写真の指定と保存・活用

重要文化財の写真

重要文化財指定までの経緯

平成8年(1996)の文化財保護法改正では、概ねペリー来航(嘉永6年[1853])から太平洋戦争終結時(昭和20年[1945])までの年代の近代の文化財保護がうたわれ、歴史資料では指定基準に科学技術が加えらえた。

このことを契機に、我が国において写真は美術工芸品のうち歴史資料として文化財保護の対象となり、文化、社会のほか、科学技術上にも評価される。写真の重要文化財指定は、平成11年(1999)の島津斉彬像[写真1]を皮切りに進められ、現在は14件を数える。歴史資料分野における近代の重要文化財は現在75件(令和3年度現在)であるから、写真は件数上では約2割を占め、指定が進んでいる分野といえる。このことは、関係者の努力によって写真分野の調査、整理(目録作成)、研究が進展し、展覧会が開催され、あるいは古写真の高精細デジタル化や公開が進むなど、保存・活用の措置が一定程度図られてきたことを反映するものである。

[写真1]
[写真1]島津斉彬像(ダゲレオタイプ)

重要文化財の写真

ここでは、写真関係の重要文化財15件(前記14件に写真原板及び紙焼付写真を多く含む臨時全国宝物調査関係資料1件を加えた)を通覧し、指定文化財の概要を紹介する。既述のように、これらは文化、社会、科学技術の観点から価値が評価されたもので、時代・内容から①幕末期の銀板写真6件、②明治10年以前の写真原板(湿板)及び紙焼付写真4件、③明治20年代から昭和戦前期の写真原板(乾板等)及び紙焼付写真4件、④幕末期から昭和期にかけての一家の写真群1件の4種に大別される。

幕末期の銀板写真

銀板写真(ダゲレオタイプ)は、1830年代に仏国にて発明された最初の実用的な写真技法である。感光材としてハロゲン化銀を塗布した銅板を原板として撮影し、これを現像定着させ銅板上に美麗繊細な画像を作り出した。ただし、露光時間は長く、画像は左右反対で、1回の撮影で得られる画像は1枚に限られる。

6件のうち5件5枚は、嘉永7年(1854)にペリーに従い来日した写真師エリファレット・ブラウン・ジュニアが、一行と交渉、応接にあたった武士(浦賀奉行関係者2名、松前藩士3名)を各々撮影し、被撮影者に贈呈し伝来したもので、日本国内において日本人を撮影した現存最古の写真として知られる。島津斉彬像は西洋の写真術を研究していた薩摩藩における撮影事例で、安政4年(1857)に鹿児島城内にて藩主島津斉彬を市来四郎が撮影したものである。画像は現在明瞭さを欠くが、日本人が撮影した銀板写真の唯一の伝存例であり、幕末期における西洋科学技術摂取の一端を示す。

明治10年以前の写真原板(湿板)及び紙焼付写真

湿板写真は1851年に英国にて発明された写真技法で、ヨウ化物を分散させたコロジオンを塗布したガラス板を硝酸銀溶液に浸して感光材とした。感光剤が湿っているうちに撮影し、これを現像定着させた。ダゲレオタイプに比して、露光時間は短く、1枚の原板から何度も焼付を作成でき、安価であったことなどから急速に普及した。安政年間(1854~60)には日本にも紹介され、国内において外国人から技術を学んだ長崎の上野彦馬や横浜の下岡蓮杖が文久2年(1862)には各々写真館を開業した。日本社会に写真を定着させた写真技法であることから、写真の伝存数は飛躍的に増える。

現在は、明治初年に国の事業にて写真師横山松三郎(1838~84)が撮影したまとまった数の建造物や宝物類(以下「美術工芸品」と記載)の記録写真群4件が重要文化財指定をうける。横山は、箱館や横浜にて写真、石版、油彩など西洋の技術を学習し、独自に研究を重ねて表現を試みた人物と知られる。

旧江戸城写真は、明治4年(1871)に太政官少史であった蜷川式胤が「破壊ニ不相至内、写真ニテ其ノ形況ヲ留置」ことは「後世ニ至リ亦博覧ノ一種」(見返伺書控)となるとして、写真師横山松三郎と絵師高橋由一に依頼し製作した。湿板原板と淡彩を施した鶏卵紙写真[写真2]が伝わり、鶏卵紙写真64枚は蜷川により1冊のアルバムに仕立てられる。近代国家による最初の大規模な文化財調査として著名な明治5年の壬申検査は、文部省の町田久成、内田正雄らが、愛知・三重・京都・奈良の社寺の建造物や美術工芸品等を調査したもので、写真師横山松三郎、絵師高橋由一も同行した。美術工芸品の記録には、描画や拓本も用いられるいっぽうで撮影も行われた。その際の写真原板(ステレオ写真[写真3]、四切写真)と鶏卵紙写真が重要文化財に指定される。これらは、写真の記録性の優位性、有効性が認識されていたことを示す初期のまとまった事例であり、同時代の写真技術を体現するとともに、後代に盛んとなる文化財写真の先駆的事例に位置づけられる。

[写真2]
[写真2]江戸城写真帖(鶏卵紙写真・着彩)
[写真3]
[写真3]奈良・東大寺・盧舎那仏(ガラス湿板ネガ)

明治20年代から昭和戦前期の写真原板(乾板等)及び紙焼付写真

乾板写真は1870年代に発明された技法で、写真乳剤乾燥後も原板の使用を可能とし取扱性、利便性に優れた。1878年には工業生産が始まるなど生産量が増大し、湿板写真を短期間で駆逐した。我が国における乾板写真撮影及び印画術、写真印刷の普及を語るうえでは、明治16年(1883)から同18年まで米国ボストンにて写真術、乾板製造法、コロタイプ製板術を学び帰国した小川一眞(1860~1929)の功績が大きい。

小川の技術上の功績は、フラッシュを用いた撮影術、「不変色写真(プラチノタイプ)」術、写真印刷術の開発等が挙げられる。内容上では文化財写真の撮影・印刷にも功多く、撮影は国内では明治21年から行われた宮内省臨時全国宝物取調における美術工芸品の撮影、国外では明治34年の清国北京城等の撮影が代表的な事績である。印刷では我が国の最初の写真掲載雑誌となった『國華』の発刊(明治23年)への参画以来、自ら撮影した美術写真の印刷を行い日本美術を国内外に普及した。明治43年には美術・美術工芸の作家以外ではじめて帝室技芸員に任ぜられた。乾板写真・写真印刷の普及により、写真は情報伝達媒体としての機能性をさらに大きく拡大した。この時代の指定文化財は、以下の4件である。

臨時全国宝物取調は、我が国ではじめての文化財保護の法律である古社寺保存法制定の前提となった調査で、全国の20万点を超える宝物類の調査と等級付けが行われた。臨時全国宝物調査関係資料は、その際に撮影された写真群で、その大半が明治21年から翌年にかけて行われた近畿宝物調査において小川一眞が撮影した四切判のガラス原板と紙焼付写真[写真4]である。

[写真4]
[写真4]奈良・興福寺・無著像(プラチノタイプ)

法隆寺金堂壁画写真原板は、国宝保存法下における国直営の国宝保存事業の一環として、昭和10年(1935)に撮影された法隆寺金堂壁画の写真原板群である。全紙判(457×560㎜)の特製大型写真機にて英国イルフォード社製ガラス乾板を400枚以上も使用し、原寸大分割〔写真5〕のほか四色分解や赤外線などの各種撮影を行い、古代仏教絵画の至宝というべき巨大な壁画の精緻な記録作成に成功した空前絶後の文化財写真である。残念なことに壁画の焼損により記録内容の重要性は飛躍的に高まり、現在に至るまで壁画の保存、模写作成等に寄与してきた。また、これらの画像は令和元・2年度に高精細デジタル化事業を行ない、インターネット上(「法隆寺金堂壁画写真ガラス原版デジタルビューア」)で精密な画像を容易にみることができるようになった。

[写真5]
[写真5]第6号壁阿弥陀如来像面相部 ガラス乾板からコロタイプ原板に変更(画像部分は火災で部分滅失)

琉球芸術調査写真は、染色家、沖縄文化研究者である鎌倉芳太郎(1898~1983)が建築史家伊東忠太とともに行った「琉球芸術調査」のうち、大正13年(1924)から翌年にかけて行った第一次調査にて自ら撮影した原板と紙焼付写真(四切判・キャビネ判)群〔写真6〕である。当該調査において、首里城をはじめ円覚寺など首里城周辺の寺社建造物、琉球国王肖像画(「御後絵」)をはじめとする尚家伝来の絵画や工芸品類などを中心に多くの文化財が撮影された。被写体の多くが沖縄戦で灰燼に帰したことから、首里城建造物の復元(正殿等は令和元年10月31日未明にに再度焼失)等に参照されるなど、本写真群は琉球文化研究上に高い資料価値がある。

[写真6]
[写真6]首里城(沖縄戦で焼失)

幕末期から昭和期にかけての一家における写真資料群

江川家関係写真は、江戸時代に旗本として韮山(現静岡県伊豆の国市)代官を世襲した江川家に伝来した461点の写真群である。幕末期では、江川英敏、英武など江川家当主や、同家にゆかりのある武士、医師などの肖像写真(アンブロタイプ)9枚も伝わるが、うち6枚は画像の裏面に黒色樹脂を塗布する特徴があることから江川家手代であった中浜(ジョン)万次郎撮影と認められる。鶏卵紙写真では明治4年に横浜の下岡蓮杖が江川英武を撮影した名刺判の写真2種23点〔写真7〕をはじめとする国内写真家撮影のものや、岩倉使節団に随行して渡米し都合8年間米国に留学していた英武が同地にて入手した交流相手の名刺写真などから構成される。これらは日本における写真の黎明期にあたる1860年代より、写真が社会に普及した1890年代において、同家の人々が被写体となったり、収受、購入等をしたもので、日本における写真の受容史を知る上で貴重である。同家の記録や付属文書等により撮影や入手の経緯を明らかにするものが多いことも価値を高めている〔写真8〕。

[写真7]
[写真7]江川英武像 内田九一撮影(鶏卵紙写真)
[写真8]
[写真8]江川英武名刺判写真包紙

おわりに

写真の最初の重要文化財指定から20年以上の歳月が経過した。文化財保護の対象となる昭和戦前期以前に限っても膨大な数の写真が伝わるなかにおいて、文化財指定された写真の数は九牛の一毛といってよい。また、その対象も明治時代以降は文化財(建造物・美術工芸品)を被写体とした写真に偏りがあるという状態である。写真は文書・記録類に比し保存性が低く、劣化・損傷が進行する事例も少なくない。引き続き文化財調査・指定を継続し、写真の保護を図ることが肝要といえよう。文化財の保存・活用の好例の普及を通じ、保存環境の改善を達成するとともに、高精細デジタル化等による公開の促進(例:法隆寺金堂壁画写真ガラス原板デジタルビューア)などを図ることも求められよう。

参考文献
  • 鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』岩波書店、1982
  • 東京都写真美術館編『写真の黎明』東京都文化振興会、1992
  • 小沢健志編『幕末ー写真の時代』筑摩書房、1994
  • 『写された国宝ー日本における文化財写真の系譜ー』東京都写真美術館、2000
  • 『月刊文化財(517)』特集写真と文化財(第一法規、2005)
  • 江川文庫編、東京大学史料編纂所古写真研究プロジェクト編集協力『写真集 日本近代化へのまなざしー韮山代官江川家コレクション』吉川弘文館、2016
  • 久留島典子・高橋則英・山家浩樹編『文化財としてのガラス乾板』勉誠出版、2017
  • 『重要文化財法隆寺金堂壁画写真ガラス原板ー文化財写真の系譜ー』奈良国立博物館、2019
  • 法隆寺、奈良国立博物館、国立情報学研究所高野研究室「法隆寺金堂壁画写真ガラス原板デジタルビューア」(https://horyuji-kondohekiga.jp)2020開設
作成:文化庁文化財第一課歴史資料部門
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