「北軽井沢ミュージックホール」は、桐朋学園の音楽を学ぶ学生ための合宿施設として建築され、現在は長野原町が所有・運営し音楽会や講演会等に使用及び貸出しするホールである。建物は1967(昭和42)年から4期の工事を経て1970(昭和45)年に完成した。その後、3、4期部分が老朽化のため解体され、1、2期のホール、分奏室及び管理室等が2007(平成19)年に改修され現在に至る。木造平屋建、床面積450㎡である。設計は佐藤秀工務店創業者の佐藤秀三(1897-1978) (1期)と地元建築士の植原氏(2期〜4期)である。施工は地元の工務店と伝わるが、詳細は不明である。
多くの音楽家を指導し、「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」でも知られる音楽家・齋藤秀雄(1902-1974)は、北軽井沢の法政大学村に別荘を入手し、1955(昭和30)年頃から桐朋学園オーケストラの夏季合宿を始めた。当初は小学校等を拠点とした不自由なものであり、欧米のようなサマースクールの設立を願っていた。子息が斎藤に師事して桐朋学園の父兄でもあった田中泰雄・テル夫妻は志を同じくし、土地と資金の提供を申し出て、齋藤の「山の音楽堂」の構想が進むことになる。1967(昭和42)年に財団法人として認可を得て、1期工事後に開所したが、齋藤が思い描く150名規模のオーケストラの合宿が可能な施設の建設は、寄付による資金調達に苦闘して工事を分けることになった。1968(昭和43年)8月にホールの完成祝賀演奏会が開催されると日本初の音楽施設としてメディアに取り上げられて広く知られることとなり、施設の利用者は東大、農工大、女子美大、早稲田大等幅広く、多い年には年4千人以上の音楽を学ぶ学生達が利用した。小澤征爾(1935-2024)は中学生から齋藤に師事し、大学村別荘下見にも同行、夏季合宿では北軽井沢ミュージックホールで齋藤の厳しい指導を受けた。小澤はのちにこの財団法人の理事長となり、1983(昭和58)年の町への寄贈は小澤理事長時代のことであった。
敷地は長野原町羽根尾から中軽井沢へ通ずる国道146号線と、嬬恋村大笹と高崎市倉渕を結ぶ県道との北軽井沢交差点の近くに位置する。木立のある中庭を囲うように建つ一辺約28mの木造平家の建物である。片流れの屋根が連なり軒を低く抑えた外観は、周囲の自然や景観に溶け込んだデザインとなっている。平面は自然林と地形を活かした中庭を中心に、100名を収容できる大ホールと4つの分奏室及び玄関・事務室・便所等がロの字に配置され、吹き放ちの回廊でつながる構成をとる。大ホールは東西桁行約25.5m南北梁間約7.3m、片流れの一枚屋根を南北に架け、中庭側(北面)を高くして全開放となるシャッターと採光用の高窓を付ける。シャッターを上げると中庭との一体的空間が生れ、屋外客席として木立の中で演奏を楽しむことができる。高窓は北側採光による柔らかな自然光を実現している。他三方の建物も中庭を包み込む形状の片流れ屋根が載せられ、大ホールの屋根とともに内部に独立した空間を与え、深い軒は音響反射版の役割を果たしている。仕上げには地元の木材を用い、外壁の板張り、構造材に使用している。
北軽井沢ミュージックホールは、田中夫妻をはじめ多くの人達の寄付・協力によって実現した避暑地における音楽教育施設の先駆例である。齋藤が別荘を所有した大学村の居住者たちも当施設の設立、寄付集め、運営支援に関わっている。文化人の交流の場として、独自に育まれた大学村の山荘文化は、簡素で誠実な建物造りにその影響が反映されている。地域の地勢を知る建築家二人が携わった当建物は、自然の立地を巧みに利用し計画された意匠性、建築家の知見が反映された親和性(材料・景観・文化)が特徴である。齋藤、小澤ゆかりの音楽施設は地域の誇りであり、コンサートの会場として定期的に使用されている。半世紀を越え音楽家や地域住民に愛され、今後も活用し続けられて行く貴重な地域資産である。(長井 淳一・小池 志津子)