文化庁主催 第5回コンテンツ流通促進シンポジウム“次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか”

第3部:パネルディスカッション

「次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか」

瀬尾

瀬尾

 今回、いろいろな議論がたくさん出まして、1年間で10回、そのうち私は9回参加させていただきました。私は最初に参加したとき、「次世代ネットワーク社会とは何ですか?」と聞きました。この議論をずっと重ねていく中で、次世代ネットワーク社会というものの捉え方が相当大きくぶれていたということが、いろいろな意見が並立する原因だったと思います。次世代ネットワーク社会ということを重大な根本的な変化とする捉え方と、それは方式であり技法の進歩であるので根本は変わらないとする捉え方が一番大きな流れではないかと思います。次世代ネットワークということでは、先ほどのウィキ(Wiki)などのようなものありますが、実は流通しているコンテンツのほとんどは根本的には変わらないのではないかと私は思います。今回、私は写真家として参加していますが、皆と共同でつくるものは別として、創造物は1人のインスピレーション、例えば、何か感じるなと思ってシャッターを押す、このようなイメージで描きたいと思って絵を描く、テーマが浮かび詩をつくるというのは1人の私的な感覚的なものであるという考え方に基づいていろいろ考えてみました。

 国策としてのコンテンツ流通などで「コンテンツ」という言い方をされる中では、どうしても創作ということをあたかも工業製品の生産のように捉えてしまうことに違和感を覚えます。要するに、「お金をかけて設備をたくさんつくれば、倍できますね」「教育機関をたくさんつくって創作者を増やしましょう。そしてギャラを倍にするから、倍つくってください」ということです。それは違うだろうという違和感が最初からありました。

 著作者は、理論的ではない部分が最初の創作の動機になっているのではないかと思います。その部分というのは論理的な知のサイクル、創造のサイクル、コンテンツ流通という非常にシステマチックなものとなじまない部分もあるだろうと私は率直に感じています。いろいろな理論によって成り立つシステムを考えても、創作とはもともとどのようなものなのかという捉え方を強調しないと大変だなと思います。理屈ではできないのだということを私はこの中で強調させていただいたつもりです。
 人がものをつくっていくということに関しては、今後のいろいろな複雑なテクノロジー社会の中で、共同著作のようなものは別として、「コンテンツ」や「著作物」というひと言ですべての著作物をくくってしまうのではなく、いろいろな物の運用には、まずその対象を分けて考えるべきではないかと思います。例えば、著作権の中でデータベースと、ひとつの小説を同じ扱いでいくのかどうかというと、もちろんいろいろな区別はありますが、それを運用して流通させるなどという話になれば分けていかなくてはいけないのではないかと思います。
 これから私がお話するのは、1人の著作者が1つのものをつくるということについてのお話だと考えてください。そして、そのような著作者、創作者がどのようにあるべきなのか、私は逆に創作者側が全体のシステム論ではなく、最初に創作者側として今後どのようなことをしていけば良いのかというところについて、1つの考え方を示したいと思います。

 これは今お話ししたようなことなのですが、著作者はまずは自分の感情でつくります。それはお金と関係無かったりします。私の娘の友人が家に遊びにきたときの話ですが、その彼が常に絵を描いているのです。家に遊びに来た瞬間から常に絵を描いているのです。結構上手な絵を描いています。彼はずっと描き続けているのです。話したり、ゲームをしながらでも描いているのです。そのときのイメージや、人の顔などいろいろなものを描いているのです。私はそれが創作の原点なのかなと思いました。感じたものをそこで描いて表現していくということです。
 そのときにお金の話というのはあっても良いのではないかという理論もあるかと思うのですが、感情などの精神的なものと、つくらなければいけないという経済的なものは相反する部分があります。ギャラをもらう形になっているのに、締め切りが迫ってきて、書かなくてはいけないのに書けないという行き詰まりが出てきたりします。次に、自分の感覚でものをつくって、できたものをより多くの人に見てもらいたいと思うので公表します。そして、それが実際にお金になります。お金がたくさん入った人はプロになれます。お金が入らない人はそれを職業にするのかしないのかということになります。評価されず、職業にならなくてもそれをつくり続けるかもしれません。このような流れがあるわけです。

 このときに、「創作(生産)→流通→利用」というようなとてもきれいな図があります。流通とはお金をもらって誰かに見てもらう、利用してもらうということなのですが、流通を前提にした創作というものは、ほとんどの場合はないのではないかと思います。ものをつくるときに、ギャラが50万円だったときと100万円だったときで差がつけられるのかということです。それは経費のかけ方や時間のかけ方では差をつけられます。しかし、作品の出来として大小の差はあっても、そのようなことでものをつくっているわけではないと思うのです。例えば、これは小さいから安い、これは大きいから高い、短いから安い、長いから高いなどという言い方はできると思いますが、そのクオリティは小さくてもその人のベストのクオリティであって、手を抜いてつくるということはできないのではないでしょうか。そのことを考えると、実際の創作というものは全く別の話になります。要するに、創作することによって文化は形成されますが、文化というものは流通する、つまり、誰かに見てもらって初めて文化なのだという言い方もあれば、つくることだけが文化だという言い方があります。私はとりあえずものをたくさん作り出していくような土壌があり、精神活動をする人がいて、最初にものをつくる部分が豊かであるということが文化の一番の基礎になっていると思います。隔離して文化という見方をして、決して流通の足元であると見ない方が良いのではないかと思います。豊かにものをつくっていける土壌である社会をつくり、結果としてそれを利用するのであり、「創作(生産)→流通→利用」のために文化を豊かにしていくのではないというのが私の基本的な考えです。

 著作者の特性をまとめると、著作者は感情、情熱によってものをつくります。しかし、それをつくるというときに経済が入ってきて、「お金をあげるからつくれ」と言われるとても嫌がる場合があります。私は感情の純粋な精神活動としてものをつくっているのだ、最初からお金のことを言われたってできないものはできないということがあります。
 また、自分がつくったもので、例えば、「ここを部分的に使ったり、これをこうすればもっといろいろ使えるのではないか」と言っても、自分のものは少したりとも変えてもらいなくないということがあります。これは財産権と人格権の問題が混ざっていますが、これらはとにかく創作者の特性としてお考えください。
 4つ目に「生活や創作に対して強い信条を持つ場合が多い。これは一般的な社会的常識などとは必ずしも合致しないが、このような強い心情に基づいて、創作が成り立っているとも言える」とあります。要は、大きな思い込みがあるのです。だから、「世の中でこんなに使ったらこんなにお得だし、あなたには何にも損がないのに、なぜ嫌なのか?」と言うと、「担当者が嫌いだから」などと言うことがあり得るのです。それは訳の分からない理由かもしれませんが、創作者はそのような精神バランスの中でものをつくっているということです。「創作者は訳が分からない」と言うのではなく、そのような精神の中ですばらしいものができたのだと理解していただかないと、それを是正しようとしても難しいし、無理やり使おうとしても難しいと思います。以前にあった話ですが、すばらしい作品なのに、家族が反対をしていて使えないということがありました。要するに、家族にいろいろなことを言及されてしまったので、使ってほしくない、でもすばらしい作品だから無理やり使いたいという話がありました。私は、それは使わないでもらっておいた方が良いのではないかと思いました。そのような好き嫌いなどはかかわってくると私は思っています。
 5つ目に「個人であるために、現在の流通システムに合うような、個人システムを構築することが難しい」とあります。これは突拍子もなく出てきたように思われるかもしれませんが、インターネットの時代だから、自分でネットに流せば個人で売れるしょうということがあります。今までとは違い、例えば、本は出版社などを通さず途中のシステムを使わなくてもできるでしょうというような話があったのですが、実はインターネットを使って本気で商売するということは、個人ではとても難しいことです。たまたま趣味でしていて売れることはあっても、個人が商売としてシステムを構築して売るということは意外と、著作物に関しては難しいのではないかと思います。

 今お話したようなことが著作者の特性なのですが、実はこの中で個人、創作者は何もしなくても良いのかという話になってきます。今回、私が次世代ネットワーク社会の中で考えたことは、創作者が自分の作品を使ってもらえるように、今までやらなくても良かったようなことをしなくてはいけない時代になったのだなということです。例えば、氏名表示をする、これはどのように使って良いかという自分の意思表示をする、もしくは団体が持っているデータベースに登録をする、自分の作品を使いたいと思った人に対して自分が発表する義務として自分の所在をきちんと明らかにする時代になったことが創作者にとっての一番の違いです。これが先ほどの集中管理やデータベースに結びつくのですが、その中で変わっていかなくてはいけないのは創作者の団体です。今までの権利者の団体というものは親睦を深めたり、業界の情報交換をする場だったのですが、そうではなく、個人でできないような認知させるシステムなど、個人ができない部分をサポートするようなものになっていくべきです。例えば、究極的な形ではもちろん集中管理ですが、著作者の情報を集めて社会に向けて提供するなどという個人でできないようなことをしてあげることが団体の役割になってきた気がします。
 創作者にはやはり非常に特性があって、今の流通と反する部分もあります。それは創作の特性として存在するものなので、なくすことはできないと思いますが、創作者自体も新しいネットワーク社会の時代には今までとは違った踏み込み方をしていくべきです。それは、自分の所在を明らかにすること、そして個人でそれをできない場合は団体がサポートすることであり、そのようなことをしていく時代になったのかなと思います。例えば、3つ目に「ネガに写っているものは1mmたりとも切らせない、という写真家もいた」とあります。これは有名な写真家で、印刷上はどうしても切れてしまうのですが、絶対に切らせないということでした。これは尊重されるべきもので、昔はそれだけでも良かったのですが、今はその人が使われるためにはその要件を自分ではっきり表明することに加担しないと、言いたいだけのことを言っているだけではダメな時代になったのだと思います。

 著作者の特性への対応として、創作者が変わるべきことは、ここにいろいろ書いてあるようなことです。正直言って、それほど論理的でもなく、本当に効果があるとは言い切れません。ただ、もう1度、今の流通やサイクルの中で創作者、創作ということを見直していただきたいです。また、全体のシステムに関して、登録制度などいろいろな話が出ていました。1りの人がものをつくるということは、本当に個人でつくるということです。例えば、マンガ家でも写真家でも何でもひとりです。そのひとりの個人がコンテンツを世の中にきちんと流通させていくためには、今のような理路整然としたシステムの中だけでは回らないということです。いかにそのような人たちに対してサポートをすることが、コンテンツが一番多くなる方法なのではないかと思います。

 私はひとりの著作者によるコンテンツと複数の著作者がいるコンテンツは基本的に違ってくると思います。今のネットワークの社会で、特に写真がデジタル化になりました。みんなデジタルカメラになり、ほとんどデジタルで流通しています。それによって何が起きたのかというと、世界中にネットを通じてすぐに電送され、情報としての価値が非常に高まりました。例えば、スペインで起きた事件の情報をここでネットに接続すれば手に入れることができます。逆に今のこの会場の写真をすぐにアメリカの大学に送ることもできます。文章よりも非常に有益な情報として写真は使われるようになりました。それは大きな変化ですが、今後はコンテンツと言いながらも情報性の高い、低いによって、つまり、鑑賞するものなのか、見て理解するものなのかによって、コンテンツはさらに2分にされるのではないかと思います。ここら辺のことを頭できちんと分けて考えないと、例えば、美術の油絵のような表現性の高い1点物の作品と複数の著作者によってつくられる情報性の高い著作物とが、同一線上で論じられれば訳が分からなくなります。
 写真は技術に依存するものですが、技術が進歩してこれからもどんどん変わっていくと思います。例えば、ムービーを回しながら、ムービーで撮って、後でその中での一瞬を止める、つまり、1秒間に60コマを撮って、その画質が非常に高い1000万画素、2000万画素であれば、ほとんどムービーで撮って後で止めれば、それでスチールになってしまいます。そのようになると写真というものの存在自体が変わってしまうわけです。しかし、どのような先行きになっても美術家は描くでしょう。美術家連盟の皆さんとお話をすると、「根本は変わらないよ」と言います。油絵や水彩画を自分で描く行為自体はデジタルの時代になろうがネットワーク社会になろうが変わらないということだと思います。
 コンテンツをきちんと分けて、整理をして、創作というものをきちんと文化として捉えて計画をしないと、単にものを尺度ではかったシステムだけでは、逆にものは少なくなってしまうのではないかという危惧を抱きました。本来とは少しはずれたところかもしれませんが、創作ということについて冒頭にこのような形で発表させていただきました。以上です。


前田

 ありがとうございました。引き続きまして、中山一郎先生からプレゼンテーションをいただきたいと思います。中山先生、どうぞよろしくお願いいたします。