氷川丸は、昭和5年(1930)に横浜船渠株式会社にて竣工した貨客船で、戦前期に国内で多数建造された大型貨客船のなかでは現存する唯一の船舶です。氷川丸は複動大型ディーゼルエンジンを搭載し、国際条約を先取りした水密区画の採用等、当時の先進の造船技術を導入して建造されました。一等船室等の内装は、フランスの工芸家マルク・シモンの作品で、アールデコ様式の最初期の事例として建築意匠上にも注目されます。本船は、海外との輸送手段を貨客船が担っていた20世紀前半から中葉にかけて主要航路である北米航路に就航し、さらに戦中は病院船、戦争直後には復員船、引揚船あるいは物資輸送船として昭和35年の最終航海まで長期間にわたり使用され、社会・経済史上に大きな役割を果たしました。
氷川丸には航海日誌・諸記録類、図面類が残され、日本郵船株式会社所有の航海日誌・諸記録類8点、図面類455点が附指定になります。
図面類は一部の原図を除いて、大半は原図を複写した青図(青焼き図面)です。青図の主な内容は、氷川丸に備え付けられ管理用に使われてきた機関部や電気系統の機械、設備になります。
図面類はマイクロフィルムやデジタルデータで複写をとられた後に廃棄されることが多いなかで、このようにまとまって保存される例は貴重です。青図は氷川丸の建造時だけでなく、修理時のものも含み、機械・設備等の内容や改修のありようを窺うことができるもので、氷川丸の各部位の文化財的な評価を判断する上における基礎資料であることから附指定として一括して保護の対象としています。
氷川丸附指定の青図修理は、重要文化財(美術工芸品)として青図を主対象とした最初の修理事例です。平成29年度から平成31年度(令和元年度)まで3カ年にわたり、447点の青図を対象として保存修理事業(国庫補助事業)を実施しました。以下に科学的検討を加えながら実施した修理の内容を紹介します。
青図は「青焼」と呼ばれる複製された図面で、一般に木材パルプ等を原料とする機械漉きの紙が用いられます。主な劣化・損傷は以下のとおりです。
青図が水や光、アルカリに弱い性質を持つことに留意し、以下の方針をとりました。
やわらかい刷毛をもちいて微塵や付着物を裏面から除去しました。
裏面から貼付されたセロハンテープは、キャリア(支持体)、粘着剤の順に除去作業を行いました。キャリア部分は、本紙に影響がない程度の温度に熱したヒーティングスパチュラ(篦 )で粘着剤を軟化させたのちに金属の篦を用いて除去しました。粘着剤は天然ゴム系イレイサーを使用して除去しました。なお、粘着剤が茶変し本紙に滲出している箇所については、キャリアを物理的に除去した後に、表面に溶出しない程度にエタノールで溶解しながら粘着剤を軽減させました。また、表面に貼付されたセロハンテープは、図への影響が僅少かつ安全に除去できると判断された箇所は同様の方法で極力除去しましたが、除去が困難と判断された箇所は現状維持としました。
劣化し茶変した粘着剤残滓除去に用いる溶剤を選択するために、エタノール、アセトン、テトラヒドロフラン(以下「THF」と表記)の有用性および、各溶剤使用による経年劣化の変化を確認するため、以下の試験を行いました。
裂損部分には、極薄の楮紙(典具帖紙 )を用い本紙を補強しました。接着剤には、セルロース誘導体であるヒドロキシプロピルセルロース(以下「HPC」と表記)をエタノールにて溶解したものを用いました。修理後は折り畳むことから、折り畳み時の擦 れなどを回避するため、楮紙は裂け目に沿って接着する一般的な方法ではなく、裂け目の両端部にブリッジ状に接着し、本紙との接着面積を少なくする工夫を施しました。
青図に対するエタノール使用について、以下の試験を行い確認しました。
錆びたステープルは取り除き、元の綴穴を利用して楮紙にて新調した紙縒りで綴じ直しました。
図面右側の薬剤による変退色部分が図面左側の折り畳み時の隣接箇所に焼けを発生させていました。そこで図面右側の変退色部分に中性の紙を間紙として挟みこみました。
青図は1枚ずつ無酸・無アルカリ性の紙を使用した二つ折りのフォルダに入れて、文書保管用の中性紙製の保存箱に収納しました。また青図の保存には好ましくない酸性紙の旧保存箱も最低限の手当を施し、同様に保存箱を作成して収納しました。
近代以降に大量に作成された青図は、その用途や性質から永続的な保管を当初から目指しておらず、脆弱なため劣化損傷しやすく、また廃棄されやすい文化財です。青図に関する修理事例の蓄積が乏しいため、有識者と協議しながら、修理作業の安全性を実験によって検証して修理方針を固めました。その結果、水を使わず、安全性に配慮し必要最小限の範囲で損傷を手当するという青図修理の一例を示すことができました。青図修理に関する先駆的な修理事例と位置づけることができます。今後の修理においても参照され、青図の修理方法の検討が重ねられるなかで、より適切な修理につながることが期待されます。