたします。今の話し合いの中で,導入期あるいは将来目標に向かって,たくましく生きる力,それを与えるというか,持ってもらうための支援者の資格としては,多分いろいろな知識とか社会に適応できる能力を身につける必要もあるでしょうけれども,これには限りがある。でも,少なくとも日本語自体について,きちんと使える運用能力,自分の日本を磨き上げることと,それから日本語を観察する力,これはほかの仕事とは違うし,やれることなので,そしてその結果が学習者に対して自信を持たせるもとになると思うんです。だから,ぜひ日本語に対する取組は頑張っていただきたいなと思います。
本当に今日は長時間にわたって熱心に参加してくださいました。お一人も途中で,ここに座って以後お出になる方はいらっしゃいませんでした。(笑)文化庁にも感謝申し上げますが,何よりもパネリストの先生方,どうもありがとうございました。もう1度拍手をお願いいたします。(拍手)
そしてもう一つ,参加してくださった皆さん方への拍手をどうぞ。(拍手)
では,これでお開きにいたします。どうもありがとうございました。(拍手)
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