■概要
読谷山焼(大窯)は、読谷村座喜味に建設された連房式登窯である。一帯は、沖縄国際海洋博覧会から2年後の1978年に米軍基地から返還された村有地を、大嶺實清、山田真萬、玉元輝政、金城明光の4名からなる陶芸家グループが読谷村より借り受けて建設した陶芸拠点であり、登窯のほかに、工房、住居、共同販売店などで構成される。明治期に築造されたとされる壺屋の東ヌ窯(2002年に重文指定)の実測調査を基に、洲鎌朝夫により設計された。陶芸家グループが資金を出し合い、造成から建築工事に至るまで職人と共に施工に加わった。1980年に竣工・初窯出しが行われた。琉球の原風景が感じられる建築としてJIA25年賞を2011年に受賞している。
■建物の特徴
資材の収集や敷地造成などの準備に3年をかけ、古材を再利用して建設された。焼成室は粘土を用いて一房ごとにドーム状に作られている。壁面には色味穴が開けられ、焚口と側面入口のアーチはレンガ造である。4名が2房ずつを使用できるよう9連房の窯を築き、覆屋をかける。覆屋の屋根は、野地竹と土の下地に古瓦を載せた5.5寸勾配の本瓦葺きで、布積みの石壁と粗加工された石を積み上げた石柱がその屋根を支えている。古電柱を用いた和小屋組は、2015年頃に合掌組に変更されたが、当初の和小屋組の一部が現存する。家屋建替による解体現場から譲り受けた古瓦や、コンクリート電柱への更新によって不要となった古い木柱が再利用され、また、石積みには読谷産の石が使用された。小屋組の修繕時に、屋根瓦も葺き替えられた。
■評価
<時代性>
当建物は、登窯を中心とした「陶芸村」を構想していた大嶺實清を始めとする陶芸家グループと、同時期に基地返還後の村づくりとして「文化村」を構想していた当時の読谷村長山内徳信とが邂逅し、両者の構想実現の中核として建設された。
「陶芸村」構想は、歴史的に陶工が集住し、戦後いち早く解放された壺屋地域が、市街地化によって登窯が使えなくなったことによる移転の必要性と、海洋博前後の観光ブームによって粗悪な土産品が乱造される現状にあって生活容器としての焼物(やちむん)の本質を取り戻す目的から描かれたものであった。建設に復帰後の家屋建替などにより大量に出た廃材が巧みに利用されたことにも、当時の時代状況がよく反映されている。
<地域性>
当建物は、壺屋の登窯の実測調査をもとに伝統的な形式で設計され、瓦、木、土、石など地域の建築材料を用いて建築されている。建設時から現在に至るまで、伝統的な共同窯システムを維持している。1992年には当建物の北側に陶芸家メンバーの弟子達による読谷山焼(北窯)が開窯し、1994年には読谷村による陶芸研修所が開所するなど、地域の伝統的な陶業文化の継承と発展の起点となっている。
■現状
燃料となる薪(琉球松)不足の課題を抱えているが、現在においても継続的に利用されている。焼成室屋根の修理が1~2年に一度行われるなど、周辺環境も含めて良好な状態に管理されている。