史跡東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡の整備事業

史跡東京湾要塞跡
千代ヶ崎砲台跡の整備事業

史跡
神奈川県横須賀市
平成27年3月10日指定

首都東京防衛の要-東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡-

千代ヶ崎砲台は東京湾要塞を構成する砲台の1つで、江戸時代後期に会津藩によって台場が造られた平根山に、明治25年(1892)から明治28年(1895)にかけて陸軍によって建設されました。

明治維新後に首都となった東京を外国の脅威から守るため建設され、当初の姿を良好に残し、近代日本の軍事および建築・土木技術の様子を具体的に理解することができるため、猿島砲台跡と合わせて、近代の軍事施設に関する遺跡としては日本で初めて国史跡の指定を受けました。

東京湾要塞とは

明治政府は外国からの脅威に備えるため、西洋式砲台の建設を列島各所の重要な地に計画しました。

特に江戸から改称された東京は首都として早急な防御の方策を必要とし、日本で初めての西洋式の沿岸砲台として観音崎第一砲台、同第二砲台の建設に明治13年(1880)に着手しました。その後、三浦半島と房総半島に砲台群が建設され、昭和20年(1945)の太平洋戦争終戦まで32砲台が建設されました(途中使用を廃止された砲台も含む)。

[図面]東京湾要塞を構成する砲台群
[図面]東京湾要塞を構成する砲台群

千代ヶ崎砲台の構成

千代ヶ崎砲台は東京湾側を防御する28㎝榴弾砲6門の榴弾砲砲台と、久里浜湾側への敵兵の上陸を阻止するための小口径の火砲が据え付けられた近接防御砲台で構成された堡塁砲台です。

榴弾砲砲台は標高約65mの山頂に位置します。南北に3砲座が並び、1砲座に2門ずつの榴弾砲が地上から約6m下に設置されました。砲座の地下には弾薬庫や兵員が待機する棲息掩蔽部などの施設が設置されています。

榴弾砲砲台の主な範囲が史跡指定を受けていますが、砲台稼働時は山全体が軍用地として使用されており、指定地の周囲の民有地にも砲台関連施設は現存しています。

[写真]空からの千代ヶ崎砲台跡(整備前)
[写真]空からの千代ヶ崎砲台跡(整備前)

千代ヶ崎砲台の地下施設

砲座の下に建設された地下施設は、石積みの擁壁で囲まれた塁道を通って連絡しています。各部屋の壁は煉瓦、天井は無筋コンクリートで構築されています。

砲側弾薬庫から砲座へ砲弾を供給する仕組みや、3砲座が高塁道で連絡する構造、観測所から各砲座への指示や砲座間の連絡を行った伝声管跡など、近代的な合理性の高い設計が感じられます。

また、砲台内には雨水を利用した集水系統と砲座から排出される汚水を流す排水系統が設けられており、生活用水の確保とその水を汚染させない仕組みからも当時の技術の高さを知ることができます。

[写真]地下施設への塁道
[写真]地下施設への塁道

千代ヶ崎砲台の戦後と史跡整備

千代ヶ崎砲台は昭和20年(1945)8月まで陸軍の砲台として使用され、終戦後は一時期民間に農地として払い下げられました。昭和35年(1960)からは海上自衛隊の送信所として使用され、平成25年(2013)の施設廃止まで一般人の立ち入りは禁じられていました。平成27年(2015)の史跡指定後、横須賀市が史跡整備を行い、調査や管理施設の設置を行いました。地下施設の安全性を確認する調査では、天井無筋コンクリートの強度や厚さ、壁の煉瓦の強度や厚さなどの試験を行い、強度を重視した頑丈な構造物として構築されたことが判明しました。

[写真]天井コンクリートのコア抽出
[写真]天井コンクリートのコア抽出

千代ヶ崎砲台跡の公開

史跡は令和3年(2020)10月から土・日・祝日限定の公開を始めています。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/chiyogasaki-koukai.html

公開日には、現地にボランティアガイドが常駐し、無料でガイドツアーを開催しています。史跡案内のほか、イベントの企画や来場者に地元の観光スポット紹介を行うなど、横須賀の魅力発信も行っています。

[写真]休憩所兼ボランティアガイドの拠点
[写真]休憩所兼ボランティアガイドの拠点
文責:横須賀市教育委員会生涯学習課 川本真由美
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