文化庁主催 第5回コンテンツ流通促進シンポジウム“次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか”

第3部:パネルディスカッション

「次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか」

上原

上原

 上原でございます。パワーポイントを用意しましたので、これにしたがって説明させていただきたいと思います。先ほどの第2部の研究報告できれいにまとまったお話をしていただきましたが、実際の研究会ではそんなにきれいにまとまった話は行われていません。もともと立ち位置が違うので、話が並立的にバラバラになっていったのではないかと思います。できるだけ時間を守ってやりたいと思いますが、なぜこのようなことを最初に申し上げるかというと、中で話していた人間の立ち位置が違っているので、同じような言葉を使っていても違う意味で使っていてしばらく揉めたことがあり、その日の会が終わるころに、お互いこういうことを言っていたのかと分かる状況がありました。金先生の第1部での御報告の言葉の使い方と、私の言葉の使い方が違う部分もあり、そこが明確になるようにお話ししないと皆さんが分からなくなってしまうと思いますので、その辺はくどくなるかもしれませんが、お許しいただきたいと思います。それでは始めます。

 まず、次世代ネットワーク社会ということで論議が10回行われました。私は2回さぼっていますので8回しか出てないのですが、この論議の中で私の視点からはこのように見えました。結論から言うと、非常に残念な話ですが、次世代ネットワーク社会とは、はたしてどのような社会なのかということがよく分からなかったのです。ここに書いてあるように次世代ネットワーク社会の断片的なことについては、何らかの考え方が出るわけですが、全体像を示すことは非常に難しいです。なぜなら、急速な技術発展が、すごい勢いで進んでいるので、どのくらいのときに、どのくらいになるのかという予測がなかなかできないからです。技術屋さんの立場に立てば、ある程度のものは「このようにできるはずだ」と言えるかもしれませんが、それがどのように実用化されるかというところまではなかなか読み切れないということです。そして、それはものすごい展開をしていて、どちらにどのように転ぶか、どれくらい早くなるのか、逆に早くできると思っていたものがいまだにできていないようなこともあります。技術発展によって出現し、今度はそれが実現化、実用化された新しい技術によって、どのようなシステムやどのようなビジネスモデルができるかということは、一定程度のバラバラな予想はできても全体像は見えないということです。10年前に携帯が今のような形で使われている社会になっていることは、おそらく誰も予想してなかったと思います。そのような意味で、これはやはり非常に難しいと言えます。

 ネットワーク社会、次世代ネットワーク社会と言ったとき、次世代のネットワークをベースにした世の中全体を次世代ネットワーク社会と呼ぶ場合もあれば、そのネットワークの中の閉ざされた社会と外の全体社会と考えることもできます。ネットワークの内部の社会と全体社会の関係はどのようになっていくのかというと、どんどんネットワーク社会が進んでいくことは分かりますが、現実の社会との関わりは非常に難しいところであると思います。

 次世代ネットワーク社会の中では、ネットワークがなければ世の中が回らない世界になっていることは間違いありません。銀行でお金を下ろそうと思っても銀行員の方はコンピューターを使っているわけで、そのシステムに入らない限りお金は下りません。あるいは飛行機に乗るときに、飛行機会社の発券システムのサーバーがダウンすれば、飛行機自体はあって人間は乗れても飛行機は飛ばない状況になります。今のネットワーク社会自体がすでにそれをベースにしていることは事実です。しかし、一方では80歳のおばあちゃんがインターネットと全くかかわりのないところで日常の生活をしていることも事実です。そこの部分はどのような交わりになるのか予測が困難です。「ネットワーク社会内におけるデジタルデバイドの予測困難」と書いてありますが、ネットワーク社会内、あるいはネットワーク社会と全体社会の間のデジタルデバイドは、ネットワーク社会が発展すればするほど、それを上手に使える人と、ごく部分的にしか使えない人の差が広まってきます。今でもあると思います。私はどちらかというと下手な方です。その差はさらに大きくなっていくでしょう。同時に先ほど申し上げたように、10年後にものすごいネットワーク社会になってもPCに触れない人もいると思います。これは能力的、あるいは性格的に触れない人もいるでしょうし、PCの値段がいくらに下がるか分かりませんが、現在の格差社会の中で下の方に行ってしまった人たちが通信費とPCの費用をどのくらい払えるのかという問題も残っているわけです。全体を勘案していくと、次世代ネットワーク社会がどうなっているのかという全体像を見通すことは難しいと私は思いました。

 ここに矢印が書いてありますが、ここ10年間のネットワーク社会の急速な進展は紛れもない事実です。先ほど申し上げた銀行や発券の例のように、今やネットワークがなければ世の中回っていかないということが日本社会の実情となっているわけです。この10年間を振り返ってみると、ウェブサイト上のホームページであろうとなんであろうと、当初はテキスト、あるいは静止画しか出ていませんでした。これが音声のストリーミング、例えば、ラジオの送信など音声が出るようになりました。今や映像が普通に出されています。これは大きな会社がやっているということではなく、個人でもできるようになってきていることが非常に大きいと思います。インターネットの中の映像コンテンツが少ないと言われていますが、今のインターネットの世界はちょうど初期のビデオグラムの世界と似たような感じだと思います。ビデオグラムも最初はアダルトビデオから始まっています。インターネットの世界でアダルトの世界に行くと、映像はよくもこんなにというくらい種類があり、画質の良いものから悪いものまでたくさん出ています。

 同時にブロードバンド化も急速に進み、いつの間にか世界でも1番早い高速網を持った国になりました。ただ、これには非常にズレがあります。100メガを超えるものを簡単に出せるような時代ですが、私はマンション暮らしなので、制約上ずっと8メガのADSLのままで使っています。これはおそらく将来においてもあまり改善される見込みはありません。マンションを建て替えなければというような問題もあります。また、PCも進化しています。4、5年前に2回に渡って放送業界の企画会社で、放送をインターネットで流すオンデマンドの実験をしましたが、なかなかうまくいきませんでした。うまく写らないという苦情の方が多かったのです。このときは回線の問題だったのですが、もうひとつはPCの問題があり、回線がいくら速くてもPCがそれに追いつくスピードで解析してくれないと見えないという状況があったわけです。今や2ギガを越すPCが当たり前の時代ですが、ここでも既にデバイドが起こっており、3年前にPCを買った人と今年買った人とでは性能が全然違う状況になっています。それを平準化してネットワーク社会として扱うことができるのかという難しい状況が生まれていると思います。

 また、ネット上の様々な「世界」の出現があります。これは申し上げるまでもないことですが、単なるウェブサイトのホームページ、あるいは2ちゃんねるという世界、最近ではソーシャルネットワーク、mixiなど、そこからいろいろな情報や著作物が発信されているわけです。そのような社会が出てきているところが非常に大きな進展として見られています。

 ネットワークの変化と社会の関係はどのような具合かということを私なりに整理してみました。ひとつはネットワーク社会内の変化です。外の世界ではなく、ネットワークの中においては流通の情報量が飛躍的に拡大しました。昔であれば3つくらいの言葉で、検索をかけると出てくるのは30〜100くらいだったのですが、今では1万くらい出てくることが当たり前になりました。これは情報が多過ぎて、かえって探すのが不便な時代でもあります。質の変化では先ほども申したように、テキストしかなかったものが映像まで出てくるようになったことが質の変化だと思います。さらに多くの人たちがアクセスすることによって、新たな世界というものができていることもひとつの変化です。質の変化から出てきた様々な世界の出現によってネットワーク内著作物というべき、例えば、Wikipediaというようなものがいろいろ出てくる世の中になりました。これはやはり著作権制度の中で考えなければいけないひとつの要素として、新たなものが出てきているのだと思います。

 下に矢印で「全体社会への影響」「全体社会からの反応」と書いてあります。これも裏表の話なのでどちらにどちらを書けば良いのか分からないところがあるのですが、一応このように分けました。全体社会への影響から言うと、ネットワーク社会の情報流通量の拡大・発展というものは、無数、莫大な侵害可能性を持っています。これは可能性ではなく、実際に無数、莫大な侵害が起こっています。これからもどんどん起こり続ける可能性があるということについてどのように考えるかになります。やはりインターネットの世界は国境を超えているので、世界がハーモナイズして対応する必要があるかと思います。また、著作物の大量利用ビジネスが起こります。大量流通が可能になったために大量利用ビジネスが発生しているのです。1番分かりやすい例は音楽の配信です。かつて、どんなに大きなレコード屋さんでも何万曲を揃えているところはあまり無かったと思いますが、今やネットの中に入れば、それくらいのものはすぐに出てくる時代になっています。新たな著作物の発生というのは先ほど申し上げた通りです。

 全体社会からの反応の問題としては、まさに侵害の可能性の問題と裏表になりますが、ライアビリティの問題があります。侵害しているのではないか、このサイトの著作物は本当にきちんとした形で使われているのだろうかという問題があります。さらにもっと怖いのは、ここに「私の作品です」と書いてあるが、それは信頼して良いのだろうかということがあります。つまり、プロがプロとして媒体を運営していた時代は、プロはある程度の信頼性を持って作業していたのですが、今はそこが分からないのです。とりわけインターネットの中は匿名性の世界、実名性の薄い世界が特徴なので、このような問題があるかと思います。また、デジタルデバイドの問題は、ネットワーク内でもネットワーク外でも、ネットワーク社会と一般社会の関係でも出てきています。また、新たな市場が発生しています。インターネットの中ではiTunesが出てきています。インターネットの日常世界を利用して、インターネットの中で売れている本が今度は出版物としてとても売れるものになるというような新しい市場が発生しているという問題が出てきています。

 では、このようなものを前提として著作権制度をどのように考えるのかということです。現行著作権制度の基本をベルヌ条約と日本法から私なりに整理してみました。ここに書いてあることは研究会の中で、インターネットの時代になると文化には公益性がある、公共財的な性格があるから皆で使うべきではないか、あるいは使いやすくしなければいけないのではないかという話が出ていたところに対して、今の情報の著作権対策はどのようになっているのか考えてみたものです。

 最初に100%の創作物などないのだという御意見がいろいろなところから出ています。それは全くそのとおりであり、現在の著作権制度自体が先人からの継承を前提としています。何よりも人は言語で考えるものなので、その言語の獲得自体が他人から教わらなくてはできません。もし私がアメリカに生まれ育っていて英語を話していれば、私が話している内容自体、同じことを話したとしてもニュアンスの違ったものになっていると思います。もっと簡単なところで言えば、絵画の世界では模写などが勉強の第1歩となっているわけです。そのようなことを前提にしているから、保護期間が設定されているのであり、例えば、引用というような権利制限が行われているということだと思います。

 先ほど、金先生から文化の経済化というお話がありましたが、私自身は経済化のスピードがどのくらいになったかということは別にして、現行の著作権制度ができたのは文化が経済化したからできたのだと思っています。経済活動を前提として現在の著作権制度ができたのであって、それは財産権というものを設定しているというところから明確であると考えています。また、著作権制度のスタートは活版印刷の発達から始まりました。つまり、印刷のマス媒体ができて、そこにコンテンツ産業が生まれたから、それまでスポンサーからお金をもらって済ませていた世界ではないものができ、著作権制度が必要になってきたということで、これは経済化が前提になっていると私は考えています。

 また、公益、利用とのバランスに配慮しなければならないという話が出ていますが、これについても当初から制限規定等が設けられており、私的複製(スリーステップテスト)、引用、教育目的、時事の事件のための報道等が定められています。これは限定的なので十分なのか不十分なのかという議論はあるかと思いますが、これに対してもそれなりの考慮をしてきました。後は社会の変化に応じて、どのようにこれを見直していくのかという問題ではないかと考えています。

 著作権法の目的です。これは先ほどの金先生と全く意見が違います。著作権法の目的は「著作権者等の権利の保護を図る」ことで、手段ではなく目的だと考えています。「もって文化の発展に寄与する」というのはその目的の上の大目的と考えています。加戸先生もそのようにお書きになっているし、私もそれに賛成します。もともと著作権制度などはなかったのですから、著作者等の権利を保護するという目的がないのなら、著作権制度はつくらなくても良いわけです。著作権制度をつくったということは、著作者の権利を守るためにつくったのです。その守り方をどうするのかということは、今後の検討、あるいは社会との関係性によっていろいろと出てくるかと思います。しかし、あくまで著作権法の目的というのは、どの国においてもどこにおいても著作者の権利の保護であるわけで、著作者の権利の保護が目的でないのなら、著作権法はいらないと私は思います。そして、大目的として、文化の発展に寄与することが目的になっていますので、著作権と工業所有権の間には極めて大きな違いがあると考えています。

 文化の発展を考えてみたとき、文化の裾野が広ければ広いほど発展する、小さくなればなるほど発展しないということが言えると思います。これは極めて簡単な話であり、たくさんの人が音楽を愛し、たくさんの人が音楽をつくっていく中からは、たくさんの約束ができてくることは簡単に分かるわけです。

 最後に「ビジネスユースに対応する著作物等は全体のごく僅か」と書いてありますが、今言われているコンテンツ流通とは何のことを言っているのかというとで、次の絵を書いてみました。

 この著作物等という三角形が大きければ大きいほど、裾野が広ければ広いほど、上のビジネスユースにかかわる部分ももっと面積が増えて、流通する著作物はたくさんできてくると思います。

 ここに黄色の線を引きましたが、ネットワーク内著作物がこれぐらいできているのだろうということです。これはもっと少ないかもしれませんし、もっと多いかもしれません。これは単なる当てずっぽうです。将来この線がもっと右に寄るのか左に寄るのかは、全体著作物の大きさとの関係で変わってくると思います。しかしながら、コンテンツ流通と言ったときに既存のコンテンツがグルグルと回っているだけでは文化は発展しません。既存のコンテンツ自体を楽しむことができないと次への展開ができないことも事実ですが、既存のコンテンツだけのグルグル回りでは、創造のサイクルにはなりません。新しいコンテンツが生まれてくることが重要なのです。コンテンツ流通が悪いと言っているわけではなく、コンテンツリッチであふれ出たものが流通していくことが文化の発展ではないかと考えています。そのような点を考えたときに現在の保護に重点を置いた著作権制度というものは、今後においても基本的には機能し得るのですが、社会の状況に応じた微調整は必要であろうと考えています。どうもありがとうございました。


前田

 ありがとうございました。引き続きまして、瀬尾先生、プレゼンテーションをお願いいたします。