文化庁主催 第5回コンテンツ流通促進シンポジウム“次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか”

第3部:パネルディスカッション

「次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか」

前田

 中山先生、どうもありがとうございました。冒頭は金先生に御講演をいただき、上原先生、瀬尾先生、中山先生にそれぞれプレゼンテーションをいただきました。4人の先生方からそれぞれ御意見の表明していただきましたので、これから具体的な議論に入っていきたいと思います。
 まず、次世代ネットワーク社会をどのようなものとして想定するか、それ自体がはっきりしていないのではないかという上原先生の御指摘がありました。議論を明確にするために、これから3つの事実があるであろうと想定したいと思います。ひとつ目は、皆様が御指摘されているように、プロとアマの区別があいまいになり、今まで流通することもなかった、例えば、素人の書いた著作物が広く流通されるようになってきているという現象です。2つ目は、例えばWikipediaや、オープンソースのLinuxや、2ちゃんねるから生まれた「電車男」というコンテンツなど、人的関係の希薄な多数の人たちが、1つのコンテンツの創作に携わるという現象が生じていることです。3つ目は、ネット社会の拡大によって流通手段が非常に多様化している現象があることです。この3つの現象が生じている事態については大きな認識のズレはないと思います。問題なのは、著作権制度のあり方を大きく見直すべきなのか、あるいはそのような現象があるとしても、著作権制度を大きく見直す必要はないのかということだと思います。この点について、パネリストの皆さんの御意見を伺っていきたいと思います。上原先生、いかがでしょうか。


上原

全員

 先ほども申し上げように、私はあまり大きく変える必要はないと思っています。例えば、プロとアマの区別があいまいになり、素人の小説などが出るようになったことは事実だと思いますが、まだそれは大きなインパクトにはなっていないと考えています。実際、世の中にはアマのブログがたくさんありますが、どれだけ読まれているかというと、ヒット数はお友達の数だけということが多かったりします。プロとアマの定義自体が難しいのですが、基本的にプロとはそれによって生活しているということです。また、どうしてもこれでやっていきたいというのがプロだと思います。そのような意味では、プロとアマの境界はあいまいにはなってはいない気がします。流通ができるようになったということと、プロとアマの境界があいまいになったということは、必ずしもイコールではなく、まだインパクトが持ったものにはなってきていないと思います。
 流通手段の多様化については、もともと流通手段が多様化することに応じて著作権制度ができ、それに応じて条約も著作権法も改正されてきたので、同様の対応がどの程度できるのかという範囲の問題だと思います。ただ、Wikipediaや電車男などは、想定されていなかった事態だと思います。このようなものに対して、どのように解決を求めるのかというときには、もしかすると新たな視点が必要かもしれません。しかし、基本は先ほど申し上げたとおり、大きな変更のない対応が可能であろうと考えています。


前田

 ありがとうございます。瀬尾先生、先ほど大きなコンテンツ、小さなコンテンツに絡んでお話をいただきましたが、いかがでしょうか。


瀬尾

 著作者が複合しているようなコンテンツ、例えば、映画や放送に関しては、1番基本的な部分で、運用の制度的改革は必要になってくると思いますが、それに関しては著作権からアプローチすべきではないと思います。研究会の最初から取引費用の話は出ており、登録制度にしてはどうかという話がありました。しかし、登録する場所をつくり、膨大な量の登録を受けて、しかも成りすましをチェックすることは決して安く済むことではありません。例えば、写真タイトルの「富士山」では山ほど出てきます。誰の「富士山」でどの写真なのかが全て管理されなくてはいけません。それを登録にしたなら、1点登録するのに5万円かかるなど、逆に取引費用が上がると思います。
 結局、取引費用を下げるのは、撮った人、つくった人、つまり、権利者が自分で「私はここにいる」と言わない限り、安価に解決されないのだと思います。また、複合した権利者に関しては、やはり1人ずつがきちんと表明する、参加した人が自発的に何らかの責務として自分の所在をデータベースなどに載せるなどの習慣付けをすれば、取引費用も安く、作者の権利も尊重されると思います。


前田

 ありがとうございます。制度を変えるよりは、むしろ運用なり、著作者、権利者側の心がけ的なところを改善していくことによって解決が可能なのではないかという意見かと思います。中山先生はいかがでしょうか。


中山

 今、瀬尾先生から登録の話が出ましたが、登録についてはまた別途で後ほどにしてもよろしいですか?


前田

 はい。


中山

 最初に、前田先生がおっしゃった次世代ネットワーク社会において想定される著作物の創造や流通の変化について申し上げます。プロとアマで必ずしも合わないかもしれませんが、情報が情報として流通し始め、情報が有体物に対価されて流通されている従来の状況は今でも残っています。他方、無体物のまま流通し始めている量をどれぐらい見るかは人それぞれになります。しかし、少なくとも流通し始めているのであれば、情報の公共財的な特質はよく分かるようになります。本来、情報とは非排除性と同時に非競合性を持っています。要するに、誰かがつくった後の情報は、誰が同時に消費しても減らないという性質を持っているので、少なくとも何かしらのインパクトを与えるであろうと思われます。ただ、難しいのは、一方では従来の流通、有体物と同じアナログの世界があるので、トランジションフィールドにあるとき、どのような制度をつくるべきかということです。また、素人参加型という話がありました。Wikipediaもオープンソースも、まだそれほどメジャーでないことは確かかもしれません。ただ、これらは確かに新たな可能性であると思います。
 先ほど私は最後に市場ということで割り切れない部分が残ると申し上げました。ピアプロダクションシステムという概念について、イエール大学のベンクラーという人は論文を書いています。もともと取引費用を打ち出したコースは「取引費用は市場に絶対に存在する。だから、むしろ企業をつくるのだ」と言いました。つまり、自分が市場ですべて調達できるのなら、誰も企業をつくらない、企業ができたのは社内の取引の方が市場の取引よりも簡単だからできたということです。我々の経済システムにおいて、企業は非常に大きなプレイヤーになっています。そして、さらに第3のモデルとして出てきたのがピアプロダクションシステムではないかと思います。市場からは調達しません。無償の交換などを考えれば広い意味での市場かもしれませんが、市場でもなく企業でもない形ではないかということです。今のところは、まだそれが市場なり企業なりを凌駕する形にまでは行っていません。そのような意味で、新たな仕組み、組織が出てきているのは事実であり、情報が情報で流通するというところから関係しているのではないかと思います。


前田

 ありがとうございます。金先生、いかがでしょうか。


 2点コメントしたいと思います。先ほど上原先生と中山先生が御紹介された日本の著作権法第1条の解釈についてですが、「保護が第一義的な著作権制度の目的である」というところは、果たして本当にそれで良いのか立ち止まって考える必要があると思います。私自身は、著作権制度は文化の発展に寄与することが究極的な目的だと思っています。著作権で保護することによって、もし文化の発展にマイナスになるとすれば、著作権自体を廃止すべきであり、保護はゼロベースにする必要があります。著作権制度はそれをもって任務を終えても、大いに結構ではないかと思います。著作権制度の究極的な目的が著作権者の保護であるとすれば、今ここで著作権制度を議論する必要はなく、それ以前の問題を議論すべきではないかと思うのです。
 もう1点、気になったところは創造サイクルです。現行の日本政府における創造サイクルは、創造、保護、活用というサイクルになっているのですが、それは唯一のサイクルではないと思います。先ほど、中山先生がイエール大学のベンクラーのコモンズ・ベースド・ピアプロダクション(commons based peer production)という新しい組織化方式、情報生産方式を御紹介されましたが、今、アメリカではシェアリング・エコノミー(共有経済)が実際の経済的な価値を生み出すという例もあります。先ほどの例で言うと、コースの「市場において取引費用が高かったので、企業組織が生まれたと」いう話に対して、ベンクラーは「企業を通じなくても、コモンズ基盤でピアプロダクションをすれば、取引費用をより下げることができる。また、それによって効果を上げることができる」と言っており、これは新しい情報の生産方式を台頭しています。創造サイクルを考える際は、保護を真ん中に入れて考えるというオプションがひとつあると思いますが、相乗し、共用し、また利用して次なる創造につなげるというオルタナティブ(alternative)な創造サイクルを考慮する時期になってきたのではないかと思います。


前田

 ありがとうございます。金先生からは文化の発展が究極の目的であって、仮に著作権制度がそれに対して有害に作用する場面があるならば、権利の廃止自体も含めて考えられるのではないかという御意見だったかと思います。この点について、上原先生、コメントをいただけますか。


上原

 言葉だけで言えば、同じことになると思うのです。つまり、著作権制度が本当に文化の発展を阻害するものであるならば、改めるなり、無くなるなりということはあり得ると思います。先ほど、立ち位置が違う人たちが集まった研究会だったと申し上げたのは、私は基本的には著作権制度による保護が文化の発展に役立っていると評価しているからで、保護を無くすべきではないと思っています。
 取引費用の話は、瀬尾さんや各先生方からいろいろな考え方が出てきています。市場における取引費用が少ない方が良いということについて反対はしませんが、少なくあるべきだということについては、著作物の世界においては必ずしもそうではないのではないか、それが文化ではないのかと思います。著作物があり、それを使ってまた新しいものが生まれるということですが、瀬尾さんの御発表にもあったように、ものをつくる人間、著作物をつくる人間には、どうしてもこれを表現したいという思いがあるのです。極端なことを言うと、著作権の保護とは、財産の保護と一緒に思い込みの保護であり、思い込みを保護してあげなければ、著作物をつくることが嫌になってしまうのではないかと思います。そこが根本だと思っています。だから、人格権も財産権もインセンティブの部分もあるのかもしれません。しかし、それだけでなく、やはり著作権の許諾権の基本的な意味とは、むしろ禁止にあると思います。つまり、自分のつくったものは、このような使われ方をしたくないということです。いろいろなメディアが出てくるほど、「私のものはこれでは嫌なのだ」ということを大事にしないと、「では、つくらない」「つくっても発表しない」となってしまいます。効率論だけから言うと、例えば、焼き物の美術品の世界では、作者は自分が気に入らないとどんどん壊してしまいます。ほかの人にしてみると、私たちがつくったものより何倍も良いものだからもったいないという話になるのですが、壊して、自分の気に入ったものだけを、しかも流通先まで指定できるところに作者の思い込みがあり、次へつながる部分があります。それだけで何かが回るものではないということは当然承知していますが、根底にその部分があって文化や著作権制度というものがあるのではないかと考えています。そこが金先生や中山先生との考え方の違いだと思います。


前田

 ありがとうございます。まず、創作ありきというお話だったかと思います。金先生、コメントいただけますか。


 誤解を招かないように少し言い訳をしたいと思います。私自身は、保護を無くすべきである、権利を廃止すべきであるということをデフォルトな立場として一切持っていません。保護の水準や強度を決める上で、何が基準軸になるのかということが重要であり、保護を強化することによって文化の発展が実現するのであれば、著作権制度を使って、保護をもっと強化すれば良いと思います。ただ、政策を考えていく上では、一番コアにある基準軸、判断軸は何かということが大事になってきます。文化の発展が真ん中にあり、その発展のための一番適正な保護水準、範囲、期間を決めることが著作権制度であるべきではないかということを申し上げたつもりです。


前田

 ありがとうございます。まずは著作者の保護がありきで、それが結果的に文化の発展になるのか、それとも文化の発展が第一義であり、著作権の保護はそのための手段に過ぎないのかということが大きな考え方の違いかと思います。瀬尾先生、この点についてコメントはありますか。


瀬尾

全員

 その点が今回どうしてもかみ合わないところだったのです。著作者の保護を図り、それが文化の発展に寄与することでずっとうまくやってきたのだと思います。しかし、ネットワークで流すということや、国策としてのコンテンツの流通が出てきたときに、本当にそれで良いのかという、先ほど金先生がおっしゃったような話が出てきたと思います。著作権法の保護と文化の発展というものは、豊かな創作環境と創作者によるということと、それを流さなかったなら豊かな創作者がいてもダメなのだということは、ある意味で文化論です。文化はどうあるのかということは簡単に結論が出ることではないので、この2つの考えはどのような背景で出てきて、どのようなことで皆苦しんだのかということを会場の皆さんも含めてお持ち帰りいただくことが一番良いと思います。保護することが文化の発展に寄与するということと、流通、文化の発展と著作権の保護は決して同一線上にないという考え方が論点のコアな部分ではないかと思います。


前田

 ありがとうございます。中山先生、今の点についてコメントをいただけますか。


中山

 プレゼンテーションの繰り返しになりますが、私は公共財というところから出発をしています。ただ、公共財だから何でも流せば良いのかということと、創作のインセンティブということは別と考えます。保護と利用のバランスという点が、現行著作権法第1条の目的、意義にあまり出ていないということは認めますが、保護と利用のバランスをもう少し前面に出しても良いのではないかと思います。文化の発展のために「まず保護ありきだ」とおっしゃることはよく分かるし、そう書いてあるわけですが、最後の分かれるところは、公共財というところに立つのか、それとも自然権というところに立つのかということです。自然権とは、自分の体は自分のものであるという自己所有権がある結果、自分の体を使って労働し、得たものは自分のものというものなので、著作者の保護という自然権的な発想が背後にあるのだろうと思います。私はそこがいまひとつ納得できません。
 繰り返しになりますが、先ほどの森村進先生の例で言うと、無体物に対する排他的な権利というのは、他人の行動の自由を縛る側面ができてくるため、少なくともリバタリアンの立場に立つ限り、著作権は自然権に基づいては正当化し得ません。そして、有体物の所有権は自然権に基づきますが、著作権は公共財で、インセンティブで正当化するという方向に行くのです。他方、世の中には「著作権も自然権に基づいている」と言う人もいることは確かです。ただ、自然権、自己所有権は、古くはジョン・ロックにまで戻ります。このあたりは私も勉強しなければいけないと思っているところですが、例えば、ボストン大学のゴードン先生は、ジョン・ロックは自然権に基づいて所有権、私有財産を生得する際の、その前提として但し書きをつけています。これはロックの但し書きというのですが、「十分にたっぷりと、という前提があって初めて自然権に基づいて所有権を認める」と言っています。ゴードン先生は、情報に対するコントロールは少なくとも他人に対して、「十分にたっぷりと」を残しているかどうかというところに大きなクエスチョンマークをつけています。排他権を認めるのは良いが、仮に自然権の立場から制度化しても、それ相応のコンペンセーション(compensation)を与えなければいけないというのが彼女の主張です。言いたかったことは、保護と利用のバランスではないか、もう少しそれを前面に考えても良いのではないかということです。


前田

 ありがとうございます。
本日、会場には有識者の方々にもおいでいただいておりますので、御発言をいただきたいと思います。まず、作曲家の安西史孝先生にお願いしたいと思います。安西先生には、次世代ネットワーク社会が到来することによって、作曲家としての創作活動に変化があるのかないのかという点についてお尋ねしようと思っていたのですが、その点に限らず、パネリストの方々の議論についてコメントがあればそちらでも結構ですので、御発言いただけますか。