講演

講演 「日本語と私」
講演者:ピーター・バラカン(ブロードキャスター)


バラカンこんにちは。ピーター・バラカンと申します。(拍手)
テレビやラジオの仕事をしていると,いろいろと取材を受けることがあるのですが,いつも聞かれる質問があるんです。これは,そもそもなぜ日本に興味を持ったかということです。僕は日本語をロンドン大学で18歳から勉強していたのですが,なぜ日本に興味を持ったかというのは,それは正当な質問だと思うんですが,僕の場合は特に興味を持っていたわけではなくて,非常に不純な動機から大学に入った人間なんです。18歳で就職したくないという気持ちがまずあって,その代わりに何をすればいいかというと,大学に入るぐらいしかないんです。当時のイギリスでは,授業料を払わなくても,よほどの金持ちの家庭でなければただで大学に行けたので,特に罪悪感もなかったんですが,では大学で何を学ぶかというのはかなり悩んだものです。11歳から学校でラテン語と古代ギリシャ語をずっとやっていて,これは好きだったんです。普通の子供はまず嫌うものなんですが,あんなしち面倒くさいものなのに,なぜか私は非常に好きで,必修でやるのは15歳までだったかな,その後あえて高校でほとんど専門的にそれを勉強する道を選んだんです。でも,大学となると,それを勉強し続けるのはちょっと気が引けるなと思いました。私の場合は父親がポーランド人で,母親はイギリス生まれで,イギリスとビルマ――最近はミャンマーと言いますが,そのハーフなんです。ではポーランド語を学ぶかとか,ビルマ語を学ぶかとか,いろいろなことを考えたんですが,そうじゃないな,でも,言語というか,語学には興味があるから,何かそういうものがいいなと思って,そうこうしている内にやりたくないものばかり排除していって残ったのが日本語というのはちょっと単純過ぎる話なんですけれども,それに近いものがありました。余り突っ込んでこういう話ばかりすると,すぐに時間がたってしまいますね。
当時のイギリスで日本語を学べる大学はまだ4校しかなかったんです。それは,オックスフォードと,ケンブリッジと,それからロンドンと,シェフィールドというところです。僕は,ロンドンの生まれ育ちだったし,地方都市に行くよりもロンドンで生活している方がいいなと思ったのと,キャンパス生活に余り魅力を感じなかったのと,いろいろな理由があって,ロンドン大学のSOAS――School of Oriental and African Studiesというカレッジの日本語学科に申し込んだんです。当時,日本語科というのは,15人で定員になったんですが,まだそれほど興味を持つ学生が多かったわけではないです。僕が入った後にだんだん人気のコースになっていったと思うんですけれども,早い話,割と簡単に入れました。それで,1969年の秋からSOASの日本語学科に入ったんです。今から34年前ですから,今の日本語の教え方はもう大分変わっていると思います。だから,僕の今日の話は昔のものだというつもりで聞いてください。
まず,入ってすぐには,日本語のコースなんですが,英語で書かれた本を教材にしました。僕らの実際の先生だった2人がつくった本で,「Teach Yourself Japanese」というものがあったんです。これは当然,まだ日本語に全く触れていないので,平仮名も片仮名も何も読めません。ですから,基本的な文法を身に付けるためにも,読めないのでは話にならないですから,ローマ字のテキストから始めるしか方法は多分なかったと思うんです。今だったら違う教え方をしているところがあるかもしれませんけれども。それで「Teach Yourself Japanese」のチャプター*11を開くと,最初に書いてあったのは何だったかな。多分,「ピンがあります」という文章だったと思います。「This is a pen.」ではないんですけれども,なぜかペンではなくてピンだったんです。(笑)その次には多分,「ここにピンがあります」とか,だんだん難しくなっていくんです。そうこうしているうちに,「字引の後ろに猫がいます」とか,(笑)そういったとても役に立つ文章がありまして,(笑)1か月ぐらいこの教科書だけを使っていたんだと思います。そういう文法に少しなれてきたところで仮名ワークブック*2というものが出てきて,ワークブックと言えば皆さんよく分かると思いますけれども,平仮名を一つずつ習ってそこに書き込むようなワークブックだったんです。たしかこれも2〜3週間ぐらいなものだったと思いますが,平仮名と片仮名をそのようにして毎日実戦的に習っていったんです。それと同時に「Teach Yourself Japanese」の文法を進めていて,ワークブックが全部終わったところで,今度は日本語で書いてある,僕らの教授でオニール先生が書いた教科書があって,平仮名と片仮名と簡単な漢字を使った単純な文章を読んでいくんです。1年目はずっとこれでいって,漢字を少しずつ覚えていくんです。
2年生になって,今のSOASの2年生たちはみんな日本に来て1年間日本で過ごしますが,僕らのときはまだその制度が確立されていなくて,希望者が日本に行けたのですけれども,自費ですから,1人もいなかったな。だれもそんなお金は持っていないですから。2年生のときは,初めて日本人が書いたテキストが出てくるんです。これは文庫本で,今はもう出ていないかもしれませんけれども,「日本人の生き方」という本だったんです。これはもちろんノンフィクション*3の本なんですが,僕らにはとてもそうは思えないような,「えっ,日本人てこんな生活しているの」というところがいっぱいあって,日本に来たこともない,日本人と大学以外ではつき合ったことがないようなイギリスの若者にとっては,かなり不思議な本でした。(笑)これをほとんど1年かけてクラスで翻訳していくんです。それと同時にもう一つ,史上最もつまらない本を読まされました。これは,英語で「A Topical History of Japan」という本でしたが,日本語で書いてあって,文章の組み方というか,書き方が非常にアカデミック*4でドライ*5なもので,学生にとって極めておもしろくない本でした。確かに,日本の歴史で知らなければならないようなことがいっぱい書いてあるんですが,余りにも書き方がつまらないので,とても入ってこないんです。これは義務だから授業の中で訳していくのですが,読んだ途端に記憶から消えていくというものでした。皆さんも恐らく,違った内容の本でもそういうタイプ*6の本に出くわしたことは十分あるでしょう。2年生のときは大体それに終始しました。

*1 チャプター 書物などの章。主要題目。
*2 ワークブック 補助教材。自習のために作られた練習帳。学習帳。
*3 ノンフィクション 事実に基づく伝記・記録文学などの作品。
*4 アカデミック 学術的。
*5 ドライ 乾いて水気のないさま。
*6 タイプ 型。型式。

  いよいよ3年生になると,ちゃんとした本が出てくるんです。毎年変わるんですけれども,そのころは1年かけて小説を1冊読むことになっていたんです。僕らのときは森鴎外の短いものが二つ,「高瀬舟」と「山椒太夫」の2冊を1年かけて授業でも少しずつ翻訳しながらやっていくんです。毎日宿題でその次の日の授業の何ページ分ぐらいというのが大体分かるので,その下読みをして,自分が知らない漢字とか忘れた漢字とかを全部調べて,授業ができるだけ滞らないように準備するぐらいのことはやっていたんです。それとは別に,もう一つの大きな授業は日本の高校生が使う教科書で古文も勉強します。それは確か上下2冊あったと思うんです。恐らく皆さんが高校生のときに使っていらっしゃったものだから何も説明しなくてもいいと思うんですが,この古文の文章が余りにも難し過ぎて,上の方に書いてある現代の日本語の注釈がすごく簡単に見えたんです。それで,思っていたより上達したものだなと初めて思いました。万葉集からだんだん進めていって,すべてを読んだわけではなくて,飛ばしたところがあったと思うんですが,一番難しかったのは,僕の場合,井原西鶴がほとんど暗号のようにしか思えなかったのを覚えています。大学のライブラリーからそれの英語訳を出して,まず英語の方を見て,それで教科書の日本語を見て,「これがなぜこうなるの??」という経験も多少ありましたが,何とか無事に,それも大体1年ぐらいで読んでいったのかな。
あとは,漢文の授業までやったんですが,これはほとんど意味がない。大学を出た後に漢文を見たことは1度もないし,(笑)見たとしても読み方は分からないし,大体多くの日本人も同じように感じるんじゃないかと思うんですが,今でも漢文をやっているかしら。日本語学科ですから一応やらざるを得ないのかもしれませんけれども,あえて何かをカット*1するとしたら,あれはカットしてもいいと思いました。むしろそれよりも,3年生,4年生のときはオプション*2科目で幾つか採れるんですけれども,Classical Chineseというオプションもあって,これは読み方は一切覚えないんですが,唐の時代でしょうか,中国のおもしろい小話が書いてある本なんです。例えば「矛盾」の話だとか,「蛇足」の話だとか,多分皆さん御存じだと思いますが,そういうのは,読み方は分からなくても,中国語の語順は英語にすごく似ているから,割と簡単に読めてしまうんです。漢文なんかよりもそっちの方がよっぽど話の内容もおもしろかったし,読みやすかったし,あれは非常に興味深いものがありました。
あとは,オプション科目で僕がとったのは社会学だったんですが,これもやっておいて良かったと後から思いました。つまり,2年生で「日本人の生き方」という本を読んでいるときに,日本に来たこともないし,日本人と話したこともないので,日本人のものの考え方とか価値観といったものがほとんど分からないわけです。だから,主に言葉の授業が多い。これは仕方がないと思います。4年かけても相当カバーしなければならないものもたくさんありますし,漢字の勉強だけでも本当に大変ですから,ほかのことにそんなに気が回らないというのが現実なんです。でも,この社会学で少なくとも,たしか中根先生という有名な方が英語で書いた本だったんですが,それを読みながら少しは日本の社会について,実際に体験するわけじゃないからただの知識なんですが,ないよりははるかに良かったと思います。
あと,漢字は,最初1年生のときには週に10とか,20とか,30とか,だんだん増やしていって,スピード*3が上がってきたら,今度は毎週50の漢字を新たに覚えなければならないようなノルマ*4が課せられるわけです。毎週(金)に累計テストをやらされるんです。ということは前の週に覚えたものも忘れるわけにはいかないから,それはかなり大変でした。年度末に必ず大きなテストがあって,余りにも成績の悪い人は落とされますから余り気を抜くわけにもいかなくて,僕らの教授がちょうど漢字を習得する本を書いている最中で,その原稿を毎週,まだ本の形になっていないんですけれども,紙のペラでもらって,それをファイルに入れながら勉強していったんです。4年のコースが終わるころには大体,常用漢字全部というわけにはいかないんですが,1,500ぐらいの漢字は習っていたんです。
大学に入る前から,最初に面接に行ったときに,「もしこのコースに入って卒業したら,日本語の読み書きは相当できると思ってください。ただ,しゃべれるとは思わないでください」とはっきり言われました。だから,これはだまされたとかということでは全然ないんですが,やはり卒業したころにはしゃべれませんでした。LLの授業は週に1回だったか,2回だったか,ありました。しかし,人によってはまじめにやっている人もいましたが,僕は,今の仕事から考えると信じられないかもしれませんけれども,自分の声が嫌いなんです。LLで吹き込むのはいいけれども,プレーバック*5するのが嫌いだったから,プレーバックするときにいつも音を絞っていたんです。だから,全然役に立たなかったんです。LLのほかに会話の授業が週に1回ありました。15人の学生のうち,会話の授業に登場するのは3人ぐらいなんです。出たら出たでそれはちゃんとやりますが,先生はいつもその授業の終わりに「では,来週まで皆さんでどうぞ日本語で話していてくださいね」と言うんですが,絶対に誰もやりませんでした。これは日本人が英語を習っても同じことでしょう。だから,会話の授業は,無意味とは言いませんけれども,大して効果がなかったかもしれません。

*1 カット 切って除くこと。
*2 オプション 自由選択。
*3 スピード 速度。
*4 ノルマ 課せられた仕事などの量。
*5 プレーバック 録音・録画したものを再生すること。

  しかし,僕の場合は,大学に入った動機も不純だったし,卒業してそれをどう活用するかということを全く考えていなかったんです。日本の大学生には就職活動は不可欠なものなんでしょうけれども,当時のイギリスではそれほど,誰でも必ずやるものではなかったと思います。少なくとも僕は就職のことを全く考えていなくて,卒業した後にいきなり,ヤバい,お金を稼がないとどうやっていくんだという現実に迫られて,特に日本語を活用して仕事をしようといったことも考えていなかったので,僕の場合は,今も音楽の紹介が主な仕事なんですが,とにかく何よりも音楽が好きで,音楽関係の仕事であれば何でもいいと思っていました。結果的にレコード店で働くことになって,日本語とは全く関係のない仕事だったんです。どっちみち,漢字を3年以上毎週50個習っていて,卒業したころにはもう食傷ぎみもいいところだったんです。少なくとも卒業した直後には,一生漢字の「か」の字も見たくないような気持ちになりました。レコード店の仕事をしていて,それはおもしろいところもあったのですが,そのうちちょっとマンネリ化して,何かもうちょっとおもしろい仕事はないかなと悩んでいるときに,お店で毎週とっているイギリスの音楽業界誌の一番後ろに求人欄があって,たまたまある週,日本の音楽出版社が求人広告を出していたんです。それを見て,何となく,これは僕を呼んでいるんじゃないのかなと勝手に思って手紙を出したんです。面接でその会社の人たちと会って,面接の結果は余りはっきりしなかったんです。「採用するとしても,これは日本語が少しできることとは全然関係ない」とはっきり言われました。つまり,その会社は主に英語のビジネスレターを書く英語圏の人間を探していて,会社の立場では,日本語なんかできなくても仕事はできるのだから,むしろちゃんと英語の能力がある人間であればそれでいいと。しかし,僕はその考え方が大間違いだったと思います。結局僕が日本に来る前に同じ仕事をしていた若いアメリカ人がいたらしいんですが,その人は全く日本語ができなくて,半年ぐらいでノイローゼの一歩手前でアメリカに帰ってしまったらしいんです。とにかく,僕は話が脱線するのが得意ですから,許してください。それはなかなかはっきりしない応対だったんですが,これはもうほとんどだめなんじゃないかと思ったころにある日突然電話がかかってきて,「10日後に東京に来られないか」といきなり言われました。日本に来てみると,割といつもこのパターン*1が多いから,そのときにはもう既に思いやられるところがあったんですけれども,もちろん「はい」と言って,10日間で身辺整理をすべてして,友達にも泣きながら別れを告げて,日本にやってきたわけです。それが1974年の夏だったので,もうあれから29年たっています。
最初に勤めたのは,シンコーミュージックという大きな音楽出版社だったんです。たしか7月1日だったと思いますが,梅雨の真っただ中で,そのころに良くあるような集中豪雨の真っ最中に飛行機のタラップ*2を降りたんです。あのころはまだ成田空港がなくて羽田空港だったんですが,飛行機からそのままターミナル*3の中に入るようなものはなくて,階段で飛行機から降りて行ってバスまで歩いたんですが,イギリス人などは見たこともないような雨の中で,湿気も今日みたいなものだったんですが,本当にショック*4でしたね。会社の人が車で羽田空港まで迎えに来てくれていて,会社は神田なんですが,空港から神田に向かって産業道路とか,あっちの方から回って行くんです。雨もすごいし,もちろん曇っているし,暗いし,そういう工場ばかりのような町の中を走って行くとだんだん気持ちが暗くなっていくのです。(笑)でも,おれは失敗したんじゃないかなと思いながら,途中でビルのところに会社の名前などが書いてある看板があって,これが読めた。それでものすごく安心しましたね。卒業して1年たっているから,漢字なんかはもうほとんど忘れていると思っていて,特に勉強もしなかったんです。採用されるかどうかも分からないし,採用されてすぐにどたばたと来てしまったものだから,どうかなと思っていたんですけれども,看板が読めて,あっ,頭の中にはまだ残っていたんだなと思ったら,すごく安心しました。

*1 パターン 型。類型。
*2 タラップ 乗降用のはしご。
*3 ターミナル (ターミナルビル)航空管制・税関など種種の施設を設けた建物。
*4 ショック 衝撃。心の動揺。

  すぐに会社に連れていかれて,ホテルにも寄らずに,ちょうどお昼前ぐらいの時間だったんですけれども,会社の人が神田のおそば屋さんに連れて行ってくれたんです。大学では日本の社会のことをそんなに勉強していないし,よく考えれば,食べ物などもほとんど分からないんです。もちろん,そのころも日本料理屋はロンドンに幾つかありましたが,高いし,普通の学生の身分ではとても行けないから,ほとんど食べたことがなかったはずです。日本料理屋ではないんですが,学生のころによく玄米を炊いて,ごま塩をかけて,小豆のシチューみたいな甘くないものをかけて食べたりしていたんです。これは当時はやっていたマクロバイオティック*1の食べ方で,特にこれは日本の食べ物だという意識はなかったんです。あと,穀物の状態のそばの実もよく炊いて食べていたんです。日本ではこれは当然みんな食べていると思ったら,誰も食べていないのに驚いてしまって,ショックでした。おいしいんですよ,これが。もしどこかで売っていれば,おなべで1時間ぐらいことこと炊くと,ものすごいおいしい。お勧めします。また脱線しました。それでおそば屋さんに連れて行かれたんですが,当然日本語で書いてあるメニュー*2を見て悩みました,「きつねそば,たぬきそば,これは一体何だ」。(笑)それで無難にてんぷらそばというものを注文して,(笑)良かったんですが,後で会社の人と話せばいろいろと丁寧に説明してくれて,そうこうしているうちにこういうことには余り驚かなくなりました。でも,最初の土日,小さなビジネスホテルに泊まっていて,誰もいなかったから,自分で勝手にどこか食べるところを見つけなければいけないんだけれども,「○○そば」と書いてあるお店に入って,これはてんぷらそばを頼めば無難だなと分かっていたから,「てんぷらそばをください」と言ったら,「うちはラーメン屋だよ」と言われた。(笑)最初は失敗が多かったんだな。そういうことがいろいろありましたね。
でも,120〜130人ぐらいの会社でしたが,僕が唯一の外国人の社員だったので,今,イマージョンプログラム*3という言葉がよく教育の世界で使われますが,結局そのようなものでした。僕が国際部に配属されていて,国際部の部員で英語が割とできる若い人たちが何人かいたので,僕がどうしても日本語で言えないようなところを,それもたくさんあったんですけれども,一生懸命英語で対応してくれたりもしました。でも,毎日周りはみんな日本人ばかりで,こっちもできるだけ早く上達したいという気持ちがあったから,上達するのは速かったと思うんです。語学が上達するには何が必要かとよく聞かれるんですけれども,すごく単純なことだと思います。自分は赤ちゃんのオウムだと思えばいいんです。要するに,赤ちゃんは理屈は全くなくて,例えば僕らの大学のクラスに2年間だけ,ブリティッシュカウンシル*4というイギリス大使館の文化部の仕事で東京に来ることになっていた40代の夫婦がいたんです。特に御主人の方は,日本語の何かを先生が説明しているときに,「でも,ラテン語の文法ではこうだから,何で日本語はこうなるわけ」というような訳の分からないことを聞くわけです。(笑)ラテン語なんて関係ないだろうと,僕ら学生たちもものすごくいらいらしましたけれども,大人になればなるほど,ラテン語じゃないかもしれませんけれども,そういう何か邪魔する余計な理屈というのが入ってくるんです。赤ちゃんというのはそれを一切持っていないから,言葉を覚えるのはすごく速いんです。あとは,オウムというのは,要するにオウム返しというのは,相手が言ったことをそのまま繰り返せばいい。語学というものはもうそれだけだと思う。だから,僕は割と最初からそういうのを多分考えていたんでしょうね。そうすると,身に付くのも結果的に速かったと思うんです。それでも身に付かなくて,いまだにうまく使えないのはことわざなんです。これは,教育の現場でもうちょっとことわざを意識して教えてくれれば良かったかなと思いました。ことわざとか,四字熟語とかということは,NHKの「連想ゲーム」などが昔大好きで,あれで擬音なんかもすごく勉強になりました。そういうものをもっともっと教育の現場で使われればいいなと今になって思います。擬音は今は割と自然に使えると思うんですが,四字熟語とか,ことわざとか,そういった日本人だったら誰でも自然に使って,何かやたらに難しいアカデミックな言い方とか遠回りな言い方をするよりもずばっと言い当てることができるような,そういうものが使えるとすごくいいなと思います。
さてさて,会社に入って,まだそんなに上手に日本語が使えないときにすごく役に立ったのは,テレビでした。70年代のテレビでは,すごく実際の生活のパターンに近いホームドラマ*5みたいなものがたくさんありましたね。今のホームドラマはやたらに気張った不自然な会話のものが多いように僕は感じるんですが,あのころは,聞いていればそのまま使えるような言葉遣いのものが多くて,それはすごく勉強になりました。

*1 マクロバイオティック 自然に調和した理想的な生活法・食事法をマクロバイオティックと呼ぶ。
*2 メニュー 献立表。
*3 イマージョンプログラム 没入教育の課程。
*4 ブリティッシュカウンシル イギリス式の会議。
*5 ホームドラマ 家庭内に起こる事件を題材とする劇。

  あと,もちろん会社ではいつも若い同僚の社員たちと話していて,これは役には立ったんですが,1回ちょっと困ったなという体験がありました。シンコーミュージックという会社が出版しているものの中に「ミュージックライフ」という当時すごく人気のあった音楽雑誌があったんです。その編集部員は僕と割と音楽の趣味が合ったのでよく一緒に話していたんですが,その編集部員はほとんど女性でした。それで,気が付かないうちに「○○なのよ」とか,(笑)そのような言葉遣いが,赤ちゃんのオウムですから,すぐにうつるわけです。それが癖になってしまって,本人も全然それは意識していないんですが,要するに男言葉とか女言葉があるということも学校では何も教えてくれなかったので,人が言うことをそのまままねするだけなんです。あるとき僕の課長が「おまえは本当に女々しい男だ」と,(笑)びっくりするようなことを言うんです。「女々しい」という単語も生まれて初めて聞いたものだから,辞書を開いて,「女々しい」,えーっと。これがショックで,何でこうなったのかよく考えたら,いつも女性とばかり話していたからなんです。これはまいったなと思って,その反動でできるだけ男くさい言葉を使うようにしばらくなったんです。例えば,「ひどい」というのを「ひでえ」とか,そういう発音もできるだけ男くさいというか,そういう話し方を意識したんですが,今度は若い女性に「ちょっとあなた,言葉遣いが下品だよ」と言われて,(笑)これまたショックで,しばらく微調整をしながら普通の話し方になっていったんでしょうけれども。
でも,余りアカデミックな話はしないし,もちろん会社の仲間はみんな若い人たちですから,普通の口語的な日本語なんです。大学で習っていたのはもちろんアカデミックなものですし,古くさい言葉をいっぱい習っていたんです。そのころでも日本ではほとんど片仮名を使うようなところ,例えば「美容院」とか「ヘアドレッサー」というのを,僕らは「散髪屋」とか「髪結い」とか,(笑)そういう言葉で習っていたんです。後になって「髪結いの亭主」というのがあったから,そのときに昔習っていたから知っていて良かったというのはもちろんあるんですけれども,もうちょっと,こういう言葉もあるけれども,今の日本ではこう言うんだという,その時代その時代の言葉遣いをちゃんと教えてくれないと困るんです。そういうこともたくさんありました。
日本に来て日本映画を見れば,それもまた役に立つだろうなと思っていたんですが,当時1番はやっていたのは「仁義なき戦い」に代表されるような広島弁のやくざ映画だったんです。あるときそういう映画を見に行って,全く分からなくて,映画館を出たときにはもう絶望的な気分になっていて,これは広島弁だということを知らずに,とにかく自分の能力が思っていたよりもこんなにひどかったのかと愕然としたんですが,後から聞いて,「いや,それは無理もないよ」ということになって,映画よりもテレビに頼りながら日本語の練習をしました。ちょうど僕が来た年だったと思うんですが,懐かしいモンティ・パイソン*1の放送が12チャンネルで始まったんです。僕の記憶が間違っていなければ,あの放送でタモリ*2が初めて出てきたと思います。あの番組の司会をしていたんですが,モンティ・パイソンの放送は全部日本語だったんです。しかし,これは英語の直訳でスクリプト*3を作っていて,まだ日本語がそんなによく分からない僕にとってはとても便利で,聞いている日本語を逆に直訳すれば,英語で何を言っているか全部分かるというもので,僕にとってはすごくおもしろい体験でした。
あと困ったのは敬語。これも,大学で敬語というものが存在することは分かるのですが,練習はしていません。でも,これは仕方がないかなと後から思いました。つまり,イギリス人同士で敬語を使うのも変ですし,日本人でないと自然に出てこないものですから,どうしても日本に来てから身に付くものなんだろうと思います。でも,余りにも心の準備ができていなかったのです。例えば,会社にいて電話がかかります。電話に出ると,相手は当然敬語で話すわけです。そうしたら,まず何を言っているかが分からない。それで慌てるから,どう答えていいか分からない。相手がこう話しているから,同じ口調で話さなければならないのは何となく分かるんですが,語彙も持っていないし,どう答えていいか全く見当がつかないというので,震えてくるんです。そうこうしている内に電話に出るのは嫌だとなってくるんです。でも,これは何年かかかって徐々に,こういうときにこのように話すものだと,電話よりも,相手の会社に行って会議をするとか,初めて人に紹介されたときにみんなどのように話しているかというのを聞いてまねするという,そのプロセス*4で身に付けていく。もちろん,何事も練習なんですけれども,敬語は難しかったです。ただ,最近の若い日本人の敬語を聞いていると,はっきり言って,僕の方が上だ。(笑)でも,これはちょっと恥ずかしくないかなと思うぐらい,国語の教育現場に携わっていらっしゃる方が多いと思うんですが,逆に僕から,なぜこんなに今の若い日本人は敬語を使えなくなったか,知りたいんです。困ったものだと思います。
では,その段階の話はそこまでとして,今の僕はそのころに比べたらはるかに日本語での自己表現力が良くなっています。これはひとえに1人のプロデューサー*5のおかげです。15年前に,今も司会を務めている「CBSドキュメント」というドキュメンタリー*6の番組の仕事を始めました。その当時のプロデューサーのモトノさんという方が非常に言葉にうるさい人でした。報道番組というのは,扱っている事柄は,誤解を招けばかなり問題が生じかねない事柄が多いだけに,確かに言葉に気を付けなければならないわけです。僕は第1言語が英語なわけで,第2言語としての日本語では言葉遣いの細かいニュアンス*7までは分からなかったんです。よく番組の打ち合わせの段階で,ある事柄について僕が「じゃ,こういうことを言いたい」と言ったら,プロデューサーは,「それは言ってもらってもいいんだけれども,そう言うと,ある人はこうとる,ある人はこうとる,それでいいか」ということをよく言っていたんです。「いや,それじゃ困る。どういう言い方をしたらいいんですか」と聞くと丁寧に教えてくれて,実際に番組の収録をするときに,これまた少しでも違うニュアンスで話したら,それを全部訂正してくれて,必要だったら何回でも撮り直す。僕はときには非常につらいこともあったんです。毎週毎週そのようにしごかれて,プツン寸前のこともありましたが,今から振り返って考えれば,あのプロセスがなければ今の僕はない,とつくづく思います。難しい言葉も,自分の口から自然に出てこないから,これは言いにくいなと思った言葉もいろいろありました。一生絶対に忘れないのは,「情状酌量の余地がある」という表現です。ある裁判の話でしたが,あのときにたたき込まれていなければ,絶対に知らなかったものでしょうね。今考えれば,もしそう言わなければならない場合があれば,自然に出てきます。だから,時にはそういう難しいことも教えてほしいと,そのときにすごく思いましたね。

*1 モンティ・パイソン イギリスで60年代後半に結成された,コメディアンのグループ。
*2 タモリ 現在もテレビ等で活躍するタレント。
*3 スクリプト 手書き文字に似せた欧文活字の書体。
*4 プロセス 過程。
*5 プロデューサー 制作責任者。
*6 ドキュメンタリー 記録映画などの事実の記録に基づく作品。
*7 ニュアンス 微妙な意味合い。

  あと,そのプロデューサーは発音のこともすごくうるさかったんです。イントネーションもそうでした。いろいろな国の人たちが日本語を習いますが,その国の言語の特徴があるわけですから,僕は今でも日本語のイントネーションを間違えることもあります。でも,そのプロデューサーのおかげでそれは随分少なくなってきました。外国人に日本語を教えるときは,この発音とイントネーションにかなり気を付けることがすごく大切なことだと思います。逆に,日本人が外国人に自己紹介をするときに,ちゃんと日本語のイントネーションを使った方がいいと僕は思います。「ハロー,マイ・ネーム・イズ・タカーシ・マツモート」なんて言わない。(笑)ちゃんと日本語のイントネーションを使うことと,僕は日本人の名前は,マツモトタカシさんだったら,その順番で言えばいいんじゃないかとよく思うんです。なぜか日本人はみんなひっくり返して,外国人にはその方が分かりやすいと思っているのでしょうけれども,中国人を見ても,韓国人を見ても,ほとんどの場合は日本と同じように姓名の順番で言うんです。日本だってそのように堂々とやればいいんじゃないか。余り譲らなくてもいいところは譲る必要はないんじゃないかなと思います。日本語とは関係ないかもしれませんけれども。
あと言いたかったのは,どうしても自分が第2言語ですから,人の話を聞いていて,この言葉,この単語は知らないとか,この表現は聞いたことがないというのがあるんです。その表現というのは何となく前後関係で分かることもあるんですが,知らない単語に関しては,漢字を知っていれば,これはこう書くだろうなと思うと,大体察することができるケースが,すべてではないけれども,半分ぐらいはあるんです。だから,漢字をしっかり教えることがすごく大切だなとつくづく思うのはそういう場面です。
あとニュースのこと。僕は,報道番組にかかわっているという関係もあってテレビのニュースをそれまでよりも注意して見るようにしているんですが,なぜこんなに難しいんだろうと今でもすごく思っています。日本に来て,普通のテレビを毎日見ていてほとんどのことが分かるのに,10年ぐらいたっていまだにテレビのニュースを見ても分からないことだらけ。専門用語が多過ぎて,一生懸命注意していれば何とかついていけるのだけれども,1回でもその流れを少し失いかけたら,もう絶望的ですね。全く分からなくなることもあるんです。最近NHKで「週刊こどもニュース」というのをやっていますけれども,あれはすばらしい。あの番組をつくった人は天才だと思う。恐らく,ものすごく感謝している外国人が多いと思います。だから,外国人に日本語を教えるときにはぜひあの番組を見させればいいと思うし,願わくば普通のテレビニュースも,例えば日本の中学生が見ても分からないことが多いと思うんです。中学生がニュースを見て分からないことがあるというのはいけないことだと僕は思います。自分の国で起きている問題についてちゃんと把握すべきだと思うんです。中学生の僕が当時のイギリスの政治に興味があったかというとなかったかもしれませんけれども,少なくともニュースで言っていることの意味が分からないということはなかったと思います。だから,これは教育現場の方々に対する要望というよりも放送関係者に対する要望かもしれませんけれども,この間NHKのプロデューサーに「なぜこんなに難しいんですか」と聞いてみたら,「まず,原稿を書いている人間が下手だ」ということをおっしゃっていました。でも,国内政治に関しては,「はっきり言ってはいけないことが多い」と言っていました。それをぼかすために変な小難しい言い方をしている。これって情けないですよね。これもまた教育の話ではないけれども,この国の抱えるかなり大きな問題だなと僕は改めて思いました。
時間がそろそろなくなってきましたが,教育で使うと,これはすごく効果のあるいいものだなと思うのが二つあるんです。一つは音楽,もう一つは映画,さっき言ったテレビもそうですが,映像です。日本の音楽で何を使ったらいいかというのは好みによって変わるのでしょうけれども,僕はユーモア*1の要素がすごく大切だと思う。ユーモアというのは国によって全然違うものですから,モンティ・パイソンなどは,日本人が最初に見たときに,何がおかしいのかと思ったかもしれません。逆に,例えば英語圏の人間は,日本の今のお笑いのテレビなどを見て,何がおかしいのか,いまだに僕にも分からない。20年ぐらい前まではおかしいと思っていたんだけれども,最近は全く笑えない。これは年をとったというだけのことかもしれませんが,あるときに友達に再版されたクレージーキャッツ*2のシングル盤*3をたくさんもらったんです。これを聞いたら爆笑ものでした。ああいう昔の日本のすごくおかしい,「しょぼくれ人生」だっけ,知らないかな,あれも傑作なんですが,ああいう曲を外国人に日本のユーモアの一つの例として聞かせれば,かなり親近感を覚えるんじゃないのかな。
あと,日本の必ずしも自慢すべきではないところをおもしろおかしく見せる映画が時々あるんです。僕は崔洋一という映画監督が大好きなんですが,彼がつくった「月はどっちに出ている」という映画がありますね。在日韓国人のタクシー運転手の話ですが,その映画とか,あと最近の作品では「刑務所の中」という映画があるんです。ほかの国に比べて日本はそういう刑務所の中を見せるなんていうことはこれまでに皆無に等しいものでしたが,崔さんのその映画ではふだん見ることもできないところを見せながらすごくユーモラス*4なところもあって,日本人の核というか,エッセンス*5みたいなところがすごく良く表されているところがあると僕は感じたんですが,そういったタイプの映画を教材にしてもいいぐらいに思います。
大体その辺の話で,あと5分ということですが,質問は幾らでも受け付けますので,もし聞きたいことがある方はぜひおっしゃってください。恥ずかしがらないでね。(笑)はい,どうぞ。ちょっと待ってください。今マイクが行きます。

*1 ユーモア 上品で機知に富んだしゃれ。
*2 クレイジーキャッツ 「ハナ肇とクレージー・キャッツ」というコミックバンド。
*3 シングル盤 単独の楽曲を収録したレコード。
*4 ユーモラス ユーモアのあるさま。
*5 エッセンス 本質。真髄。


参加者先生の講演を聞きましたら,先生は29年間この日本で生活していらっしゃるように受け取りました。この29年間,日本における日本語,日本人にとっては国語ですが,この変化している傾向を先生はどう受けとめていらっしゃるのですか。私はそれが嘆かわしくて3年前に日本語教師の免許を取りました。お願いします。

バラカン日本人の変化ですか。

参加者日本人が話している言葉,口語の変化,傾向について。

バラカン言葉の変化。そうですね,大分変わってきました。よく,言語は生き物だと言う人がいるんです。確かにそれはそのとおり,これは否定できないことです。もちろん言葉は変わるものなんですが,最近の日本語の変わり方は,僕も年をとった証拠にすぎないかもしれませんけれども,おっしゃるとおり,嘆かわしいものがあると思います。難しい問題だな。ただ,嘆かわしいと思っていても,それはこのように変わっているという現実を否定することはできませんから,少なくとも教育の現場では,例えば「ら」抜き言葉を許さないとか,そういうことはあってもいいと思う。でも,教育現場よりも,これはマスメディア*1がいけないと思うんです。言葉の良くない変化だとか,あるいはいい加減な言葉が使われるようになったのは,ほとんど広告からだと思うんです。だから,広告代理店にもうちょっと責任ある態度をとってもらいたいです。本当に悪過ぎますね。外来語は僕なんかは特に意識するかもしれませんけれども,英語などでは存在もしないのに,日本人が平気で使う言葉がたくさんあるんです。それを指摘すると,「いや,言葉は生き物だ。それは英語じゃなくて日本語なんだ」とへ理屈を言う人がいるんです。だから,日本語だったら日本で使っていても構わないんだけれども,海外に行ってもそれを英語だと勘違いして使おうとすると誰も分からないケース*2がいっぱいあるわけですから,これは良くないと思います。でも,日本語そのものも本当に随分変わってきていますね。最近の若者のはやり言葉は僕も分かりません,はっきり言って。つい昨日かな,資料として文化庁からいただきました「美しい日本語のすすめ」の前書きのところで,最近の若者が使っている言葉で「おにむかつく」というのがあって,12歳の娘に「この言葉知っているか」と聞いたら彼女も知らなかったんです。嘆いてもきりがないんですが,ただやっぱりマスメディアの無責任でいいかげんなことはもっと正すべきだと思います。今度マスメディアの人権侵害あたりの行き過ぎを監視する機関ができたようですから,そういうことだけじゃなくて,言葉遣いやその辺のことももっとちゃんと言うべきことを言えば,少しは良くなるかな。希望的感想かもしれませんけれども。
ほかに。はい,後ろの方。

*1 マスメディア テレビ,新聞,ラジオなどの不特定の大衆に大量の情報を伝達する媒体。
*2 ケース 場合。


参加者私はカワマタといいますけれども,ピーターさんのウィークエンド・サンシャイン*1だっけ,(土)によく聞いていますし,私は日本語教育の専門家でして,学生にも聞くように言って,ピーターさんの日本語を分析したらどうだと。自分でもそうは思うんですけれども,それはしないで,ただ楽しむだけです。二つちょっとお聞きしたいんです。一つは,ピーターさんは約30年間日本にいらっしゃって,今いろいろなお話を聞きましたけれども,同じイギリス人同士とか,あるいは外国人同士で日本語でお話しなさるときに,日本人と話すときとは若干違うことがあると思うんです。今日のお話で二つ,報道番組のプロデューサーに随分鍛えられたということと,それから英語で自分の名前を紹介するときには日本人はむしろ「マツモトタカシ」の方がいいんだというお話をなさったわけですが,それはある意味でちょっと矛盾した話で,報道番組のプロデューサーが言っているのは恐らく,「あなたは日本語をしゃべっているのだから,日本人らしく振る舞え」というメッセージ*2なわけなんです。ピーターさんのおっしゃったのは,日本人が英語をしゃべるときには,日本語のアクセントとか,あるいは日本語の名前の順番でいいんじゃないかということになると思うんですけれども,ピーターさんのような日本語を話される方が,日本人と話すのではなくて,外国人同士で日本語を話すときの意識というのか,そういうものはどうかなとちょっとお聞きしたいと思ったんです。

*1 ウィークエンド・サンシャイン ラジオNHK・FMの番組。
*2 メッセージ 伝言。ことづて。声明。


バラカンはあ,複雑な話だ。(笑)外国人同士で日本語を話すことはそれほどないですね。例えば,僕は,今はもうなくなってしまいましたけれども,東京都の外国人都民会議というものに約4年ほどかかわりました。そのときは,17か国かの25人ぐらいの委員がいて,その会議はすべて日本語で行うものですから,そういうときは外国人同士で日本語を話しますが,そのくらいなものかもしれない。それはかなり難しかったです。というのは,みんな,例えば僕みたいに20数年日本に滞在していて,日本語で分からないことはそんなにない人間もいれば,日本で生まれ育った在日朝鮮・韓国人もいました。逆に,まだ日本に来て3年ぐらいのアジアの国の人も何人かいたかな。そういう人もいるわけで,当然その人の言語レベルは全然違いますから,相手に分からないことを言っても仕方がない。言うことを加減しなければならない。しかし,その会議で審議しなければならないものというのは,余り小学生レベルに落とすと話が全然進まない訳ですから,どこかで分からない人を犠牲にすると言ったらちょっと冷たく聞こえるかもしれませんけれども,そうせざるを得ないというか,無意識の内にそうなってしまうこともありますね。でも逆に,まだ日本に来たてのころに日本人が僕に対して話すときは,難しい単語は使わない,相手に分かる範囲でしか話してくれないから,なかなかこっちの日本語能力が上がらないんです。確かにそういうことを考えたこともあります。例えば,僕の女房は日本人なんですけれども,彼女も多分どこか無意識のうちに,僕と生活していると使わなくなってしまった表現とか日本語のイディオム*1がいろいろあると思います。これもすごく残念に思うこともあるんです。きっと,つき合い始めたころは仕方がなくてそうなってしまったんだけれども,それが癖になって,彼女も多分日本人の友達と会うときにはもっと豊かな日本語を使っているかもしれませんね。今の僕だったら,言われてもほとんど分かるんだろうけれども,僕に対してそういう言葉を使わないという癖がついてしまったのではないかと思います。またちょっと脱線しましたが,そういうことが良くあるんでしょうね。

*1 イディオム 慣用句。熟語。


司会(橋本)そろそろお時間なんですが……。

バラカン時間をオーバー*1してしまった。ごめんなさいね。

*1 オーバー 超過。


司会(橋本)すみません。まだまだ伺いたいお話はあるのですが,御質問の方はこのあたりでよろしいでしょうか。
ピーター・バラカンさん,どうもありがとうございました。(拍手)
ピーター・バラカンさんはいろいろ音楽番組を持っていらっしゃるのですが,聞くところによりますと番組の選曲とか企画とかを自分でいろいろ考えて工夫されて番組をつくられているというお話を伺ったんですけれども,今日のお話もそういうピーター・バラカンさんの人柄がよくあらわれていたような感じを受けました。
それでは,今日と明日の日本語教育大会の日程につきまして簡単に御説明させていただきたいと思います。この後,「私たちの日本語習得奮闘記」というテーマで,第2言語として日本語を習得された方々に御登壇いただきまして,日本語を習得された際にいろいろ御苦労されたお話,あるいはそれをどのように克服されたか,そういう体験談を座談会形式でお話しいただきたいと思っています。その後,第2部といたしまして,「日本語教育に携わる者が留意すべきことは何か」というテーマで,3:45ぐらいを目途にしてパネルディスカッションを行いたいと思います。こちらの方は,座談会で体験的なお話をいただいた内容をいろいろな領域の専門家の先生方に分析していただいて,どういう点に注意すべきか,専門的,学問的な観点から分析していただくという目的で考えております。本日の終了予定は17:30ということになっております。それから,明日の日程でございますが,明日は10:00からこの部屋で地域日本語教育シンポジウムを開催いたします。こちらは,社団法人国際日本語普及協会に委嘱しております地域日本語教育の推進事業の一環としてシンポジウムを行う予定となっております。今回は,一般の地域住民の方々も視野に入れました日本語支援のさらなる広がりについて考えてみたいと思っております。
それから,明日の午後は,日本語教育研究協議会を分科会に分かれて行います。こちらの方は事前に出席のお申し込みが必要になっております。お申し込みいただいた方が対象ということで,御出席いただきたいと思います。御希望いただきました分科会の方にすべての方が入れますので,よろしくお願いいたします。
最後に1点,アンケート用紙をお配りしておりますが,恐縮ですが,御協力をお願いしたいと思います。会場の入り口に回収箱を置いておりますので,そちらの方にアンケート用紙を御記入の上入れていただければと思います。
それでは,座談会の準備が整ったようです。これからの進行を文化庁国語課の日本語教育調査官の野山にお願いしたいと思います。それでは,よろしくお願いします。
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