○概要
善光寺雲上殿は長野県長野市の善光寺本堂から北へ約1キロメートルの地附山中腹にある善光寺平を一望する大納骨堂である。昭和2年に文部省技師の塚本慶尚によって設計(原設計)されたが、内務省の建設許可を得ることができなかった。その後、昭和10年に再度設計に着手した。塚本の設計に準ずるように渡辺仁建築工務所:沖津清によって現在の本殿が設計された。昭和10年9月に着工したが、日華事変、太平洋戦争の影響で戦後昭和24年4月に落慶供養法会が執り行われ、完成に至った。
○特徴
昭和2年に塚本慶尚によって設計された「雲上殿本殿」(原設計)は多宝塔様式で中央に多宝塔を配し、両翼に延びる堂宇は入母屋屋根で中央に千鳥破風の屋根を付けている。鉄筋コンクリート造、桁行二十五間、梁間五間の建物である。大正10年に納骨堂建立計画が報じられ、大正15年に塚本に設計依頼をし、昭和2年に設計が完成した。昭和10年納骨堂建立の事業継続の判断により、設計が再検討され、渡辺仁に設計を依頼することが決定した。渡辺は故人となった前設計者塚本の設計を基礎として、設計見直しをすると明言し、渡辺仁建築工務所の沖津清が設計にあたった。多宝塔形式で中央に多宝塔を配し、両翼に延びる堂宇は入母屋屋根で構成している。多宝塔は鉄骨鉄筋コンクリート造、両翼は鉄筋コンクリート造とし、屋根は鉄骨造とし、多宝塔の高さを25.75m、両翼の長さを51.60mとしている。昭和10年9月に着工し、日華事変の影響で工事が遅延し、さらに太平洋戦争によって内部の須弥壇などの工事が遅れ、戦後、昭和24年4月に善光寺御開帳に合わせて納骨堂落慶供養法会が執り行われようやく完成した。
○評価
<技術性> 本殿の設計が進められた時代、明治30年に制定された古社寺保存法のもと、古建築の保護が本格的に模索され始めた時代でもある。その第一人者である「関野貞」の片腕として活躍した「塚本慶尚」によって、大正15年に本殿の設計は進められた。塚本は、本殿の設計において、日本の伝統的な木造建築の表現を鉄筋コンクリート造で表そうと試みた。そこには建築材料の主役が天然材料から人工材料へと変わりつつあった風潮、そして、大正3年に実測調査した保科村清水寺が大正5年に焼失するという経験をふまえたと推定される。伝統的な木造の意匠を防火性に優れた新たな構造材料である鉄筋コンクリート造で表現している。しかも、この時代に複雑な多宝塔の隅尾垂木、配付垂木や四手先の肘木までもコンクリートで木造建築と同じ形状で表現している建築はみることができない。この時代のコンクリート造の技術を駆使して木造と同じ表現に挑んでいる最先端技術といえる。
<地域性> 「塚本慶尚」の設計を引き継いだ渡辺仁建築工務所の所員「沖津清」は、昭和27年に発足した長野県建築士会の初代会長を務めるなど、長野における戦後建築界の礎を築いた建築家として知られる。本殿の設計は、こうした沖津の長野における活動の端緒となった仕事として重要である。沖津は昭和5年に警視庁を辞し、渡辺仁建築工務所に入所し、日本劇場第二期工事の監督主任を務めた。昭和8年に日本劇場が竣工し、その後、本殿の設計に携わった。本殿の設計においては、塚本の設計を継承し多宝塔形式としており、安定感と優美さを持ち意匠面で高く評価されている滋賀県大津市の石山寺の多宝塔を参考にしている。石山寺の多宝塔と善光寺の多宝塔の断面図を併記し、円弧を重ね多宝塔全体の比例関係を示し軒の出寸法やプロポーションを決めている。昭和37年には『メートル規矩術法』を刊行していることから、尺貫法による規矩術を習得しており、この規矩術を鉄筋コンクリート造の雲上殿に利用したことは間違いない。なお、沖津は本殿建設後も長野にとどまり、善光寺忠霊殿の設計なども行っている。
○現状
雲上殿本殿の区画型納骨室がいっぱいになり、本殿と渡り廊下でつながれた西納骨堂が平成9年に建立され、また平成27年2月には東納骨堂が新たに建立された。
文責:勝山敏雄