鹿児島県017

宇宙航空研究開発機構[JAXA]内之浦宇宙空間観測所

  • 1963年竣工
  • 設計/東大生研/池辺研究室/坪井研究室/勝田研究室/丸安研究室/斉藤研究室
  • 施工/建築土木:錢高組、土木:小牧組、鉄骨:徳田鉄工所・川岸工業
  • 構造形式/鉄筋コンクリート造および鉄骨造 平屋、地上2階、他
  • 用途/産業施設、観測所
  • 所在地/鹿児島県肝属郡肝付町南方

内之浦宇宙空間観測所は、1962年に東京大学生産技術研究所附属施設の鹿児島宇宙空間観測所(KSC)として設置され、1965 年には同大学航空宇宙研究所、更に1981年に文部省(後の文部科学省)の大学共同利用機関として宇宙科学研究所(ISAS)が設立されその管理下で運用されてきたが、2003年に宇宙科学研究所(ISAS)、航空宇宙技術研究所(NAL)、宇宙開発事業団(NASDA)の3機関が統合した独立行政法人(現 国立研究開発法人)宇宙航空研究開発機構[JAXA]の内之浦宇宙空間観測所としてロケット打上・データ取得等の業務が進められている。複数の建築・土木構築物で構成される施設群は東京大学生産技術研究所教授の池辺陽の代表作である。現在もロケット打上の拠点のため、施設の補修・増改築が度々行われており、調査で確認できた当初の施設は、M台地[M(ミュー)センター]のM組立室[Mロケットセンター]・旧管制室・多目的車庫・Mロケット発射装置、第1光学観測室、M用第2光学カメラ室、KS発射管制室(改修一部解体)、PIセンター頭胴部調整室、管理棟、計器センター(一部解体)、管理棟、門衛所、KS台地[KSセンター]のKSドーム[観測ロケット打上棟]、宇宙科学資料館である。また、敷地外に、当初住民の退避施設としてつくられ、現在肝付町の所有となっているシェルター、長坪保安退避室・川原瀬退避室がある。
これらの建築は、大スパン空間・成長変化への対応・安全性・可動性といった条件に応じて標準化した工場生産部品で組み立て、他方、特殊な機能を持つ建築には標準化とは対照的に特殊なデザインが追求された。
M台地[M(ミュー)センター]のM組立室[Mロケットセンター]は、当初からロケットの大型化を予想し、鉄骨スペーストラスとアルキャストのユニットを組み合わせた外装が最上部のスペーストラスから吊り下げられている。実際にロケットの径が大型化したため、1982年から1983年にかけてこのスペーストラスを外装とともに上部にあげて下部に新たな壁面を挿入して現在利用されている。隣接する管制室は半地下に埋められたRC造で六角形が二つ並んだ特殊なデザインで、解体されたS字型の退避室も特徴的な形態であった。第一光学観測室は1/4の円形の外壁が可動して観測を行う施設で、第2光学カメラ室は特殊なRC 造のデザイン、頭胴部調整室は台形状のフレームが連続したデザインである。管理棟や計器センターは標準化した工場生産部品を積み上げたものである。敷地外の二つのシェルター建築は特徴的なデザインでまとめられ、川原瀬退避室(1971年)は木村俊彦構造設計事務所の佐々木睦朗が担当しプレキャストコンクリート版を螺旋状に重ねた特徴的なデザインで、他の長坪保安退避室(1967年)も有機的な単位でつくられた特徴的な建築で、池辺陽の力作である。
これらの建築群の計画にあたり、「前例のないあらたな要求」「日本の南端の僻地につくる」といった特殊な問題に取り組み、「一般の建築をおおっている習慣的な、あるいは経験的な多くの要素にとらわれることなく、まったく新たな立場からの追求を可能にした。」と池辺は記している。そして、その結果、「建築と人間との関係を、限界状態の中で追求することの意味がようやく明確」になり、これは「住居建築をデザインしているときが、もっともその方法に近い」と、住宅の計画に結びつけた。そこで、「住居はあらゆる意味で、人間の生活に直結しており、住居建築をデザインすることは、ある意味で人間そのものをデザインするといっても過言ではない部分を含んでいる」と結論づけている。点在する施設を結ぶシステムに言及し、「宇宙科学研究のシステムの特性は、単に多くの分野が必要であるだけでなく、それらが密接な一連のシステムによって結び合わされている点に特性がある。この膨大なシステムの意識は、また現在建築において、建築の都市的把握、システム化の方向とも、完全に一致していた。」と都市をかたちづくることと同様だったと記している。池辺陽が、この内之浦の新たな建築に対して、池辺陽がゼロから組み立て真摯に計画を進めていたことが読み取れ、その思想を反映した貴重な建築群と位置づけられる。
(参考文献)戦後モダニズム建築の極北 池辺陽試論 難波和彦著 1999.1 彰国社
      建築文化 1966.12