文化庁主催 第5回コンテンツ流通促進シンポジウム“次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか”

第3部:パネルディスカッション

「次世代ネットワーク社会の到来は著作権制度を揺るがすのか」

中山

中山

 信州大学の中山一郎です。4人目になるので、お疲れだと思いますが、しばしお付き合いいただきたいと思います。本調査研究会には法社会学を勉強されている先生、あるいは実務の弁護士の先生がたくさんいらっしゃいますが、なぜか私に声が掛かりました。私は大学に移り3年目です、その前は役人だったため、議論がやや粗っぽいことを御容赦いただきたいと思います。上原先生や瀬尾先生がおっしゃったことに共感する部分もありますが、残念ながら違うことを申し上げる部分もあります。会場にいらっしゃる権利者の方が、カチンとする部分もあるかもしれませんが、予めお詫びをしておきます。

 タイトルにあえて「『市場』の視点から」と付けさせていただきました。デジタル化・ネットワーク化とコンテンツ流通という言葉は特に解説を要するようなものではないと思います。下の方には巷間で指摘されているようなプレイヤーとしての個人の存在感の高まりということで、よく使われる言葉を書いています。一番下にオープンソース現象という言葉があります。これはピアプロダクションシステム(peer production system)という言葉がより一般的だと思ったのですが、言葉としてまだ定着していないため、オープンソース現象と書いてあります。一方で、光となって新しいビジネスチャンス、影となって不正利用をもたらしていることも御案内のとおりです。

 ビジネス面でのコスト・リスクという形でみると、コスト・リスク低下要因もあれば、増加要因もあります。これは書いてあることを個別に説明しなくても御覧いただければ、大体お分かりになるような話だと思います。パッケージから解放されてそのまま流通されたなら、(物理的)流通コストが下がり、在庫を抱えるリスクも減ります。一方で、ロングテールも売れるようになります。他方では流通するときにDRM(Digital Rights Management)を仕組む、あるいはオフラインで使われていたものがネットワークに乗っていくというマルチユースの問題があります。例えば、有体物の取引コスト自身もネットを使うことによって減ってきます。また、膨大な情報が流れているのですが、それを使いこなすための検索エンジンも出てきています。
 コスト・リスク増加要因では、不正利用が氾濫しているという指摘があります。また、人間が生きている時間は1日24時間なので、コンテンツ供給が増加しても、「時間」の消費を巡る競争は激化しています。そのような意味では検索エンジンのGoogleで、ベスト10や20に引っかからなければ、なかなか目に見えないということになるかもしれません。
 全体をどのようなバランスで見るかは、人によって変わると思いますが、著作権制度という観点から見ると、既に生じつつある情報の流通や新たなビジネスの健全な発展を不当に阻害すべきではないのではないかということです。これは私が思うだけでなく、現実に現在の文化審議会著作権分科会の検討課題のテーマが、「新たなビジネススキームの構築を支援する」「著作物等の市場の健全な発展・拡大を促す」「適法なビジネスを阻害する違法行為に対して、有効な政策を講じる」「著作物等の保護と消費者等による公正な利用の調和を図る」などが検討課題の柱書きとして出ているので、私が新たに申し上げることではありません。ただ、上原先生や瀬尾先生、あるいは会場の皆さんの中には、このような問題設定自身がおかしいと違和感を持つ方がいるのではないでしょうか。まず、創作があり、それを保護して、流通があるのではないのか、順序が逆ではないかという疑問が生じ得るわけです。また、流通を促進するために、権利を切り下げることは認められない、あるいはリスペクトがない、市場の論理とはなじまないという議論が生じてきます。それでは、果たして問題設定自身がずれているのかということを少し考えてみたいと思います。

 先ほど、上原先生も引用していましたが、著作権法の目的を素直に読んでみると、「この法律は、…文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする」ということです。逐条解説や政府の見解は、「著作者等の経済的あるいは人格的な利益を確保することによって、著作者等の労苦に報いる、その結果として、よりすぐれた著作物即ち文化的所産ができあがっていくということで、文化の発展に寄与することになる、…著作者等の権利の保護が第i?一義的な目的であるということによって、この法律が解釈されるということでございます」ということです。このような意味では、上原先生がおっしゃったことは正しいです。現行著作権法の目的、権利者の権利の保護が第一義的な目的であり、公正な利用は留意すれば良いのです。

 では比較のために特許法を見てみましょう。特許法第1条には「この法律は、発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もつて産業の発達に寄与することを目的とする」と書いてあります。条文上、保護と利用がパラレルになっています。政府の解説には、「特許制度は、新しい技術を公開した者(…)に対してその代償として…特許権という独占的な権利を付与し(公開代償説)、他方、第三者に対してはこの公開された発明を利用する機会を与える(…)ものである。このように権利を付与された者と、その権利の制約を受ける第三者の利用との間に調和を求めつつ技術の進歩を図り、産業の発達に寄与していくものにほかならない。」とあります。比べると、著作権法の目的は、権利の保護が第一義的な目的です。その点においては、上原先生がおっしゃったことは正しいです。しかし、果たしてそれで良い良いのだろうかということで、私が良くないと言ってもしょうがないので、もう少し原点に立ち戻ってみたいと思います。

 著作権制度の存在意義ということですが、これは先ほどの金先生の発表の中に出てきたことと若干重複します。著作物とは、思想または感情の創作的表現であり、情報という無体物であると言われていることは御承知のとおりだと思います。また、情報は経済学的にいうと、公共財的特徴を持ちます。また、消費の非競合性、非排除性と書いてありますが、非競合性とはたくさんの人が同時に使えるという特性です。非排除性とは他人による無断使用をなかなか排除できないという特性です。これを放置した場合、フリーライドの発生による著作物の過少供給が生じます。これはいわゆる市場の失敗です。
 著作権制度とは、市場の失敗を解決するための法制度であると考えています。しかし、市場の失敗を解決するため、つまり、公共財を世の中に生み出すためであれば、排他権の付与以外にもいろいろな手段があるのです。経済学の教科書には、国防、警察サービス、道路などが公共財の代表例として出てきます。政府は税金を投入しこのような公共財を供給します。物理的な排除可能性と書いたのは、高速道路を例にすると、一般道路のように誰でも使えるという特性を物理的に消して、お金を取るという仕組みをつくっているということです。

 また、著作権制度は市場メカニズムを使うことも特徴です。著作権制度とは、著作物の価値の評価を基本的に市場に委ねています。仮に、国が著作物の創作に直接資金を投入する場合、資金投入対象者、資金投入量が分かりません。あるいは必要コストを政府が全部まかなうと言った瞬間に、モラルハザード的な非効率性が発生するのではないかと考えられます。著作権制度とは、権利の設定をした後は、基本的には市場に任せるということです。市場とは、コース(Coase)という経済学者によると「交換を促進するために存在する制度」ということで、市場において価値が評価された著作物のみに経済的利益が権利者に還元するということです。これは著作権法は市場経済の論理とは対立するわけではなく、市場の失敗を解決するために、市場メカニズムの活用によって、著作物の保護と利用を図る制度ではないかと考えるわけです。
 何点か留保をつけなければいけないのですが、私は文化の発展がすべからく経済原則に基づくべきだと申しているのではありません。要するに、商業経済的な対価が還元されないような著作物でも保護すべき価値はたくさんあるかもしれません。そのようなものには、直接税金を投入するということも当然あって良いでしょう。現に文化行政の中では直接税金を投入することもたくさん成されていると思います。著作権法が用意しているのは、経済的利益を還元するツールだと考えます。なお、これはあくまでツールであり、経済的利益を還元するかどうかは自由です。先ほど、瀬尾先生が「お金だけを求めて創作しているわけではない」とおっしゃっていましたが、それも結構だと思います。私が例に挙げたオープンソースも金銭的な見返りだけを考えているわけではありません。あくまでもツールであり、ツールをどのように利用するかは、権利者の自由になります。
 また、著作物には人格的要素が含まれているという面も確かです。ただ、本当に人格的要素だけを守るのであれば、人格権だけという制度も考えられなくはないわけです。なぜ複製権、公衆送信権という財産権の方を用意するのかということです。そのように考えると、市場メカニズムを活用するということになります。ただ、このように言い切って良いのかどうかi?私自身も留保点をつけています。それはプレゼンテーションの最後に申し上げたいと思います。

 そのような観点から、今日的課題を3つ申し上げます。1つ目の著作物の保護と利用のトレードオフという問題は古くからあります。これはノーベル経済学賞をとった、アロー(Arrow)という人が言ったことでトレードオフの話のときによく引用されるのですが、「一旦生じた情報は、伝達費用を除き、無料で利用されることが社会厚生的には望ましいが、それでは創作インセンティブが生じない」ということです。
 今日起きていることは、物理的な伝達費用の低下であり、トレードオフの問題が極めて鮮明になってきます。考え方として、フリーライドによって創作インセンティブが大きく損なわれない範囲(=市場が侵食されない範囲)では、利用を許容する方向を考えても良いのではないかと思います。古典的な例では、写り込みの問題、パロディなども、市場が侵食されないと考えるならば許される余地が出てくるのではないかということです。最近の話では、検索エンジン問題は立法化されるかは分かりませんが、Googleのブックサーチなどの話も新たに出てきています。私のように田舎にいる者にとっては、近くの本屋がつぶれるということがどんどん起こっています。そうなると、本を選ぶためのネット上の立ち読みは私にとって重要な手段になりました。今まではAmazonの「中身」を見ていましたが、Googleのブックサーチを大いに利用しています。このようなものをどのように処理をしていくかということがあります。例えば、海外のネットオークションのように、現行の引用の解釈でもって読み込んでいくと田村先生はおっしゃっていました。また、この研究会の立教大学の上野先生は引用をもう少し緩やかに考えていくとおっしゃっていました。その是非は避けますが、現行法でやるも良し、もう少し権利制限規定を緩やかに立法するのも良しだと思います。いずれにしても、市場がフリーライドを防止できれば良いのではないかということです。もちろん条約上はスリーステップテストとの関係はさらに検討しなければならないことがあるかもしれません。

 2つ目は、取引費用(探索・交渉・監視の費用)の問題です。これは今回の研究会で大きく取り上げられました。コースは「市場取引を実行するためには次のことが必要となる。つまり、交渉をしようとする相手が誰であるかを見つけ出すこと、交渉したいこと、及び、どのような条件で取引しようとしているのか人々に伝えること、制約に至るまでに様々な駆け引きを行うこと、契約を結ぶこと、契約の条項が守られているか確かめるための点検を行うこと等々の事柄が必要となるのである」と言いました。市場を機能させるための政府の役割を古典的に言うならば、権利を設定し、権利を守ってあげれば良いのですが、政府の助けがないと市場は機能しないということも事実です。したがって、取引費用を低下させることは重要なことだと思います。
 話が若干横にずれますが、金先生の講演の中で出てきた「アンチコモンズの悲劇」は、1998年に遺伝子特許を巡って提起された問題であり、アメリカで非常に議論を呼び起こしました。時間が迫ってきたので、具体論は言いません。
 個別の問題もさることながら、1番大きな問題は市場に委ねておけば良いのか、それとも法制度の介入が必要なのかということです。市場に委ねて発展するなら、何らかの工夫を、できるぶんはどんどんしていけば良いのです。ただ、取引費用の低下については、政府が介入する余地はあるのではないかと思います。後ほど登録などについて議論があると聞いていますので、具体論は避けたいと思います。

 最後の3つ目は、許諾権の在り方の問題です。許諾権を前提にしているということは、最初の前田先生のお話にあったとおりです。これは、権利者は価格決定権を有する所有権法ルール(Property Rule)と言われている部分です。世の中の法律的な権原、権限(authority)ではなく権原(entitlement)を保護する場合、所有権を与えて保護するという考え方と、不法行為による損害賠償権のみを認めるという損害賠償法ルール(Liability Rule)と、そもそも権原の移転を認めないという譲渡不可能性(inalienability)の考え方がアメリカの法と経済学で1970年代に提起されました。それ以来、どのような場合にProperty Ruleを使い、どのような場合にLiability Ruleを使うのかが議論をされています。取引費用が低い場合、あるいは取引費用が高くても、権利者が価値評価を適切に評価しているならばProperty Ruleで構いません。それに対してLiability Ruleとは、典型的な例で言うと、交通事故の損i?害を不法行為に基づいて賠償責任問題を追及するということです。仮に、私が交通事故に合う場合を予め想定して契約はできないのです。誰に対して交通事故を起こすか分からないし、誰から交通事故を起こされるかも分かりません。そのような場合は、取引は成り立たないため、典型的にLiability Ruleに寄らざるを得ません。
 権利者による合理的な価格決定権の行使が期待できないときや権利者の機会主義的行動に対しては、損害賠償法ルールが正当化される余地が出てくるだろうと思います。権利者不明の場合は、当然合理的な価格決定権の行使が期待できません。金先生のお話にありましたホールドアップというたくさんの権利者の中で1人だけが反対し、価格を吊り上げるという行動に対しては、損害賠償法ルールがあり得るのではないかということです。これは現行の著作者権法の中には裁定というものがありますが、政府がやることもあり得ます。
 また、裁判所による権利が侵害されたときの救済方法をいろいろ考えてみることも必要です。権利濫用論と言いましたが、念頭においているのは、差し止め請求権をある一定の場合に制限するということです。e-Bay米最高裁判判決では、回復不能な損害、金銭賠償では不十分、原告・被告のバランス、公益性という4つの基準を挙げました。これはアメリカがエクイティ法上の救済として位置付けているからなのです。日本でそれをやろうとする場合、権利濫用論に持っていくことを考えて良いのではないかと思います。特許事件のKennedy判事は補足意見の中で「全体の製品の中で、一部分だけ特許権を持っている場合、その一部分は非常にスモールコンポーネントである。それについて特許権を持っているということは不当なレバレッジ(undue leverage)として、権利を行使する場合、損害賠償で十分である。差し止めまで求める必要はない」という意見を言っており、我が国の制度を考える上でも参考になると思います。

 留保事項を2つ手短に申し上げます。私は今までインセンティブ論に基づいて話をしてきました。当然、自然権という考え方もあると思います。世の中には自然権があることを否定しません。ただ、自然権の端的な考え方として、ここに労苦に用いると書いています。要するに、自分の体は自分が所有しているという自己所有権テーゼに基づいて、労働の成果は私のものであるというのが典型的な自然権の考え方です。そのような考え方に基づいて、知的財産権に極めて強く支持されるリバタリアリズムという考え方があります。有名な研究者である森村進先生は、有体物については自然権に基づいて強く擁護されるのですが、著作物については、リバタリアリズムの考え方から正当化できないと言っています。なぜかと言うと、事の本質が情報だからであり、情報を支配する権利は他人の行動の自由に制約を与え得るということです。これは私的複製を考えた場合、マーケットメカニズムだけで言うと、DRMが進めば市場の失敗は治癒されるという方向になっていますが、自然権法的な発想は、むしろ個人の創造の自由を確保するという観点から、私的複製を守るという方向にも働き得ると申し上げておきたいと思います。
 もうひとつは、オープンソース現象、つまり、ピアプロダクションシステムについてですが、これは単純な市場を越えるメカニズムかもしれません。つまり、企業や市場を介さないで、ウィキペディアにしてもオープンソースにしても発展してきていることは認めます。しかし、これは情報流通を盛んにするという方向にベクトルは向くため、私が申し上げてきたことと基本的に反しないと思います。これでプレゼンテーションを終了します。御清聴ありがとうございました。