文化庁主催 第5回コンテンツ流通促進シンポジウム“次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか”

第3部:パネルディスカッション

「次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか」

安西

 作曲家の安西です。このような場では、著作権についての知識と知恵が混同されて混乱が起こっているような気がしてしょうがありません。知識とは情報、例えばWikipediaなどです。知恵とは音楽や文学です。知恵が文化に属し、知識は文明に属しているのではないかと思うのですが、それがいつも一緒に論議をされ、混乱のもとになるような気がしてなりません。
 次世代ネットワークの話になると、速度が上がってくるだけの話になります。細かいところは違うかもしれませんが、1980年代の終わりにはパソコン好きの作曲をやっていた物好きのミュージシャンたちはその問題点を把握していました。要するに、共同制作の問題について、当時は、音声そのものはできませんでしたが、MIDIのSMF(Standard MIDI File)というシステムは既に構築されていたので、それによる共同制作や違法なサンプリングのアップロードやダウンロードの問題が分かっていたのです。しかし、JASRAC、文化庁、niftyに電話をしても、録音二課などいろいろなところに回されてしまい、ブチ切れて電話を投げ捨てて奥さんに怒られた作曲家を私は少なくとも3人は知っています。だから、その辺については、まだ言っているのですかという気がしてしょうがありません。例えば、先ほども出ていましたが、インターネットによってすべての人にチャンスが与えられることは確かです。例えば、音楽について言うと、1万人中1人しか楽器やオーケストラに触れるチャンスがなかったものが、インターネットや技術によって1万人全員がその方法を手に入れることができます。ところが、それによって良い音楽が1万倍に増えるのかというと、そのようなことはありません。むしろ混乱状況にあるような気がします。
 そして、その辺についてはアマチュアとプロの差がどうしても出てくると思います。しかし、音楽的内容は別として、流通としては差がなくなっても、結局素人は素人でしたという話にしかなりません。できる人はできるけど、できない人はできないという昔のスネークマンショーのオチにしかならないのです。最初に新しい技術ができると、「作曲が誰にでもできる」「技術が誰にでも手に入る」「あなたも叩くだけでドラムができますよ」とマスコミが新聞やテレビなどで持ち上げます。インターネットのシステムを開発している人にしてみれば、今まで1万人に1人しかできなかった楽器を1万人に広げるチャンスができるので、商売のネタとしてはおいしいです。しかし、それによってできた音楽が良いものなのかは別の話です。私個人は、カスのような曲を聴かされるケースが増え過ぎて、積極的に聴かなくなりました。そのような選曲をしてくれる人がいてほしい気がします。
 インターネットの共同制作の話は商売のネタとしてはとても分かりやすいです。例えば、世界の裏側に住んでいる人と時間と場所を共有しながら音楽ができます。しかし、実際にできたものがあるのかということです。全然ないことはないと思いますが、1980年代後半からMIDIのデータ交換が可能になり、1990年代始めにはアメリカのサイトで共同制作ネットというものがたくさんありました。しかし、実現したものをほとんど聞いたことがありません。最近のオンラインセッションにしても、おそらくタイムラグの問題があると思います。最近では、地球の裏から帰ってくる音にズレがあるためにインタープレイができないというタイムラグの問題は解決されたという話がありますが、私はまだ試していません。それを本当に使うのかという問題になったとき、微妙な疑問が残ります。過去の、共同制作したケースでは、ADAT(ALESIS DIGITAL AUDIO TAPE)という世界仕様のビデオテープで8チャンネルのレコーディングができ、イギリスとアメリカでやり取りがあって制作された有名な曲があります。これは結局、インフラが統一されていたということと、非リアルタイムだったからではないかという気がします。例えば、バンドは共同制作だといわれますが、バンドでしているのはアレンジの部分が多く、作曲そのものは共同制作ではありません。作曲はリーダーシップのある1人がメインで考えて、それを皆で練っていく段階が共同制作です。それは文明と文化の話、知識と知恵の関係で言えば、作曲は知恵に属するが、バンドとしてのアレンジは知識に属するということです。知識は練り上げることが可能だと思いますが、バンドの場合は共同制作のように見えても本質は違う気がします。
 全体的に裾野は広がったと思いますが、頂点は増えておらず、ヒエラルキーの三角形は変わっていません。昔からその三角形は変わっていないのですが、その下には水をぶちまけたようにアマチュアの作品がたくさん出ました。アマチュアがつくることについては構わないし、文句を言う筋合いはありません。楽しくやっていれば良いのですが、それとトップと同一視して「あなたもヒエラルキーのトップだ」というように持ち上げてしまうという感じが私には耐えられません。
 共同制作の話では、過去にも共同制作を知っていたのかどうかという感じがあります。中世では王様は音楽家を囲っていましたが、囲われて集まった音楽家には意見交換をする場がありました。それはあくまでも、技術の交換、つまり、先ほどの知識の交換であり、知恵の交換ではなかったような気がします。その世代の人たちの音楽でも共同制作の楽曲は極めて少ないです。バッハの曲はバッハの曲であり、リストの曲はリストの曲という感じです。根本的に、芸術家とは相容れない部分があるのかもしれません。アマチュアとプロの垣根がなくなったことや、プロと同じ機材が使えるようになったことは、セールストークとしては非常においしいと思いますが、実際の著作権にかかわってできあがってくる音楽はあまり変わっていません。先ほど瀬尾さんもおっしゃっていたように、根本が変わっていないのだと思います。ただ、裾野が広がったことは良いことだと思います。


前田

 ありがとうございました。良い音楽を生み出すのは、知識ではなく知恵であり、その知恵は昔からあまり変わっていないのではないかという話だったかと思います。
 さて、創作の変化という問題と並んで、流通が大きく変わるのではないかということもテーマです。その点で、通信事業者の方々が新たなインフラをどんどん提供されていく過程にあろうかと思います。その観点から本日はKDDI株式会社コア技術総括本部ネットワーク技術本部知的財産室長の東条続紀様においでいただいています。東条様、インフラ提供をされるお立場として御意見をいただけますでしょうか。


東条

 KDDIの東条と申します。よろしくお願いします。ネットワークという観点から今、起こっていること、これから起こりそうなことを簡単にお話しします。今、起こっていることのキーワードは、デジタル化とブロードバンド化です。そして、もうひとつ加えるとすればグローバル化です。今のデジタル化とブロードバンド化とは、例えば、家庭の線が光やADSLになる、あるいは携帯電話の速度が速くなる、車の中がIT化していくということだと思います。次の時代には、これらが全部つながってしまうということが見えています。つまり、電話やメールだけでなく、いろいろな情報やコンテンツがシームレスに流通してしまう時代がくるということです。最近は机の上にある電話を取りに行くことはなく、テレビの前に集まってテレビを見ることもなく、新聞をポストへ取りに行くこともなくなってきています。例えば、携帯電話の世界では、どこでもテレビが見られ、新聞の情報が届くという時代が始まっています。その他のコンテンツの分野でも、「着うたフル」というサービスは、サービス開始後わずか2年数カ月の間に1億ダウンロードを突破しています。これは合法な流通として短期間のうちに情報流通が盛んになっている状態だと思います。
 では、我々が感じている問題点、課題を御紹介します。1つ目は、グローバルにつながることによって、例えば、アメリカはフェアユース(公正利用)というシステムがあり、日本には権利制限というシステムがありますが、そのアウトプットの差がグローバル流通によって明確になってきていることです。それを埋める方向に動かざるを得ないのではないかと感じています。
 2つ目は、私たち内部の話です。我々ネットワークはサーバーの塊であり、お客様側の携帯電話はコンピューターと同じような機能を持っています。何かコンテンツを流通しようとした場合、お客様が意図することなくネットワークの中で複製していたり、公衆送信を行うことになってしまうのです。そのようなものが今は著作権上規制がかかってしまうため、どのような対処をしていくのかということが課題だと思っています。着うたのように、便利なものはお客様の支持が得られると思いますので、知恵をめぐらせて対策を考えていくことが必要だと思います。
 私たちネットワークを担当している立場からは、流通に乗せるという意味では、著作者の方たちも、エンドユーザーのお客様たちも、両方とも重要なお客様です。その中間点に立つ両者の均衡については非常に関心は高いのですが、エンドユーザーのお客様ひとりひとりの声が届かないため、ニーズという点から、お客様の代弁をせざるを得ないという点があるので、少し考慮していただければと思います。
 このような観点から、私たちはデジタル化が進む中で著作権保護について知恵を使い、ユーザーの皆様や著作権者の皆様のいろいろな協力で対応してきたと思っており、これからもネット社会の発展に向けて知恵をめぐらせていくべきだと考えています。お客様、権利者の方、我々ネットワークを運営する側全員の協力が必要だと感じています。最後に1点だけ申し上げると、今の変革は急に動いているので、変革の大きさも必要ですが、速さも必要かと感じています。


前田

 ありがとうございました。今、スピードの必要性の指摘もいただきました。権利制限についての迅速な対応も必要なのではないかという御意見をいただいたかと思います。
 時間の関係がありますので、次のテーマに移らせていただきたいと思います。最近、登録制度に関する議論がなされることが多くなっています。先ほどのパネリストの方々のプレゼンテーションの中にも登録制度という言葉が何回か出てきました。今、どのような登録制度が皆さんによって想定されているかというと、必ずしも一様ではないかと思います。極端な意見としてあり得るとすれば、今は無方式主義が通っているのですが、これを方式主義に転換し、登録をしなければ著作権等は保護されないという徹底した考え方を主張する方がいるかどうかは別として、これは考え方としてあると思います。2つ目は、無方式主義を維持した上で、登録をしなくても現在の著作権法の保護を受けられるが、登録をすることによってプラスアルファのメリットが得られるようにする考え方があることです。例えば、保護期間が延長される、法定損害賠償請求をすることができるなどのプラスアルファのメリットが受けられるための登録制度を考えてはどうかという案があります。3つ目は、「自分はこのような条件で許諾します」という許諾条件も含めた情報を登録開示することによって、登録という場をひとつのマーケットプレイスとして育てていってはどうかという考え方があることです。
 登録制度という言葉は、必ずしも同じイメージを持っているわけではないかと思いますが、このような登録制度を導入するという考え方について、パネリストの方々の御意見を伺っていきたいと思います。登録をマーケットプレイスにしていくという考え方は、登録制度の問題というよりは、集中管理の促進という考え方に通じるかと思いますので、集中管理のあり方をどのように促進していくべきか、あるいは促進する必要があるのかどうかという点も含めて、皆さんの御意見を伺っていきたいと思います。上原先生、お願いします。


上原

 皆様にお配りしている資料の中に、付録の「登録制度についてのメモ」というものがあります。研究会で出てきた話を自分なりまとめてみましたので、後ほど御覧いただければと思います。
 登録制度については、研究会でも議論のための議論として方式主義という話があったのですが、最終的には法的な強制力を持った登録制度を主張される方はほとんどおらず、今のところはないというところに落ち着いていたように感じました。私自身も著作物を保護するという観点に立ったとき、無方式主義であることが極めて文化との関係においては重要だと考えています。死後に絵が高く売れるという話、子ども時代の作品が後に評価されるという話はよくあります。クラシックの作曲家の場合などは、子どものときから天才的なものを書いている人もいます。そのようなことを考えると、玉石混交であっても無方式主義で保護することで、文化を発展させるための文化の保護の基礎、裾野が広がると考えています。
 ただ、瀬尾さんもおっしゃっていたように、今の世の中は権利者からも手を挙げていかないと、皆が見えにくく、やりにくい時代です。その中でインターネット、ホームページという便利な道具ができているのですから、任意の登録制度、つまり、自分はこうしてほしいというものを登録して、連絡がつきやすくすれば良いのです。また、登録が集中管理と結びついていれば、今後の流通にも資すると思います。ただ、著作物の種類によっては、集中管理に馴染まないものもあろうかと思います。先ほど申し上げたように、美術品の壷を焼いている先生の作品が集中管理に馴染むかというと、やはり馴染まないと思います。しかし、ボランタリーな登録は不可能ではないと思っていますので、そのような形で進められることが望ましいと考えます。
 研究会で相続における登録というアイデアを言ってしまったために、それについてメモの中に書いてあります。これは無限に方式主義に近くなる部分があり危険だと思いつつ、デメリットをきちんと強調し御提示してあるので、後でお読みいただければと思います。


前田

 ありがとうございます。各パネリストの皆さんの御意見を伺っていきたいと思います。瀬尾先生はいかがでしょうか。


瀬尾

 登録に関しては、私も無方式主義が基本的なスタンスです。集中管理という意味での権利者側から自分の名前を出すシステムや自分の意思表示システムがクリエイティブ・コモンズなのかは別にして、意思表示をしていくシステムの一環としては自分から名前を登録することはあり得ると思いますが、これは基本的な登録制度とはあまり言わないと思います。単に自分の名前を載せるだけに近いということです。だだ、理想的には、音楽分野のように、集中管理をされることが非常に望ましい部分はあると思います。問題があることも分かりますが、そのようなことも可能だと思います。
 音楽は通勤、通学の中で毎日聞きます。ある意味で、毎日消費され、マーケットが大きいので集中管理方式が成り立ちます。しかし、他の分野ではお金が成り立ちません。ですから、マーケットが小さいところであれば、例えば、データベースに登録し誰でも見られるようすれば良いと思います。先ほど金先生もおっしゃられた、経団連で行っているコンテンツポータルサイトの「ジャパン・コンテンツ・ショーケース」に私も加わっていますが、そのようなところに積極的に出し、知ってもらう努力をすることを登録と呼ぶのであれば、それは権利者側から積極的にやっていかなければいけません。ただ、登録法という制度とは少し意味が違うのでどうかなと思っています。
 また、今、相続のときの登録などいろいろな話がありました。基本的にそのような考え方はあると思いますが、登録コストを誰が負担するのかということになります。写真はたくさん撮るときは1000枚ほど撮るのですが、全部をどのようにして登録するのかということです。1枚1000円で1000枚登録して、いくらで売れるのかになります。いろいろな分野がありますので、できる範囲で権利者側から登録したり、DB(database)化していく方向で攻めていくしかないのかなと登録については思っています。


前田

 ありがとうございます。中山先生はいかがでしょうか。


中山

 順番が逆になるかもしれませんが、集中管理や権利者が自発的に登録するということは大いにやれば良いと思います。市場による解決に委ねることは非常に重要なことだと思います。ただ、さらに政策的な介入、制度的な対応をするのかどうかというところで議論が一番分かれます。私も創作時点でもって権利が発生するという意味での無方式主義に反対するのではありません。ただ、取引費用という観点では、先ほどコースの定義を紹介しましたが、誰が相手方であるかを探すというのが取引費用の1番最初に出てくる概念です。そのような意味で、誰が権利者かを探す費用があまりに大きいと市場はなかなか機能しにくいことは確かです。
 取引費用を下げるような方策では、政府が少し介入して、制度的な対応ということもあっても良いと思います。ただ、方式主義をやめてとなると、そこから先には解がありません。文化の発展ということもさることながら、条約との関係はすぐに出てきます。条約の縛りを外して考えると、いろいろなことが考えられます。この研究会でそれを考えれば、いわゆる商標型と言うか、無方式主義で発車するが、何年か経ったならばお金の納入と共に権利を更新することになります。ただ、これをベルヌ条約との関係でやろうとすると、50年経ち、70年に延長するときに登録するシステムになってしまいます。私は70年に延ばしたいと思っているわけではないので、そうなると、登録は現実的には困難になり、無方式主義の下での登録ということになります。前田先生がおっしゃったように、無方式主義でもって何か別の登録制度があり、どのような法的効果を与えるのかということです。保護期間を延長するというのは、あまり気がすすまない感じがします。また、アメリカの法定損害賠償の例も出されましたが、日本の損害賠償法の原則や規範的損害賠償という考え方は出ているので個人的にはあり得ると思います。しかし、ハードルが高いことも事実となってきます。
 利用する側にとって誰が権利者なのか分からないから登録をしてほしいのです。今の世の中に出ている提案の中には、利用者が登録をするというアイデアも出ていたと思います。ただ、直感的に考えると、これは少し変で、利用者が登録すれば権利者の意思をオーバーライドできるのかというと違和感が残ります。しかし、登録という言葉にこだわらずに考えると、使いたくても権利者が誰か分からない場合は、どうすれば良いのかということになります。そこで、用意されているのは裁定制度です。裁定制度は登録制度という議論があるのですが、結果的に登録制度は何のためかというと、権利者を探す、権利者が誰か分からないという事態を避けることであり、機能的には裁定制度が目的としているところとかなり近いです。裁定制度の見直しの中で、登録がある場合、ない場合によって、要するに相当の努力はどうするのかという問題がありますが、それと絡めていくことがひとつの方策という感じがします。これは私が考えたというよりも、座長でいらっしゃる前田先生の御発言からヒントを得ているので、時間があれば、後から御紹介いただければと思います。


前田

 ありがとうございます。金先生、いかがでしょうか。


 変化が激しい時代においては、制度の柔軟性を確保することは大事かと思います。政府によるデジュールの規制、または政策によって硬直性が生まれていくことが一番心配です。このような政策を考えていく上では、官主導ではなく市場、または民間主導であるべきであり、もしそこに政策的な役割があるとしたら、柔軟である必要があります。理想的には民間の自由な取組に対し、政策的にサポートをするような政策のあり方があるのではないかと思います。講演で申し上げたように、登録と報酬請求権化の両方ともマトリックスはつくれて、ひとつは政府主導であるものと、民間主導であるもの、もうひとつは強制であるのか、任意であるのかという基準です。私は登録も報酬請求権も、民主導で任意であるべきだと思います。登録については先ほどの経団連の例もありますが、それに加えて意思表示システムなども民間で工夫する必要があるのではないか、インセンティブの面においても政策的なインセンティブをすぐに考えないで、民の方でより工夫する余地があるのではないかと思います。
 報酬請求権については、政府による集中管理に近い概念があり、これを実施すると、クリアカットにいろいろな問題が解決できるように思えますが、私は副作用があると思っています。例えば、報酬請求権化したときに、報酬率をどのように決めるかということです。これは国が主導で、何らかの形で民間の方を入れてコーディネーションすると思うのですが、その中に発生する政治的なコストには、新しい機関をつくることに掛かる行政コストや、その運営における硬直性によって発生する様々なコストがあります。民間における集中権利管理機関に対する批判が一部であるということは十分承知していますが、私はそのような民間の工夫をすることは、現在の集中権利管理機関の生み出す費用というよりは、社会に対する便益が極めて大きいと思います。できるだけ民主導で様々な工夫をして、政策はそれをサポートする役割に徹した方が良いのではないかと思います。


前田

 ありがとうございます。金先生から、仮に許諾権を報酬請求権化に切り下げると考えた場合のコスト問題の御指摘がありました。民間ベースで解決できない場合、許諾権を見直して、場合によっては報酬請求権化する、あるいは裁定制度をもっと柔軟なものにするという提案、さらには権利制限規定をもう少し柔軟なものにするというような御意見もあろうかと思います。金先生からは、なるべく民主導で権利の切り下げは二次的なものであるべきではないかという御意見だったかと思いますが、この点について、パネリストの方々の御意見を伺っていきたいと思います。上原先生、いかがでしょうか。


上原

 基本的には、金先生がおっしゃっていることに同感です。法律によって権利の切り下げをやってきたときには、必ずお金の問題や権利者と消費者の対立が出てくるのですが、創作者側の意欲がそがれるという問題が大きく出てくると思います。集中管理を進めることによって、実質的に報酬請求権に近い形での運用が不可能ではないため、むろん争点に馴染まない部分もありますが、大量消費される世界においては、そのようなことも比較的可能であろうかと思います。民間の柔軟な集中管理システムの整備に当たっては、現在の管理事業法の枠組の中で起きている問題について、クリアできるようにしていき、さらに前に進めていけたらと思っています。